飛べない虫 短文 虫注意
蚊を一回りデカくしたような、脚の長い虫が、部屋の隅をポーン、ポーン、と跳ね回っている。
視界の端にそれを認めてから、なんとなくカップ麺を啜る手が止まってしまった。
羽があるくせに空も飛べない、恐ろしげな容姿に反して極端に弱っちいその虫は、そのまま放っておけば明日にはこの部屋のどこか別の片隅で、糸屑みたいにくしゃりと丸まって死んでいるのだろう。
一夏に一度は見かけるコイツの名前すら、そういえばオレは知らない。
人畜無害。いてもいなくても同じ。ひねもす同じような場所を無意味に跳ね回って、どうでもいいようなことが原因でいつの間にか死んでいる。何かを成すわけでも、誰かの記憶に残るわけでもない。限りなく空疎な命。
中途半端に虚しくなってきて、オレは箸を置いた。
思考が面白くない方へ流れているのがわかる。普段なら気にも留めないような虫なんかが心に引っかかるのは、きっとこの暑さのせいだ。夏は嫌いだ。思い出すのだ。失ったものと、己の中で燻り続ける火種。未だなにひとつ成し遂げられていない、自分の不甲斐なさを。
無意識に握った拳の、指の付け根にある深い傷痕。とっくの昔に塞がっている筈のそれが、じくじくと湿っぽく疼く。
左耳の付け根と頬、それから腕の焼き印も、呼応するように疼痛を訴えてくる。無為な暮らしを責めるように。
命を振り絞って鳴く蝉の声が、やたら遠く聞こえる。
世界にひとり取り残されたような、薄暗く蒸し暑い部屋の片隅で、オレはふわふわと虚しく跳ね回る虫をただ眺めていた。
どのくらいそうしていただろう。
ドアをノックする硬い音で、ハッと我に返った。
すっかりのびきって嵩の増したカップ麺をそのままに、オレはゆらりと立ち上がる。
……昼間に来ることなんざ滅多にないくせに、よりによってこんな気分のときに、羽が生えてるみたいにすぐどこへでもいっちまう瘋癲が、こんなところで燻ってるオレの気持ちなんてわかりっこないくせにーー
ドアを開けると、むわりとした熱気が体を包んだ。
そこに立っていた男が、あらら、と眉を上げる。
「……そんなに感動した?」
うるせえ、と吐き捨てて、潤んだ目を乱暴に擦る。
外が眩しくて涙が出たのだと言い訳してから、とってつけたような惨めさに黙っときゃ良かったと後悔したけれど、男はオレの機微など気にも留めぬ様子で、
「腹減った。飯、食いにいかない」
と言った。
問いかけの形をとってはいるものの、強引に腕を引き寄せられる。
一歩外に出た瞬間、白い日差しが容赦なく全身に突き刺さってきて、蝉の大合唱に痛いほど鼓膜を揺さぶられた。
羽が生えてるみたいに身軽な瘋癲男は、薄暗い部屋にひとり取り残されていたオレを、こうしていとも簡単に世界に連れ出すのだ。
強引な奴だな、と呆れたように言いながら、オレはポケットから部屋の鍵を取り出す。
特徴的なノックの音を聞いてすぐ、ポケットに入れておいた鍵。
準備がいいね、と軽口を叩いて笑う男に、ニッと口角を上げて笑い返す。
暫くぶりに笑ったので、表情筋が強張っていて歪な笑顔になったが、笑っただけで心はずいぶん軽くなった。
己の単純さに鳩尾がむず痒いような気分になりながら、オレはひとりの薄暗い部屋にガチャリと鍵をかける。
なぁ、オレだっていつかは、ちゃんと飛べそうな気がするんだよ。
お前が羽をくれるから。
終
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