冗談
ぽたりぽたりと落ちる涙が、モルタルの床に透明な水溜まりを作っている。
裸足の爪先でそれを踏んでみると、隣から声がかかった。
「鼠の絵でも描くつもり?」
「……よくそんな冗談言えるな、お前」
オレたちの置かれている状況がわかっちゃいねぇのか。
しかしコイツの空気の読めなさは今に始まったことじゃないので、真面目にツッこむだけ徒労だとわかってもいる。
己の分泌液で出来た水溜りが映し出す、薄暗い蛍光灯の灯りを眺めながらため息をつく。
「涙で鼠の絵、描いてみせたくらいで見逃してくれるほど、甘い連中じゃねえだろ」
そんな温情を奴らが持ち合わせているのなら、端からこんな悪趣味な拘束などしないだろう。
そもそも日本語の通じる相手ではないのだから、雪舟の逸話はおろか、命乞いすらも通じないのは明白だった。
「連中にとっちゃ、むしろオレらが鼠みてぇなもんだろうし」
内心の焦燥を紛らわそうとしているのか、舌が勝手に回って男に負けず劣らず下らない言葉を紡ぐ。
立ったまま柱に括り付けられた上半身はぴくりとも動かない。焦り苛立つオレに、隣で同じように縛られている男が憎たらしいほど涼しい顔で言う。
「冗談に冗談で返せる余裕があるなら、大丈夫なんじゃない」
飄々と、他人事のように。どこか愉しそうに弾んでいる声。
こういうとき、男は滅多に見せない充実した表情を見せる。博奕のやり過ぎで頭がイカれてやがるに違いない。
思いきり渋面を作ってみせたが、男の愉しげな様子にオレも気分が紛れ、焦りが癒えるのを感じていた。
イカれてるのは、どうやらオレも同じらしい。
荒唐無稽な日々を、二人でどうにか乗り越えてきたオレ達だ。
イカれた冗談みたいなこの状況だって、絶対に打開してみせる。
こんなところでくたばってたまるかよ。
足許には涙の水溜まり。うっすらとそこに映る天井の梁に、赤いスイッチが付いているのが見える。
辺りをざっと見渡しても他に触れそうな装置などないから、恐らくあれがこの倉庫から脱出する鍵だ。
拘束した人間を逃がさないことに特化した作り。悪趣味な連中の考えそうなことだ。
隣に視線を遣ると、切れ長の目がスッと細められる。
絶体絶命の窮地。人生のどん詰まり。
しかし何事にも動じることのないその目を見ていると、オレも腹が据わったような気がしてくる。
「追い詰められりゃ鼠だって猫を噛むんだってこと、思い知らせてやる」
奮い立つオレの言葉に男が喉を鳴らして笑う、微かなその振動を感じながら、オレは涙の水溜まりを強く踏みつけたのだった。
終
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