さよなら キャラ崩壊注意


 その夜、カイジさんはやけに饒舌で、訊いてもいない博奕の話を長広舌で喋りまくっていた。
 カイジさん行きつけであるこの中華料理店は狭く、調理の雑音やテレビの音や酔った客の大声が濃密に充満している。
 だからカイジさんの声は半分もオレの耳に届いていなかったが、訊き返す価値のある話には到底思えなかったので適当に相槌を打ち続けた。カイジさんはそんなことには気がつかない様子で、パチンコがどうだの馬がどうだの、しょぼい博奕の話をひとりで喋り続けていた。

 既に皿もグラスも空っぽなので、ハイライトに火をつけた。
 このまま放っておいたらこの人は閉店まで喋り続けるのだろうか。そんなものにつきあう気など更々なかったが、話を止めようにも口を挟むことすら億劫で、オレはただ煙草をふかしながらカイジさんのよく動く口を見るともなしに眺めているだけだった。
 明日には出て行くことを、いつ伝えようかとぼんやり考える。予告なく出立するとカイジさんがひどく怒って非常に面倒なので、あらかじめ伝えることにしているのだ。
 それすらも面倒なことではあるのだが、あからさまに曇る表情を見て見ぬフリする方が、ガキみたいに臍を曲げたカイジさんの相手をするよりかは幾らかマシだった。

 考えてみれば、カイジさんとの付き合いは面倒なことだらけだ。なぜオレはこの人のところにいるんだろう。自ら選んでそうしているはずなのに、ときどき本気でわからなくなる。絶えず耳から入り込んでくる雑多なノイズが、その考えを助長する。
 なんだってこの人は、今夜に限ってこんなに機嫌良くダラダラと喋り続けているのだろう。
 ただ頷くことにもいい加減飽きてきて、猛烈な眠気が瞼にのしかかってきた。カイジさんの家に滞在している間は必然的に寝不足が続くから、そのせいでもある。
 このまま眠っちまおうか。そうすれば立て板に流れ続ける水も止まるだろうか。
 俯いてうつらうつらしかけたその時、対面からぽつりと呟く声が耳に入った。

「さよならだ」

 一瞬にして眠気が消し飛んだ。
 脈拍が一つ飛ばしくらいになって、引き波のように喧騒が遠のき、ほとんど反射的にオレは顔を上げる。

 だがカイジさんの顔が目に入るよりも早く、ひときわ騒がしく沸き立つテレビの音で、オレはすべてを理解したのだった。

 カイジさんの酔眼はオレを素通りし、カウンターの上部に据え付けられている小さなブラウン管の画面に釘付けになっている。

「ルーキーだろ、あれって。今年の新人王は決まりだな。すげぇよな、オレらより若ぇのに」

 うかうかとしたカイジさんの声が耳を素通りしていく。
 鉛のように頭が重くなってきて、オレは右のこめかみを押さえた。

 逆転満塁サヨナラホームラン。
 興奮を隠しきれない実況と観客の声、若き英雄を称えるトランペットに鳴り物、隣の席のサラリーマンのでかい舌打ちと、カウンターにいる親爺の「よくやった」という上から目線の称賛の声。
 それらが渾然一体となって容赦なくオレの鼓膜に突き刺さってくるが、鈍い頭痛の原因がそれらの音じゃないってことは、嫌気がさすほど明白だった。


 たった四文字の、他愛ない別れの挨拶。
 その言葉を投げるのはいつもオレの方で、カイジさんが口にしたことなど一度もなかった。

 カイジさんが先程口にした言葉は、イントネーションが別れの挨拶とは明確に異なっていたにも関わらず、オレはカイジさんの口からその四字がこぼれ落ちた瞬間、眠気も喧騒も忘れ、時すら止まったように感じ――つまりは動じたのだ。大いに。

 ヒーローインタビューが始まり、ようやく落ち着きを取り戻してきた店内で、カイジさんはナイター中継のことなど忘れてしまったかのように、またくだらないことを喋り始めた。

 ああ、本当に面倒くさい。

 目の前の男の言葉ひとつで打ち方を変える心臓など、今すぐこの場で切り捨ててしまいたいと思いながら、明日出ていくことを切り出すタイミングを掴みかねている自分自身がうんざりするほど面倒で、オレはすっかり短くなった煙草のフィルターを強く噛み潰したのだった。





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