川 七夕 ただの日常話
玄関の扉を開けた瞬間、カイジの眉間に深い皺が寄った。
頭のてっぺんからつま先まで、びしょびしょに濡れそぼっている男の姿をまじまじと見たあと、ぼそりと呟く。
「雨も降ってねえのに、なんでそんなに濡れてんだよ」
問いかけておきながら、カイジは満点の星空を背負ったこの男が濡れ鼠である理由に、だいたい見当がついていた。
どうせまた、誰かに追われでもしたのだろう。存外、男は泳ぐのが得意なようで、逃走経路に海や川を使うことがままあった。
チキンランの逸話を聞き知っているカイジは別段驚きはしないけれども、度々こうしてずぶ濡れの状態で部屋のドアを叩かれることには閉口していた。
迷惑そうなカイジの視線を受け、男はすました顔で答える。
「あんたに会いに、川を渡ってきたからね」
「川?」
「天の川」
「……」
カイジは沈黙する。
よくよく見ると、らしからぬ冗談を飛ばす男の頬には火照ったような赤みがさしている。
酔ってんのか。それ故の、この奇怪な発言。
尋常の酒量では顔色ひとつ変わらないウワバミのくせに、いったいどこで、どんな飲み方をしてきたらここまで泥酔できるのやら。
無理やり飲まされたか。あるいは酒じゃなくてもっとタチの悪い、薬のようなものでも使われたのかもしれない。それくらいやらないと、この男を殺し、あるいは捕まえることなど不可能だろう。
立っているのも辛かろうに、よくもまあこの状態で泳いで逃げおおせたなと、カイジは呆れを通り越して感心してしまう。
「お前が泳いできたのは、天の川じゃなくて、三途の川だろ」
カイジが言うと、男は濡れ髪に見え隠れする目を細める。
「その川は、渡った覚えがねえな……」
「だから、向こう岸でターンして戻ってきたんだろ」
男がますます愉快そうに声をあげて笑い、
「そう。あんたに会いたくってね」
恥ずかしげもなくそんなことをぬかすものだから、カイジはもう、ため息ついでに笑うしかなかった。
終
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