夢幻 熱烈なアカギさんの話 キャラ崩壊注意


 我ながら、思い切ったことをしたと思う。

 卓袱台を挟み、悠々と煙草を吹かす男と対峙しながら、カイジは唇を噛んでいた。


 男とは、一時間ほど前に出会った。
 行きつけの雀荘にカイジが顔を出したとき、男は他の面子と打っている最中だった。既に場は南二局で、勝負は大詰めだった。
 いやに目立つのがいるな、と思ってなんとなく足を止めた。若いのに総白髪であることも勿論カイジの目を引く要因ではあったが、それだけじゃなかった。
 言葉では形容しにくいが、纏う空気のようなものが、明らかに異質だった。他の面子のギラついた様子を余所に、光も音も届かぬ海の底に佇んでいるかのような、静謐な凄みを匂い立たせていた。

 その割に、男の手配は明らかなゴミ手で、点棒も残り僅か六千点だった。しかしカイジは何故か男が必ずここから巻き返すことを確信していた。この男はこのまま終わるようなタマじゃない。数多の死線を潜り抜けてきたギャンブラーとしての嗅覚が、そう叫んでいた。
 カイジの予想は的中し、男はそこから驚くべき逆転劇を見せた。強烈な引きの良さで瞬く間にゴミ手が鬼手へと様相を変えていく様も圧巻だったが、なにより男のブレない打ち方が凄まじかった。
 誰の目にも明らかな危険牌を、一切の躊躇なく切り飛ばす。場の流れが変わったことを察知したら、成りかけた鬼手すらあっさりと崩してしまう。
 滅茶苦茶なようでいて、その打ち方には一本筋が通っている。緻密な計算、強力なツキ、場を読む力、そういったものすべてが、この揺るぎない闘牌を形作っているのだ。
 千変万化する男の手配に併せて、男以外の面子も慌ただしく表情を変化させていった。気がつけば卓の周りには人だかりができ、勝負の行方を固唾を飲んで見守っていた。
 結局、南二局からオーラスまでは男の独壇場で、静かな嵐で場を掻き乱した挙句、二位に圧倒的な点差をつけて男は勝利した。痛快な逆転劇だが、同時に底冷えするような冷酷さも感じられた。

 ある者は頭を抱え、ある者は放心状態となっている地獄のような卓にいて、やはり男だけが超然と静かだった。
 白けたような顔つきで卓の上の金を見遣り、無造作にそれを鞄に突っ込んだ後、自然に割れた人垣の間を悠然と歩いて振り返りもせず男は雀荘を出て行った。
 騒然とする人々を押し除けるようにして、カイジはその後を追っていた。ほとんど無意識の行動だった。
 カイジが声をかけたとき、立ち止まって振り向いた男のナイフのような双眸が自分を見た、それだけで体に震えが走るのをカイジは感じていた。
 それが喜びによるものなのか、あるいは恐れのためなのかは不明だったが、いずれにせよ、カイジにはこのまま黙って男の背を見送ることなど出来はしなかった。

 特にこの後の予定もないという男を自宅に誘い、後先考えずに連れ込んだ。
 我ながら、思い切ったことをしたとカイジは思う。

 紫煙の向こうに見える顔は、安普請の部屋を退屈そうに見回している。
 ほとんど本能的に男を連れこんだはいいものの、その後のことは全くのノープランだったカイジだが、男の醒めたような顔つきを見るにつけ、なにか状況を変えなくてはと焦燥に狩られる。

「名前……、あんた、名前は?」
 声が喉にひっかかって掠れ、小さく咳払いしつつカイジは尋ねてみる。
 すると、男はカイジをまっすぐに見た。
「アカギ……、赤木しげる」
 雀荘でわずかに耳にした滑らかなテノールが、意外なほど素直に自らの名を名乗ったことで、カイジは少し勢い付く。
「歳は?」
「十九」
「オレとそう変わんねぇのか……、この近所に住んでんのか?」
 こんなどうでもいいことじゃなく、もっと聞きたいことが他にあるはずなのだが、明確にそれを言語化することもできず、カイジは歯痒く思う。
 あらら、と言ってアカギは僅かに唇を撓めた。
「尋問だな、まるで」
 揶揄するようにそう言われ、なぜかカイジは顔がカッと熱くなるのを感じた。
 アカギは煙草を揉み消して、側に投げ出されていた鞄を引き寄せる。

「オレのことが知りたいんですか。だったら、これがいちばん手っ取り早い……」

 ファスナーを開け、男が取り出したのは小さな黒いケース。
 その中身を察したカイジは、思わず息を呑んだ。
 アカギが蓋を開くと、果たしてカイジの予想通り、そこに並んでいるのは麻雀牌や点棒やサイコロだった。

「冗長な会話なんかよりよっぽど、相手の本質を理解できる……」

 淡々と言って、アカギは射るようにカイジの目を見る。

「オレもあなたに興味がある。教えてください……あなたのこと」

 底知れぬ瞳に魅入られたかのように、カイジは身動きができない。
 この男と博奕を打つ。
 そのことを考えただけで、カイジの背筋が雷に撃たれたかのようにゾクゾクと痺れる。

 雀荘から去ろうとする男に声をかけた時点で、カイジも心のどこかでこうなることを望んでいたはずだ。
 いったいなにが琴線に触れたのかは謎だが、アカギも自分のことを知りたがっているという事実もまた、得も言われぬ昂ぶりをカイジに感じさせた。

 しかし、同時に紛れもない恐怖も感じる。
 ほとんど神懸かり的と言っていいほどの強さを誇るこの男に、勝てるイメージがまったく湧かない。そしてこの男が、生ぬるい博奕など打つはずもなく、必ずどちらかが破滅するまでやり合うことになるだろう。
 もし負けたら、一体どうなる。そのことを考えると全身から冷たい汗が吹き出してくる。

 濡れた額を手の甲で拭っていると、カイジが返事に窮しているのを見て取って、アカギは麻雀セットの蓋を閉じてしまう。

「気分が乗りませんか。だったら、こういうのは、」

 アカギは素早く卓袱台を回り込み、カイジの側に寄ると、矢庭に唇を重ねてきた。
 あまりに予想外の行動だったので、カイジの反応が一瞬遅れた。
 その隙に、アカギはカイジの唇をぬるりと舐め、離れる。

「クク……、こういうの、自分から仕掛けたことはねえんだが」

 喉を擽るような笑い声にハッとして、カイジは濡れた唇を手の甲で拭う。
「いっ……いきなりなにしやがるっ……!!」
 咎めつつも、カイジはひどく混乱していた。
 それはアカギの奇矯な行動に対してだけでなく、知り合ったばかりの男にキスされて嫌悪感を抱かない自分に対してのものだった。

「これも同じでしょ……一発で、相手のことを裸にできる」

 幾分か低められた声、意味深な物言い。
 海の底のように暗い色に見えた瞳は、間近で見ると光の入り方で淡く透けて見える。
 その不思議な色に捕らわれたかのように、ひたすら息を飲むカイジに体を近寄せ、アカギは密やかに囁いた。

「スターサイドホテル……」

 忌まわしい記憶と紐付いたその建物の名を耳にした瞬間、カイジは瞠目した。
 一瞬で顔つきが変わり、警戒を露わにするカイジに、アカギは目を細める。

「オレ、あなたのこと知ってるんです。顔見知りのヤクザに見せられた、悪趣味なビデオの中にあなたはいた」

 あの鉄骨渡りの様子が撮影され、裏ビデオとなって出回っていることを、当然だがカイジは知らなかった。

「どうしても会ってみたくなって……強引にあなたの素性を聞き出しました。あの雀荘の近辺に住んでいることも……」

 澱みなく動く薄い唇。男がこんなに喋るとは思ってもみなかったカイジは意外に思いつつも、これが本来の男の性質ではないことをなんとなく理解していた。
 男はきっと今、熱に突き動かされるまま行動している。卓の上に積まれた大金にさえ、冷たい眼差しを送っていたこの男が。
 その熱源が他でもない己だということに、カイジもまた、自分の体が熱くなるのを感じていた。
 
 あの男は知っているのだ。極限の状況で死闘を繰り広げていた自分の姿を。

「待っていたんです、ああやって毎晩、面白くもない麻雀打ちながら……あなたに声をかけられたとき、体が震えた」

 いつの間にか、しなやかな白い指がカイジの左手にある縫合痕をなぞっている。
 吐息がかかるほど間近で、アカギはほとんど音を消した声で囁く。

「本当はあなたと博奕がしたい。だが、あなたがその気じゃないのなら意味がない……でも、オレはどうしてもあなたのことが知りたいんです。どうでもいい会話なんかで上っ面を撫でるんじゃなくて、あなた自身も知らないような、深層に潜ってみたい」

 言い募られて、カイジの心臓が跳ねる。
 切れ長の美しい目は、あまりにもまっすぐにカイジに斬り込んでくる。
 博奕が駄目ならセックスという、なりふり構わない強引さが、男の熱烈と言っていいほどの願望の強さをあらわしている。
 ここまで求められたことなど今までの人生に於いてなく、狂ってやがると慄きながらも、あれほどの博才を持つ男が自分を求めている、それだけでこの狂気の沙汰を受け容れつつある自分をカイジは自覚していた。
 男のことを知りたい。同時に、自分を暴き立ててほしい。あの雀荘で魅せられた、容赦のないシビアさで。
 狂っているのは、自分も同じなのかもしれない。

 カイジの心境を読み取ったかのように、男は指の縫合痕をなぞっていた指で、今度はカイジの頬の傷に触れた。
 その由来を探るようにゆっくりとなぞり、流れるように耳に移動する。
 ビクリと体を竦めるカイジに、アカギは声に出さず少し笑う。
 他愛ない悪戯が成功した子供みたいな、芯から愉しそうなその表情が、超然とした雰囲気とのギャップで凄絶なほど妖艶に見え、カイジの呼吸が浅くなっていく。

 耳の傷跡を開こうとするように撫でる指。
 顔が近付いていく。
 呼吸が交わる。
 カイジがぎゅっと目を瞑った、その時。

「ーー邪魔が入ったな」

 至近距離でアカギが呟くのと同時に、ドアをノックする音がカイジの耳に届いた。
 ハッとして玄関の方を見る。
 咄嗟に返事をしようと開きかけた口を、横から伸びてきた掌に塞がれ、カイジは目を白黒させる。
 カイジの左耳に口をつけ、アカギは息を吹き込むように囁いた。

「また会いましょう。ーー伊藤、カイジさん」

 舌で耳の縫合痕を舐め上げられ、カイジは危うく声をあげそうになった。
「ッお前っ……」
 非難しようと口を開きかけ、カイジは固まった。
 鞄を片手に窓を大きく開け放ち、棧に足をかけているアカギの姿が目に入ったからだ。
 まさか、とカイジが思うより早く、アカギは窓の外に半身を乗り出す。
「おい待てっ、ここ二階ーー、ッ!?」
 焦った声に振り返り、薄い唇を歪めるようにして笑ってから、アカギはなんの躊躇いもなくそこから飛び降りた。

「ばっ……!!」
 飛び上がって窓に駆け寄るカイジ。
 信じられない気持ちでソロソロと窓の下を見下ろすと、ちょうど白い人影が立ち上がるところだった。
 どのように上手く受け身を取ったのかは不明だが、アカギは傷一つ負っていないようで、丈の高い草むらの中、すらりと立ってカイジを見上げていた。

 呆気に取られるカイジに涼しげな流し目を寄越し、アカギはそのままカイジに背を向け、立ち去って行った。


 暫しの間、草を踏みしだいて遠ざかっていく足音を聞いていたカイジだったが、部屋のドアを叩く音でハッと我にかえる。
 返事がないことに焦れたのか、部屋の前にいる者は古ぼけたドアをほとんど殴るようにして叩きまくっている。
 明らかに、尋常の神経をもつ人間のすることではない。
 足音を忍ばせて玄関に近づき、カイジはドアスコープを覗く。

 黒いスーツに身を包んだ男が二人、部屋の前に立っていた。一人はまだ若く、もう一人は四、五十代の中年だった。
 カイジは総毛立つ。帝愛の手先かと危ぶんだが、奴らとは雰囲気がどことなく違う気がしたし、居留守を決め込んでも連中が一向に諦める気配がなかったため、逡巡ののちチェーンを外してドアを開けた。
 
「夜分遅くにすみません。白髪頭の若い男を見かけませんでしたか? 赤木しげるという名の、博徒なのですが」
 年嵩の男が、にこやかにカイジに話しかけてくる。
 慇懃な物言いだが、それが取ってつけたものであるということは、温度を感じさせない細い目を見れば明らかだった。
「……知りません」
 咄嗟にそう答えると、若い男が舌打ちする。
「嘘つけやこのガキ……俺ぁこの目で見たんだよ……テメェがアカギ連れてこの部屋に入っていくのをなぁ!!」
 やめろ、と血気盛んな若造を諌めつつ、年嵩の男は笑顔を崩さぬままカイジに言った。
「実は我々、その赤木しげるという男を探してまして。ご協力頂けました暁には、謝礼もお渡ししますが……如何ですか?」
 その言い草から男もまた、カイジの部屋にアカギがいると信じて疑わないようだった。
 真っ当な生き方をしてるヤツじゃないってことはなんとなく察しがついていたが、こんなヤバそうな連中に追われてんのかよ、とカイジは辟易する。
 アカギに恨みがあるのか、それとも逆で、アカギの力を借りたいのか。
 どちらにしろ、アカギにとっては厄介な連中に違いないのだろう。

 アカギがあんなに性急にカイジと関係をつけたがっていた理由もこれで理解できた。
 自分が追われているのを知っていたからだ。
 連中がこうしてカイジの部屋を訪ねてくることもアカギは予想していて、そのリミットまでに己の願望を満たそうとしたのだろう。

 金に困っているとはいえ、アカギを売る気など更々ないカイジが黙ったままでいると、やがて年嵩の男がため息をついた。
「その男、暫くの間、行方をくらませていましてね。まったく尻尾を出さなかったのですが、最近になって、ここの近くの雀荘で目撃されるようになった」
 そこで言葉を切って、男は笑みを深くする。
「我々としましても、あまり物騒な真似はしたくありませんので。件の男を見つけたら、是非ご協力いただきたくーー」
「おいっ!! いたぞっ!!」
 男の台詞に遮るように、アパートの外から怒鳴る声が聞こえた。
「野郎っ、窓から逃げ出しやがった!!」
「何っ……?」
 どうやら別の場所でこの部屋をマークしていた男の一味が、アカギの姿を見たらしい。
 若い方の男は半信半疑と言った顔つきでバタバタとアパートの階段を駆け下りていき、年嵩の男はカイジに剣呑な一瞥をくれた後、ゆっくりと立ち去って行った。

 鉄の階段を下りる音を聞きながら、カイジは大きく息をつく。
 アカギのことは気にかかったが、あの男がそう易々とヤクザなんぞに捕まるとは思えない。

『また会いましょう。ーー伊藤、カイジさん』

 いやに確信的なアカギの最後の言葉を思い出しながら、カイジは土間にしゃがみ込む。
 今夜起こったことのすべてに現実味がまったくない。まるで魔法がとけたかのように、ひとり現実に取り残されたような気がしてくる。

 赤木しげるという男と出会って、この部屋へ連れ込んで、相手も自分のことを知りたがっていてーー
 燻る熱に突き動かされるような、アカギの言動をカイジは思い出す。
 自分だけを見つめる切れ長の瞳。潜められた声。ほんの一瞬垣間見せた、邪気がないのがかえって蠱惑的だった表情。

 すべてが、妖しい夜の幻のようだ。
 足許には自分のものではないスニーカーが、揃えてそこに置いてある。
 それは窓から出て行った男の残していったものに違いないのだが、そんな確たる証拠があっても尚、自分は夢の中で幻を見ているのではないかとカイジは疑ってしまう。

 そこでふと、カイジは左耳の付け根が、夜気にあたってひんやりとすることに気づいた。
 アカギの舌を這わされた縫合痕。
 生々しいその感覚だけが唯一、男がこの部屋にいた証みたいに思えて、カイジは確かめるようにひたすら、己の左耳を触ってしまうのであった。





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