きれい 短文



「……あかぎさん……? どうしたんですか、急に」

 きつく吊った目をまん丸に見開いて、ドアの隙間から顔を覗かせたカイジに、赤木は唇を撓めた。
 毛羽だった灰色のスウェットにサンダル、あちこち跳ねている長い髪、ふわふわと呂律の怪しい声。
「悪ぃな。安眠の邪魔しちまったか」
 えっ、と驚いたような声を漏らした唇の端に、白っぽく残る涎の跡を親指の腹で拭ってやると、カイジは顔を赤くしてぱっと俯いてしまう。

「それは、いいんだけど……、なんで、こんなとこに? なんか、オレに用ですか?」
 ……なんだ、その言い方。
 用がなきゃ、お前に会いに来ちゃいけねぇのかよ。
 呆れ顔で、赤木はカイジを見る。
 この年下の青年は、自分が赤木の恋人だという実感が未だ薄いらしく、今みたいな野暮なことを、平気で口にする。

 さて、なんと返してやろうか。
 そわそわと落ち着かない様子の恋人を眺めながら、赤木はニヤリと笑った。

 そうだな、お前が口実を必要とするのなら。
 与えてやろうか。いつまで経っても寝惚けたことを抜かすお前の目を覚まさせるような、とびきり甘い口実を。

「俺一人じゃ持て余すからな。一緒に見ようと思ってな」

 なにを、と訊ねられる前に、赤木はカイジの手を引いて、強引に部屋の外へ連れ出してしまう。

「ほら」

 そう言って、顎で指した空の上。
 大きな真円の月が、あたかも恒星のごとく、冴えざえと白い光を放っていた。
 控えめな光を投げかける秋の星々をかき消してしまうほどの明るさに、咄嗟に目を細めるカイジを、赤木は笑って見つめる。

「一人で見るには勿体ねぇくらい、綺麗だろ?」

 きれい、という言葉が、赤木の口から出てきたことにカイジは少し驚いたような顔をしたが、子どものような素直さでこくりと頷いた。
 それは月の美しさというよりも、土の匂いのする朽葉のように心地よく嗄れた低音が紡いだ、きれい、という言葉の美しさによって引き出された首肯のようだった。

 しばらくぼうっと月と想い人を眺めていたカイジだったが、はたと何かに気づき、狼狽えたように身じろぐ。
「どうした?」
「えっ、と……その……手……」
 ごにょごにょと不明瞭な声で呟いて、顔を赤くするカイジ。
 赤木は意地の悪い顔になり、掴んだままのカイジの手に、するりと指を絡めて握り込んでしまう。

「……っ……」
 息を飲み、小さく身を竦める。まるで怯えた獣のように。
 いっそ健気なくらい敏感な反応が、握った手から伝わってきて、穏やかに欲を焚きつけられながらも、赤木はカイジの手を引いて歩き出す。
「せっかくだから、少し歩こうぜ」
「でも……、こんな……格好で……」
「誰も見ちゃいねぇよ、」
 俺以外。
 そう付け加えると、カイジはちょっとムッとした顔で、寝癖だらけの髪を撫でつける。
 引き摺られるようにノロノロと歩きながらも、握られた手を決して振り解くことはしない恋人に、赤木は声に出さず笑う。

 溢れるほどに満ちた月夜に照らし出され、ふたりの夜の道行きは、目眩がするくらい煌々と明るいのだった。





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