夢のつづき



 十月の終わり。秋晴れの空は、胸がすくほど高く澄み渡っている。
 ウキウキとそれを見上げながら歩くカイジに、隣から声がかけられた。
「ずいぶん、愉しそうじゃない」
 カイジは男の方を見て、答える。
「そりゃあ人の金で……、じゃなくて! お前と飯食いに行くの久々だし」
「ふーん……要は、オレに飯代タカれるのが嬉しくて、そんなに浮かれてるって訳か……」
 鼻白んだような半眼で見られ、乾いた笑いで誤魔化そうとするカイジ。
「それにしても、まさかあんたがオレを探し回って、こんな所まで来るなんてね……」
 ジーンズのポケットからタバコを取り出しながら、男はぽつりと言う。
 びゅう、と吹きつける潮の匂いを含んだ風に身震いしながら、「オレも自分でちょっと驚いてるよ」とカイジは答えた。



 ふたりは今、太平洋に面した北の方の小さな街にいる。
 最後に会ったとき、ふたりは喧嘩別れしていた。
 カイジは諍いの原因を失念してしまったが、丁々発止のやり取りに飽き足らず、互いに手も足も出るような、激しい喧嘩だったことだけは覚えている。
 それがなくとも、この男の生き方を知っていればこそ、次があるなんて保証はどこにもないと、半ば諦めのような気持ちを常に持ち合わせていたカイジは、前回のことでもう二度と男の顔を拝むことはないかもしれないと、覚悟を決めていたのだ。

 しかし、一月ほど前のある奇妙な出会いがきっかけで、カイジはどうしても男にもう一度、会わずにはいられなくなったのである。
 男が次に赴く先は聞いていたが、もう半年近く前の話で、果たして今もそこに滞在しているのかどうかわからない。
 男の性質を考えれば、長い間、一所に留まっている可能性は限りなく低いように思われた。

 それでも、カイジは僅かな全財産を擲って賭けに出た。
 予感がしたのだ。男ともう一度、会わなくてはいけないという、義務のような予感。
 それはあの日、あの路地裏で出会った、白髪の中年男に言われた言葉が齎したものに他ならなかった。

『もしも、もう一度アイツと顔を合わせるようなことがあったなら、』
『そのときは、アイツをよろしくな。カイジ』

 遥か遠くを見はるかすような、静かに凪いだ瞳。
 その目を見るとひどく胸がざわついて、どうしてもその『もしも』を現実にしなくてはいけないような気がした。

 ただ待っているだけでは、再会の望みは薄い。
 男の瞳と言葉の持つ不思議な力に突き動かされるようにして、カイジはほとんど迷うことなく、北行きの新幹線の切符を握りしめて東京を出たのだ。
 伸るか反るかの大博打。そして、カイジは賭けに勝ったのである。
 
 我ながら、大胆な行動に出たと思う。
 今、隣を歩いている男も同じことを思ったようで、「いったい、どういう風の吹き回し?」と訝しむように問いかけられ、カイジは九月の終わりに経験した奇妙な出会いについて話したのだった。



「……ほんとお前によく似てたな、あのオッサン。もしもお前とまた会う機会があったら、そのときは、お前のことよろしく、って……」
 そういや、名前、聞き忘れたな。
 今更そんなことを思いながら、カイジはジーンズのポケットを探り、小さな写真を取り出して男に見せる。
「……なに? この写真」
「なにって……今話したオッサンから渡されたんだよ。お前のこと、よく知ってるって言ってたから、てっきりお前から預かったもんだとばかり思ってたんだけど……」
 男はカイジの手から写真を奪い、細い眉根を寄せる。
「……こんな写真、見覚えねぇし、そんなオッサンも知らねぇんだが」
「え……なにそれ……怖……」
 不可解そうな返答に、カイジはサッと青ざめる。
 そういえば男から渡されたこの証明写真、確か半年ほど前に撮ったものである筈なのに、異様なほど色褪せ、古ぼけている。
 あの中年男自身の奇怪さに気を取られていたせいで気づかなかったが、この写真も相当不気味だ。

 なんとなくうすら寒い気持ちになるカイジを余所に、男は写真をじっと見つめたまま、口を開いた。
「……オレによく似た、見ず知らずのその男が、この写真を持ってたってことなんだな?」
 滑らかなテノールが俄かに険を帯びたことにも気付かぬまま、蒼白になったカイジはこくりと頷く。
「あんた、そいつのために、オレのことをここまで探しに来たってわけか」
「え……、べつに、そういうわけじゃ……」
 思いもよらない言葉に面喰らうカイジ。
 だが、そう言われてみれば確かに、腰の重い自分がここまでの行動を起こしたのは、あの見ず知らずの男のために他ならず、カイジは否定する語尾を曖昧に濁してしまう。

 煮え切らない態度のカイジをつまらなそうな顔で一瞥し、男は手に提げている茶色い鞄の中に、証明写真を無造作に放り込んでしまった。
「あっ! お前……っ」
「こいつは、飯代として貰っとくよ」
 ぴしゃりとそう言われてしまえば、ここまでの旅費で素寒貧になってしまったカイジは口を噤むしかなく。
 あんな不出来な証明写真の余りを手許に置こうとする男を不可解に思いつつも、これで心置きなく飯を奢ってもらえるなら安いもんだと、深く追求するのをやめたのだった。

 改めて、カイジはあの中年男のことを思い出す。
 あの人は一体なんだったのだろう。一目見た瞬間から、何故か視線を強く引き付けられた男。
 自分の写真を持っていたことを始め、不気味な点は枚挙に暇がないのに、どうしても無視することができなかった男。
 強烈な存在感を放ち、謎の多い言動にも、不思議な説得力があった。
 警戒心の強いカイジが、初対面にも関わらず、訊ねられたことをつらつら喋ってしまうほどに。
 そんなところも、隣を歩く男とよく似ていた気がする。

 ……男が歳を重ねたら、あんな風になるのだろうか。
 想像してみたけれど、いまいちピンとこなかった。そもそも刹那的過ぎる生き方をするこの男が、中年と呼ばれる歳まで無事に生きていられるのか、甚だ疑問である。

 しかし、それは自分とて同じことだ。
 歳を重ねて顔に皺の刻まれた自分と男が肩を並べる姿を、現実味の薄い気持ちで想像してみたところで、ふとあることを思い出して、カイジは男に訊ねてみる。
「そういや、オレらってなんで喧嘩してたんだっけ?」
 あの中年男に訊ねられたときも、どうしても思い出せなかった諍いの理由。
 男なら覚えているだろうと思ってカイジは聞いてみたのだが、予想に反して、男は目線を斜め上に投げた後、
「……さぁ。くだらなさすぎて、忘れた」
 早々に思い出すことを放棄して、そう言い放った。

 目を丸くしたあと、カイジは大きく吹き出した。
「なに、笑ってるの」
 怪訝そうな顔に、カイジはますます笑ってしまう。

 あの日の路地裏で、同じように声を上げて笑っていた男の姿をカイジは思い出す。
 路地裏にパッと陽が差したような、明るい笑顔と笑い声。
 あの人がここに居たら、やっぱり笑っただろうか。

 ふいに鼻の奥がツンとして、今こんなに笑っているのに、カイジは何故だか泣きたいような気分になった。
 遥か遠くを見ているような眼差しが、自分に向けられる時だけ、ほのかに和らいでいたのを思い出す。
 懐かしいものを見るかのように。
 あの人にも、いつかまた、会える日が来るだろうか。

 これは笑い過ぎたせいだと、誰にともなく言い訳しながら目端に滲んだ涙を拭い、カイジは仏頂面の男に向かって言う。
「お前のことよろしくって、頼まれちまったからなぁ。しゃあねぇ。これからもお前と居てやるよ。お前がうんざりするくらい、ずっとな」
 口笛吹くように軽く、冗談めかして言ったのに、己の耳が拾った瞬間、その言葉はすっと心に馴染んだ気がした。

 そうなればいいなと、心のどこかでずっと望んでいたのかもしれない。
 男の生き様を諦める口実にして、ずっと気づかないフリをしていた願望。
 叶う公算の極めて少ない望み。それでも、認めてしまえばどっしりと腹が据わったような気がしてきて、隣から聞こえる呆れたようなため息さえ聞き流し、カイジは大いに笑う。

 北国の肌寒さを吹き飛ばし、秋の空まで届きそうな明るい笑い声は、しばらく止むことがなかった。





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