博徒


 ベッドの上で眠りこけるカイジを、ハイライトを燻らせながらアカギは眺めていた。
 秒針と、微かな寝息の音。それぞれ異なるリズムで規則正しく繰り返されるそれらだけが、真夜中の室内に響いている。


 バイト上がりのカイジは、いつにも増してくたびれた様子でアカギの待つ自宅へと帰ってきた。
「おー、お前、来てたのかよ……」
 いつもなら、アカギの訪れに喜びを噛み殺すような表情を見せるカイジだが、今夜は様子が違った。
「なんか最近、すげぇ体が重くて……、帰って早々わりぃけど、ちょっと寝かせてくれ……」
 たのむ、と懇願する声が疲弊しきっていたので、アカギは黙ってカイジを寝かせてやることにしたのだった。


 ベッドの上に大の字でダイブした格好のまま、うすく唇を開いてカイジは眠っている。
 汗ばんだその顔には疲労の色が濃い。
 目の下には黒ずんだ隈が存在感を主張して、傷のある頬は前回の逢瀬の時よりも痩けているのがハッキリと見て取れる。

 冷房のない、蒸し風呂のような部屋。
 寝苦しいこの環境で、寝返りひとつ打つことなく、カイジは事切れたように寝入っている。

 床に胡座をかいてその姿を見つめながら、アカギは静かに煙草をふかしていた。
 常と変わらぬポーカーフェイスだが、その目は平生に輪をかけて鋭く、底知れない闇を宿している。

 その視線は、正確にはカイジ自身ではなく、そのすこし上、なにもない空間に焦点を結んでいた。
 長くなった灰を灰皿に落とし、アカギはつと、煙の上がる煙草の先をその空間に差し向ける。
 銃口を向けるように。

「あんたも、鉄火打ちかい」

 静かな、しかしはっきりと響く声。
 みしりと軋むような音とともに、カイジの周りの空気が、微かに揺らぐ。


 カイジの姿を見た瞬間から、アカギは異変を察知していた。

 なにかがいる。
 目に見えない、人ではない、なにか。

 極めて死に近しい場所で生きているアカギは、そういった、この世ならざるものの存在を、今まで幾度か感じ、あるいは目にしたことがあった。
 それらは大概、強い怨嗟の念を発しているのが常だったが、今回、カイジに憑いているのはそういった禍々しい類のものではなく、比較的おとなしいもののようだったので、アカギはひとまず、様子見することにしたのだ。

 その存在がかつて渡世人だったということが、アカギにはなんとなくわかっていた。
 伝わるのだ。見えなくとも、それが持つ性質のようなものが、空気を通して。
 姿が目に見えない分、よほどはっきりと。

 ……であるから、アカギは始め、自分が破滅に追い込んだ相手が、復讐のためカイジに取り憑いたのだと思った。こういった存在と対峙するとき、その原因として、いつもいの一番に頭をよぎるのが己に対する怨恨だったからだ。
 だが、それにしては些か気配が穏やかすぎるし、何より、アカギに対する殺意のようなものがいっさい感じられない。
 となると、次はカイジ自身に恨みを持つものである可能性を考えたが、そうであるならさっさと取り殺してしまえばいいものを、そうする様子さえ微塵もない。
 ただ、カイジに取り憑いて、背後でじっと蹲っているだけのように見える。

 アカギは目を眇める。
 自分に危害を加えるものでなければ、今までは素通りしてきたアカギだったが、今回はそういうわけにはいかない。
 仮に相手にそのつもりがなくとも、取り憑かれた人間には少なからず、なにがしかの影響が出てしまうものである。
 いつの間にか血の気が失せ果て、紙のように白くなっているカイジの顔にちらりと視線を移したあと、アカギはふたたび、それを見据える。

「この人を見出したってことは、生半可な博奕狂いじゃねえんだろう。その命、賭場で散らしたか」

 突如として響く硬質な音。何かがひび割れるような。
 家鳴りにしては大きすぎるその音と同時に、部屋の灯りが幾度か明滅する。
 動揺とともに肯定を示すような、気配の揺らぎを感じながら、アカギはさらに淡々と語りかける。

「この人に憑いて、光を見てみたくなったのかい。わからなくもねぇがーー」

 アカギに対するどこか臆病な反応や、人に危害を加えようとする気配がないことからも、この、人ならざるものの生前の気質が見て取れた。
 恐らく、その生ぬるい気質どおりの凡庸な打ち筋で、中途半端に危ない橋を渡ろうとして、不本意な形で命を落とすことになったのだろう。

 だが同時に、きっと男は博奕を芯から愛してもいたのだ。
 誰かを恨んで取り憑くことさえしない性格の持ち主であるのに、死後、巷を彷徨っていて見つけたカイジに惹かれ、憑いてきてしまったのだろう。
 勝利への強い憧れに突き動かされて。

 推測の域を出ないとはいえ、そこまでわかってしまえば、アカギはカイジに憑いているものに対する憤りや憎々しさなど、一切感じることなく。
 代わりにアカギの心を占めたのは、賭場で死ねたことに対するほんのすこしの羨望と、不条理な死に巻き込まれても誰ひとり恨まぬ潔さへの好感、それから、執念とでもいうべきひたむきな憧憬をカイジに向けられることへの嫉妬だった。

 そう、アカギには、こんな風にひたぶるにカイジについていくような真似などできない。
 それは何者にも依って生きることのない、唯一無二のアカギの本質がそうさせるのであり、水際立った博才がその刹那的ともいえる生き方を可能にしているのだが、だからこそ、アカギは目の前で眠る傷だらけの男に光明を見たり、泥臭い逆転劇を目の当たりにすることができないのだ。

 奈落の底から仲間の手を力強く引いて立ち上がる、涙にまみれたその横顔を、『天才』赤木しげるには見ることができないのだ。


 雑多な感情を払うように、長くなった煙草の灰を落とし、アカギは更に続ける。

「あんたにその気が無かろうと、このままだとこの人は死んじまう。生憎、それは都合が悪いんでね」

 他人の生死に関心の薄いアカギだが、カイジに対してだけは別だった。
 この人にこんな死に方は相応しくない。それこそ賭場で、命のかぎりを尽くして派手に散るべきだ、と。

 いや……、違うな。
 アカギは己の思考を打ち消す。
 そんなのは単なる口実で、本当はただ、この人に生きていてほしいだけなのかもしれない。

 あらゆるものへの執着が枷となりうる生き様において、それを認めることはうんざりするほど疎ましいことだったが、それでもアカギは、カイジをみすみす死なせることだけはどうしても許せなかった。
 
 カイジに憑いているものは、アカギに指摘されて初めて、己がカイジの生命力を奪っていることに気づいたようだ。
 狼狽えるように、気配が騒がしくなる。
 無邪気に夢を追うように、カイジに取り憑いたはいいが、取り憑かれた人間に及ぼす影響にまでは、頭が回らなかったようだ。

「この人が死んじまったら、光を見るどころじゃなくなるぜ。悪いが、この人のことは諦めてもらう」

 アカギの気迫に気圧されたかのように、カイジの周りの空気が縮こまる。
 まるで風前の灯のように、弱々しく、小さくなった、人ならざるものの気配。
 晒したように青白かったカイジの顔色が、徐々に血色を取り戻しつつあるのを確認しつつ、アカギはタバコを灰皿に押しつける。

 そして、今にも消えそうになっているその存在をまっすぐに見据え、両手を、ぱん、と大きく打ち鳴らした。

 ハッ、としたようにカイジが目を開くのと同時に、人ならざるものの気配が忽然と消え失せた。
 なにが起こったのかわからない、という風に呆然と天井を見つめているカイジに、アカギは声をかける。
「おはよう、カイジさん」
 ちょっとビクッとしたあと、大きな双眸がアカギの方を見る。
「あ、お、お前ーー、そ……っか、お前、いたんだっけ……」
 ホッとしたように息をつくカイジ。
 その顔は憔悴してはいるものの、表情や声などは、いつもと変わりない様子だった。
 汗まみれの頬に、長い髪がべっとりと張りついている。

 体を起こすのも億劫らしく、カイジは気怠げに寝返りをうってアカギの方に体を向ける。
 ずっと同じ体勢のまま、微動だにせず眠っていたせいで固まった体が痛むのか、顔を顰めながらカイジは口を開いた。
「すげぇ変な夢、見てた……」
「そう。どんな夢」
 アカギが尋ねると、カイジは目を丸くする。
 この手の雑談にアカギが食いついてくることなど、滅多にないからだ。
 やや面食らった顔をしつつも、カイジはぽつりぽつりと話し始めた。
 
「……真っ暗な穴の中の壁を、遥か頭上に小さく見える光に向かって、必死こいてよじ登ってるんだけどよ。なんか体が重いな、って下見たら、変な男がオレの脚にしがみついてるんだよ。異様なほど青白い顔してて、派手な柄のシャツはボロボロで。……蹴り落とそうかとも思ったけど、できなかったんだよな」
「どうして」
 うーん、とカイジは考え込むような顔をする。
「悪いやつじゃなさそうだったからかな……怖いけど、なんだか必死そうでさ。あぁ、こいつもここから這い上がりたいけど、きっと自分の力じゃできねぇんだな、って思ったら……、すげぇ重かったけど、そいつぶら下げたまま、壁を登ろうとしたんだよ」
「……お人好し」
「うるせぇ。でもまぁ、やっぱり重いからうまく登れなくなっちまって、どんどんずり落ちていって、体力も尽きかけて。もう駄目だ、って思ったけど、それでも壁に爪たてて悪あがきしてたら、ふっと体が軽くなってさ。あ、奴が消えた、ってわかるのと同時に、すげぇ勢いで引きずり上げられて、気づいたらベッドの上にいた、って感じの夢……」
 そこで言葉を切って、起き抜けで喋り疲れたのか、深くため息をつくカイジ。
 アカギはやや目を細め、もうそこにはいない男に向かって、声を投げる。
「よかったな」
「……え? なにが?」
 怪訝そうに眉を寄せるカイジを他所に、アカギは想像する。

 もし、男の人生の最期の場面にカイジが居合わせたとしたら。
 カイジは決して男を見捨てたりせず、鮮やかな起死回生の策を用いて、きっと男が見たかった、光を見せてやったのだろう。
 顔も名も知らぬその男が、人生のどん底から這い上がった眩しい光の中で、カイジと屈託なく笑い合う情景が目に浮かぶ。

 それは実際には叶わなかった美しい夢に過ぎないが、それでも、霊となって取り憑いた自分でさえもカイジは見捨てなかった、そのことだけで温厚な男にとっては、充分だったのだろう。
 だからこそ、あっさりとカイジから離れ、姿を消したのだ。

 煙草の焦げ跡のように些細な、取るに足らないほどの、チリリとした嫉妬を感じつつ、アカギは新しい煙草を咥える。
 そして、人ならざるものですら引き寄せてしまうほどの輝く才気と、取り憑いたものを成仏させてしまうほどの人情を併せ持つ、失いがたい恋人に向かって言った。

「あんたが死ななくてよかった、って言ったんだ」



 それから二日ののち、都内近郊のとある山中で、大型のスーツケースに詰められた遺体が発見された。
 損傷が激しく、詳しい身元は判明していないが、骨格などの特徴から二、三十代の男性と推定される。
 遺体は腐食した柄物のシャツを身につけており、警察が身元の確認を進めているそうだ。


 新聞の片隅に小さく掲載され、カイジはついぞ知ることのなかったその記事の存在を、アカギだけが知っていた。






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