スプリングエフェメラル

 いつの間にか、春になっていた。
 深夜勤のバイト漬けの日々で、日中外出することがほぼ無いカイジの、率直な感想がそれだった。

 ひさびさに浴びる陽光は燦々と眩しく、慣れない目がチカチカする。雪が溶けて小川が流れ出すように、まだひんやりとしている空気が緩み、その中にすこしずつあたたかさが溶け出している。
 夜勤明けの貴重な休みなのになんだか寝つけず、なんとなく外へ出たカイジを待ち受けていたのは、すっかり春らしくなった景色だった。

 まだ夜は寒いから、季節の変化に気づかなかった。つい最近まで心細げな枝々を晒していた街路樹も、薄桃色の衣をたわわに纏い、澄んだ空に向かって堂々と胸を張っている。
 衣替えしていないのは自分だけだ。街行く人々の軽装と、自分の着ているダウンジャケットを見比べて、カイジは沈黙した。
 どうりで、なかなか寝つけないわけだ。こんなに気温が上がっていることにも気づかずに、毛布に包まって寝ていたのだから。

 初めて外に出たような、おぼつかない足取りで桜の下を歩く。はじめは、浦島太郎のように辟易していたカイジだったが、丸まった背中が徐々に伸びていった。
 春めいた空気に誘われ、街の音も、すれ違う人々も、なにもかもがそわそわと浮き立っているようだ。草臥れたスニーカーの足も、自然に軽くなる。
 春の空気にあてられたか。このまま、適当にぶらついて家に帰るのはもったいないような気がしてきた。
 どこへいこうか、と考えながら、カイジは桃色と水色の空に向かってうーんと大きく伸びをする。
「もう、すっかり春だなぁ」
「そうだね、頭のおかしな連中の増える時期だ」
「…………」
 カイジの伸びがぴたりと止まる。

 最悪……
 いちばん見られたくないヤツに、見られたくないとこ、見られちまった……

 渋い顔で振り返り、そこに立っている男に向かって言う。
「お前のことか?」
 言い返してくるかと思いきや、男ーーアカギは喉を鳴らして笑った。
「違いねぇ」
 そのままカイジの側まで歩み寄ると、その顔をじっと見る。
「街中でデカいひとりごと呟いてるような奴にわざわざ会いにきたってんだから、オレも相当狂ってるよな」
 カイジは微かに身じろいだ。
 不意を突かれて、ちょっと動揺してしまった。自覚したとたん、顔に熱が集まってくるのを止められず、カイジはアカギの顔からぎこちなく目を逸らす。
 すると、白い頭の上に、桃色の花びらがくっついているのが見えた。
「……ついてるぞ」
 手を伸ばして取ってやると、その手を掴まれる。
「……んだよ」
 そのまま花びらごと握り込まれて、カイジの心臓が軽く跳ねた。
 すぐさま振り解いてやろうと思ったが、空よりも桜よりも鮮烈な男の、どことなく悪戯っぽい笑みに目を眩まされて、できなかった。
 手を引かれるまま、アパートへの道を歩く。桜の花びらが敷き詰められたアスファルト、信号機の赤と緑、古びた歩道橋の色。すべてが急に鮮やかに見えてくる。
 カイジはふっと息をついた。
 
 まあいいか。
 頭のおかしな連中の増える時期なんだから、これくらいの酔狂は、きっと許されるだろう。

 そんなことを考えながら、カイジは繋がれた手に、ほんのすこし力をこめてみたのだった。








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