パズル アカ→カイ
 

 薄手の青いシャツと、色の褪せたジーンズ。
 普段通りの衣服を身につけ、鞄を提げて部屋を出ようとして、アカギはふと足を止めた。
 視線の先には、鴨居にかけられたハンガー。そこに吊るされている黒いダウンジャケットを、無言で眺める。

『貸してやる。ここ出るとき、着ていけよ』
 そう言いながら昨晩このダウンを鴨居にかけた家主は、まだベッドで寝息をたてている。
 絶対だぞ、と強い口調で念押ししてきたその男ーーカイジは、余計なものを持ちたがらず、また、挨拶もなしにある日突然行方をくらますアカギの性質を、短くない付き合いの中で学習したらしい。
 しかし念を押されたからといって、アカギの性質が即座に変わるものでもなく、男のお節介に呆れつつ空返事などしていたのだが、この部屋を出て行く段になってなぜか、足が止まってしまった。

 アカギは僅か目を眇める。誰かの部屋を後にするとき、こうして立ち止まったことなど、今まで一度たりともなかった。
 そのことに気づいてしまったが最後、着古したダウンジャケットなんかよりもよほど厄介で煩わしいものを、いつの間にか抱えさせられていたことを自覚したのだ。
 
 うんざりした気持ちが、ため息となって唇から零れ出る。今この瞬間まで無自覚であったが故に、いつから、何がきっかけでこんな有様になってしまったのかすら、皆目見当がつかない。
 そもそも、気持ちの変化に境界線というものを見出そうとすること自体がナンセンスなのだとわかってはいるが、虚を突かれるようにしてこんな気持ちを知り初めることとなったアカギは、どうしても自分がカイジに転んだきっかけを探ろうとしてしまう。
 しかしいくら己の内面を探ろうとも、そこにあるのはただカイジの顔が見たい、声が聞きたいという願望だけだった。
 
 アカギの足を止めた張本人は、白河夜船といった様子で、アカギに背を向けてすやすや寝息をたてている。
 こんな目に遭わされた腹癒せに叩き起こしてやろうかとも思ったが、本当に顔など見てしまったらますます足が重くなるのは明白で、アカギは次の挙動を決めあぐね、暫しその場に立ち尽くしていた。

 そうしているうち、衝動的に沸いたうんざりした気分はやわらかくぼやけ、やがてほろ苦く崩れていく。
 後に残ったのは、剥き出しの、掛け値なしの本心だけ。
 短いため息をひとつ吐いて、アカギは仄かに唇を撓めた。
 しょうがない。そんな諦めの笑みだった。
 極めて厄介で煩わしいものを抱えさせられたのに、それをさほど疎ましく感じていないことにアカギは気づいていた。今まで経験したことのないその感情が、世間一般では何と呼ばれているものなのかということも。

 それを自覚した途端、雑然とした部屋の風景さえ、ガラリと変わって見えてくる。冬の朝日に照らされてきらきらと眩しい部屋に目を細め、アカギは踵を返してデスクに近づいた。
 灰皿や空き缶など雑多なもので散らかっている机上に、未完成の真っ白なジグソーパズルが放置されている。
 それは一年前の同じ頃にアカギが訪れたときから、ずっとそこにあるものだ。『新年だし、なにか始めようと思って』と、なぜかバツが悪そうに呟いていたカイジの表情を思い出す。
 白無地が最も難易度が高いのだとカイジが語っていたそのパズルは、アカギが訪れるごとに目に見えて進捗が悪くなっていき、新しい年が明けた今でも四分の一ほどしか完成していない。数年前にも『日記でもつけてみようかな』などとぼやいたきり、ついぞそれらしき行動を見せなかったような男なので、このパズルが完成するかどうかも極めて疑わしいと言えた。

 アカギはデスクの上に散らばった真っ白なピースの中から無造作にひとつ摘み上げ、流れるような動作で、作りかけのパズルの末端にあやまたず嵌め込んだ。
 なぜこんなことをするのか、自分でもわからない。ただ、男の部屋に、自らの痕跡をひとつ、残しておきたくなったのだ。
 男はきっと気付きすらしないだろう。それでいい。1ピース分だけ己の痕跡を含んだパズルは、いつか完成するかもしれないし、永遠に完成しないままかもしれない。
 どちらに転んだって構わない。アカギはこのパズルに、己の気持ちを重ねていた。
 どんな風にだって転がっていけそうな、これくらいの余白があったっていいだろう。どうせ今は、真っ白で未完成な恋なのだ。
 
 首許まですっぽりと毛布に包まり、幸せそうに眠る黒い後頭部を眺め、またね、と心の中で呟く。
 自分だけでは抱えきれないほど持ち重りのするものを既に持たされているのだ、今さら上着の一枚や二枚増えたところで変わりはしないと、鴨居のハンガーから黒いダウンを外し、袖を通す。
 このダウンを返しに訪れる時には、ふたりの関係にも何らかの変化が訪れるのだろう。
 その時までは未完成の真っ白なパズルみたいな、宙ぶらりんの片恋を愉しんでやろうとアカギは鷹揚に構える。一度腹を決めてしまえば、どんな選択にもいっさいの迷いがないのが、赤木しげるという男なのであった。

 ダウンからふわりと匂い立つマルボロの香りとともに、アカギは小さな部屋を出て、朝の街へと足を踏み出した。






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