猫・4




 少年と並んでベッドの縁に腰掛けると、ようやく『助かった』という実感がわいてきて、カイジは肺の空気をすべて使い切ってしまうようなため息をついた。
「ありがとな……マジ、死ぬかと思った……」
 この一晩で十歳は老け込んだかのような様子のカイジを横目で見ながら、少年は口を開く。

「あんた、ここ最近、ずっと魔物臭かったから」
 その言葉に、カイジは「へっ?」と目を瞬く。

 この病室で会うたび『臭い』だの『臭う』だの言われてたのは、あの化け猫の臭いが染みついていたからだったのか。
「あんた、ぼんやりしてるから。ああいう手合いに、つけ込まれやすいんだよ」
 役に立っただろ、『見舞いの品』。
 そう言われ、カイジはあっと声を上げた。

 あの、折り鶴。化け猫は、『魔除けの式』だとかなんとか言っていたがーー
 少年はこうなることを見越して、自分にあれを渡したのか。

 少年の謎の言動の意味が次々と解明され、納得したり感心したりするカイジだったが、それにしたって言葉が足りなさすぎると、自分のコミュ障を棚に上げて少年を責めるような気持ちになる。

 恨みがましいカイジの視線に気づいた風もなく、今度は少年がカイジに質問を投げた。
「それにしても……、どうして、相手が妖だって見破れたの」
「あー……、それは、だな……」
 心底不思議そうに尋ねてくる少年に、自信満々で答えてやろうとして、カイジは固まった。

 答えは、心臓の音。
 青年に化けた猫に抱きすくめられたとき、化け猫の脈打つ鼓動が、ハッキリと聞こえたからだ。

 前に未来の少年と会ったとき、別れ際に強く抱き締められたことを、カイジはよく覚えていた。

 あのとき、男の心音は、いっさい聞こえなかった。
 カイジは一瞬驚いたが、なにせ相手は人間じゃなくて神さまなんだから、それも当然のことかもしれないと思って、深く気にしないでいた。

 それから、獣姿で眠る少年の体を、カイジは何度かこっそり撫でてみたこともあるのだが、その時もやはり、鼓動らしきものは感じられなかった。

 それらを覚えていたから、抱き締められて化け猫の鼓動を聞いたとき、これは青年じゃない、他の誰かだと気づくことができたのである。

 ……なんてことを、一から少年に説明できるはずもなく。
 お前に擬態した化け猫に迫られ、挙げ句の果てに抱き締められたんだーーとか、未来のお前に抱き締められた経験から、相手がお前じゃないって見破れたんだぜーーとか、そんなこと、本人を前にして言えるはずがない。

「な、なんとなくだよ、なんとなく……第六感、ってヤツ……」
 ハハハハ、と白々しい笑いで誤魔化そうとするカイジを、少年は胡散臭げに見ていたが、カイジがまともに答える気がないということを悟ったらしく、それ以上深くツッコんではこなかった。

 ホッと胸を撫で下ろすカイジに、少年は「……で?」と問いかける。
「あの猫、誰に化けて出てきたの? ……年増のアナウンサー? それとも、あの看護師?」
 アナウンサーじゃなくて、気象予報士な。
 心の中で訂正を入れながら、カイジは少年に質問を投げ返す。
「……なんで、お前がそんなこと気にするんだよ」
 少年の姿の化け猫に迫られた手前、『お前に化けてたよ』とは言い辛く、そんな質問でお茶を濁そうとするカイジ。

 すると、少年はせわしなくピクピクと耳を動かしながら、ちいさな声でぽつりと言った。

「化け猫は、昼間は普通の猫の姿で現れ、触れた人間の心を読む。そして、夜、人間の精を吸うため、その人間にとっていちばん好ましく、心を許す者の姿で現れるんだよ」
「へぇ〜……」

 感心したようにそう呟いてから、ん? 待てよ、とカイジは眉を寄せる。

 コイツ、今、なんつった……?
『その人間にとって、いちばん好ましく、心を許す者の姿』……?

「……ッ……!!」

 カイジは絶句し、口許を手で覆った。

 水がしみ込むようにじわじわと、その言葉の意味が理解できてきて、カイジの顔が、これまでにないくらい、鮮やかな真っ赤に染まっていく。

 そんなカイジの方を見ないまま、少年はふさふさとしたしっぽを所在なさげに揺らしている。
「ねぇ。いったい、誰に化けて出てきたの」
 まさか、その答えが自分であるとは思いも寄らない少年は、カイジの心を占めているのが人間の女性であると思い込み、耳を下げ、萎れるように俯いている。

 一方のカイジは、そんな少年の様子に気づく余裕もないほどの動揺と混乱で、あわあわしていた。
「なななっ、なんでそそそんなこと、お前にいい言わなきゃいけねえんだよっ……!!」
「……カイジさん?」
 ようやくカイジの様子がおかしいことに気づいた少年が、訝しげに顔を上げる。
「どうしたの。あんた、なんか変だぜ」
「!!」
 間近で顔を覗き込まれ、カイジの口から心臓が飛び出しそうになった。
「あ〜!! っと、安心したら、なんだか急に、眠くなってきたなぁっ……!!」
 カイジはサッとベッドから飛び降りると、不自然なほどの大声でそう言って、少年の方を見た。
「き、今日はありがとなっ……!! 疲れただろっ、オレはもう大丈夫だから、帰っていいぞっ……!!」
 明らかに妙なハイテンションで、少年の帰宅を促すカイジ。

 一刻も早くひとりになって、冷静に考えなければいけない事案が発生したのだ。

 晴天の霹靂のようにして、向き合わされた自分の気持ち。
 その原因である少年と、たったふたりきりというこの状況では、まともな思考などできようはずもない。

『もう大丈夫』という言葉に説得力のかけらもない同居人を、少年は胡乱げに見遣り、それから軽く目を伏せて、ぽつりと呟いた。

「……疲れた」
「そ、そうだろっ……? だから、早く帰ーー」
「……から、ここで寝る」

 カイジを遮るようにしてそう宣言し、少年はひらりとベッドに上がる。
 あんぐりと口を開けたまま固まるカイジの目の前で、少年はもぞもぞとベッドに潜り込み、布団の端を捲ってカイジを見上げた。

「ほら……来なよ」
「……!!??」

 クラリとめまいがして、カイジは一歩、後ずさる。
 もう、火山のように噴火してもおかしくないような顔で、カイジは少年を嗜めた。

「アホかっ……! ここここ、病院だぞっ……!」
「知ってる」
「だっだっ、誰かに見られたらっ……!!」
「ここには、あんたしかいないだろ」
「ベッドが狭くなるだろうがっ……!!」
「家ではいつも、ふたりで寝てるでしょ」
「そっ……、そうだけどっ……!!」

 なぜか泣きそうな顔でグダグダ言い続けるカイジを面倒くさそうに見て、少年はため息混じりに言った。

「無理やり従わせるぜ……?」
 不思議な力を持つ瞳に見入られ、カイジの喉奥でヒッと短い悲鳴が上がる。
「せ、せめていつもの、獣のカッコで……」
 少年に帰る意思がまったくないことを悟ったカイジは、せめてこれだけは、と情けない声で懇願する。
 縋るように必死なカイジをじっと見て、少年は考えるようにしっぽをふさりと揺らしたが、やがて、首を横に振った。
「……あんた、なんか様子がおかしいから。また、魔物がやって来るかもしれない。そうなったらすぐに戦えるように、今日はこのまま、寝ることにする」
「〜〜……!!」
 文字通り頭を抱え、悶絶するカイジ。
 その心中などつゆ知らず、少年はベッドの隣をぽんぽんと叩き、「早く」と促す。

 カイジは両手で顔を隠し、指の隙間から恨めしげな目だけ覗かせて少年を睨んだが、無論そんなもの、なんの効力もなく。
 結局、疲れと眠気には勝てなくて、カイジは犬のように呻きながら、ぎこちなく少年の隣に滑り込んだ。
 ふたり分の重みを受け止めたシングルベッドが、ギシリと軋んだ音をたてる。

「ねぇ。なんで、そんな端の方に寄ってるの」
「……」
「体、はみ出してない?」
「…………」

 自分に背を向けたまま、返事をしないカイジに、少年は軽く眉を上げ、ため息をついた。
「まぁ、いいけど。……おやすみ」
「おっ、おおおやすみっ……!!」
 少年の挨拶には、律儀に返事をするカイジ。
 やがて、すうすうと軽い寝息が聞こえ始めると、カイジは深く深くため息をつき、また頭を抱えた。

 嘘だろう? 夢だよな? ……頼む、そうであってくれ。
 だが、頬をつねってみるまでもなく、点滴針の抜けたあとがジンジンと疼痛を訴え、これは紛れもない現実だと主張している。

 未だうるさく暴れちぎっている心臓のあたりを押さえつつ、カイジはぐるぐると考える。

 たしかに、少年を生意気だけどかわいいやつだとは思っていたし、最近では時間の許すかぎり、一緒にいたいとも思っていた。

 しかし、それは父親や兄のような、肉親の情愛に近いものだと、勝手に思い込んでいた。
 ーーけど、そうじゃないってのか……?
 そういうのとはまったくべつの好意を、少年に向けてるっていうのか。

 カイジの脳味噌が、ぐらぐらと茹だってくる。

 オレは……
 オレは、コイツに、恋ーー

「〜〜っ……!!」
 こい、という二文字が頭を過ぎったとたん、ボンっと音をたてるように、カイジの顔が火を噴いた。
 壊れかけの頭で、ないないないない!! と否定して、そのあとすぐに、でも……と思い直し、直後ふたたび、全力で否定する……という堂々巡りを繰り返す。

 人の心を読むという、化け猫。
 無意識下でのらりくらりと誤魔化してきた、掛け値なしの自分の気持ちをこんな形で知らされることになったカイジは、疲れや眠気も忘れ、ベッドの中でひとり、苦悩にのたうち回る。

 すぐ傍から聞こえてくる、少年の寝息や、衣擦れの音。
 今までなんとも思っていなかったそれらに、ますます眠れなくなって、カイジは真っ赤に充血した目でぶつぶつと独り言を呟きながら、ちょっと危ない人みたいに、まんじりともできない夜を明かすのだった。




[*前へ][次へ#]
[戻る]