猫・3






 夕飯は、水分多めで炊かれた白米と、だいこんと里芋の煮物やリンゴなど、消化に良いものが出された。
 カイジが回復していると判断して、出されたメニューなのだろう。

 本当に明日には退院できるかもしれないと思いながら、カイジは出されたものをすべて平らげ、ひさびさに満足した気分で、消灯時間よりも早く眠りについたのだった。










 ……さみぃ……
 夜も更けたころ。夢うつつの中、カイジはぶるりと身震いする。
 鳥肌のたった腕をさすり上げるも、沁みいるような肌寒さはすこしも解消されない。
 不愉快そうに舌打ちして、カイジはうっすらと目を開いた。

 なぜか窓が開いていて、カーテンが風に揺れているのが視界に入る。
 紺碧の夜空にぼんやりと輝く満月を見ながら、カイジは寝ぼけ眼を瞬いた。

 窓なんて、開けてなかったはずだけど……

 首を傾げながらも、眠気でだるい身体に鞭打って起き上がろうとしたそのとき、

「カイジさん」

 静寂の中に突然響いた声に、カイジは心臓が止まりそうになった。

「……ッ!?」
 泡を食って、飛び上がるように体を起こす。
 足許の方に、月にも負けない白い姿で、狐耳の少年がすらりと立っていた。

「おっ、お前っ……!?」
 動揺に目を白黒させながら、カイジはなんとか言葉を紡ごうとする。
「いつの間にっ……!? つか、いったいどっからっ……!?」
 ひっくり返った声で喚いてから、そういえば窓が開いていたことを思い出す。

 コイツの仕業か……
 カイジは安堵にホッと息をつきながらも、鋭く少年を睨めつけた。
 神さまの力を使ったのだろうが、こんな時間に病院の窓から侵入してくるなんて、悪ふざけにもほどがある。
「イタズラが過ぎるぞ、クソガキっ……!」
 苛立ちを滲ませた、低い声で咎め立てるカイジ。
 だが、少年は切れ長の目を細めると、愉快そうにクスクスと笑った。
「なに、笑ってやがるっ……!」
 眦をつり上げて怒るカイジを、値踏みするような目つきでじろじろと眺めたあと、少年は音もなくベッドに近づく。

「!!」
 ひらり、とベッドの上に少年が飛び乗ってきて、カイジは大きく目を見開いた。
 足の上に座られているが、不思議なほど重みを感じない。
 カイジが状況を把握できずにいる隙に、少年は四つん這いになり、カイジに顔を近づけてきた。

「カイジさん……」
「……ッ……」

 至近距離で妖しく微笑む、白皙の美少年。
 カイジは顔を真っ赤にして息を飲んだが、なんとか口を開く。
「な、なんだよいきなりっ……! 重いから、さっさと下りろっ……!!」
 斜め下へと視線をそらしつつ投げつけるように言うと、少年は唇を撓めたまま、ゆるく首を傾げた。
「あれ……? もしかして、こっちの姿のが、好みだった……?」
 そう呟くや否や、少年の姿が月明かりに淡く溶け、次に像を結んだときには、玲瓏な青年の姿に変わっていた。
 もともと赤かったカイジの顔が、輪をかけてカ〜ッと真っ赤に染まる。
 体を動かそうにも、紅玉の瞳に見つめられると、まるで金縛りにあったかのように体が動かない。
「クク……図星か。可愛いね、あんた」
 ただひたすら口をパクパクさせているカイジの頬を指先でするりと撫で、青年はカイジの腿を挟んで膝立ちになる。

 なんなんだ、この状況は……?
 カイジの心臓が、壊れそうなくらい激しく早鐘を打つ。

 からかわれているのだろうか?
 今までに、こんな類の悪ふざけを、少年がしてきたことはなかった。

 自分も自分で、なんでこんなにドキドキしてんだよっ……! 相手は男、しかも居候のガキだぞっ……!!

 変な汗をかきながらぐるぐるしているカイジに、青年は莞爾として笑うと、白い両の腕を伸ばす。
 ふわりと包みこむように抱き締められ、カイジは声にならない悲鳴を上げた。
 青年の体からはなんだかいい匂いがして、頭がクラリとする。

「カイジさん……」
 耳許で名前を呼ばれると、たちどころに全身から力が抜けていく。
 それでもなんとか青年の体を押し返そうと、震える腕を突っ張るけれども、逆に強く抱き寄せられ、顔を胸に押しつけられてしまった。

 温もりが伝わる。
 とくん、とくんと規則正しく脈打つ青年の鼓動が、うすいシャツ一枚隔てた向こうからーー

 カイジは目を見開き、硬直した。
 背筋に緊張が走り、背中を冷や汗が伝う。
 そろそろと顔を上げ、穏やかな表情で自分を見つめている青年の顔を、カイジはまじまじと見た。

「お前、誰だ……?」

 無意識に口に出してから、しまった、と思った。
 相手が少年以外の誰かであることを、ある理由からカイジは確信していた。
 しかし、相手の至近距離にいるこの状況で、自分がそれに勘づいたことを相手に知られるのは、非常にマズい。
 
 気づいていないフリでうまく誤魔化しつつ、相手の意図を探るべきだったのだ。
 そうでないとーー

 後悔と焦燥に駆られるカイジの目の前で、青年の鋭い目が、ゆっくりと見開かれていく。
 燃えるような緋色の瞳がキラリと光り、琥珀色に変色した。
 黒い縦長の瞳孔が現れる。まるで猫のような。
「人間風情が……」
 吐き捨てるように呟く声は、もはや青年のそれではない。
「私の術を見破るとは……生意気な……」
 老婆のような嗄れ声で、カイジの目の前にいる者が、肩を揺らして嘲笑う。
 その呼気からは、魚の腐ったような生臭い匂いが漂い、カイジは猛烈な吐き気とともに、戦慄を覚えた。

 ーー逃げなくては。

 そう思うのに、どうしても体が動かない。
 自然と呼吸が浅くなり、カイジが干上がった喉を上下させるのと同時に、青年の口が耳のあたりまで大きく裂け、赤く大きな舌が露わになった。
『予定変更だ……頭から喰らい尽くしてやる……』
 ベロリと口の周りを舐めるその姿は、いつの間にか巨大で真っ黒な、影のような化け物に変わっていた。
 頭上にある三角の耳と長いヒゲ。蛇のようにうねる尾の先端は、二股に分かれている。

 濡れたように黒い毛並みと、炯々と光る金色の目には見覚えがあった。
 ーー中庭で出会った黒猫だ。直感的に、カイジはそう悟った。

 しかし、それがわかったところで、カイジには為す術もない。
 震えにガチガチと歯を鳴らしながら、カイジは呆然と、大きく開かれていく真っ赤な口を見上げていた。
 人間の掌ほどの大きさの、琥珀の瞳がギョロリと動き、間近でカイジを見つめている。
 ベトベトと熱く異臭を放つ涎が頬に垂らされ、カイジは思わずギュッと目を瞑ってしまった。

 恐怖に歯の根が合わない。
(誰か、助けてくれーー!)
 心の中で叫びながら、カイジが少年の姿を強く思い描いた、その瞬間。

『痛……っ!?』
 今にもカイジに喰らいつこうとしていた化け物が、唸り声を上げてベッドから飛び降りた。
 唖然とするカイジの視界の中、なにかちいさな赤いものが、ひらひらと宙を舞って化け物に襲いかかっている。
 目を凝らすと、それは枕許に置いてあった少年の折り鶴だった。
 折り鶴が、まるで本物の鳥のように羽ばたき、化け物の目を尖った嘴で突こうとしている。

 潰れた声で悲鳴を上げ、化け物は太い前肢で空を切り、自分より遥かに小さな鶴を落とそうと死にもの狂いになっている。

 呆気にとられるカイジだったが、金縛りのように微動だにさせられなかった体が自由に動くことに気づき、転げ落ちるようにしてベッドから飛び降りた。
 点滴台が倒れて派手な音をたてるが、そんなもの気にしている余裕はない。
 腕のテープを剥がして点滴針を抜き、滴る血も構わず一目散に部屋の出口まで走ろうとするが、恐怖で膝が抜けてしまい、思うように前へ進めない。

 カイジがもたもたしている間に、折り鶴はついに化け物に叩き落とされ、ぺしゃりと床に落ちて動かなくなってしまった。
『魔除けの式……そんな力のある者が、人間風情を護っているというのか……?』
 化け物は憎々しげにギリギリと歯噛みして、唸り声を上げる。
『ますます、お前を食わずにはおれなくなった……その喉掻き切って、生き血を啜ってやる……』
 黒い化け物は太い前肢を振りかざし、鋭く尖った鎌のような爪で、赤い鶴を滅茶苦茶に引き裂いた。
 空気が唸り、紙の引き裂かれる音が背後から聞こえ、カイジは気が遠くなりかけつつも、ままならぬ足で這うようにして出口へと進む。
 必死に逃げようとする無力なその背中にニタリと笑い、化け物は四肢で床を踏んでカイジに飛びかかろうとした。

 その瞬間。
 開きっ放しの窓から強い風が部屋の中へと吹き込み、無残に引き裂かれた赤い折り紙の断片を舞い上がらせる。
 それらはまるで自分の意思を持つ生き物であるかのように自在に動き、カイジと化け物の間で渦を描いて花びらのように舞った。
 
 カイジに襲いかかろうとしていた化け物が、訝しげに唸って動きを止める。
 すると、急に風がぴたりと止み、赤い紙片がはらはらと舞い落ちる中に、狐耳を持った白い少年の姿が現れた。

 深雪よりさらに白い狩衣に、炎よりさらに赤い指貫。
 暗闇の中、その後ろ姿は光り輝いているように見え、振り返ったカイジは思わず目を奪われる。

 少年は伏せていた白い瞼をゆっくりと持ち上げると、対峙した黒い獣を見遣る。

「化け猫風情が」

 嘲るような物言い。
 憤りに黒い毛並みを逆立たせる化け猫に、少年は片頬をつり上げて不敵に笑う。
 しかし、その深紅の目の奥は、すこしも笑っていなかった。

「誰の男だと思ってる。お前ごときが手出しできる人間じゃない。消え失せろ、化け猫」

 静かな怒りに燃える声でそう言って、少年が白い両手をスッと前に突き出した。

 なにもない空中で、少年は鯉口を切るような仕草をする。
 そして、柄を握った形の右手をまっすぐ横に引くと、まるで目に見えない鞘から引き抜かれていくようにして、そこに一振りの太刀が現れた。

 冴え冴えと冷たい光を放つ刃は、月光を集めて作られたかのように荘厳で美しい。
 そこにあるだけで闇を根こそぎ払ってしまうかのようなその輝きに、化け猫は明らかに怯み、歯を剥き出して少年を威嚇する。
 少年は刀を下段に構えると、赤い目をスッと細めた。

「かかってこい、下等の妖」

 琥珀の瞳が大きく見開かれ、侮辱された怒りに黒い体が大きく震える。
 先ほどまで操っていたはずの人間の言葉も忘れ、赤子の泣き声じみたおぞましい声で吼えたてると、化け猫は耳まで裂けた口から赤い舌を垂らし、牙を剥き出しにして少年に飛びかかった。

「危ねぇっ……!」
 カイジがそう叫び、白い背に向かって思い切り手を伸ばすのとほぼ同時に、少年は沓音高く、右足を一歩踏み出した。
 しかし、化け猫とはかなり間合いがある。このタイミングで剣を振っても、相手には届かない。
 カイジはぐっと唇を噛んだが、少年はそのまま、撫でるように空気を薙ぎ払った。

 地響きのような音が部屋を揺るがし、刹那。
 少年が振った剣の軌跡から、一陣の白い風が巻き起こり、無防備な化け猫の黒い腹に、深く深く食い込んだ。

 少年に前肢を伸ばして襲いかかろうとしたその体勢のまま、化け猫は耳を塞ぎたくなるような醜い断末魔を叫びながら、白く輝く風に体を裂かれ、溶け崩れていく。
 その風圧は、少年の後ろにいるカイジまでも吹き飛ばされそうになるほどの凄まじさだ。
 まともに顔を上げているのも辛いカイジだったが、魔物を退治する神さまの、圧倒的な強さと凛とした背中に息を飲み、乾いて痛む目をそらすことができずにいた。





 少年の剣が起こした風が止むと、耳が痛いほどの静寂が戻ってきた。
 赤い紙の破片が、音もなくひらひらと舞うなか、少年はまっすぐに立っている。

 ぽっかりと口を開けたまま、床に這いつくばって一連の流れを見守っていたカイジは、刀を収めた少年が振り返るのと同時に、ハッと我にかえった。
「お前っ、だ、大丈夫かっ……!? どこも怪我してねぇかっ……!?」
 半泣きになりながら指貫の裾に縋りつき、オロオロと尋ねるカイジ。
 少年は眉を上げ、白い耳をぴんと立てたあと、半眼になってカイジを見た。
「オレのことより、自分の心配したら」
 ぶっきらぼうにそう言って、少年はカイジの腕を指さす。
「血、出てる」
 少年の指さす先を見て、カイジは、ああ、と声を上げた。
「これは、点滴の針が抜けただけだ。心配しなくても、そのうち止まる」
 血の滴り落ちる腕を振って、カイジはニッと少年に笑ってみせる。
 だが、さっきの出来事が生々しく尾を引いていて、その笑顔はひどく引きつったものになってしまった。

 気を取り直し、床から立ち上がろうとするカイジだったが、どうにも足に力が入らなくて、ぺたんと床に尻餅をついてしまった。
「抜けちまったのは、点滴針だけじゃないらしいな」
 顎を上げてそんな憎まれ口を叩き、少年はカイジに向かって手を差し出す。
 カイジはムッとした顔になったが、すっかり腰が抜けてしまって少年の手を借りないと立てないのは事実なので、苦虫を噛み潰したような顔のまま、やや乱暴に白い手を掴んだ。





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