夏風邪・5







 雨粒が窓ガラスを叩く音に反応し、佐原が顔を上げるのとほぼ同時に、店の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ〜……」
 呑気なドアチャイムとともに入店してきた客の方を見もせずに、レジカウンターに両手をついてボサッと突っ立っていた佐原だったが、レジの前に立った客の姿を見て、ぱちぱちと瞬きする。

「あれ? 確か、カイジさんとこの家出少年……」

 特徴的な白髪の少年は、軽く息を切らせながら、顎を引くようにして微かに頷いた。

『カイジ』という名前を口にした瞬間、今日のバイトの代打をさせられたせいで、合コンに行けなかったことへの悔しさと怒りが沸々と蘇ってきて、佐原の眉間に深い皺が刻まれる。

「お休み中のカイジさんは、お元気っスかぁ〜?」
 なんの罪もない少年相手に、刺々しい口調で、大人気なく嫌味を言う佐原。
 しかし、うつむき加減な少年の表情が、どことなく神妙そうに見えたので、悪い顔をしたまま言葉を切る。
 なにを考えているのかわかりにくい少年ではあるが、とりあえずなにかを言いたそうな雰囲気は伝わってきたので、仕方なく佐原が言葉を待っていると、やがて、小さな口が開いた。

「あの人、風邪、ひいてるんだ」
 ぽつりと小さな呟きに、佐原は半眼になる。
「知ってるっつーの……」
 そのせいでオレがこんなとこにいる羽目になってんだろーが、と怒鳴りつけたくなるのを耐えていると、少年はさらに続ける。
「すごく、苦しそうで」
「はっ、いい気味っスね〜!」
「……死んじまうかも、しれない」
 ケタケタと不愉快な声で笑っていた佐原が、その瞬間、ぴたりと笑い止んだ。

 細い眉を跳ね上げ、少年の顔をまじまじと見る。
 馬鹿にされているのかと思ったが、少年の表情は真剣そのものだ。

 ……死ぬ?
 そんなわきゃねぇだろ、たかが夏風邪ごときで。

 そう、鼻でせせら笑ってやろうとして、佐原は止めた。
 
 目の前の生意気そうな少年が、まるでどこか痛むかのように顔を歪め、静かに唇を噛んでいたからだ。
 少年の姿は幾度か見たことがあったが、こんな表情をするのを、佐原は初めて見た。

 じっとなにかを耐えるようにうつむくその様子を、まじまじと見つめる佐原の耳に、ふいにカイジの声が蘇ってくる。


『かわいいやつなんだよ』

 チキンを買って帰る同居人の存在を初めて明かしたとき、カイジは少年について、そう話した。

『小生意気で悪戯好きで、基本オレのこと見下してる感じすんだけど……、でも本当はやさしくて構われたがりな、かわいいやつなんだ』

 珍しくやわらかい声で、でも不器用に、ひとことひとこと言葉を選んで紡ぎながら、カイジは始終、きまり悪そうに視線をうろつかせていた。

 ガラじゃないっスよ〜! なんて爆笑しながら、佐原が肩をバシバシ叩いてやると、カイジは羞恥に涙目になりつつ、真っ赤な顔で怒ってきたのだ。



 その時のカイジの様子を思い出しながら、佐原は目の前の少年を見る。

 初めて見たときから、得体の知れない不気味さを感じさせるガキだと思っていた。
 だが、今、目の前にいる少年は、大切な人の危機に動揺し、なにもできない自分に落ち込む、ただの子供だ。

 風邪で寝込んだ母親に、『おかあさん、死んじゃやだ』と泣きながら縋りつく、非力で無知で、でも必死な、幼い子供の姿が少年に重なるように見えてきて、佐原はチッと舌打ちし、バリバリと頭を掻いた。

「金」
「……?」
「持ってんだろーな?」
 ぶっきらぼうな佐原の声に、少年は弾かれたように顔を上げる。
「ったく、今ごろ合コンでウハウハだったはずのオレが、なんでこんなこと……」
 ぶつくさ言いながらレジを出て、佐原は買い物カゴを手に取った。

 だるそうに歩いてレトルト食品が並んでいるコーナーへ向かい、パックの粥をふたつ。
 それから、衛生用品のコーナーに移動して、冷えピタを一箱。
 その裏にあるドリンク類が並んでいる棚から、栄養ドリンクを二本。
 最後に、飲み物のショーケースへと移動して、スポーツドリンクの2リットルペットボトルを二本、佐原はカゴの中に投げ入れた。

 それを提げてレジに戻ると、おとなしくその場で待っていた少年は軽く目を見開く。
「ただの夏風邪だろ、本人もそう言ってたし。これだけあれば、ちょっとは落ち着くと思うけど」
 食い入るように見つめてくる少年の瞳から目を逸らしつつ、佐原は殊更乱暴な口調でそう言って、カゴをレジ台の上にドサリと置く。
 カウンターの中に戻り、商品のバーコードを黙々と読み取っていると、今まで黙りこくっていた少年が、ぼそりと呟いた。

「……他には?」
「は?」

 怪訝そうに顔を上げた佐原は、思ったより間近に少年の顔があって飛び上がりそうになる。
「他には? いったい、なにをすればいい?」
 美しい顔の真摯な表情に気圧され、思わず後ずさりかけた佐原は、慌ててレジの上へと目を落とした。
「そ、そうっスね……あとは、体をあったかくして、よく眠らせることじゃないっスか?」
 なぜか敬語で言いながら商品の読み取りを終え、佐原は合計金額を少年に伝える。
 少年はスラックスのポケットから皺くちゃの万札を取り出し、佐原に差し出した。

 釣りを渡し、少年がそれをポケットに捩じ込むのを待ってから、佐原は袋詰めした商品を手渡す。
「はい。……重いっスよ」
 ずっしりとしたビニール袋をしっかりと手に提げた少年の顔からは、すでに先ほどまでの、幼子のように頼りない色は消えていた。

 しっかりと前を見据える鋭い瞳を見ながら、佐原はわざとらしく、ため息混じりに言ってやる。
「カイジさんに、よっく伝えといて下さいよ。この貸しは、高くつくって」
 少年は佐原の顔をじっと見つめたあと、整ったうすい唇を、ちいさく開いた。

「ーー……」

 生意気そうな見た目にはあまりにもそぐわない五文字の言葉に、佐原の目がまん丸に見開かれる。
 だが、佐原が我が耳を疑っている、その一瞬の隙に、少年の姿は忽然とその場から掻き消えていた。

 しんとした店にひとり取り残された佐原は、ぽかんと口を半開きにしたまま、狐につままれたような顔で、瞬きを繰り返していた。




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