夏風邪・4



 翌朝。

 低く抑えられた話し声を拾い、少年の白い耳がピクリと動いた。
 床に座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ベッドに伏していた顔を上げると、携帯電話を耳に押し当てたカイジと目が合った。

 カイジは電話の向こうの相手と話しながら、少年に向かってすまなそうに左手を上げてみせる。
『起こしちまって悪い』ということだろう。

 少年はカイジの顔を見る。
 依然として、頬は熟れたように真っ赤だ。咳も続いていて、電話で会話するのもしんどそうである。
 どうやら、電話の相手は佐原のようで、今日のバイトを代わってくれと打診しているらしい。

 電話の向こうで、相手はかなり渋っている様子だったが、苦しい息のもとカイジがなんども頼み込むと、ついに根負けしたのか、嫌々ながらも引き受けたようだった。

 なんどもしつこく礼を言わされながら電話を切って、カイジはホッと息をつく。
 それから少年の顔を見て、その頬にうっすらと笑みを滲ませた。
「はよ。……悪い、起こしちまったな」
 その声にも相変わらず音というものがなく、ただ風が気道を通り抜けているだけ。
「具合は、どう?」
 少年が尋ねると、カイジは喉をさすりながら答える。
「昨日よりはマシな気もするけど……、正直、まだ動けるような感じじゃねえな……熱も、上がってそうだし……」
 言いざま、カイジはゴホゴホと咳き込む。
 たっぷり三十秒は続いた咳が落ち着いてから、カイジは大きく深呼吸し、涙目で改めて少年を見た。
「……ま、バイト代わってもらったし、一日寝てれば治るだろ。それより、お前、風邪大丈夫か?」
「……え?」
「うつっちまってねえか、ってこと」
 風邪とは人から人へ『うつる』ものなのだと、少年はこのとき初めて知った。
 少年が首を横に振ると、カイジは「そっか、良かった。まぁ神さまだもんな」と言って笑った。

「じゃあ……オレまたしばらく寝るから。悪いけど、食事は外とかで、適当に済ませてくれ」
 そう言って、いそいそと布団に潜り込もうとするカイジに、少年はとっさに声をかけていた。
「あ、」
「……ん?」
 言葉にもならない短い声を聞き咎め、カイジは少年を見る。
 少年はなにかを言いあぐねるかのように、軽く口を開いたままカイジをじっと見つめていたが、やがて諦めたように、首を横に振った。
「いや……なんでもない」
「そうか? おやすみ……」
 首を傾げつつもカイジは目を閉じ、寝息というには荒すぎる呼吸に胸を乱し始める。

 相変わらず苦しげなその様子を見ながら、少年は昨夜からずっと感じていた歯痒さに、また心苛まれていた。

 なにをしてほしい?
 なにをすればいい?

 カイジに向かって素直に、そう訊くことができないのだ。

 天界にいた頃。
 少年は人間のことを、非力な、取るに足らない存在だとずっと思ってきた。
 人間に崇められ敬われてこそ存在できる神というものは、基本的に人間を慈悲深く愛するものだが、少年には端からそういう気持ちが欠如していた。
 それが原因で地上送りにされたようなものだが、少年はそれでも、人間に対するスタンスを変えなかった。

 だから、初めてできた好きな人に対しても、相手が人間であるのも手伝って、なかなか素直に想いを伝えることができずにいる。
 目の前で寝込んでいる想い人に、『なにをしてほしい?』『なにをすればいい?』と訊くことすら、染みついたプライドが邪魔をして、どうしても抵抗を感じ、言葉を止めてしまうのだ。

 くだらない。
 本当にくだらないと、少年は歯噛みする。
 それでも、己の中に長年根付いてしまったものは中々変えることができず、少年はカイジに話しかける機会を失い、昨日と同様、ただその寝顔を見守ることしかできないでいた。




 カーテンを閉め切った暑く薄暗い部屋で、時間の感覚があまりない。
 カイジはずっと眠っていて、昨日の晩からなにも口にしていない。
 少年は静かに立って、台所へと向かう。

 冷蔵庫の扉を開け、少年はしばし中身を眺める。
 ビールやつまみの缶詰。卵の残り。あとは、しなびかけている野菜がすこし。
 料理経験のない少年が見ても、なにか作れるような状態でないことは明白だった。

 諦めて扉を閉め、辺りをぐるりと見渡す。
 ……そういえば、カイジはとても暑そうにしていた。
 少年は今扉を閉じた冷蔵庫の、上にある扉を開く。
 
 霜だらけの冷凍庫が、少年に白い冷気を吐きかける。
 中を覗くと、棒アイスが一箱。冷凍食品のギョーザが一袋。あとは製氷皿の中に、氷が並んでいる。
 
 わずかに逡巡したあと、少年は箱の中の棒アイスを一本取り出し、居間へと引き返した。



 少年はカイジの傍に膝をつき、その顔を上から覗き込む。
 前髪を払い、袋のままの棒アイスをぺたりと額に押し当ててみると、カイジは眉を寄せ、うっすらと目を開いた。
「……お前、なにして……」
 怪訝そうに問われ、しげるはなんとなくバツが悪いような気持ちになりながら、ぼそぼそと答える。
「暑そう、だったから」
 カイジは目を丸くしてまじまじと少年の顔を見たあと、ぷっと吹き出した。
 咳き込み、苦しそうにしながらも、肩を震わせてくっくっと笑うカイジを見て、少年は苦い顔になる。

 いくら少年でも、棒アイスが食べ物であることくらいは知っている。
 それをこんな風に使って、咄嗟に考えたこととはいえズレたことをしてしまったと、少年は忌々しく思い舌打ちする。

 すぐに手を引っ込めようとしたが、布団の下から伸びてきた熱く大きな手に手首を掴まれ、阻まれた。
「悪かったよ、笑っちまって。氷枕とか冷えピタとか、ねぇもんな、この家」
 苦笑しつつ宥められ、少年はますます仏頂面になったが、獣耳が拾った耳慣れないワードに、太いしっぽをふさりと揺らした。
「その、氷枕とか、冷えピタ……とかいうの、欲しいの?」
 大きな耳をぴくぴくと動かしながら訊くと、カイジはまた目を丸くして、今度は穏やかに首を横に振った。
「いや……それより、水を一杯……、くれねえか?」
 それは、カイジが倒れてから初めて少年が聞く、願望の言葉だった。
 少年は耳をぴんと立てると、すぐに立ち上がって台所へ向かう。

 冷蔵庫の中に、飲み物はビールしかなかった。麦茶も昨晩飲み干してしまって、少年は作る方法など、当然、知らない。
 やむを得ず、水道の蛇口を捻り、ぬるい水をコップいっぱいに注ぐ。
 
 それを持って居間に戻ると、カイジはゆっくりと体を起こし、少年からコップを受け取った。
 そして、ぬるくて臭い水道水を、顔をしかめつつ一気に飲み干す。
「もっと、いる?」
 一瞬で空になったコップを受け取りながら少年が問いかけると、カイジは首を横に振り、またベッドの中に潜り込んでしまった。

 水で喉を潤したカイジは、すこし落ち着いて見えた。一時的にだが、咳も止んだようだ。

 カイジの言うとおり、このまま安静にしていれば、何事もなく快方に向かうのかもしれない。
 少年は軽く安堵の息をつき、コップをヘッドボードの上に置く。
 それから床に座り込み、昨日と同じように、カイジの頭を撫で始めた。

 しんとした薄暗い部屋の中で、時間はゆっくりと過ぎていく。
 少年の傍らで、存在を忘れられた棒アイスが、袋の中で溶けてゆっくりと液状になっていった。











 しばらくの間、カイジはしばしば咳き込みながらも、穏やかな寝息をたてていた。
 しかし、日が落ち、夜が更けるにつれ、徐々に雲行きが怪しくなってくる。

 昨夜と同じーーいや、もっとひどい咳が、切れ間なく続いている。
 激しく上下する胸。呼吸のたび、痰の絡んだ喉奥から、獣の唸り声のような音が鳴っている。
 少年はカイジの頭を撫でるのをやめ、立ち上がってヘッドボードのコップを手に取ると、台所へ向かう。

 水を汲んできて渡すこと。
 それが唯一、カイジが少年に対して望んだことだった。
 なにが正しくてどうすればいいのかわからない少年は、その唯一の行動を、繰り返すより他ないのだ。

 水を汲んで戻ってきて、少年はカイジに声をかける。
「水、汲んできたよ。飲む?」
 しかし、いくら呼びかけても返事はない。

 やがて、ごうごうと、嵐のような呼吸音がカイジの胸から響いてくる。
 そんな音が人間の体から鳴るのを初めて聞いた少年は、硬直してちょっと耳を下げたが、すぐにまた、カイジに向かって呼びかける。
「ねぇってば……起きなよ。水をーー」
 肩を掴んで揺さぶると、苦しげな呻き声とともにカイジが寝返りをうち、髪に隠れていた顔が露わになる。

 その顔は、日中と打って変わって、漂白したように白く。
 瞼は力なく閉じられ、血の気の失せた唇はカサカサに乾き、細かく震えていた。

 ぶわりとしっぽの毛を膨らませ、少年は一歩、後ずさる。
 見開いた目でカイジの顔を見つめる少年の耳に飛び込んでくる、絶え間なく続く激しい咳の音。
 それに重なるようにして、地上送りにされる前に天界で言われた言葉が、脳内にこだまする。

『お前は人間のことを知らなすぎる』と。

 少年は耳を下げきったまま、険しい顔で唇を強く噛み締める。
 それから、鋭く睨むようにして、玄関の方へと目を向けた。




[*前へ][次へ#]

28/38ページ

[戻る]