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< 悪魔の花嫁 >
――――恋をしていた。
それはそれは優しい恋だった。
それはそれは愛しい日々だった。
日比野晶ははっとあの日の恐怖に目を覚まして自分が診療室の机で眠っていたことに気がついた。
長く結った髪を払うと精悍な男らしい顔が露わになる。
―――――どうやら今夜闇医者にかかる急患はいないようだ。
ある程度の距離まで血の匂いをかぎ取って晶はほっと胸を撫で降ろした。
あの夢を見るのは一体いつぶりのことだろうか。
びっしょりと汗を掻いた白衣を脱いで椅子に掛けると、晶はそのまま自宅となっている二階へと足を向けた。
――――昔、まだ若かった頃、美しい青年に恋をした。
いつだって優しい彼のセレナーデは晶の心を震わせた。
優しい恋と愛しい日々の記憶はしかし、とある夜の恐怖に簡単に塗り替えられる。
――――あの夜。
深夜にぱっちりと目が覚めてしまったのは本当に偶然だった。
隣にいない愛しい青年に気づき階下へと降りて行った晶は扉から伸びる光にほっとしたのをよく覚えている。
しかし、その扉を開けた瞬間の動揺はかつてない。
―――羽の生えた人間など見たことはない。
―――牙の生えた人間など聞いたことはない。
恐怖に愛しい人の名前を呼んでしまった晶を振り返った悪魔は困ったように笑っていた。
獣の血を啜るその悪魔の顔は愛しい人そのままで――――。
『――――俺を騙したのかっ!!!どうしてっ!』
―――造形に恐怖していたのではない。
愛の裏切りに恐怖していたのだ。
そして、その日もっとも恐怖したのは近くに置いてあった果物ナイフを愛しい人に向けた自分の強行かもしれない。
噴き出した愛しい人の返り血を浴びて泣いた自分という存在は悪魔である彼よりももっとずっと恐ろしい生き物だった。
晶は二階への続く螺旋階段の途中で足を止めたまま壁に手をついた。
―――失ってしまった恋は二度と戻らない。
長い鼻を伝ってぽたりと零れた滴が床に綺麗な円を描く。
―――人間に刺された間抜けな悪魔は刺した人間に長寿を与えてどこかへ消えてしまった。
―――愛していたのに。
心からおまえを愛していたのに。
おまえにとって俺はただの糧でしかなかったのか。
真実を告げてはくれなかったおまえが憎い。
最後まで騙し通してくれなかったおまえが憎い。
―――いっそあの時、すばやく命を奪ってくれればよかったのだ。
そうすれば俺はこんな惨めな人生を歩まずに済んだかもしれない。
あれから300年の月日が経って、今、おまえがどこで何をしているのか俺は知らない。
――――ただ俺は、1人、今も忘れられない思い出と暮らし続けている。
End.
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