Wonderwall







抱いてみれば、ペトラの身体は取り立てて冷えてもいなかった。ここじゃそんな感覚すら意味を成さないのかも知れないが。
ともかく気休めでも何でも良い。こいつが正気に戻れば良い。
それだけを念じて、オルオは抱き締めた身体を探った。
胸にペトラの吐息がある、小刻みに吐き出され、続いて皮膚の擦れ合う音が響く。指先を温めているのだろうが、本当に冷たくなっているのかも怪しい指だ。これも錯乱の一種じゃないかと厭な考えが浮かびかけ、オルオはペトラを抱く腕に力を込めた。
説明してもらいたいのは山々だったが、正直理解できそうにない気もする。もっと言うと理解したくもない。二人して狂ったんじゃ目もあてられない。
薄くなっていくにしても溶けていくにしても、いずれは二人とも正気を失うのかも知れないが。少しでも先でありたい。少なくともこいつよりは後でありたいと、オルオはペトラの後ろ頭を撫で、髪に掌を押し当てた。そっと包むように。何もかも気のせいなら熱が伝わった気にさせれば良い。一人そう念じて、寝かしつけるような加減で髪を撫でていく。
もう片方の手ではペトラの背中をさすってやりながら、オルオは横目に濃霧の壁を見上げた。ただの霧だ。先には何も見えない。

俺達が本当に溶けていってるなら、この霧は"何"だ?
そんなこと、考えたくもない。

確証など相変わらずどこにもないが、何にしても得体の知れないものに触らなくて良かったと、その点にだけはオルオも密かに胸を撫で下ろした。
ペトラだろうが誰だろうが、万が一にも女の考えてることが分かるなんてホラーだ。

「やっぱりここも地獄かもな……」

このくらいは許容範囲だろうと勝手に決めて、オルオはペトラの髪をかきやり、ふとそこへ唇を寄せる。
ペトラは不気味なほど無抵抗で、むしろオルオは肩にかかる重みが増した気がする。
何か初めてペトラは悪いことをした気がして慌てて唇を離し、オルオは苛立ち紛れに呟いた。

ここもひとつの地獄なのかも知れない。

オルオにとってもペトラにとっても、「地獄」というのは形骸化した曖昧な言葉だ。生前の罪を償うために永劫の苦しみを繰り返す場所。辛うじてその程度の認識があるばかりだったが。

永劫の苦しみ。
まさにここがそうじゃないのか。

今一度霧の壁を見上げ、オルオは一人でいた頃にさんざん転がしていた考えを改めて持ち上げた。
ペトラがこんなに参っているところは、オルオは今までに見た覚えがない。正確に言うなら、ペトラだけがこんなに滅入ってるところはまず見たことはない。大体ペトラがビビっている時は、傍にいればオルオだって同じくらいビビっていた。
こうやって見知った女が失われていくのを見るのが俺の罰なら、随分趣味の良い地獄だと。唾を吐き捨てたい思いでオルオはひとりごちる。
ペトラにしたところで一人きりならここまで醜態を晒すこともなかっただろう。

「止めてよ……」

オルオの呟きにペトラは泣き言を漏らし、か細く応えた。吐息と変わらず震えた声だった。
首を傾け、オルオはペトラの顔を盗み見た。ペトラは俯いたきりで、しきり深く息を吐いて、まだ手が温まらないらしい。泣いていても驚きはしなかったが、見開いたきりの目に涙はなかった。ただ視線は忙しなく揺れている。涙を堪えているようにも見えた。

「私は落ちる理由ないわよ、地獄なんて…」
「俺だってねぇよ」
「嘘吐くと落ちるって聞いたことあるけど」
「馬鹿言え。俺ほど善良な男がいるか?」
「ハ、ぜんりょう……」

怯えながら悪態吐くなよとオルオは呆れる。
善良なんて言葉初めて聞きましたとでも言いたげに、嘲りを含んだ音を吐き捨てて。ペトラは笑ったつもりなのだろうが、オルオには魘されたうわ言のようにしか聞こえなかった。

「オルオのは、単に怖じ気づいただけでしょ……」
「お前な…もう蹴って良いから殴らせろよ……」

まだ拗ねてやがんのかこの高慢チキは。
怖じ気づいたのはてめえじゃねえか。

浮かぶままに胸の内で悪態を返し、オルオは突き放したいところをじっと堪える。本当に俺ほど善良な男はいないと思う。
そう思ったところで。

……ん?

浮かんだ言葉を反芻して。
ハタ、と気づいた。
どうしてあの時ペトラを抱けなかったのか。
気づいてみれば、最初から分かりきっていたことだ。
思い出してみれば明らかに覚えていたはずのことだ。
何故分からないと感じていたのかも最早分からない。これもまた失われていっているということなのか? 別に薄くなっていってるでも溶けていってるでも構わないが。
ともかく。
どうして抱けなかったのか。
どうしてこうしてもない。
単純に、ペトラが怖じ気づいたからだ。
思い返してみれば思い出せなかったのが不思議で仕方ないくらい、あの時のペトラはどうしようもなくビビっていた。ある瞬間は自分から噛みついておいて、次の瞬間には泣き出しそうに怯えていた。逃れこそしなかったが身体は触れるたびに強張って、震えを隠せずにいた。
オルオに対してだったのか、性交に対してだったのか、終わった後のその先に対してだったのかは分からないが。
何にしても、ペトラは今と変わらないくらい恐怖していた。

あんなもん、あれ以上何ができたって言うんだ。

何てことない答えを得て、ド忘れしていたことを思い出したような呆気なさにオルオは肩を落とした。

この女。自分がビビってやがっただけのくせに、人が優しくしてりゃ付け上がりやがって。

文句は浮かべてみたものの、今さら怒りもない。ただ、多少は胸にざわめくものがある。虐めてやりたい気持ちが鎌首をもたげてくる。

「……で、どうなんだ」
「えっ?」

オルオが不機嫌を隠さず低く唸ると、ペトラはオルオの肩から顔を上げた。
依然霧に負けず白く見える肌だが、血色は少しばかり戻ってきたように見える。

「『とっとと終わりにしたい』のか?」

喜んでやる気にもなれず、オルオはペトラの背中をさすっていた手を一度止めた。





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