Wonderwall







ペトラの目が一際大きく見開かれる。
やっぱこいつ目でけーな、と少し気後れしながら、オルオは髪を撫でていた手をペトラの肩へ移した。
背中に置いた掌を腰に滑らせると、身体がピクリと震えるのが伝わった。シャツ越しに骨をなぞり引き寄せる。ペトラは息を飲んでオルオを見つめたきり動かない。相変わらず怯みはしても逃れはしない。煮え切らないのはどっちだと呆れつつも、オルオは正直悪い気はしなかった。
何が珍しいって、ペトラのこういう顔を見ても悠長に構えていられることだと、オルオはまじまじとペトラの容貌に見入って思う。
状況が状況でないかぎりは、まずオルオも焦りと苛立ちを募らせたはずの面だ。大体ペトラがテンパってるときはオルオだってテンパっていた。のん気に表情を見つめる暇自体無かっただろう。ペトラだっていつまでもこんな顔で狼狽えてはいなかったはずだ。戦場じゃ腹を決めるのは早い奴だった。でなきゃここでこうしてもいない。
間近で見つめて、やっぱり良い女だと思う。
触れようと思えばすぐに唇が重なる距離で真正面から向き合ってみて、改めてオルオはそう思う。
苦悩。緊張。恐怖。
共に味わってきたぶん見逃していた表情もまた美しかったのだと気づいて、触れた部分から熱が上ってくるのを感じた。しきりに寒がるペトラの気が知れないが、吐息に震える唇は迫るものがある。多少正気を失うのも悪くないんじゃないかと、冗談にもならない不埒なことを思った。
見開かれた目の睫毛の縁に、髪の一筋が中途半端に引っ掛かっている。
指ですくってやりたいと思うが、おそらく今手を伸ばせばそれが合図になる。ペトラの返事を待ってもいられなくなりそうで、オルオは何も言わず、ただペトラの肩に添えた手に力を込めた。
やがて、気の遠くなるような沈黙を挟んで。

「…………分からない……」

消え入りそうな声を聞いた。
ペトラの瞳が今度こそ潤んで、色を変えた。
分からないというのは何も今に限った話じゃなく、もっと深い疲れを感じさせた。

「当てずっぽうでも何でも、先に進まなきゃって思ったの…」

瞳が涙に揺らいでいる。
目の縁は赤く腫れて溢れそうに滴を溜めていたが、落ちることはなかった。落ちたのは遠い昔だ。霧の中で出会って、泣き濡れたペトラにオルオは手を伸ばした。あとは矢も盾もたまらなかった。

「冷静じゃなかった…付き合わせてゴメン…」

もう少し見つめ合っていれば、また同じことの繰り返しになかったかも知れない。
だがそれよりもペトラがオルオの首に腕を伸ばし、抱き着くのが早かった。
ゆっくりと強く抱きすくめられ、胸が寄り添う。
頬に、耳に、ペトラの髪が触れ、オルオはそれはどっちの話だと困惑する。
冷静じゃなかったってのは、付き合わせたってのは、謝ってんのはどっちについてだ。ここ数日だか数年だかの暴走の話か。それともその前の自棄の話か。十中八九、どっちもなんだろうが。

「……良いさ」

わざわざ自分からフラれた可能性を選んでやる必要もない。
本当に全く脈がないならこの抱擁はないだろうと、ごく前向きに考えることにする。本当に全く脈がないからこその抱擁なのだという可能性は、糞の役にも立たないので根こそぎ頭から排除する。

「どうせ俺も暇だった」

あくまで連日歩き回ったことにだけ言及するつもりでオルオが応えると、ペトラは小さく鼻を啜って、息を溢した。笑ったつもりなのか知らないが、まるで泣き声と変わらない。抱きつかれた首に息苦しさを感じるが、今さら死にもしない。下らない冗談に笑えもせず、黙って両手を背中に回し、オルオはただ、もうしばらく温めてやろうと思った。
背骨をなぞり、肩の窪みを辿る。
髪に触れ、頭蓋の形を確かめるように撫でて、また繰り返す。
その何もかもを蔑ろにされた瞬間を、はっきりとオルオは覚えている。
この何もかも失われた瞬間だけは、何故か未だにほんの数秒前のこととして覚えている。

(………止せ)

不意に感傷が押し寄せて、オルオは目を見開いた。
まさか涙など溢すわけにはいかない。慌てて手を止めて、強く抱き留めて、ペトラの上着を掴んだ。骨に触れればどうしたって思い出す。込み上げる気配を押し込めて、唇を固く結び、堪えろと自分に言い聞かせる。

こいつ、死んじまったんだな。

そんな、笑えるほど当たり前のことが前触れもなく押し寄せて、オルオは瞬きが出来なかった。
どれもこれも失われた。失われたからこそこうして二人ここにいる。
とっくに分かっていたはずのことが今さら胸を苛んで、波となって襲ってきた。衝動が引くまでの間、ペトラが大人しくしていてくれるよう祈った。
どうにか涙は落とさずに済んだが、抑え込んだぶんだけ身体は熱を増す。温めるついでに、この熱がペトラに伝われば良いと思った。
俺はともかく、こいつはもう少し泣いておいたって良い。美しい女だった。今でも美しい。だが失われたんだ。永久に。




「……もう大丈夫」


ペトラが囁いたのは、しばらくしてからだった。
しばらくはしばらくだ。もう測る気にもなれない。
途中何度か眠った気さえする。永遠とも一瞬ともつかない間を置いて、ペトラは腕を解くとオルオの肩へ手を下ろし、ゆっくりと押しやった。
オルオに止める気はない。ごく自然に離れ、それぞれの身体に戻る。
俯いて深く深く息を吐き、呼吸を整えて。髪をかきやって顔を上げると、概ねいつものペトラ・ラルがいた。
涙の跡はない。これといった感情の昂りもない。顔色もだいぶ戻って、どうかするとここへ来てから一番さっぱりした顔つきに見えた。

「でも歩くのは歩いてて良い? 落ち着かなくて」

まず何を言い出すのかと思ったらいかにも言いそうなことを言うものだから、オルオは小さく皮肉げな笑みを溢した。

「お前、もうちょっと感謝とかしろよ…」

呆れた声を隠す気にもなれず溜め息混じりに言って、オルオは、さて、と辺りを見渡す。
壁伝いに歩くってのは論外だ。となるとまた本当に何のあてもなく彷徨う羽目になるが。

つったって、この壁も元から怪しいもんだった。で事実怪しかったわけだ。あーあ。どうしたもんかな。

とりあえずは、と。
目でおおよそ壁の位置を確かめると、オルオは壁に対して踵を向けてみた。直交する線上を向き、少しでも霧の薄そうな方向へ足を伸ばしてみる。こうして壁から遠ざかってみたところで、そのうち筒状の壁の反対側にぶつかるだけじゃないのかという気もするが。そのときはそのときだ。
歩き出すと、ペトラが隣に並んだ。
足取りはストレスにならない程度に緩めている。特に不満はないらしく、ペトラはオルオを追い越すでも後に従うでもなく、歩幅を合わせた。
横目にペトラの顔を窺う。ごく落ち着いた表情で、何を考えているのか少し顎を下げて、それでも前を向いている。

連れ立って歩くってのは、本来こういうもんだったな。

ようやくまともな形を得て、これが少しでも長く続いてくれるよう祈る。

「オルオは私が思ってること分かる?」
「はっ?!」

祈るそばからペトラに爆弾を投げつけられ、オルオは素っ頓狂な声を上げた。
隣を見ればペトラが首を傾げてじっとオルオを見上げている。やけに無邪気なぽかんとした間抜け面で心臓に悪い。台詞の意味も意図も分からず、オルオは呆気に取られるしかなかった。

「あ。やっぱ良い。忘れて。絶対分かってない。絶対分かってないでしょ」
「るせぇな……分からないフリしてやる優しさってもんを理解しろよ」
「良いって。何も言わないくて良いから」
「気持ちは分かるが頼むから俺を誘惑しようと思うなよ。決心が鈍る」
「 そ ん な こ と は 思 っ て な い 」

じゃあやっぱりアレだったのかな、と、ペトラはオルオとは違う色合いで表情を険しくして、背後を振り返ると遠く目を細める。
既に霧に溶けて見えない壁を睨んでいるのだろうが、そんなことよりも。オルオは自分の耳とペトラの神経を疑って、唖然、呆然としていた。

そんなことは思ってない。
『そんなことは思ってない』?
今までさんざん人が抱いてやらなかったことグチグチグチグチ当てこすってやがったくせに?
大丈夫か。こいつ。
俺より後から来たくせに何でそんなハイペースで壊れてんだ。打ち所の良し悪しか?

思うままに思い巡らせたところでまたペトラの死に様が脳裏に甦って、オルオは吐き気を堪えた。口に苦い唾が滲む。慎重に飲み下し、浅く息を吐く。

「ペトラ」

ヤケクソ気味に怒りを露わにして呼びつけると、しつこく壁が気になるらしいペトラはハッとした顔でオルオに向き直った。足を早めたいのを堪え、努めてゆっくりと先を行く。ペトラは案外大人しくすぐに追いついてきた。チラと視線を落とすと目が合う。まだ喉の奥に厭な苦味がへばりついて、オルオはきつく眉根を寄せた。

「本当にお前が必要なら、くだばる前に出来ることだってあったんだ」

ペトラが表情を変える前に、視線を逸らした。
歩調が揃ったのを確かめて、苦さが胸まで下りるのを感じながら、オルオは前を向いた。

「だから、もう、いいだろ」

とりあえずは、という一語は胸にしまっておく。
口説き直すにしても、もう少しペトラが正気づいてからが良い。正気づくことなんてあるのか。これから先は失うばかりじゃないのか。そんな厭な想像もしぶとく膨らむが。

「…………うん、だから。 思 っ て な い か ら 。誘惑とか。考えてないから」
「ハ、お互い素直じゃねえよな……」
「あのさ、ほんとに蹴るよ。どこをとは言わないけど。ほんとに蹴るからね。オルオ、私の蹴り見たことあるよね」

口説き直すって言ってもな。

何やらまたグチグチと言い出したペトラには言わせておくとして、オルオは無駄だと分かっていても、つい霧の奥に目をこらした。
時間が有り余ってるってのは確かに贅沢だが、他に何もないんじゃ取っ掛かりが掴めない。気の利いた物も場所も何も用意できないで、一度ヤり損ねた女をどうやって口説けば良いのか。結構厳しいんじゃないか。これ。

「こう、だだっ広いだけじゃあな…」
「ね」

独り言のつもりがペトラに短く返事をよこされて、オルオは肝を冷やした。
おそるおそる隣を見やる。ペトラは何を感づいた様子もなく顎を上げて、オルオに同じく霧の先を見据えていた。

「どうしよっか。思い出話でもする?」

それが急にフイッと、ここへ来て初めて皮肉のない笑顔を向けてきて、オルオは思わず立ち止まった。
殆ど会話もなく今まで歩き回ってきて、てっきりペトラからすれば今さら何をする必要もないのだろうと思っていたが。一応の順路だった取っ掛かりを失って、ペトラはペトラで手持ち無沙汰なのだろう。
それよりも、ペトラの笑顔よりも、オルオは『思い出話』という言葉に驚いていた。ペトラ自身も言ったそばから目を丸くして、自分で自分の言葉に驚いたらしい。目が合って、別に笑い合うわけでもないが。

「……良いんじゃねえか」

ただ、同じ感慨を抱いている確信はあった。このくらいなら何もなくたって互いの考えは分かる。
付き合いの長い二人に、長さの割にずっと足りなかったもののひとつだ。
二人が思い出を語り合えば、それは死んだ仲間の名を並べるのと同じことだった。感傷に浸ればキリはなかった。ずっと避けてきたことだ。

「ひょっとしてこの先なんてもんがあるなら、また会える顔もあるかも知れない」

生前は死後の存在の話なんて一度もしなかった。それは二人に限らず、仲間は皆。あるかも分からない加護よりも選んだものがあった。選んだから戦って来た。
失って、ようやく語ることができる。

「ああ……そっか」

オルオの言葉にペトラは少し俯いて、苦い笑みを浮かべた。

「それ、ちょっと気まずいかな……」
「何が」
「色々約束したのに、守れなかったから」

そりゃお互いさまだろ。
何が、と訊く頃にはペトラの答えは見当がついていた。予想どおりの答えに、オルオは律儀な奴だな、とペトラを見下ろす。約束を抱えて死んだ者、死に行く者の手を取って新たな約束を交わす者。それを果たせずまたひとつ約束を抱えて逝く者。その際限ない繰り返しの中に二人はいた。いちいち貸し借りを気にしてはいられない。
それでもオルオにも、顔を合わせ難い仲間の一人、二人はいる。
ペトラに言えばどうせまた「一人、二人……?」とか何とか物言いたげに嫌味を言われるだけなので、慰めの言葉は飲み込んだ。
その代わりオルオは手を伸ばし、ペトラの背中にそっと掌を添える。少しでも熱が伝わるように。

「今は俺がいるって言って断れよ」
「 そ ん な 約 束 は し て な い 」
「ああ、そうだな。分かってる。お前は一途な女だよな」
「ね、あのさ。本当に、本当に蹴って良い? 蹴るっていうか蹴り潰して良い?」
「馬鹿、お前はそこまでしなくて良い。話がつかない時は俺がケリつけてやるよ」
「人の話聞いてよ……」

泣きそうに情けない声を上げて大げさに頭を抱えて、ペトラが今にも蹲りそうにこうべを垂れる。背骨が浮き上がる感触に、オルオはこのまま肩を抱いてやる自分を思う。
思うだけだ。今のところはまだペトラは自力で歩ける。
現にペトラは「背中邪魔なんだけど」などと唾を吐き捨てるような口調で言い放って、オルオは即座に掌を退ける羽目になった。


「……ね。オルオ、あいつ覚えてる?」


ポツリポツリと昔話が始まったのは、またそれからしばらくしてからだ。
今のところ壁にはぶつかっていない。白い霧の海を何のあてもなく彷徨う日々だ。
けれど足取りに迷いはない。見知った森の小路を行くように二人肩を並べ、言葉少なに語り合う。
死んだ仲間。死体の見つからなかった仲間。辛うじて死なずに帰って、後日死んだ仲間。
口をついて出るのは暗い話題ばかりのはずだが、ペトラの口調に翳りはない。それを不可思議に思うオルオ自身、心は穏やかだった。
まだエルド達の話は出来ないでいる。生きて残した仲間達の話も。多分その辺りに境があるのだろう。
時折ふと、オルオはペトラの顔を盗み見る。
見入っていると大抵目が合う。ごく稀に沈黙が訪れる。
その間にも緩やかに歩みは続く。やがてどちらからともなく言葉を続け、元の足取りに戻る。
今のところはそれが全てだ。
再び前を向き、オルオは今捉えたペトラの顔を浮かべる。懐かしげな笑みと囁き。初めて見る表情だ。綺麗だと思う。

新しく出会えるものがある限り、まだこいつは失われてはいない。

それをどう修飾して愛の言葉として伝えれば良いか、思い悩んで日々が過ぎる。

穏やかな余生?

ふと浮かんだ言葉があまりに悠長で、オルオは顔をしかめた。ペトラに「何?」と悠長に尋ねられ、答えようが無くて口ごもる。

天国も地獄も、結局同じ場所にあるのか?




end.





memo




あきゅろす。
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