Wonderwall







「おい、ペトラ……」
「待って、待って……」

片手の掌ではべったりと口を覆い、もう片方の手は内臓が痛むのか脇腹を押さえて。
今にも倒れ込みそうでいるペトラを前に、正直オルオはここへ来て初めて恐怖を覚えた。
ペトラの目は丸く開かれたまま、視線を足元に落としている。そこから涙が落ちる予感がしてオルオは身構えたが、それよりもペトラが顔を上げるのが先だった。
吐き気はどうにか治まったらしいが、その代わりに寒そうに自分の肩を抱く。両の手で自分の腕をしきりに擦るペトラは、ここへ来たときも確かそうしていたはずだ。ペトラを問い詰めたい反面、その動作にオルオはつい目を逸らしたくなる。ペトラの体温が今まさに失われていく光景を見せつけられるようで、どうにも不愉快だった。
霧のせいで吐く息の色も分からないが、ペトラは顔色を失ったままで、呼吸もまだ震えていた。その目は今はオルオを捉えてはいない。どこか空中を恐怖と共に睨み据えているのに気づいて、オルオはペトラの視線を追った。

「なあ……」
「待って。お願い……」

視線の先は当然ながら、相変わらず霧が広がっているばかりだ。
強いて挙げるなら、すぐそこに霧の壁がそびえているはずだ。触って確かめないことには表面も分からないぼんやりとした膜だが。
まさかそんなものをペトラが怖がっているとは思い至らず、オルオは霧とペトラの蒼白な顔とを何度か見比べて、首を傾げるしかなかった。

「……ねえ」

随分と長い沈黙を挟んでペトラがようやく口を開いても、傾げたきりの首は戻らなかった。むしろ疑問符は増えるばかりだった。

「オルオ、前に、"薄くなっていってる"って言ったよね……?」
「え?」
「オルオが。ここに来たときと比べれば、薄くなった気がするって……」
「ああ、ああ。言ったな。それが何だ」

ペトラは肩を擦るのを止めて、今度は両の手同士を擦り合わせていた。指先を温めるように。両の手というよりも、どうやらずっと壁に触れていた手が冷えたらしかった。そうして相変わらず青ざめた顔で壁を睨み続けている。
要領を得ないペトラの問いにひとまず頷いたものの、やっぱりわけが分からない。

薄くなった気がするというのは正直な感想だった。

ペトラに再会する前、広大なこの無を一人で彷徨う間に、オルオは何度か自分が失われた気がした。
何かが目に見えて無くなったわけじゃない。特に記憶が欠けた自覚もない。ただ表面の殻だけを残して中身が徐々に虚ろになっていくような、他に表しようのない感覚があった。失われたものが何であれ、二度と自分の中には戻らない気がした。ペトラが来る前は、オルオは自分はそうやって死んでいくのかと思っていた。ひとつひとつ気づかぬうちに失っていって、やがて底をつき、消える。魂の終わり方としてはまあ想像のつくものだった。空しいことに変わりはないが、オルオは受け入れつもりではいた。

俺達はしくじった。
文字通り致命的に。
二度と巻き返しようもない。
ならば何からの罰はあって然るべきだ。
俺達はあいつを守れなかった。あいつは今も一人でいるかも知れないのだから。

ここでペトラに会うまでは、オルオは半ばそれで納得していた。薄ぼんやりとした諦観の中にあった。

ペトラも同じ感覚に襲われているのだろうか?

脈絡もなく妙なことを訊いてきたペトラに、オルオは唯一考えられる想像を巡らせる。
が、どうも釈然としない。だとしてもペトラのこの怯えようとは結びつかない。オルオが駆られたのはもっと空虚な感覚だった。

第一、さっきのアレは何だったんだ?

『とっとと終わりにしたいのか』

俺は、口には出さなかったはずだ。


「ペトラ、お前……」
「ねえ、私達、本当は……」

倒れたらいつでも抱き留められるように、オルオは慎重にペトラに歩み寄った。ペトラは相変わらず壁を睨んで、今は遠く壁の上を仰いでいる。霧に紛れてどこまで壁が続いているのかも分からない。虚空を見上げ、しつこく手を擦り続ける。壁に触れていた部分の皮膚をこそげ落とそうとでもしているようだった。
さっきからペトラが取り乱している理由は何にしても、やはりペトラからも何かしら失われているのかも知れない。
考えたくなかった事だ。敢えて考えていなかった事だ。
そろそろ逃げられもしないらしいと、オルオは苦々しく顔を歪めた。

「私達、本当は、溶けていってるんじゃない……?」
「は?」
「段々境目が無くなって……」

そこにあるべき敵を見出だしているのか、ペトラはオルオに見向きもせずに宙に見入っていた。
ますます話が見えなくなって、オルオは距離が詰まったところで腕を伸ばした。すぐにでもペトラの肩に触れられる。

「なあ、お前マジで落ち着け。順を追って話せよ」
「だってよく考えたらずっとおかしかったの……足音なんてしないのに、私、ずっと振り返らなくても、オルオがいるって分かってた……」

この一言には、考える時間さえ貰えればオルオもゾッとできたかも知れない。
ここしばらくの暴走の間、ペトラは下手をすると三日は前だけを見ていることもあった。
一人で歩いていて不安にならないのだろうかと、その点はオルオもどこかで疑問に思った覚えがある。
だが今のペトラは考える隙は与えてくれなかった。オルオに考えさせるつもりもない様子だった。何か一人で確信づいて、声には徐々に憤りが込められていった。

「これが死なの? こうやって死んでいくの? こういう風に死んでいくもんなの? 自分も周りも区別が無くなって……」
「ペトラ…」
「どうしてすぐに消えてくれないの?! 身体はあんなに脆いくせに! こんな、こんなの! あいつらの胃袋の中にいるようなもんじゃないッ!」
「ペトラ! 落ち着けッ!!」


勘弁してくれ。


ペトラの錯乱振りよりも、オルオが悪態を吐いたのはその身体だった。両の手でそれぞれの肩を掴み、思い切り引き寄せようとしたのに、ペトラは頑固に動かなかった。力任せに肩を揺さぶり、オルオは何とかペトラを自分に向き直らせた。頭を抱え込むように抱き締めると、ペトラは案外大人しくオルオの腕に収まった。
まだ身体が震えている。
頼むから俺に分かるように説明してくれと言いたいところだが、今はペトラを落ち着かせるのが先だ。
ペトラがそうしていたように掌で肩を擦り、背中を擦り、オルオは少しでも熱を与えようと試みる。
はじめにここで会ったときを思い出した。
あの場でもペトラは酷く寒がって、そのくせオルオが抱き寄せるとすぐに平気な顔に戻って腕を逃げ出した。
今は逃げるどころかますます冷えてきたらしく、ペトラはオルオの肩に額を押し当てて大人しくしている。

はじめからこうしていれば良かった。

この女の好きにさせるんじゃなかったと、オルオは遅すぎる後悔に駆られた。





memo




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