Wonderwall








「ここがどこにしてもさ……」


ペトラが再び口を開いたのは、しばらくしてからだった。しばらくはしばらくだ。考えに耽る間にも時間は歪み、音もなく流れていく。測りようもない。
ただ呟いたペトラの声からはすっかり毒気が失せていた。それだけでオルオには、過ぎた日々の長さが知れた。

「どうしてここにいるのかにしても……」

どうして、と告げた時だけペトラは振り向いて、オルオの目を捉えた。そうしてすぐに視線を逸らし、壁に沿って霧を見上げる。ここには空も地面もない。

もしかしなくとも俺達は、ただグルグルと同じところを廻ってるだけじゃないのか?
霧の壁に筒状に囲われて。

そろそろオルオにはそんな気もし始めている。
おそらくペトラにとっては立ち止まらないことこそが重要なのだろうから、水を差しはしなかったが。

「オルオの気が済んだら私達、先へ行けるかも知れないでしょ」

気が済んだらと来やがった。この女。

軽い口調とは裏腹に、あるいは口調の軽さに見合う露骨さで。
ペトラが身も蓋もないことをえらくあっさり言ってのけ、オルオはさすがに顔をしかめた。もう一度振り向いたペトラはやはり毒気のない何ということのない顔で、声にはむしろ、ごく前向きな提案をしているような明るさが戻ってきていた。それがオルオには堪らなく胸糞が悪い。

どこに。どうして。

一応疑問の形は保っているが、ペトラは二人が二人してこんな霧の中にいる理由はオルオにあると、完全に決めてかかっていた。
オルオが反論しないでいるのは正直な話オルオ自身もそう確信しているからだったが、かと言って実際のところは何の根拠もないのだ。
第一。仮に、もしそうだとしても。

「先なんてあると思うか? 消えて終いじゃねぇのか」

これも身も蓋もない話だと分かっていて、オルオは今度は敢えて水を差した。
ペトラの足が止まった。
構わず数歩進んで、オルオは久々にペトラと距離を詰めた。

本来ならとっくの昔に消えていた身だ。俺達はこうしている方が理不尽なんだ。

それはペトラよりも自分の方が身に沁みて理解していると、オルオは思っている。

先にここへ来たのは俺だ。

霧の中で一人、気の遠くなるような歳月を無為に過ごした。
ずっと理由を考えていた。
理由の現出を待っていた。
そうしてある時ふと気がつくと、目の前にこの女がいた。
霧の海の中で何年ぶりかに向かい合えるものと出会って、それですっかりオルオは何の確証もないのに、理由は自分にあったのだと確信してしまった。

これが理由なら、すべきことは明らかだ。

だからって、何を終えたところで、どこへ行ける保証もない。
何しろ俺達は、とっくの昔に消えていた身だ。

オルオの言葉に立ち止まって、ペトラはしばらく表情がなかった。
傷つけてしまったのかも知れないと思う。
ペトラの歩みは今や完全に惰性によるものに見えていたが、どこかでまだ道が開ける可能性を信じていたのかも知れない。
すまないとも思うが、そろそろオルオも付き合いきれなくなってきていた。疲労とは違う何か根元的なものが、時折オルオの足を引きずり、少しずつ重くしていた。

こいつだってここまで聞き分けのない女じゃなかったはずだ。

頼むぜ、と無言のままのペトラの視線に視線を返し、オルオはペトラの言葉を待つ。
色を失った顔で、しばしオルオを見つめて。
それからペトラは何か、妙な顔をした。
ぽかんとした、呆気に取られたような、間の抜けた。毒気のないというのを通り越して、あどけなくすら見える顔だった。オルオも少しばかり驚いてしまって、意味を探るよりその顔に見入ってしまった。そんな場合でもないのに何故か、出会った頃のペトラを思い出した。まだ少女と呼べた頃に時折見せた、今のような無防備な表情を。

「……だから最後までしなかったの?」
「……お前な。何なんだ。その恥じらいの無さは、さっきっから。自棄になるな!」
「うるさいなー……」

思い出して、思い出したことを即座に後悔して、オルオは歯を食い縛る羽目になった。
あっけらかんとした物言いで平気でとんでもないこと口走るペトラに、危うく拳を振り上げそうになる。
何とか怒鳴りつけるだけで堪えてやったオルオに対し、ペトラは気怠げな気のない返事を返して、子供じみた拗ねた顔で唇を曲げみせた。そういう顔をされるとどうしたってオルオには否応なしに、こういう顔がサマになっていた年頃のペトラが思い出される。掴みかかりたいのをグッと耐えて拳を固く握り、オルオは衝動を抑え込む。胸糞が悪いなんてもんじゃなかった。

この女を一発二発ヤッたところで、本当に俺は消えてしまえるほど気が済むもんなのか?

どうかすると自分の根本のところから疑わしく思えてくる。

「私達死んだのよ? 自棄にもなるわよ」

確かにやけっぱちな声音でそう言って、ペトラは一度呼吸を整えるように息を吐くと、再びとぼとぼと歩き始めた。視線が少し下がったのか髪が垂れて見える。

それをぶつけられる方の身にもなってくれ、と拳を固めたまま、元の距離が開くのを待ってオルオも踏み出す。

抱けなかったのはこいつが自棄を起こしていたからか?
自暴自棄で応えられたのが許せなかったのか? 俺は。

という自問は何も、今になって浮かんだものじゃない。ペトラが癇癪を起こして暴走を始めた頃にはとうにオルオの頭に持ち上がっていて、違うな、と切り捨てられた問いだった。
プライドが何だとか沽券がどうしたとか、そんな考えはあの場では微塵も浮かばなかったはずだ。
じゃあ今ペトラの言ったとおりなのかと言うと、それも違う気がする。

気が済めば、先なんてものは当然に存在せず、俺達は消える。俺はそれを先延ばしにしたかった?

どうもピンと来ない。
それじゃ怖じ気づいたも同然だ。しつこく己の名誉に誓って、オルオには恐怖はなかった。第一そこまで頭は回っていなかった。
やっぱり分からない。
皺を寄せたきりだった眉間に痺れを感じ、ますます表情を険しくして、オルオは唇を引き結ぶ。

どうして俺は、こいつを。


「……だって」


唐突に。
物思いを遮るペトラの一言に、オルオは立ち止まりかけた。

「ずっとこうしてるわけにもいかないじゃない」

振り返らずにペトラは呟いた。
首を垂れて俯いて、ペトラは自分の足元を見ているらしかった。
さっきまではもう少し前を向いていた気がする。ほんの一瞬前にはもう半歩ほど近くにいた気がする。
いつの間にか眠っていたような。その間に数日は経過してしまったような断絶を。違和感をオルオは覚えた。

「それだって別に悪くはねえだろ」
「冗談言わないで」
「俺は冗談言ったことなんて一度もない」
「人の話聞いて」

ペトラの軽口に条件反射で軽口を返しながら、オルオは歩むごとに揺れるペトラの髪を見つめ、眉をひそめていた。
胸糞の悪さとは別で、何か鳩尾の奥につかえたものを感じた。
違和感?

ずっとこうしてるわけにはいかない。

この先に何も無かったとしてもか?





memo




第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!