Wonderwall








何か言葉に出来るきっかけがあったわけではない。
今にして思えばそれが不味かったようにも、オルオには思える。
あんなもの、始まってしまえば本来止められるもんじゃない。

お互い良く言えば情熱的。ありのままに言うなら捨て鉢だった。

どっちにしたって悪いことじゃない。全く悪いことじゃないが、今"こう"なっている理由は多分その辺にある。

ある瞬間まではオルオはただ夢中だった。
何の迷いも躊躇いもなかった。
口づけた瞬間に腹は決まっていた。
唇と舌を伝ってペトラのくぐもった呻きを聞いても、それは揺るがなかった。
ジャケットを強く掴んだペトラの手は、オルオの身体を力任せに引き寄せることはあっても、押し返すことはなかった。それは触れ合ったどの部分についてもそうだった。噛みつくのと変わらない深さで押し当てた唇にしても、捩じ込んで絡めた舌にしても、シャツ越しにまさぐった皮膚にしても、骨にしても。怯んだように跳ねることはあっても、ペトラは逃れはしなかった。あの場ではオルオにはそれが全てだ。

どうして途中で止められたのか、正直オルオ自身不可解な思いでいる。

誓って怖じ気づいたわけではない。誰に誓うあてもないが、ならば己の名誉に誓って。
どの瞬間においても、オルオに怯んだ覚えはない。
しがみついていたペトラの手が一度離れたときも、別段戸惑いはなかった。それよりもオルオは背骨を反らしたペトラを抱き留めて、その上体を支えてやることに専念していた。
固く抱きすくめた腕の中でペトラが不自由そうに身をよじって、僅かに唇が離れた。薄く目を開いたペトラとまともに視線がぶつかって、オルオの頬骨から膝までを痺れが貫いた。
ペトラがジャケットを脱ごうとしているのだと気づいてオルオが加減を緩めると、ペトラは遠慮なくオルオの腕に身を預けたまま、ハッ、と短く息を継いだ。
漏らされた熱がオルオの唇に触れ、舌の先に触れた。目眩を覚えた記憶はあっても、オルオに己を止めさせるような不穏な気配は未熟もなかった。
情動に従って再び抱き寄せれば当然に唇が重なった。何もかも追憶に霞んで幻覚に思えていきそうな中で、絡めた舌と温かさと柔らかさは、さすがに未だ感触を残している。
ジャケットを脱ぐのに苦戦して袖から腕を引き抜こうと肩を捻りながら、ペトラはまだ目を開いたままで、オルオの首筋に視線を注いでいた。静かに細められた双眸は、オルオには全く見覚えのない色をたたえていた。
ようやく上着を脱ぎ捨てるとペトラは固く目を閉じて、すぐに腕を持ち上げると、今見つめていたオルオの首の根を掴んだ。力強く引き寄せられ、いっそう深く食み合う。きつく吸いつかれ、痺れがまたチリチリと骨を走る。ペトラの睫が間近で震えるのを見つめて。
オルオは、心臓は違う波を感じた。
鼓動なんてものがあるのか、今の二人には疑わしい。ただ心臓とは違ったとしても、確かな鼓動がドクリと波打ち、オルオの全身を巡っていった。元々あったかも分からない歯止めはすっかり効かなくなった。何か、完全に箍が外れた気がした。

「んっ……」

シャツ越しに脇腹を探った掌は幾分手荒だっただろうが、ペトラは時折眉根を寄せるだけだった。
それでもオルオの指が乳房を掴み、押し潰すように絞り上げると、絡めたままの舌の根で、ペトラは僅かに苦しげな呻きを漏らした。呻きはしたが、それだけだ。触れ合ったどの部分も離れることはなかった。
ペトラの喉の奥が蠢いて、オルオは自分が飲み込まれるような気がした。掌の内にある柔らかさよりも、不思議とその下の骨の固さに意識が向いた。
仕返しのようにオルオの首を掴んだペトラの指に力が込められ、髪の付け根に爪が食い込んだ。その鋭く皮膚を差した小さな痛みを、オルオはどうかすると、一番はっきりと実感を伴って覚えている。まだ爪痕が自分の身に残っている気がする。
残っている気がしてノロノロと腕を持ち上げ、掌で項をさすり、オルオは首を傾げた。

ひとつひとつ。ぼんやりと。あるいは鮮明に思い返してみても。

始まるきっかけがなかったように、やはり終わりにもそれらしいものは見当たらない。ぶつかったのと同じだけの唐突さでそれは訪れた。
白けたわけじゃない。
これはペトラ・ラルの名誉に誓って、オルオは一人思う。
決して冷めたわけじゃない。ペトラは良い女だ。抱き合って熱が注がれることはあっても、引くことはあり得なかった。

ただ、ふと目の前の顔を見つめて。
見知った女の見慣れない顔を改めて見つめて、当然にすべきことをした結果、身体が離れた。
唇が離れ、腕が離れ、指先が離れ。それぞれの身体に戻ると、オルオは自分でも驚くほど素面でいた。


で、この有り様だ。
この有り様のまま今に至る。


延々と霧を彷徨う日々。
ペトラは一向に怒りが収まらないらしく暴走を続けて、かと言って不意打ちで全力疾走してオルオを撒くような迷惑な真似なんかはせずに、ダラダラと歩き続けて。要はオルオの見るかぎり単純に、完全に拗ねきっている。
はじめは文字通り闇雲だった進行は壁に阻まれてからは壁伝いになっただけで、相変わらず休みもしない。生身の人間なら疲れで苛立ちも削れただろうが、今のオルオ達は疲労を感じない。
それが余計に腹立たしいのだろうと思って、オルオは渋々その後に続いている。
途中何度か説得を試みたが、機嫌を回復させるには至らなかった。

若干、ほんの少しだけ、火に油を注いだ感もある。

「勝手な意地だ。女には分からねぇよ」
「あのさ。今時そういうこと言うのオルオくらいだからね」

まだ霧の壁にぶつかる前。
しつこく理由を訊ねるペトラに、さすがに「俺にもよく分からん」とは言えず、オルオは殆ど八つ当たりでそう吐き捨てた。
案の定ペトラは心底呆れた顔をして、また頑固な歩みを始めた。

「大体意地通すなら中途半端だと思わない? もう半分手ー出しちゃったじゃない。あんなの合意じゃなかったって認めたら即懲罰だよ?」
「抵抗してから言え。そんなことは」

ついでに半分て言い方も止めろ、恥じらいもクソもない。

オルオが後半を続けるよりもペトラが足を速めるのが早かった。苦い唾と言いかけた言葉を飲み込んで、オルオは憮然としてペトラの後を追った。今思えばあの時点でもう少しペトラを強く止めておけば無駄もなかったと、後々遅すぎる後悔がオルオを襲うことになる。
勝手なことを言って大股で先を行くペトラは、まだこの時はどこかへ辿り着ける可能性に期待してもいたのだろう。足取りは今よりずっと軽かった。

「あんなもん手ぇ出したうちに入るか、クソ」
「はあっ?!」

苛立ち任せに吐き捨てた一言は、オルオが今思い返してみるまでもなく失言だった。口をついて出たそばからヤベ、と身をすくませ、グルリと振り返ったペトラが裏返った声を上げるより先に、オルオは謝罪の言葉を選んでいた。

「何それ! えっ、それはさすがに腹立つんだけど! 何それ!」
「おい…」
「えっ、蹴っても良い? ドコをとは言わないけど! 蹴って良い?!」
「待て。待てって。ペトラ。落ち着け」

怒りに目を見開いて口やかましく怒鳴るペトラは、そうしているとあまりに見慣れた女だった。
ついからかってやりたい気持ちに駆られるが、さすがに今は蹴り飛ばされないのが大事だ。そう自分に言い聞かせ、オルオはペトラに両の掌を掲げて見せた。

「悪かった。今のは俺も本意じゃない。取り消す」
「…………あのさぁ……」

これ以上なく真摯な顔を作ったオルオに対して、ペトラはわざとらしい呆れ顔を返した。
何とはなしにオルオは、聞き分けのない子供に向き合う母親を連想した。

「何かなぁ……意地張るより先に頭動かした方が良いんじゃない?」

もっとも続けられたのは、子供を教え諭すどころか道端に見捨てるような一言だったが。
そうして失礼極まりない捨て台詞を残して、ペトラは再び前を向いた。
それきり壁にぶつかるまでの間、オルオが少なく見積っても一週間は、ペトラは時折振り返ってオルオを睨みつけるだけで、ただの一言もなかった。



で、今に至る。この有り様だ。





memo




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