透明度。 平気だから。 「あの」 「うん?どうした?」 聞いたことに答えたり答えなかったりするのはこの約1カ月一緒に仕事している中で一瀬の特徴でありそれに慣れた安住。 話は聞いているっぽいけれど答えたくないことにはするっと無言になるのもわかってきたつもりである。なに基準なのかはまだわかってはいないけれど。 今日はいつもよりも口数が多いことが何故か嬉しく思っていたら一瀬から意外なことを言われて驚くことになる。 「…今日からしばらくバイト、休みます。」 「……え?」 予想すらもしていなかった発言に固まる。 「どうした?お客さんの前で話すのが嫌なら厨房でも平気だけど?」 「…。」 答えたりしたくないときはじっと目を見ているけれど決して喋りはしないのが一瀬くん。まさに今の状態だ。これではもうなにを言っても答えはしないだろう。 まぁ鈴芽と2人でやるのは一瀬くんが来る前に戻るだけであると言うのは分かっているんだけれど、一瀬くんがいるときといないときだとお客さんの数が違うんだよなぁ。 おもに女性客。まぁ俺や伊藤のようながたいのいいの2人いたらなかなかの存在で入りにくいとは思うが。一応見た目の雰囲気で女性がバイト志望で面接に来てはくれるんだけど、鈴芽を見た瞬間すぐに逃げちゃうもんだから結局鈴芽と俺の2人きりだ。 華乃に手伝いをさせてもいいんだが、華乃はコーヒーが飲めないし匂いもダメだから接客になってしまう。まだあいつは中学生だからやらすわけにはいかない。働くとしたら来年になるだろう。 とにかく一瀬くんがここでバイトするようになってお客さんも増えて仕事も難なくこなすのでありがたい存在になっている訳で、ぶっちゃけいないと結構きつい。 それにしても一瀬くんが休みたいだなんて、早々あるもんじゃなさそうだ。だってテスト1週間前でも普通にバイトしてた一瀬くんが休みそうにないのに。 一応店長である俺は一瀬くんが休む理由を問い詰める権利はあるとは思うけれどこうなった一瀬くんはきっと返事は出来ない。 あと言いたくないことは言わせたくないと言う俺のルールもある訳で、理由は聞かずにどのくらいの期間休むのか聞いておこう。 「どのくらい休む?」 「……わからないです」 一瀬くんは目を外さない。だから俺もじっと一瀬くんの目を見て聞くんだけれど、この質問に一瀬くんは俺の目から少し視線をずらしながら答える。俺は一瀬くんの態度よりも言っていることに若干憤りを感じる。 「あのね…理由も言わないし期間も分からないじゃこっちとしては結構困るんだよ。」 「……」 出来る限り優しい口調で言ったつもりではあるけれど一瀬くんは無言のまま。 でも悪いと感じているのかはわからないけれど真直ぐ俺の目を見ることはせず俯いている。 それを見て若干感じていた憤りをおさめることが出来た。 普段のときとどこか様子が違うから、と言うこともある。多分一瀬くんと一緒にいた期間が1週間ぐらいでこの態度をとられていたらきっとさっきの憤りは収まることは無く爆発していたと思う。 一瀬くんのことを見ないと少しの違いと言うのも分からない。 俺よりも鈴芽のほうが一瀬くんをわかっているとは思うしきっと叶わないとは思うけれど、俺は俺なりに一瀬くんのことを理解したいのだ。 …こう40代のおっさんが男子高校生に言うのは少し変態臭いのだが、決してその中に不純な感情とかない。 俺のハートはすでに己の奥さんによって奪われているわけだ。 いなくなっても俺にはあいつだけだから。 とりあえず人のことをわかろうとすることが不可欠だと思うんだ。そうしなきゃなにも出来ないし見た目だけで決めつけることはその人に可哀想だ。 鈴芽も最初は良くわからない、取っつき難い切れやすい人間だと思っていたけれど実際のところはその目付きのせいで勝手に相手が取っつき難いと思われていただけで普通に話す分ならほぼ切れないのだが、その目付きを怖がったり睨んでもいないのに睨むなとか言われたり不良もどきから絡まれ続けていたらしい。 鈴芽も鈴芽で気に食わないことがあれば手を出すしキレるタイプなので売られた喧嘩を買い続けてきた結果居場所がなくなったんだとか。家族からも怖がられていたと言っていたことも思い出す。 もし本当に家族からにも怖がられていたと言うなら、鈴芽は本当に居場所がなかったと言うことになる。 そんな中唯一一瀬くんが鈴芽に怖がることもなく普通に接していたのなら鈴芽が彼に執着に似たものを抱くのもおかしくはないかもしれない。 「仕方ないな。わかったら連絡してくれるかな?」 「……はい」 勝手なことを言った自覚があった分一瀬は問い詰められることも、最悪辞めさせられることもそれなりの覚悟があって言ったのですんなりと認めたことに戸惑いを感じつつこの痣のことにまで話が行かなかったことに少なからず安堵を覚える。 そんな一瀬の戸惑っている雰囲気を安住は察してこの間一瀬の頭を撫で繰り回してからそれ以降癖になりつつある一瀬の頭を撫でると言う行為をしようとした。 今まではそれに戸惑いつつも割とそれを受け入れていて、小さい子と同じように落ち着くんだと思っていた。この時までは。 安住は一瀬の頭を撫でようと手を伸ばす。一瀬はふと俯いた顔を上げて安住の顔を見ようとしたのとほぼ同時だった。 こちらに伸びてくる手。 己の手よりも大きく見える、手。 粟国の手を思い出した。 粟国はこちらを手を伸ばし、首を絞められた。 先ほどの光景が頭を過る。 苦しくて、息が出来ないあの状況を、頭の中で浮かべる光景と今の一瀬の目に映る安住がこちらに手を伸ばしてくるこの状況を、先ほどの粟国にされたことを思い出した。 喉を圧迫され呼吸が出来なっていくあの感覚。 自分の全てが憎いのだと隠そうともしない目。 バチン! 一瀬の手が安住の手を弾いた。 安住は急に思いもよらない衝撃に実際音の割にはそこまで痛いわけではないんだけれど反射的にいたっ!と叫んでしまった。 弾いたことに文句を言おうとしたけれど一瀬の状態を見て言葉が出せなかった。 「一瀬くん?」 一瀬くんを見ればいつもの無表情ではなく、確かに普通の人と比べればそこまで感情を露わにしているわけではないけれど、いつものなにを考えているのかわからない無表情ではなくて少し眉を寄せて目もどこか脅えを含んでいる色をしていた。 「あ、…っ、ぅ」 自分が安住の手を弾いたことに気がついたけれど、無意識のうちに首を庇うように手を添える、安住から見ても一瀬の手が震えていることに気がついたのに本人はそれに気がつくことなく安住に聞こえるかギリギリの声で「ごめん、なさい」と言ったあとすぐに店を出て自分の家へと逃げるように駆け出して行った。 泣きそうな声だと安住が思う前に逃げ行く一瀬を反射的に名前を呼び引き留めようと自分の手を伸ばしたが先ほどの一瀬の脅えたような表情を思い出してその手をひっこめてしまい、一瀬はそのまま店を出て行った。店には客が来るまでずっと呆然とする安住の姿だけがあった。 一瀬は『家』に着いた。先ほど出て行くとき、後ろから安住から自分の名前を呼んでいるような気がしたけれど気がつかないふりをした。 きっとこれからも『声』を聞かないふりをしていくんだと、思う。 ずるずると前と同じようにドアを背を預けずるずると座り込む。制服が汚れてしまうだとかそんなことを考えている余裕だなんてない。 持久走では全く息が切れなかった一瀬が今は苦しげに息をしている。 忘れてしまえ。 体育座りをして耳を塞いで目を瞑って全てから背ける。 誰も俺にふれないで。優しくしないで。 罵られるのは平気。暴力を受けるのは嫌いだから避けるけど、怪我をしない程度なら別に平気。 俺はなにも感じないから、俺をいじめるのは構わないから、平気だから。だから、俺を慕わないで。嫌な俺に笑いかけないでくれ。心配なんてしないでくれ。 …それでも殺されるのはいやで痛いのは嫌いなのだから矛盾しているかもしれないけれど。 優しくされたら「生きて」いて良いと思ってしまうのが嫌だった。 そう言えば先ほど安住さんに手を伸ばされたとき、粟国さんの自分を首を絞めようと伸びてくる手にデジャヴを感じてつい手をふりはらってしまった。 あれは駄目だったかも。いくらお人好しだったとしてもあれはさすがにな。…クビかもな。別に、良いか。 段々眠くなってきて瞼が重くなった。このまま寝てしまえば風邪引くかもしれないが別にいい。 意識が遠のきつつも、波川たちのことを思い浮かべる。 別に離れても良い。むしろ離れた方が波川や浜口の平穏は保たれるだろうし、叶野と言う…最初は俺のことを嫌っていたようだが最近はなぜか俺を気にするそぶりをするけれど、話しかければあの良く一緒にいる奴らから孤立してしまうだろう。 今日の出来事を思い返して、叶野は誰の敵になりたくないんだと思った。顔に出やすいな。でもそれを悪いとは言わない。それが人間だろう。 だったら俺がああいっておけばあいつらの意識は俺に行くし、波川と浜口も俺のことを嫌うだろうと思った。予想に反して波川は粘り強いけれど、きっと時間の問題だろう。明日あたり…いやきっと波川は周りのことを良くみる奴だから今日あたりに気がつくのかもしれない。 ああいったのは拒絶されて、それでも友達だと言う自己陶酔だと思う。実際のところ俺を見ている訳ではなく、素気ない俺に健気に尽くす自分を見ているんだと思う。 別にかまわない。どうだっていい。でも俺は誰にもいてほしくない。それは本当に思っている。 波川たちは俺から離れるべきだと思うしむしろ気にかけなくとも良い。その心遣いは俺よりも人生を悲観している人にすればいい。周防や叶野のような人間に。 安住さんは俺をクビにする、波川たちは俺から離れて俺は粟国さんの罵倒を聞くのがきっと俺のあるべき人生だと思う。それは間違っていないはず。 そう考えているあいだにも確実に段々と意識が遠のいていくのを感じる。 外のバイクや車の走る音が遠く聞こえる。意識は夢のなかへと向かっている。 確実に意識が夢の中に行く寸前、霞みかかった頭で思いついたのは伊藤のことだった。 ああ、でも伊藤は、伊藤だけは……離れてほしくない、かも。 瞬間的にそう思った。 どうしてそう思ったのかを考えようとするがその前に意識は夢の世界へ堕ちて行った。 もどるすすむ [戻る] |