帝王院高等学校
回って踊って輪廻の向こうは何味ざます?
日本人は、一人だけ見た事があった。
毎日泣いていたイブは兄のベッドに縋りついたまま、一度として顔を上げる事はない。

時々泣き張らした顔でベッドから降りてくる人に、果物を手渡す役。
きっと自分はそんな人間なのだろうと思っていた。彼女が母親だと知っていた様な気もするが、その時はまだ、母親が何を意味するのかまでは理解していなかった筈だ。

盲目の神の従者は、幾らかの古びた本と、夥しい数のレコードで支配された教会の奥。木製のベッドが3つ、ギシギシと嫌な音を発てる揺り籠、それらを並べただけで窮屈な狭い部屋と、神不在の教壇から、殆ど外へ出る事はなかった。

その教会には、時々来客がある。
彼らは皆、真っ黒なスーツを着ていた。今になって思えば、まるで通夜か葬式か。髪、瞳、肌の色は様々なのに、彼らは人間とは思えない様に表情がない。


「近頃、物資が届かないんだ」
「…セントラルは余程、招かれざる客に警戒しているらしい」
「お前の仕業かい、オリオン」
「どうとでも」

極々稀に、彼はやってきた。覚えている限りで二度、三度目が最後だ。
イブはその時もアダムスベッドに突っ伏したまま、起き上がろうとはしない。

「あの娘は鬱だな。診て貰ってはいないのか」
「心を病むと、その原因を取り除く以外の特効薬はないよ。人の心を思いやれないお前には、理解し難いだろうがね」
「ハーヴィに子供が出来たそうだ」
「それは良かった。めでたい事だ、ハーベスト様に似ているのであれば、陛下の様にお美しいのだろうねぇ。…この目で見られない事が残念だよ」
「何故、義眼を入れなかった?」

彼の日本語は、ゆったりとした旋律を奏でている。
それまでシスターの話す日本語だけが手本だっただけに、シスターの日本語もまた完璧ではなかったのだと、その時知った。
黒髪に黒目の彼は日本からやって来たらしい。日本には黒髪と黒目の人間が暮らしているそうだ。

「私は神に仕えた人間さ。姿なき宇宙の神から与えられた体一つで、レヴィ=ノアに尽くしてきた。それだけが私の自尊心だ。機械如きに、身を汚されては堪らない」
「湯を持ち運べるステンレスポットを、我が子の如く自慢していた女の台詞とは思えんな、テレジア。魔法だの天才だの騒いでおったろう」

シスターは朝目覚めると、ケトル一杯の湯を沸かす。
平年通じて15℃前後しかない地下の教会は、外の岩壁に沿って並べてある松明がなければ明かりもなく、凍える程に寒い。

「機械はね、人間を少し手伝ってくれる程度の存在で良いんだよ。人の内側にまで関わっちゃいけない、皮膚の外側でちょっとだけ、賢い存在で居てくれたら良いんだ。少なくとも私は、坊っちゃんにお捧げした両の瞳を誇らしく思っているよ。結果的に報われなかったが、無駄ではなかった。そうだろう?」
「…ああ。お前のお陰で、一度ハーヴィの手術を経験する事が出来た。最後の手術は、成功したからな」
「報われないのは、私よりお前の方ではないのか?」
「抜かせ。人工網膜は適合している」
「光が眩しくはないか。此処には気紛れに新聞が届くからね、こんな形でも外の情報には精通しているのさ。レーシックと言う手術の副作用に、そんな記述があったがね」
「流石はカミューの大叔母だ、ひねくれた事をほざくババアは煩わしい以外にない」

二人の会話はいつも、見てはいけないものを見ている気にさせたものだ。
奥の窮屈な部屋ではイブが寝ている為、二人はいつもレコードと音楽に包まれた祭壇の前で話していた。シスターの揺り籠にはキャスターがついていた為、歩行補助の杖代わりにカートの様に押して歩けるのだ。

「リヒトは己の生い立ちに気づいたのかい?」
「奴がハーヴィの元にやって来たのは、ノアとナイトの葬儀だった。あれはまだ産まれて間もなくだったがな」
「…そうかい。陛下はステルスに関わらせてはならないと、仰ったのに」
「リヒャルト=グレアムの娘の孫、か」
「その通りさ。陛下の二番目の兄君であらせられたリヒャルト様には、屋敷が火に包まれる前の晩に産まれたばかりの娘がいた。妻の名はリカ=アシュレイ、娘の名をリリア。レヴィ陛下はリリアを連れて逃げる際、グレアムが飼っていたハイブリッドの背に乗せていたらしい」
「よもやその犬は…」
「女王が飼っていた狼の、シンフォニアさ。それを産み出してしまってばかりに、グレアムはこの世から消え去ってしまった」

シスターが沸かした湯は、三人分のコーヒーを淹れると半分がなくなってしまう。食料の配給が遅れているので、コーヒーと呼ぶのも烏滸がましい様な薄い色つきの水は、けれど毎日肌寒いそこではご馳走だ。
来客にコーヒーを出すのは稀だった。オリオンにだけ。

「死んだ狼を悔やみ続ける女王の為に倫理を外れて復元してやったのに、グレアムを恨むとはお門違いも甚だしいと思わないか。これだからイギリス人は嫌なんだ、物事を柔軟に考えられない」
「合理的を傘に着て、単に大雑把なアメリカンが正しいとは思わんが…やりきれん話ではある」
「レヴィ陛下がスラムの暴漢に襲われそうになった際、屋敷から共に逃げ落ちていた者達がそいつらを始末した。けれどその騒ぎで火がついた様に泣いたリリア様に驚いたウルフハイブリッドは、驚いて走り去ってしまったそうだ」
「その後、娘の行方は判らずじまいだった…か」
「陛下は船でアイルランドを目指そうとしたが、忌々しい王宮軍の手が伸びている事を懸念したアシュレイが、交流のないグリーンランドへ航路を定めた。そこで一年ほど身を潜め、ハドソン湾に渡りカナダ経由でアメリカに落ち着いたと聞いているよ。陛下は十歳にも満たなかった」
「その辺りは儂も聞いている。イギリス本国で王宮の責めを受けながら堪え忍んだアシュレイは、前王の妹が嫁いだ家だった事もあり、間もなくグレアムとの関与はないと言う念書を書かされた上で不問になった」

レコードが途切れる。それと同時にケトルの湯が沸いた。
立ち上がろうとするシスターより先に走っていき、レコードを取り替えると、小振りなやかんのお湯をポットに移し変える。
もう二歳だ。このくらい出来る。コーヒー豆をそのまま入れるより、少しだけ叩いて潰してから入れると、濃い色が出る事も知っていた。

それはイブから聞いたのだ。
その日はいつもより元気が良かった彼女は、偉い子だと誉めながら撫でてくれた。私の天使と囁きながら、抱いてくれた。結局、その一度だけだったけれど。

「忌々しいだろう、オリオン。当然、当時のアシュレイ伯爵も歯噛みした。彼らは極秘裏にグレアムの葬儀を行い、生き残りがいないか探し続け、アメリカに落ち着いたアシュレイ伯爵の弟であるアランドールが実家と接触を果たした」
「貴様の父親だろう、アリス=アシュレイ」
「とうに捨てた名さ。私はアメリカで産まれ、アメリカで死ぬ一人の女。それ以上でもそれ以下でもない」
「そう、か」
「ただ、…姪を此処に招待したのは間違いだったね。私は独り身で、従弟は家督を継いだ身で、ステワード養成学校を設立し、ステルシリーに派遣する人間を育てる事に躍起になりすぎた。やっと生まれた娘は可愛かったろう、それから間もなく妻を事故で失ったのは不幸だったが、父子家庭でも負い目を感じさせない様に頑張っていた事も知っている」
「ハーヴィの子の世話係に名乗り出た様だ」
「そうかい。…そろそろお前が気軽に足を踏み入れられる所ではなくなるだろう、お前も此処へ来るのはやめた方が良い」
「…ああ。今回の騒ぎに乗じたのは否めんが、ハーヴィが戻る前に出ていく」
「それが良い」
「エデンの検査結果が出た」

名前を呼ばれた気がしたので振り返ったが、その所為でちょろちょろと少しずつ移し変えていたお湯が零れる。目が見えない代わりに耳が良かったシスターが顔を上げたが、何でもないと首を振った。
少し火傷した指など、放っておけばすぐに治る。近づいてこようとする黒髪の男に慌てて首を振れば、呆れた様に彼は溜息を零したのだ。

「以前話した通り、雲隠の遺伝が強く出ている。細胞が活性過ぎる為の悪影響についてだが、奇跡的とも言えるか」
「何?」
「ヴィーゼンバーグの血との相性が、神憑り的に良い。O型であれば大概の輸血を受けられるだろうが、他人からの輸血を受けた仮定でパッチテストを試した結果、悪影響を起こし易い事が判明している」
「…どう言う事だい?」
「成長が早すぎると言う事は、結果的に細胞の劣化が早いと言う事だ。雲隠の人間はある一定で老化が止まったが、止まっていた分の老化が、ある一定のタイムラグを置いて加速的に降り掛かる事がある。ある双子は、二人共60歳を越えてから数年後に死んだ。ある女は、二人目の子供を出産して間もなく、50歳を待たずにミイラの様な外見に劣化し、間もなく死んだ」
「やはり、長生き出来る訳ではないと言う事だね」
「ケースバイケースだろうが、恐らく、怪我や病気の治りが早い代わりに、その修復回数で寿命に変化が出るのだろう。女は出産がダメージとなり、男は単純に、受けた怪我の規模が遺伝子に影響を与えると思われる」
「あの子の寿命は?」
「今のままでは、長く見積もって18歳」
「…何と」

何の話をしているのだろう。
興味はあったが、麻袋の中でコーヒー豆を潰す事に必死で、良く判らなかった。トンカチでトントンと叩いては、袋を中を覗いて、割れた豆を認めて微笑む。これなら良いコーヒーになるだろう。

「但し、公爵家の遺伝子を何らかの方法で上手く取り込められれば、問題解決は容易い。だが今のヴィーゼンバーグにO型はいない」
「パッチテストの相手は?」
「アレクサンドリア。セシルの夫が愛人の元に産ませた子供だが、その男も公爵の外戚に当たる。縁があってな、血液サンプルを保管していた。もう一人、今度はAB型のサンプルを持っているが、アレクサンドリアのA型の血液より相性が悪い。O型とAB型では、仕方ないだろうが」
「アメリカにはO型が幾らでもいると言うのに、どうにかならないのかいオリオン」
「アレクサンドリアの元に産まれた息子が今度三歳になる。血液型はO型だそうだが、間の悪い事に、その血液を手に入れる方法がない」
「何だって?」
「行方不明だそうだ」
「行方不明?」
「日本中の極道が血眼になって探している。いつになるか判らんが、生きて帰る可能性は低い。…次に俺が此処へ戻れるかどうかも、定かではないだろう」
「…そうだね。すまない、お前に頼りすぎた様だ」
「心配するな。蝉の因果に頭を悩めるのは、儂らの仕事ではない」
「蝉?」
「そこの餓鬼の命は、…主に委ねるだけだ」

ああ。
綺麗なコーヒーが出来た。少し細かく叩きすぎたからか、麻袋の荒い目から粉が出てしまったが、気にしなければとても美味しく飲める筈だ。

「コーヒー出来たよ」
「有難うエンジェル、お前は優しい子だ。でも無理はいけないよ」
「オリオン、プリン頂戴」
「今日は大福だ。儂はモカは好かん、湯だけで良い」
「大福?えー、何かまずそう」
「ほざけ尻の青い小僧、和菓子は人を幸せにするんだ。覚えておけ」




レコードが回っている。
くるくると、くるくると、まるで螺旋の様に、くるくると。



















ティータイムは大切だ。
ほっと休める時間がなければ何事も上手くいかないのだと、シスターは言っていた。

「にっいっさっま〜!お茶の時間だよ。温かい紅茶とクッキーを作ったの。兄様の瞳みたいに艶やかな、血より赤いローズティー、好きでしょ?」
「おー、気が利くな。俺のは少な目で良い、薔薇は匂いがきつすぎて好きじゃねぇ」
「…あ?誰がテメーに淹れてやるっつった、とっとと出ていけ無能」
「何だこの扱いの違いは、大好きな義兄様の前でンな口を叩いて良いのか、ファースト」
「は!危うく騙される所だった。兄様、何でこんな奴と一緒に居るんですか?僕の方が兄様の為になるのに」
「はっ。気色悪、何が『僕』だって?ボクちゃん?」

ああ。
視線だけで刺し殺されそうだと、叶二葉は傍らの男の前に置かれたカップをぶん取り、優雅に口をつけた。

「テメ!それは兄様のお茶だっつっただろうが、セカンド!ぶっ殺すぞテメー!」
「日本に行った事もないのに日本語がお上手ですねぇ、エデン。枢機卿の飲食物は決められた人間が作ったものでなければならない決まりです。毒味ですよ、毒味」
「〜っ!」
「…セカンド、今日はノイズが酷いな」
「お気を確かに殿下、区画保全部が何を考えたのか、セントラルに一万匹のシカーダを放ったそうです。年中24℃で変化のない地下に放たれた蝉達は哀れですねぇ」
「そなたが四季を明確にしろと言ったからではないか?」
「私が育った京都の夏は、死人が出るのではないかと言うくらい、それはそれは蒸し暑い所だったんです。それが今ではどうですか、365日マフラーが欲しくなりますよ」
「文句があるなら出てけば?」
「おや、お聞きになられましたか枢機卿。ファーストがやきもちを焼いています、きな粉をまぶして頂きますかねぇ。ああ、お雑煮に焼いた餅を入れる地方があるそうですよ」
「そうか」

二葉が空にしたカップを、神威は一瞥もしない。
甲斐甲斐しく新しいカップにお茶を注いでやる赤毛の顔は、今にも発狂しそうに見える。

「所で枢機卿、大学はどうですか?」
「どう、とは?」
「私はあっと言う間に理系を制覇してしまいましたから、今は法律と政治を学ぼうかと思っています。まぁ、最終的に物理学を専攻するつもりですが」

ちらりと佑壱を見やれば、大量のハテナマークを飛ばしていた。
世界中の言葉をあっさり覚えてしまう癖に、数式に対しての記憶力は年相応より少しばかり上と言った程度で、既に研究員レベルの数学を学んでいる二葉とは比べ物にならない。
だからか、英語、日本語、中国語…と言っても広東語しか話せない二葉は、逆に佑壱にとっては比べ物にならない様だ。考え方が全く違うだけに、二葉は佑壱を理解出来ないが、それはあちらも同じだろう。

「兄様、文学部に行くのいつになる?」
「まだ定かではない。私の務めは一日も早く身の丈に相応の知識を得る事だ。今は、それ以上もそれ以下も、選ぶ権利は与えられていない」
「次期男爵候補筆頭でいらっしゃいますからねぇ、枢機卿は。二位候補の癖にお花遊びをしている何処かの甘ったれとは、比べ物になりませんよねぇ」
「兄様、馬鹿が何かほざいてる。耳障りだって言った方が良いよ、アイツなんか臭いしいつも」
「白檀が臭いとは、とうとうおつむだけではなく鼻まで落ちぶれてしまいましたか。ファースト、分数は覚えましたか?」
「っ。兄様っ、また後で来るから!そいつが居なくなったら!」

捨て台詞を涙目で残し、赤毛は凄まじい勢いで飛んでいった。
か細い蝉の鳴き声が聞こえる。寒さに震えているのか、余り元気はない様だ。

「蝉の寿命は一ヶ月程あるっつー話だが、俗説の一週間程で死んでしまいそうだな」
「空を駆けるべき存在を地下に埋めれば、無理もない。蝉は空の下で鳴くものだ」
「ミンミンミンミン、煩いからな。朝も昼も夜も超巨大液晶が管理してる此処よりは、マシか。利点は雪が降らない所」
「人工雪の機材は揃っている様だが、日本の様に明確な四季がある訳ではない大陸の人間には、風流を尊ぶ心が欠如しておるのだろう」
「自分が嫌いで仮面を被ってる何処かの誰かみたいに?」
「さもあらん」

全く。
年相応と言う言葉が誰より似合わないのは、二葉よりもこの男だろう。その恐ろしい程に整った顔立ちを白銀の面で覆い隠し、必要最低限の人間しか側に置かない。未だにルークの側仕えはアシュレイ執事長だけだと言うが、そのアシュレイでさえ、決まった時間に現れるだけだ。
腫れ物を触る様に。ステルシリーは今、たった一人の子供に注目している。コード:イクス、十番目の名を与えられた、次期皇帝に。

「そう言えば、月末に五歳になります。お祝いを下さい」
「8月31日だったか」
「枢機卿は4月2日ですよねぇ。ああ、日本国籍では4月3日でしたっけ?それでも中央情報部は殿下が産まれた日を把握して登録していましたから、この国のデータベースでは4月2日に変わりはない」
「黎明が」
「れいめい?朝の事でしたっけ?」
「私の誕生を祝福している様だったと、言った人がいた」

成程。
言った『者』ではなく、言った『人』と言う事は、少なくともセントラルに居る誰もと違う、特別な人間なのだろう。

「ニューヨークとの時差はおよそ半日、産まれたのが朝6時と仮定しても、マンハッタンはディナータイム。黄昏時か」
「ノア候補には似合いだろう」
「自分でほざいてて虚しくねぇのかブラックシープ。『生け贄』にしては強かなお前は、最終的にキングから全権を奪うつもりだろう?」
「仕事が早い様だが、中央情報部のサーバー開示権限はそなたにはない筈だが?」

何の本を読んでいるのか、子供が抱えるには重そうなハードカバーの分厚い洋書に目を落としたまま顔を上げない神威は、鈍色の仮面でその横顔を覆い隠したままだった。
佑壱が淹れた茶はとっくに冷めて、鼻につく薔薇の香りも消えている。

「セキュリティをわざわざ掻い潜るのも愉快だろうが、何て事はねぇ。件のイギリスがごたついてた時に、日本方から調べさせて貰った」
「ベルハーツの件か」
「半年も監禁されて、虐待紛いの玩具にされてりゃ、日本語を忘れるのも無理はねぇってな」

二葉が日本から中国へ渡った頃の話だ。
ヴィーゼンバーグの分家が、老いた女公爵の後継者問題で策を講じ、先走った真似をした。亡きアレクセイ=ヴィーゼンバーグの元には全部で四人の子供があったが、その内二人はヴィーゼンバーグに素直に従う様な可愛らしい男ではなく、叶冬臣に至っては何故か英国王室が警戒している。
文仁も既に大学生で、叶の教えに従順過ぎた。文仁を捉えるには数百人掛かりで挑まねば、まず無理だろう。

けれど、女公爵の後継者として筆頭に名前が上がっていた長女は、亡き父親から瞳の色を継いでいたが幼くして亡くなっており、残った末っ子はアレクセイの死後数年経って産まれていた事もあり、色々と反感があった様だ。
然しアレクセイの瞳を継いでいた二葉を後継者にすると、セシル本人が宣言するのは目に見えていた為、その気配を察知した分家の人間達は、アレクセイではなくアレクサンドリアの子供に目をつけた。

「無様なジジイ共は、光華会の怒りを買って全員殺された」

セシルの寵愛を受けなかったアレクサンドリアは、高坂家に嫁ぐ際に名を変えており、現在はアリアドネを名乗っている。清らかな女と言う意味があるその名は、彼女の夫である高坂向日葵が名づけたそうだ。
高坂夫妻はヴィーゼンバーグとは無関係だと油断していた事もあり、一人息子の日向が誘拐されたと聞いた時は、冷水を浴びせられた気分だっただろう。

当時高坂組からは引退していたが、光華会会長ではあった高坂豊幸は妻に先立たれ独り身だったが、日本中の極道に掛け合い列島中を探し回った末に、ヴィーゼンバーグが主犯だと突き止めたのだ。

「高坂豊幸がセシル=ヴィーゼンバーグに日本刀を突きつけたらしい」
「ほう、勇ましい男だ。事実上、日本が英国王室に戦争を仕掛ける様なものか」

然し、主犯の男の命と引き換えに示談で片付いたらしく、その場で女公爵は日向を跡継ぎにする事はないと言った。
この座は『乙女』に委ねると言う老女の台詞で、後継者は『ヴァルゴ』だと誰もが認めた様だ。当時、乙女座だったのは二葉だけだった。

「ババアは俺が欲しかったらしい。いや、本当は…俺の姉」
「そなたは姉がおるのか」
「とっくに死んでる。顔を知ってるのは確か十歳の頃の写真だけだ。…生きてたら15歳か、16歳」
「そうか」

だがこの話にも続きがある。
日向が無事救出された頃、二葉は祭楼月の命でアメリカへ渡っていた。ステルシリーが4歳前後の子供を探していると言う、真しやかな噂を何処で聞きつけたのか、楼月は二葉にとある大学へ潜り込めと宣ったのだ。

この件が元に、ヴィーゼンバーグ公爵家は震撼する事になる。
百年以上昔の事とは言え、ヴィーゼンバーグが筆頭として率いた王宮軍が滅ぼした、あの忌々しい男爵家がアメリカ大陸を支配する中、期待した二葉はキング=ノアの子であるイクスルークの側仕えとして招かれた。これでは、如何にイギリス王宮とは言え、手も足も出せない。

彼らが歯噛みしていると、文仁の元に産まれていた双子の娘が、自らイギリスへ行くと言い出したのだ。然し双子は漸く物心ついたばかりなので、この件は一時保留と言う事になっている様だ。
何はともあれ、今後ヴィーゼンバーグが高坂に手を出す事はないだろう。名実共に切れた縁が、何かの間違いで再び繋がれない限りは。

「豚臭ぇ変態ジジイに監禁されて毎晩体を撫で回されるのと、姉と母親の命を犠牲に惨めにも生き永らえるのは、どっちがマシだ?」
「そなたの価値観はそなたのみが知る所だ。私がどう答えようが、選択権はそなたにしかない」
「…賢いのと頭が固いのは別だぞ。覚えとけ」
「良かろう、記憶しておく」
「言っとくけど、お前の日本語はベルハーツより酷いからな。どんな保護者に育てられたらそうなるのか、是非とも聞いておきたいねぇ」
「調べたのであれば、わざわざ尋ねるまでもなかろう。そもそも隠した覚えもない」
「中央情報部のアーカイブには?」
「私が扱える権限で把握する限りは、登録はされていない様だ。帝王院財閥の名を知るのは、ABSOLUTEでも限られた数名」
「ABSOLUTE…ランクAか。ランクBがBYSTANDER、ランクCがCAPITAL、ランクDのいわゆる名無しがDEVELOPERか…」
「最上位は名実共にSINGLE」
「ランクS、アンタが虎視眈々と狙ってる座か。今後の予定は?」
「暫くは命に従うだけ。期を見て、考える」

来日後、たった一年で『神の子』の名を欲しいままにしている天才は、軈て天災を起こすのだろうか。ノアに相応しい大洪水か、はたまたテンペストか。

「俺が祭の犬だって判ってて雇うとか宣いやがったが、金持ってんの?今のところ毎月口座に送金はあるんだけど、ステルスの金?」
「そなたの給与は私の口座から送金している。何か不満があるか?」
「へぇ。毎月3万ドルも送る稼ぎがあるんだ、流石は枢機卿ですねぇ。どんな儲け話ですか?投資?株?」
「ただの小遣いだ」
「はぁ?小遣い?」

パタンと本を閉じた男は、両手を持ち上げて、こねこねと指先を動かしている。
何をしているのだと思ったが、それより『小遣い』の意味が判らない。
大学で経済を学んだ二葉は、現在神威の元で警護として周知されているが、何を考えたのか1位枢機卿であるネルヴァから直々に、経理監査部と言う部署の手伝いを任された。

基本的に学業優先なので、経理部へ足を運ぶのは月に数回ほどだが、その部署には幼い頃から神童と謳われている理系の人間ばかりが所属しており、子供だろうが別け隔てなく扱き使ってくれる変態ばかりだ。
経理部には、ランクA〜Cまでの各社員の給与計算の承認を任された課長級が三人存在している。傘下企業の社長でしかないランクDにステルシリー本社からの給与はない為、殆どの社員の給与は経理部課長三人に掛かっている。

二葉が目にしたデータには、ランクSの給与が記されていなかった。
これについて経理部長であるランクAの責任者に尋ねれば、機密ではない様で、陛下には給与がないのだと素直に教えてくれたのだ。

「ランクSのキング=ノアには給料がない代わりに、プール金の全てが決算後に個人口座に流れてる。つまり、人件費と諸経費を引いた売上の全てが、皇帝の年俸っつー訳だ。引き換えに、アンタはまだ中央情報部の、名目上はランクA相当だろうが、立場上ランクBに入ったばかり」
「ああ。私が自ら志願した部署だ。社の内情を手っ取り早く知るには、打ってつけだろう」
「ランクBは完全歩合制だろ。出勤してる奴らはともかく、アンタは顔合わせの時に一度入城したきり、大学が休みの時はこうして日がな一日ぼーっとしてるだけじゃねぇか」
「失敬な。見て判らんか、私は手芸を学んでいたのだ」
「あ?」

無表情で洋書のラベルを撫でた白い指を目で追えば、確かに英語で『ハンドメイドアクセサリー』と書いてある。然しどう見ても歴史書にしか見えず、二葉は奥付けがあるだろう最後尾のページを開いた。

「中世に流行したものから、近代の流行したものまで完全網羅…」
「840ページに渡って丁寧に説明がなされている、素晴らしい本だった」
「つーか良くこれ持ち運べたな、何だこれ阿呆か、重…っ」
「そう、腕を鍛えるのに丁度良いと言う事だ」
「人の合気道を見様見真似で完コピーする様な奴が、鍛える必要はない。警護対象が俺より強いのは、どう考えても可笑しいだろうが。何が『私を守って欲しい』だ」
「違う、『私の静かな生活を保障して欲しい』と言った」
「…成程。主にファースト」
「煩わしい鼠だ」

酷い言い様ではないか。他人事だが、これでは佑壱が余りにも報われないと二葉は思った。が、所詮は他人事だ。それも笑い話に近い。

「鼠?蝿じゃなくて?」
「訳の判らん雑音を喚き散らす所など、そっくりではないか。害虫の方がまだ愛らしい」
「枢機卿殿下にも苦手なもんはあるのか」
「私を枢機卿と呼ぶのは相応しくない。ランクBに領地は与えられんからな」
「この中央区全てがアンタのもんになるんだろ?殿下じゃなくて、陛下のが相応しいってか?」
「名など個を識別するタグに過ぎん。好きに呼べ。正し、私の日本での名を知っているのであれぱ、そなたに呼ぶ権利はない」
「へぇ、あの御大層な名前が嫌いなのか?それとも逆に大切とか?」
「好きに想像しろ。…祝いの件だが、天然石をあしらったものを作ってやる。純度は然程高くはないが、未開発区域の掘削場で拾ったものだ」
「ゴミ同然じゃねぇか糞が。んな辺鄙な場所に一人でノコノコ遊んでんじゃねぇ、死にたいのか」
「私を殺せる人間が存在するのであれば、それも良かろう。今現在生き永らえているのであれば、今の所はその危機はないと言う証明にならんか」
「今はまでは、の、間違いだろ。少なくとも俺は、今後も寝首を狙うぞ」
「好きにしろ」

ああ。
それでも蝉は、鳴いている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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