帝王院高等学校
希望、絶望、巡りめぐって負の連鎖!
卒業式を待たず、殆ど手ぶらで故郷を離れた理由は単純に、他に行く所がなかったからだ。
ある日唐突に現れた「親権者の代理」と名乗った男は、弁護士バッジを光らせ、無機質な眼差しで宣った。今日からこの家は貴方のものではありません、などと、ろくな挨拶もなく。

「えー、買い手がつきましたので契約交渉に入りました。間もなく正式に他の人の家になると言う事ですね。おじさんが言ってる意味は判りますか?」

一度聞けば判るとは、流石に言える筈もない。
無気力だ。何が何だか判らなかった。その時は、恐らく何も彼もが真っ白で。

売ればいつか買われる時が来る事は、物心ついた頃から知っていた。売ったものに価値がつけば、それは幾らかの金へと姿を変える。
人口数千人程の片田舎は年々寂れていくばかり、満足な施設がない代わりに緑ばかりは多い長閑な風景、保育園も幼稚園もない。建物はあるが機能していない、廃校ばかりだ。引き換えに、保育園も幼稚園も必要としない程の住民が暮らしていた。ぽつりと、まるで隔離されたかの如く。

若者など数えるほど。まして子供など滅多に見掛けない。
小学校は隣町の外れにあり、中学高校はそのまだ隣町にある。車がなければ買い物にさえ不自由する様な、都会の外れ。



「ご愁傷様です」

初めて自分のランドセルを手に入れたその日、代わりに祖父母が動かなくなった。白い布で覆われた顔を見てはいない。見るなと大人達が口を揃えたからだ。

何が起きているのか良く判らなかった。初めてだったからかも知れない。ドラマで見た俳優の様に、泣き崩れる余裕が出来たのは、たっぷり一時間が経過した頃だ。
事情聴取などとほざいた大人達に囲まれていると、町の交番勤務の若い巡査が先に泣いて、つられて泣いた覚えがある。若気の至りだ。何せ六歳だった。

「えー、君のお家は、手続きが済めばお母さんの名義になりますね。それで、えー、君のお母さんはお家を売却希望だそうでしてね、えー」

代理人。
それ以外の名前は知らない。もたもたと喋る男だった。子供相手だと馬鹿にしているのが嫌でも判る。何せ男は、名乗らなかった。君のお母さんの代理人だとしか。
だからと言って名前を聞かなかったのは、単に覚える気がないからだ。腹の中で何度殺したか知れない男の声を黙って聞きながら、いつか復讐してやると考えた。何度も。正確には20回ほど。

「田舎な上に借地権では買い手がつくまでに時間が懸かるでしょうが、えー、心配しなくても良いのでね。君のお母さんの希望で、君は帝王院学園傘下の鎌倉校に入学する事になりましたからね。えー」

私立の小中一貫校は都会にあるらしい。
半寮制のそこへ通う事は、既に決定事項らしい。子供に選択肢などないのだ。何も持たない子供には、否を唱える権利さえないらしい。

「生活費は毎月送金されますので、君は安心して勉強に励んで下さいね。それがお母さんの為になりますね」

ああ、もう、何度殺してやろうと思った事か。

「ではまた窺います。この度は御愁傷様でした、神崎隼人君」

六歳の時には見上げるしか出来なかった男を初めて見下した15歳の誕生日。
叩きつけた現金と書類、傍らには顧問弁護士を従えて。



「お久し振りですう、代理人のおじさん」

一度記憶すれば忘れない。
根に持つ男だと嘲られようが、呪いの様に忘れない。忘れたいと願ったものほど強く残る、何かの病気だと言われた方が救われる。

「あのねえ、隼人君の親権の事で相談に来たんだけどお、田舎で事務所構えてるおじさん程度に判るかなあ?」
「そ…相談と、言われても…っ。えー…私はもう…契約は切れていて…えー…だからその…」
「あ、こっちは日本で一番有名な弁護士の先生なんだけどー、昔おじさんが隼人君の面倒を見てくれたって言ったらさあ、挨拶に来たいって言うんだよねえ。あは、だから連れて来ちゃったあ」

傍らの男が笑う気配がした。
目の前の男の顔色は悪く、散らばった札束と書類は誰からも拾われる事なく散らばったまま。

「おじさんが教えてくれたからさあ、い〜っぱい勉強したらねえ、帝王院学園に昇校出来たんだあ。ほんと有難う、おじさんのお陰だよねえ?」

手首を縛りつける黄色いブレスレットだけが、その時の自分の脈の強さをきっと、知っていた筈だ。


「どんな手を使っても家を買い戻したいんだけどお、どうにかなんないかなあ、おじさん」

この時の自分をあの人にだけは、知られたくなかった。
ああ、それと、金をばら蒔いたなどと宣えばどれほど怒られるか知れたものではないから、ケチなあの男にも知られる訳にはいかない・と。



思った覚えも、残念ながらあるのだ。
呪われているからだろうか。











(目覚めた時に見たのは暗闇)



(外された包帯に滲む酸化した血液は黒かった)
(苛つくほどに目映い光を迎え入れた網膜に)
(手渡された手鏡が一つ)
(無様な傷をガーゼで覆い)
(点滴針を痩せた腕から引き剥がした)
(久し振りに見た世界の何処にもあの子は居ない)

(片方の瞳の色が濁っていた)
(片方の瞳の視界が白濁していた)
(そんな事はどうでも良かったのだ)

(緑は貴方に)
(貴方に唯一、捧げたもの)



(それなのにどうして、貴方は何処にも居ない?)





ああ、自由とは何だった?
幸せとは何だった?
(空っぽだ)(夏が終わった)(一つ歳を取った)(何がめでたいものか)(風化しつつある蝉の脱け殻を見つけた)(まるで自分の様だ)



『報告は以上か、コード:ネイキッド』
「ええ、申し上げた通り枢機卿のスケジュールに変更はありません。殿下が大学構内に籠られている間は、可能な限り視界に映り込まないようご協力下さい」
『…知っての通り、我が部署は取り込んでいます。優先順位は日々変動する事を留意したまえ』
「了解。とは言え、この私が殺せず手を焼いている様な方を誰が狙うものか些か興味がありますがねぇ」
『無駄口を控えろ。お前は所詮、「玩具」なのだから』

全く、近頃ろくな事がない。
誰が玩具だと笑顔の下で苦虫を噛み殺し、精々過剰在庫にならないよう気をつけると吐き捨てた。
途切れた通信回線は沈黙し、濁った空を窓越しに見やる。

里帰りかと言われれば、答えはノーだ。
産まれたのは日本、それも東京の病院だったが、育ったのは京都の山の中。忍びの一族には似合いの、幽世の世界だった。

山の裾野に誂えた家門から暫く歩き、樹木に隠された離れがぽつぽつと連なる先、片仮名のコの字に作られた母屋の中央、母屋に守られた天守閣を龍の宮と呼ぶ。
叶一族の当主が一人で住まう20坪程度の小さな建物は、当主の許しがなければ例え配偶者であっても立ち入る事が許されない。


そう、叶二葉は龍の宮と呼ばれる建物を一度だけ見た事があった。

実兄でありながら数えるほどしか面会した事がない男は、高校卒業を待たず家督を継いでから今日に至るまで、龍神と謳われ続ける西の覇者だ。
彼を最後に見たのは日本を離れる前の晩だった。いつもなら夕食の後は風呂を済ませて、寝ようが起きていようが誰から咎められる事もない静かな宵の宮へ、彼がやってきた時だ。

叶冬臣。
弟の二葉から見ても、文仁とは全く似ていない男。優しげな笑みを湛えている癖に、いつもは偉そうな来客やいつもはロボットの様な家政婦達が、揃って顔色を変える相手。
兄だと教えられても現実味がなかった。最後まで。ぐだぐだと文句を言いながらも毎日やって来る文仁の方がずっと、家族の様に思えるほどに。

但し、気紛れで何度か殺されそうになった事があると言う点を除けば、だ。
その度に曰く、


『泣き虫で弱虫なお前を鍛えてやっている俺はなんて出来た兄だろう、歓喜の余り咽び泣きたいだろう二葉。どれ、泣いてみろ』

二葉の記憶にある限り、文仁の希望に沿った事は一度としてない。負け惜しみではなく、物心つく頃には文仁に負けぬほど性格が曲がっていたからだ。二歳でそれを自覚するほどには。


何にせよ、過去へ思いを馳せた所で、今現在世界で最も大きな国に居る二葉が日本へ帰る事はない。寧ろ日本からやって来たばかりだと言った方が正しいだろう。
叶二葉6歳、誕生日は一ヶ月前。既に秋の本番、風が冷たく感じる頃だった。


「へぇ。裏切りねぇ」
「楼月が本店の金を着服している裏は取れている。だが、すぐには動けない理由があってな」
「祭に飼い殺しにされている死神に命じれば、すぐに頭が胴から離れるんじゃねぇか?くっく、流石の俺も、奴からは狙われたくねぇなぁ…」
「笑い事ではない。…為すべき時が来れば判る、それまで祭を見張っておけ。良いな、洋蘭」

中国には大河と言う恐ろしく大きな家がある。遥か昔から続く、正真正銘、王の一族だ。
その大河を支える四柱の一角、大河白燕の母方の従弟である王蒼龍と言えば、裏社会でその名を知らぬ者はない程の大物だった。派手な顔立ちの大河社長とは違い、アジアに於いては極々平凡な黒髪黒目、堀の薄い極めて一般的な容姿の男だが、マフィアの最高幹部なだけあって戸籍上は死んでいる様な身の上である。

「給料を貰えればどんな仕事だろうと構わねぇが、身内同士で血を流すのは偲びないって事だろう?綺麗事を抜かすんだな、王蒼龍ともあろう御方が」

いずれにしても、世界を掌握する家には一つや二つ後ろ暗い事情があるものだ。叶の家など、寧ろ可愛らしいのかも知れないとすら思える。
掛け慣れない眼鏡のテンプルを押さえた二葉は、眼鏡のレンズを覆うほど伸びてきた前髪を弄んだ。暫く整えていない髪は延び放題で、そろそろ支障が出てくる気配。

「余所者の俺なら、祭楼月を殺っても口封じ出来ると思ってんだろう、大老?」
「下種の勘繰りを」

死人の方が動き易いなどと、訳の判らない理由で実の肉親まで殺す様な男は、大河白燕にのみ並々ならない忠誠を誓っている。真偽が定かではない噂話の一つに、王蒼龍の父親が白燕の命を狙ったと言う話があった。
大河の直系には、稀に珍しい人間が産まれるそうだ。何が珍しいのかは固く口止めされており、恐ろしく一部の人間だけが知る話だと思われた。興味があろうと、下手に探るのは命取りだと言うのは、説明するまでもない。

龍と名のつく男はろくなものじゃない。短い人生経験で覚えただろう?
龍とは空を翔るそうだ。泳ぐように、滝を登り詰めた鯉が登竜門を越えて、神の域に達したその時に。

「何にせよ、朱花様の喪が明けるまでお忙しいでしょうし…ふふ」
「口の利き方に気をつけろ、洋蘭」
「わぁ、怖い怖い」

ああ、羨ましい。
神の使いが泳ぐ空には、きっとアレがあるのだろう。このくすんだアジアの空とは違う、黄砂にもメタンにも汚されていない真っ青なそこにはきっと、燦然と輝いている筈だ。
自分がなくしてしまった、それが。

「それでもろくに食事も睡眠も取らず、連日人殺しに精を出してらっしゃる社長程ではありませんがねぇ。蒼龍大老、朱雀坊っちゃんはいつ頃こちらにお戻りで?」
「…貴様は知る必要のない事だ。愚かな楼月がグレアムに取り入って何を企もうと、大河の掟は変わらない」
「『裏切り者には死を』」
「付け加えておけ、『一族皆殺し』とな」

ほら、見ろ。
近頃ろくな事がない。全く、人生とは一つ残らず楽しい事ばかりだ。血腥さに腹を抱えて笑い転げそうだ。

「恐ろしいですねぇ。ふふ、それでもまだ怖い人を知っていますよ。貴方よりも社長よりもずっと怖い、陛下を」
「相変わらず、不気味な餓鬼だ。大河には敵わんが、叶もまともではなかろうに」
「従兄の為に自分すら殺せる様な大老には敵いませんよ」
「兄者の望みとあらば、神をも手に掛ける覚悟だ。何なら美国に巣食う黒き神に伝えておけ、狗が」

三歳になる頃には自由と言う名の姥捨て山、狭い狭い宵の宮から出て海を飛び越え、眠らない香港でメタンガスと黄砂と潮風に晒されて、肌は荒れる一方だ。

「…玩具だの狗だの、あっちこっちで好き勝手言ってくれやがる。」

5才になる頃には、海の向こうの大学へ放り込まれるのと同時に神の従者、小間使いとどう違うのかは未だに謎だった。知りたくもない。



「ふふ。今の話を聞きましたか、美月坊っちゃん」
「っ」
「糞程笑えるじゃねぇか、なぁ?馬鹿なパパのお陰で、テメェらは近々一族皆殺しだそうですよ」

近頃やって来た、ろくに広東語も喋れない子供は生きたゴミの様な扱い。日本では満足に飯も食わせて貰っていなかったと言うだけに、やって来た時は笑えるほど痩せていた。
ほんの数ヶ月で肉がついてきた様な気がするが、未だに兄である美月の傍から離れない。もうじき五歳になるにも関わらず、だ。

不思議そうに首を傾げている黒髪の子供は、同じく黒髪の美月の背後に隠れてちらちらと窺ってくる。中国語の会話だからか、殆ど理解出来ていない様なのは、少なくとも美月にとっては幸いだったに違いなかった。

「貴様らを殺すのが次の仕事になるかもなぁ。くっく」
「飽きもせずヘラヘラと、気色悪い…。ユエが使い込んだ金は吾が返しておく。汝は知らぬ存ぜぬを通せば良い」
「へぇ、知らぬ存ぜぬ…ねぇ?」
「金は何年懸かっても必ず支払う。勿論、ユエの提示した金額よりも多く」
「地獄の沙汰も金次第とは、住み易い世界になりましたねぇ、祭美月。噂のユエからは、たった2000元ぽっちで神の子を殺して成り代われと言われましたが、馬鹿馬鹿しくてやってられないと思っていた頃でしてねぇ」
「成り代われ…だと?グレアムの嫡男に、汝が?」
「整形してルークになれと言うんです、お前さんの馬鹿な父親が。決め手は肌が白いからだそうですよ。ああ、何処まで馬鹿なんだか!愉快ですねぇ、ええ」

子供は純粋だなどと宣う馬鹿を度々見掛けるが、叶二葉は信じていない。生まれてこの方、自分が純粋だった試しがないからだ。目の前の祭美月もまた、大差ない。
父親の目を盗んで多額の投資で稼いでおり、母親に似たのか神童と呼ばれるほどには聡明な為、楼月には従えないが美月には従えると言う人間だけが、今の祭家に残っている。

「とは言え、素直に楼月の命令など聞いてやる私ではありません。うふふ、コネはより大きい方が合理的でしょう?キング=ノアに手っ取り早く取り入ろうと、アルビノの餓鬼に近寄ったまでの事」
「何と呆れた男か…」
「今ならあの時の私に同じ台詞を言ってやりますよ。あんな化け物だと知っていれば、近寄りませんでした」

何にせよ、ずる賢い楼月がいつまで生き残れるかは、わざわざ計算する必要もない事だ。

「それにしても楼月は浅はかですねぇ、誰に似たんだか。確かに私の肌は一般のアジア人より白いかも知れませんが、ヨーロピアンな枢機卿は天性のアルビノだと言うのに」
「汝より白い男なのか」
「それはもう、冗談の様に真っ白でしたよ、瞳以外は。髪を白く染めようと、白粉を塗りたくろうと所詮キュービックジルコニアは、天然のダイアモンドにはなれない」

ああ、まただ。
片目にだけ巻いていた眼帯の紐が外れた。酷くなる乱視と過感光で、日中はまともに瞼を開けていられないのに。

「…汝、暫く見ない内に、その右目の色はどうした?」
「おや、目敏い事で。祭の跡取りには関係のない事ですよ」
「アメリカに戻るのであれば、此処の青蘭を連れていって欲しい」
「ご期待下さっているなら申し訳ありませんがねぇ、私はアメリカへは戻りませんよ?」
「何だと…?汝、朱雀の警護につく為に呼び戻されたんじゃないのか?!」
「ああ、成程。姿が見えないと思えば、朱雀はシアトルの祖母の元ですか。亡くなった朱花様は妾の娘でしたからねぇ、流石にマンハッタンの本家に囲われる訳には行きませんか。何処へ行っても厄介者扱いとは、あの子も可哀想に」

米軍将校の屋敷は大陸の東の端、今頃中国の王子様は寒い寒い大陸の北の外れで軟禁生活だろうか。憐れなものだ。自分の所為で母親が死んでしまったと、罪悪感に震えているのだろうか。

「時期が悪かっただけに、アメリカも中国も一触即発状態には違いないとは言え…ネルヴァ卿が単独で動いている状態で、アメリカに戻る訳には行かない理由がありましてねぇ」
「…ふん、大方、ルークの命令だろうに」
「残念ですが、その質問に関しては答えませんよ。何にせよ、私はこれからイギリスへ参りますのでねぇ?」
「は…?汝が向かうのは、ドイツではないのか」
「愛しい従兄君をお守りしなくてはねぇ。中国の王子様はアメリカに守られているんでしょう?貴方の愚かな父親ならともかく、ステルシリーの真上で騒ぎを起こす馬鹿は居ない」
「…」
「まぁ、居たとしても私にとって大河朱雀など路傍の石も同然。守りたければ自分で守りなさい」
「っ」
「ただ、代わりにその餓鬼は引き受けてあげますよ。少しは使える様に躾しておけば、私も楽になりますからねぇ」

義兄の背後に隠れていた小さな子供。
ああ、憐れなものだ。誰も彼も。一人残らず幸が薄い。可哀想に。

「さて、話は終わりました」

努めて優しげに見えるよう、張りつけている愛想笑いへわざとらしくあざとさを含ませれば、真っ先に肩を跳ねた祭美月が二葉に負けない中性的な美貌を歪めた。
気づいていたが敢えて知らんぷりをしたまま、美月の背後に身を縮めている子供へと手を差し伸べる。まるで救いの手だ。実際はとてもではないが、そんなお綺麗事ではない。笑えるほどに。

「いつまでも兄の尻に張りついていないで、自分からこちらに来なさい、青蘭」
「…」
「駄々を捏ねても無駄ですよ。今から君は私に従わなければいけません」

そう言えば、二葉はこの子供が話している姿を見た事がない。
と言ってもほぼ初対面みたいなものだ。居るか居ないか判らない様な、祭家の名実共にお荷物でしかない厄介者など、今回の様に、幾らかの見返りがなければ気に掛ける事などないだろう。

「おやおや、その顔は困ってますねぇ。言いなりになれと言う事です。日本語で話しているつもりですが、意味は判りますか?」

難儀なものだ。
未だに日本語が堪能とまではいかない美月は、二葉の流暢な日本語を全て理解している訳ではない様に見える。引き換えに、中国の標準語ですら喋れるかどうか怪しい子供は、眉を八の字に歪めて忙しなく美月を見上げている。

以前なら構わず蹴り飛ばしていただろうと、二葉は愛想笑いを少しばかり凍らせたが、以前よりは気が長くなったらしいと独りごちた。これが所謂叩き上げなのだ。鍛えられた。お陰様で。
我儘な神の子と、半月に満たない程度の僅かな夏の思い出と化した、いつかの子供のお陰。皮肉な話ではないか。命を救った引き換えに、失ったのは視力と接点だった。目などどうでも良い。現状より悪化させない方法は既に見つかっている。

だが、接点となればどうだ。

「青蘭。近頃、朱雀が居ない事を不思議に思いませんか?」
「…じゅちぇ?」
「ああ、あの子は身内以外に本名で呼ばれる事を嫌がりますからねぇ。スザクですよ、大河朱雀。知ってるでしょう?」

微かに頷いた子供を、無意識で庇おうとしている男の髪を鷲掴む。弾かれた様に顔を上げた二つ年下の子供が眉を吊り上げるのを見た瞬間、背後から喉元に押しつけられた冷たい金属の感触を認めたのだ。

「おや。こうも簡単に姿を現すとは、お前は忍者には向いていませんね、『名無し』」
「イ尓以為イ尓是誰ロ阿?(貴様、誰に手をあげている?)」
「ご覧の通り、祭美月ですよ。君の飼い主の名前でしょう?」

全く、つくづく愉快だとしか言えない。
四家とは言え、末端でしかない祭が近頃急速に力を増している最たる理由が、お越しになった。いや、初めから居たのだ。息を潜めて気配を絶ったまま、まるで空気の様に、ずっと。

「お前さんの飼い犬は少しおつむが足りない様ですねぇ、ユエお坊っちゃま。この私に気安くナイフを向けるとは何事ですか、三人纏めて殺しますよ?」
「…やめろ李、洋蘭には手を出すな。青蘭が見ている」

気色悪い男だ。
全身黒一色、黒が好きなのか逆に憎んでいるのか、その素顔を一度として見た事がない。判るのは、身体能力の高さは二葉と大差ないか、それ以上と言う事くらいだ。

「入学願書が二人分出ていると窺いましたが、まさかねぇ…ふふ。帝王院学園への進学を画策している事は判っていましたが、まさか犬まで連れ出すつもりとは」
「何を笑っている日本人。王は犬など飼っていない」
「おやおや、珍しく威嚇の台詞以外を喋ったと思えば、名無しの分際で日本人を侮辱するんですか?」
「何を言っている日本人。俺は侮辱などしていない」

この通り、天然なのか計算なのか、時々会話が出来たかと思えば会話にはならないのだから、何処かの誰かの様ではないか。
黒一色の忍者被れの方がマシか、白一色の吸血鬼被れの方がマシか、二葉には判らなかった。吸血鬼の言葉を借りるなら、『興味がない』のだ。どうでも良い。全てが。特に今は。

「相変わらずこの国は愉快ですねぇ。流石のお馬鹿ちゃんも、息子の魂胆を知れば怒り狂うんじゃないですか?親元を離れて日本へ渡るだけならともかく、この家の守り神にも等しい死神を連れ出せば…」
「ふ、汝らしからぬ邪推をする。楼月を丸め込むのは、汝の悍しい笑みを消すより容易い事」
「おやおや。王蒼龍にしてもお前さんにしても、恐いもの知らずしかいないんですかねぇ。とみに、この香港には」

二葉が知っているのは、美月だけを守る為に祭に巣食っている、死神と呼ばれている男だと言う事だけだ。
実年齢も本名も知らない。美月だけが、いつからか『李』と呼ぶ様になった。飼い犬が名無し名無しと嘲られてる事に、飼い主が耐えられなかったのだろうか。何にせよ、幸せな子供の考えだと思えてならない。

「朱雀から大河の名を剥奪しようと、血は消しようがない。無駄だと思いませんか?悪足掻きなら尚の事、時間と労力の無駄は娯楽的であっても、決して合理的ではない」

名前など、己を他と差別化するただの識別記号だ。それ以上でもそれ以下でもない。

「ああ、そうだ。わざわざ私に預けずとも、この犬に子守りをさせれば良いんじゃないですか?」
「…李は吾から離れる事を承諾しない。青蘭を守る為には、この国に置いておく事か望ましくないくらい、考えずとも判る」
「相変わらず賢い事で。よくもあの馬鹿からお前さんの様な子供が出来たものです、奥様のお陰でしょうねぇ」
「吾とて、出来るものなら汝などに頼みたくはない…!」

例えば、『宵の宮』だろうと、『洋蘭』『貴様』『お人形』『出来損ない』『死に損ない』『セカンド』、ああ、並べ立てれば切りがない。『ネイキッド』だろうが『叶二葉』だろうが、だ。

どう呼ばれようと同じだ。

「でしょうねぇ。出来ないから頭を下げているんでしょう?理解してあげますよ、祭美月。同じ大河からの食客だった私と名無し、どちらがより自由に動ける立場であるのか。確かにそれは、考えずとも判る話ですからねぇ」

くすくすと、判り切った話をわざと口して、嘲笑を零す。
八つ当たりと言われれば返す言葉などなかった。そう、これは全て惨めな八つ当たりなのだ。

「祭の客でありながら大河の狗でしかない名無しと、ルーク=フェイン=グレアムのコネを得た私。些細な違いは、檻の中で『神の子』と言う鍵を持つか、否か。それだけなのにねぇ、大きな違いですよ」

今の自分はまるで脱け殻のよう。冬へと突き進む秋の最中に忘れられた、蝉の脱け殻。踏めばくしゃりと崩れと粉と化す、その手前。形を残したまま風化していくばかり、誰にも気づかれないまま。

「別れの時間が必要なら、一時間ほど差し上げましょう。麗しき兄弟愛を語るも良し、…ああ、とは言え、片言の日本語と片言ですら怪しい中国語が入れ混ざるコントみたいな会話を披露して下さるなら、是非とも傍聴させて頂きたいものです」

従順な死神は息を潜めたまま、マネキンの様に。
泣きそうな表情で、けれど兄の決して流暢ではない日本語の単語単語に健気に頷いている子供は、最後には覚悟を決めた眼差しで。
それを見た兄は、心の底から愛しいと言わんばかりの笑みを湛え、別れを惜しむ様に弟の姿を網膜に焼きつけている。


ああ、自分にはもう何もないのに。
生きとし生ける全ての者へ降り注ぐ『太陽』ですら、豪雨の中で見失ってしまったと言うのに、だ。



「そろそろ宜しいでしょうか。
 さて、他に別れが必要な相手はいませんか、青蘭。例えばそう、…リヒト=エテルバルドには会わなくても宜しいんですか?」

みっともない八つ当たり。
目を限界まで見開いた子供が、たった今の今までの覚悟の表情を容易く失うのを見た。この目で。

「…そう言えば、二度も命の危険に晒された彼は、大切に保護されているんでしたか。確か今は日本で暮らしているそうですよ?可哀想に、入れ違いでしたねぇ、青蘭」
「…」
「何だったか、内臓破裂で一度は心停止した子供が奇跡的に生き返ったとか。その子は類稀な才能を与えられた、正に神の子だったと言う話ですが、世界の宝を失わずに済んで良かったですよねぇ?」

敢えて捲し立てる様な早口の日本語を。まるで暴力の様に、抗う言葉を知らない無知な幼子へ。

「万一、高野健吾が死んでいれば、引き換えに助かった『何処かの誰か』は、死んでも償えない所でした。…意味は判りますか、錦織要君?」

名前に意味などない。
『糞餓鬼』でも『君』でも『祭青蘭』でも『錦織要』でも、二葉にとっては等しく全て、今日から増えた荷物の一つ、つまりはただの他人だ。


「人の命を犠牲に救われたなんて、それこそ死んでもごめんですよねぇ…」

お前と呼ぶと唇を尖らせて訂正しろと睨めつけてきた子供だけが、恐らく両目を失おうと生涯、色褪せないに違いなかった。
あの子は文字通り、宵の宮と謗られた男の元へやって来た、太陽なのだから。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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