帝王院高等学校
避難指示!走れや走れ、何処までも!
はたりと目を開いた彼は、その状態で習慣の様にパタパタと枕元を漁って、眇めた目元そのままに起き上がり、鋭く舌打ちした。

「…何な、眼鏡がなか」

どう見ても『喧嘩上等』と刺繍された特効服が似合いそうな低い声で呟きながら、ガリガリと前髪を掻いた男は、指先に触れた慣れた感触に眇めていた目を丸める。ああ、使い古された王道スペースに眼鏡があった。まるでカチューシャの如く、前髪の上に。

「おっとっと。僕とした事が、迂闊にも素手でレンズに触ってしまうとは!眼鏡愛好家としてあるまじき失態です!」

しゅばっとポケットから細身の眼鏡ケースを取り出し、パカッと開いた中から眼鏡拭きを取り出した男は、キュキュキュと光の早さで磨き上げ、シュパァン!とパイルダーオンだ。
一仕事終えたとばかりに息を吐き、キョロキョロと辺りを見回した彼は、そこが余りにも暗い事に気づいた。

「真っ暗だ…。真っ暗なのに眼鏡を無意識に磨き上げてしまった僕って、馬鹿…?」

闇の中で恥ずかしげに頭を掻いた男は、パタパタと周囲に手を伸ばす。少なくとも、此処が自分の部屋ではない事は明らかだ。

「っと、皆さーん!どなたかいらっしゃいますか〜?!野上ですー!どなたかいらっしゃいましたら、出席番号順にお返事して下さいませんか〜!い、一番っ!ととと、遠野俊…君!」

きゃ!フルネームで呼んじゃった!
とばかりに顔を覆った男の眼鏡が派手にズレたが、今度は気にしていない。手で地面を確かめながら、ずりずりと四つん這いで進んだ男は、ぽやりと遠くで光の様なものを見た。

そこからの行動は早い。
一年Sクラス30名の中から、帝君の指名と言う名の完全な押しつけで級長に選ばれた野上直哉は、人知れずクラスの雑用で放課後を費やし、時には昼食の時間を削り、また時には東雲村崎からご褒美の駄菓子を与えられて満足しつつある己に気づいていたが、近頃ではそんなストレス社会を受け入れている。
Sクラスたる者、少々のストレスは最早生きる上での必要なスパイスだ。そんな過労死する人間の考え方を、15歳で受け入れてしまった彼の将来に不安が残る。

が、最近では自らトラブルを求めている風な野上と言えば、ぼんやりと灯る明かりに向かい、半ば餌に飛びつく犬の様な恍惚めいた表情で息を弾ませた。

「こ、今度は何が起きたのかな…っ?ふ、ふふ、ははは、良か!どげな事件でも良かよ、何でん掛かって来んね!」
『ならば潜れ』

ぞわり、と。
転がる勢いで走り出した野上の背後から、振り返るのも躊躇われる悍しい威圧感が襲ってきた。
初めはとても人の声とは思えなかったそれは、ざわざわと漣の様に、幾つもの声を幾重にも合成した喧騒の如く、囁き続ける。

『不純物だ』
 『メビウスを停止させた』
  『喉に刺さる小骨の如く』
   『穿たれた脱け殻は未だ楔として』
    『…不愉快なのか?』
     『判らない』『どうでも良い』『目障りだ』『興味ない』

足は、ひたすらに逃げ続けた。
本能が振り返るなと狂った様に叫んでいる。本能が訳の判らない言葉を叫ばせようとしている。けれど生きる者全てを容易く呑み込めそうな『それ』は、ずっと、一定の距離を付かず離れず、ついてきた。

『針は』
 『両の腕』
  『望む望まざるに関わらず』
   『【左腕】には理性、【右腕】には本能が宿る』
  『体は脱け殻のまま【空】へ』
 『魂は逃れられない』
『何からも』『初めから』『現世の【王】は【見】やるばかり』

喧騒のまま。
濁った音で。
まるで意思のあるノイズの様に。

『【世】をただ、静かに』
 『楔を壊せ』『そのままでも構わない』『耳障りだ』『静か過ぎる』
  『眩しい』『虚しい』『もう充分だ』『満たされない』

何の声だ、これは。
誰の意思なのだ、これは。
知りたくない。知ってはならない。振り返るな。ならば進み続けるしかない。今来た道と共に、何とも言えない恐ろしい何かにすっぽりと、呑み込まれる前に。

『メビウスを解放せよ』
 『在るがままの姿に』
  『異端を淘汰せよ』
   『刻を宙に還せ』
「っ、ひ…!うわぁあああああっ!!!!!」

形振り構わず、追ってくる不特定多数の声から逃れる様に走り続けて、野上は不覚にも躓いた。
勢いそのまま前へと吹き飛び、地面を転がる様に滑って、弾き飛んだ眼鏡へと無意識で手を伸ばす。



「……………っ、え…?」

けれど。
裸眼では手元の教科書の文字すら怪しい筈の彼の視界に、それは艶やかに映り込んだのだ。
真っ暗だと思っていた世界には夥しい数の星が息吹き、まるで果てのないプラネタリウムの様な世界で、それだけが。白く発光した様に、輪郭を保っている。

「誰、ですか?」

野上の目の前に、真っ白な誰かが浮かんでいた。
髪の長い誰か。彼の腕には真っ白な、そして酷く小さな、何かが抱かれている。余りの目映さに、それが何なのかは判らない。白い誰かだ。
髪の長さだけを見れば女の様にも思えたが、ぼんやりと発光した体の輪郭は、男の様にも思える。

「い…生きている、ん、ですか…?」

神々しいとすら思えた。
これが神の実体だと言われれば、野上でなくとも、信じてしまうに違いない。夢と言うには生々しい。ホラー映画は好きでも嫌いでもないが、観ても恐いと思った事はなかった。
作り物に怯える程、野上は単純な人間ではないと自負している。偶数、本校の普通科定員に時期外れの空きが出たと聞いて、本土に出てみたかったと言うだけで、志願した。負けるつもりはなかった。
進学科に選定された時は、誰にも言ってはいないが、当然だとも思った。
産まれた場所が違っただけだ。帝王院学園の本当は東京にある。
初等部の合格倍率は、コネでもなければ通常平均で8倍。定員500名の狭き門に好奇心だけで受験しても、受かる筈がない。毎年、3500人は落とされているのだ。だから記念受験として息子を受験させる親が多い。提携姉妹校のある地方在住であれば、もっと簡単に入学出来る。本校の余りにも狭き門は、外部受験の場合だけだ。
内部昇校制度を利用すれば、外部受験よりはずっと容易い。欠員が出れば必ず補充される分、金に余裕のある子供であれば、授業料が免除される進学科でなくても、本校に通う事は可能だ。

野上の家は、お世辞でもそこまで裕福とは言えなかった。
元は代々農家を営んできた先祖から継いだ土地を、バブル景気の時代に野上の父親が上手く遣り繰りし、地元では土地成金と揶揄される態度の家に成長したが、お陰様で本業の農家の仕事は全盛期の半分以下で、後は幾つか所有している不動産収益に頼っている。
昔から地元でも有名な勉強が出来る子として持て囃された野上は、是が非でも帝王院本校の卒業資格を手に入れて、大学の選択肢を増やすつもりだ。
帝王院学園の進学科と言うだけで、東大でなくとも、海外の大学も視野に入ってくる。そうでなければ、言葉も文化も違う東の果てにまで来た意味がないではないか。

だから、そんな現実主義者の野上にとって、今のこの光景は素直に受け入れられる様なものではなかった。見て見ぬ振りで通り過ぎたいと思う程には、リアリティーが欠如していたからだ。

「っ、そうだ、他の皆は何処に?おーい、誰か居たら返事を、」
「見つかっちゃったんだね」

目の前の神々しい誰かからわざとらしく顔を背け、ぐるりと辺りを見回した野上は、銀河が滲む目映い夜空の元、闇に融ける見慣れた男を見た。
にこにこと、毒気のない笑みを浮かべた彼だけは、このSFじみた世界で唯一、生きた存在感に思えたのである。

「山田君!良かった、無事だったんだね?!」
「それね、アキちゃんの『本体』なんだよ」
「へっ?」
「見た人間は、お前さんが初めて」

にこにこ。
ゆったり近づいてくる山田太陽の頭の上に、銀に酷く似た、灰色の王冠が乗っていた。ばさりと靡くマントは血に濡れた様に真っ赤で、それだけが余りにも、現実味がない。

「神崎隼人は獣に戻ったよ。錦織要はどうかな」
「山田、君…?」
「左腕と右腕から産まれた始まりと終わり。俺達人間は皆、産まれた瞬間に死ぬ事が約束されている。普段は気にしていない振りをしているだけで、例えば眠る間際、考えた事はないかい?
『宇宙は何処から始まったのだろう?』
『宇宙は何処まで続いているんだろう?』
『始まりは【無】だと言うのは本当かな?』
『でも【無】から何かが産まれたりするのかな?』
『だったら始まりには何が有ったんだろう?』
『それは生きていたのかな?』
『だったら命は何処から始まったのだろう?』
『時間はいつから流れているんだろう?』
『人は何故死ぬんだろう?』
『死ぬ時に自分は、何を考えているのかな?』」

ぞわぞわと、野上の皮膚を目には見えない何かが這う。
まるで撫でる様に、まるで蛇の様に、何かが羽根の様に、ジェルの様に、ああ、けれど見えない。そこには何もない。服を纏う自分の腕だけ。

「俺は左と右から最初に産まれた【中央】だった。零時に産まれた俺達は、産まれた瞬間に【死】が刻まれた。本来、死とは魂の消滅を指すんだ。けれど俺は、その確約された【終焉】から見放されてしまった」
「見放され…?」
「ねぇ、俺達を作ったのが短針と長針なら、その二つの針は誰が作ったのかな?」

終わらない。
終わらない。
答えのない問い掛けばかり笑顔で繰り返す男の微笑みは、終わらない。

「【虚無】から【時限】が産まれたなんて、誰が証明するんだい?」

じりじりと無意識で後退った野上の背中に、ことんと何かが触れた。じわりと振り返れば、目映いそれが背後にある。悲鳴を飲み込み、飛び退く様に足を踏み出せば、すぐ目の前に。



「俺は帰りたいんだ」

漆黒に近い、光一つない茶の双眸を細めた笑顔が、在ったのだ。

「正しい輪廻へ。巡り続けるメビウスの中に。産まれては死ぬ、在り来たりな世の中に。安い漫画の主人公じゃあるまいに、不老不死なんて望んでないんだよ」
「…」
「だってあの子は死んでいく。産まれたその時に、確約されてしまった」
「…」
「無知な【時限】が最後に求めたのは、『怒り』だった。俺は108の欲をすっからかんになるまで吸い出されて、脱け殻のまま産まれたんだ。体はここに残ったまま。感情を全て吸い出された、『壊れた魂』だけで」
「君が何を、言ってるのか…僕には…」
「君が最後の『カルマ』だよ、野上直哉君。あの人は必ず全ての輪廻を紡いでしまうんだ。あの人そのものが歯車だからね」

野上の傍らを通り過ぎた、王の姿をした太陽そっくりな別の『誰か』は、愛おしむばかりの表情で目映い白の体へ手を伸ばした。

「俺の体、早く戻っておいで。俺の猫ちゃん、今度こそ一緒に死のう。いつもお前さんが先に死ぬんだ。俺は馬鹿だから、いつもそれに耐えられない。だからもう、俺は感情なんて要らない。魂に刻みつけた、この執着に瓜二つな依存だけでいい」
「ふざけんな」

最早声すら出ない野上の隣から、その明確な声が響く。
然し目を向けてもそこには何もなく、裸眼の野上は無意識で目を細めたが、悍しい威圧感に呑まれ動きを止めた。恐る恐る目を向けば、白い体に抱きついた平凡顔の王様が、野上を恐ろしい笑顔で見つめている。

「っ?!いっ、今のは僕じゃ…っ」
「まだ消えてなかったんだ。しぶといね、『お前』」
「気安く呼び捨てにしないでくれるかい、『お前』は所詮、俺じゃない」

ああ、やはりだ。
野上の近くから声がすると思ったら、野上の吹き飛んだ眼鏡が落ちていた。慌てて拾い上げれば、レンズに映るその顔は、野上のものとはまるで違う、山田太陽の顔だったのである。

「え?!ややや山田君?!」
「あはは、いいリアクションだねー。ナイスだよ野上君」
「えっ?!何で僕の眼鏡のレンズに山田君がっ?!」
「そこの『偽物』に食べられちゃったんだ」
「ええ?!」

哀れ、思考回路がパンクの寸前の野上は、何度も手元の眼鏡とマントを靡かせる太陽を見比べた。笑みを消し、一切の表情を捨て去った王様の太陽は野上を見ている様で、野上の手元を見ているらしい。

「…誰が偽物だって?」
「お前さんは俺の『業』でしかないだろ」
「何も彼も忘れてのうのうと暮らしてきた癖に、たった15年の人生で俺の『魂』を塗り替えたつもりかい?」
「誰が何と言おうと、山田太陽は俺だけだ。魔法使いが与えてくれた『銘』は、お前さんでもそこの空蝉でもなく、俺だけのものだから」
「図々しい。今にも消えそうな分際で」
「は、機械化文明の平成生まれを舐めるんじゃないよ。イザナギだか帝だか知らないけど、山田太陽は俺だ」
黙れ!

どさりと。
腰が抜けた野上の震える手の中で、にんまり唇を吊り上げた男は「黙らないでいい」と囁いた。
その瞬間、息を詰めていた野上の喉へ、規則正しく空気が送られていく。

「あはは、効かないね。こんな鏡に映んなきゃ存在感を示せない空気以下に成り下がったって、榛原太陽はこの世に俺しかいないんだ。諦めたらどうだい?」
「…この体は余のものだ!」
「死んでも王様のつもりとは、笑わせるね」
「日の国の民は余に跪かねばならぬ!間もなくだ、もう間もなく、あれが108の輪廻を一つへ紡ぐ!重なった鳥居が理の果ての扉を再び開くだろう!天守が命懸けで果たした様に、さすれば余は愛しい猫と共にっ、」
「あの子は俺を選んだよ」

小さな。
そう、人から見れば余りにも小さな薄いレンズの中で、真剣な表情の太陽が吐いた台詞は、もう一人の太陽を言葉を奪うには十分だったらしい。

「天国で産まれたイブ。日本では彼女をイザナミと言う。俺の所為で地獄へ落ちた、可哀想な子。産まれたその時に俺の対である事が確約された、俺の魂の双子。お前さんの猫はもう、何処にも居ない。俺から【憤怒】を奪う前だ、…お前さんは覚えてるだろ?」
「黙…れ」
「俺には内緒で、猫は時限の果てに拘束されていた。引き換えに、地獄の果てに封じされたのは、人を呪いながら滅びた犬の業。それは右腕の業。神の代理である龍でありながら地に落ち、犬に成り果て、ついには地獄で煉獄の炎に灼かれた、『太陽の母』」
「黙れと言っている、小童が!」
「光と空は、始めに陽と陰を産んだ。アダムとイブ。俺と二葉は、高坂日向と嵯峨崎佑壱が最初に産み落とした、生きる時計なんだ。だからお前さんが二葉の元へ帰りたがる様に、二葉は俺の元に帰ってきた。…もう、いいだろ?」
「煩い!」
「前世の記憶を引き継いだ輪廻なんて、一度クリアしたセーブデータみたいなもんだよ。プレイするのは単に惰性だ。新鮮味のないクエストには、面白味がない」
「今すぐ貴様など余の中から永劫に消えてしまえ、屑が!」

ああ。
野上の瞳に、銀河を貫く漆黒の大鎌が見える。現実味のない恐怖を前に人は、悲鳴さえ迸らせる事が出来ないらしい。



「自分で自分の感情を殺してしまうなんて、つくづく因果な業だね、俺は…」

狂気で表情を歪めた王の刃が野上ごと眼鏡を引き裂く瞬間、純白の人影から、ぽたりと光の粒が落とされた。












(まるで涙の様に)


















「つまりあれか?」

ぽんっと、左掌を右手の拳で叩いた男は、わざとらしい程の笑顔を浮かべ後部座席の上等なシートに背中を沈ませた。

「散々御託並べといて、とどのつまりが跡継ぎだの祖父の悲劇だのには全く興味が湧かず、父親から聞いた翌日には忘れてた、と」
「はい。ぶっちゃけ両親の仲が宜しくなかったのもあり、可愛い弟と中々会えないフラストレーソンとか」
「それフラストレーションな」
「あ、そうそれ。…等々、俺個人の様々な感情的要素が複雑に絡み合いまして、結局、俺は『神崎千春』の遺言をぽっくり忘れてました」

懺悔する様に胸元で十字を切った男は、そのまま『南無阿弥陀仏』と宣う。信仰心など微塵も感じない。

「偶々だったんだ。何が切っ掛けだったかも、覚えてない。いつも一人でコンビニに来る奴が、偶々母方の実家の隣の家に引っ越してきた奴で、当時俺も読んでた週刊漫画を読んでて、体格が良くて目付きが悪い所為で異常に絡まれる。そんな奴で」
「見捨てられない感じ?」
「どうかな。今は陽気な千明さんも、昔は尖っていたんですよー」
「若いな」
「段々、気を許してくるのが判るんだ」

ポツリと。零れされた呟きは、懐古的に響いた。

「と言っても、別に人見知りするって感じじゃなかった。単にあの頃はまだ、人慣れしてないだけって雰囲気。年下の癖に変に大人より大人びてて、ランドセルが笑えるほど似合わねぇの」

相槌は高野のものだけだ。然しそれには構わず、自称師匠は思い出を手繰る様に続けていく。

「人の心の中に入り込むのが、抜群にうまい奴だと気づいた時には、俺はアイツの前で何一つ嘘が吐けなかった事を思い知った。俺はアイツの事を知ってるつもりだ。だけどそれが全てとは思えない。なのに、アイツは俺の全てを知ってる。何が切っ掛けだったかも覚えてないのに、俺すら忘れた様な話までアイツは全部覚えてた」
「全部?」
「そう、全部。…有り得ると思う?俺は疑ったね。けど、とうとう降参するしかなくなった。俺すらいつ話したかも覚えてなかった『神崎千春の遺言』を、探し当ててきたんだ」

言ってから、斎藤千明は口元を押さえた。
未だに信じられないと言った彼の仕草が、話の深刻さを告げている様な気がする。
だからこそ、この奇妙な空気を払拭する様に、高野はわざとらしく唇を吊り上げたのだ。

「ひゃっひゃ、単純に自分の物覚えの悪さを暴露したたけだろう?なぁ、そう思わないか、榊?」

高野省吾の高笑いだけが支配する車内で、覗き込まれた榊雅孝は両手で顔を抑え項垂れたまま、一言も言葉を発しなかったのである。呆れすぎて言葉もない、と言った所か。

「榊がファーザーっつってるのは、健吾がなついてる総長君だろ?それがお前の子分だって事は、お前がカルマの黒幕みたいなものじゃないのか?」
「全然黒くないし、カルマの誰かが聞いたら俺が殺されるからやめて!俺は極平凡な専門学生です!グレてたっつったって、精々たまに喧嘩吹っ掛けられて警察に捕まる前に逃げたり、コンビニの前に座ってヤクルト飲んだり、売れない新商品抱えてるって愚痴聞いて買ってあげたり…」
「それヤンキーなのか?」
「自分でも疑問だったんだよッ!それに引き換え、一学年上の榊は結構なワルで、俺ら後輩の恐怖と憧れの男だったんだ!」

わーっと叫び始めた男に、榊以外が素早く耳を塞いだ。
塞いだ所で余りにも意味がない声量だったが、直で鼓膜をシェイクされるよりは、些かマシだろうと思われる。現に、小指で耳を塞いだ三人は、指を抜こうとしない。

「それがいきなり、無免のノーヘルで警察を馬鹿にした走りをしてると思ったら、飛び出してきた猫を避け損ねて事故るとか、お前、お前ぇえ?!…って気持ちになるだろ?!少なくとも斎藤千明さんはなりましたよね!こう、あっちこっち掻き毟りたい気持ちになりましたよねっ!」
「凄いな榊、お前クールビューティー振ってるけど阿呆だなぁ」
「…」

何か言いたげに顔を上げた榊は高野を睨んだが、結局突っ込む事はなく、ちらりと運転席側の外国人を盗み見てから、眼鏡を押し上げた。

「…何にせよ、話は判った」
「あ、納得してくれたっ?だったらもう怒んなよ榊、お前がキレたら俺未だに怖いんだから。後輩には優しくしてネ」
「黙れ。馬鹿の所為で、ファーザーが要らん面倒事を抱えた事が判っただけだろうが」
「ぶー。前から思ってたんだけど榊ってさ、何でそこまですんこに陶酔してるわけ?」

おや?と、高野は無言で眉を跳ねる。
主観的な想像でしかないが、その辺りの話は少なからず、榊にとっては隠しておきたい部類なのではないだろうかと思った。
国籍も職業も果ては年齢までバラバラな五人に、それでも辛うじて共通するのは恐らく『ファーザー』ではないかと、高野は直感で感じている。

「また、だんまりかよ。親友の『ゼロ』には話せて、俺には話せないってか。俺の方が先に榊のこと知ってたのに…」
「そう言う問題じゃないだろう?」
「そう言う問題だもん!」
「もん言うな…」
「判った。千明は榊が大好きなんだな♪」

からっと笑顔で宣った高野に、四人の視線が集まった。
今の日本語は何か可笑しかっただろうかと眉を跳ねた高野は、以前今の様なニュアンスの会話で言葉のチョイスを間違え大失敗していた事もあり、少しばかり焦った様に頬を掻く。

「え、えっと、俺が言ってるのは千明が榊にライクなんじゃないかって、そんな意味合いの奴だぞ?!待て待て待て、4年前に健吾にやらかしてから俺のトラウマになってるんだ、せめて正しく伝わるまで弁解させてくれ」
「高野氏、弁解する程の事は言ってないんじゃない?」
「この阿呆メキシカン崩れに賛成する訳ではないが、私もそう理解する」

白と黒のコントラストから慰めの言葉を受けた高野は、落ち着きを取り戻すべく咳払い一つ、参ったとばかりに両手を上げた。沈黙している斎藤と榊を見る余裕はない。
ピタリと動きを止めた二人は、まるで石の様に動かないからだ。

「この際、高野省吾の心の傷を話してやろう。あれは久し振りにセクシー下着をつけた妻が俺の寝室に入ってきてくれた、4年前の話だ…」
「Oh、その前置き必要ですか〜?」
「馬鹿と阿呆しか居ないのか…」

50絡みのおっさんが盛大に暴露を始めた車内は、いつの間にか青空に包まれている。然しそれに気づいているのは、運転席でハンドルを握っている白人と助手席の黒人だけで、後部座席の黄色人らは気づいているのかいないのか怪しい。

「そりゃ、表面上は小難しい世界情勢ばっか並べ立てた新聞を読んでる振りで、努めて冷静に『お前が俺のベッドに来るなんて珍しいな、明日はハリケーンか?』なんてキリッと引き締めた顔で意地悪を言ったりしたもんだが、あっちの省吾さんは今にも弾けんばかりにギラギラ滾ったさ」
「いや、だからその前置き要るの?トラウマって、奥さんにコック叩き折られたって事?」
「…知るか!私はもう返事をせんからな!ネルヴァ卿は何故この様な下劣な男と交流を持たれたのか、理解に苦しむ…!」

苛立たしさを隠さない助手席の男は目を瞑り、羊を数える様に原子記号を唱え始めた。何番まで言うつもりなのか気にならない事もないが、数年前の妻に思いを馳せている世界的指揮者は鼻の下を伸ばす事に必死で、他人など見てもいない。流石は人の話を聞かない事に定評がある、あの高野健吾の父親なだけはある。

「幾ら敬吾が俺の子ではない事を証明する為とは言え、DNA鑑定に踏み込んだのは失敗だった。あれのお陰で俺の精子密度が薄い事が判明してしまい、佳子が変に悩み始めたんだ。誰がどう見ても健吾は俺の子じゃないか、後ろ姿とか耳の形とか、屁の音までそっくりだ。そして匂いが死ぬほど臭い所もな…」
「Oh、幾らファンでもそこまで知りたくなかったデース。なので今のは忘れますね」
「俺の精子がいつから薄まったのは神のみぞ知る所だが、俺以上に底意地が悪かった親父の指示で、佳子には内緒で俺と健吾のDNA鑑定をした。間違いなく健吾は俺の子供だ。親父はわざわざ佳子に言う必要はないっつった。俺も同意見だ。初めから疑ってなかったけど、調べた後で疑ってなかったと言って、誰が信じる?俺だったら、馬鹿にすんなって怒鳴ってる」

同じ男の身としては、それぞれ思う所があるのだろう。
助手席の男も微かに瞼を開いて、何とも言えない表情を晒していた。

「健吾が大怪我をしてから、何年経ったのか。同じ楽団で回る事も滅多になくて、二人でドイツに戻るのは本当に久し振りだったんだ。冷めた夫婦仲でもな、連絡を取り合うくらいは、殆ど意地か義務みたいに欠かす事はないけど。顔を合わせるのも、まして触った感触も、とっくに忘れてた頃だ」
「奥さんなのに、新しい彼女みたいに見えました?」
「上手い事を言うな、アート君。似た様なもんだ。…然しそんな数年振りの夫婦のいちゃいちゃタイムに、邪魔が入った」
「邪魔?」
「無粋な着信音だ。何故あの時の俺は、着信音を自分の屁の音にしてたのか…」
「いやもう本当に俺が聞きたいんですが、何故なんですか?」

ハンドルを回した陽気なメキシカンも、流石に乾いた笑みだ。

「とにかく、俺は怒りのまま電話に出た。ああ、出たさ。逃がすまいとしっかり妻の肩を抱いて、そそりたつ下半身に『萎えたら殺す』と心の中で励ましながら」
「内心の怒りを悟らせる事もなく?」
「そうとも。そんな複雑な省吾さんの心中も知らず、時差と言う言葉を知ってか知らずか、可愛い一人息子は開口一番ほざいた」

すっと目元を細めた高野は、意味深に手を組んだ。

「…そう、ほざいたんだ。暴れるお母さんにギリギリと手を噛まれているお父さんに向かって、何をそう焦っていたのか、ドイツ語と日本語が混ざった意味不明な台詞で、」
「…で?」
「当時11歳だった可愛い可愛い馬鹿息子は、『ユーヤの尻を囓って妊娠させたかも知れない』、と。ほざいたんだ」

高野省吾以外のほぼ全員が『ブッ』と吹き出した。
が、それは決して屁ではなかったと言う事だけは、末筆として追記しておこう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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