帝王院高等学校
ようこそオヤジーズ楽団の騒がしすぎる皆々様!
「何か、仲良すぎ…」
「は?何か言ったか、武蔵野」
「何かって、お前はアレ見て何とも思わねぇの…?」

何故か背中にくっついてくる男を横目に、アレと指差された前方へと目を向ける。
日本人としては恵まれた体格の二人が、何やら会話を弾ませているのが判った。初対面の印象が宜しくなさそうに思えただけに、何が切っ掛けでああなったかは不明だが、一先ずは安心しても良いだろうと思える。

「強いて言うなら、無駄な争いはない方が良い」
「お前って時々ヤンキーだった事が嘘だったみたいに大人な事言うよね。俺そう言うのついてけない」

何を不貞腐れているのか、ぷいっと顔を背けた男の小さなポニーテールが揺れた。
所謂アパレル関係と呼ばれる服飾系の専門校に通い始めて、周りが異性ばかりだからか色々と弄られているらしく、斎藤千明は今、剃り込み入りの短髪だった高校時代の面影がない。
先月までは自棄にチリチリなパーマを当てて、お前はラテン系のラッパーかと言うドレッド頭だったが、暖かくなってくると色々と不具合が生じる様だ。早い話がシャンプーが面倒臭いと言う理由で、今月に入ってすぐにストレートパーマを掛けたらしい。元の癖のない柔らかな髪はチリチリだった合間に随分伸びており、今やうなじを隠すほどの長さだ。
学校の同期から評判が良かった様で、短髪に戻さず放置している。然し流石に慣れないのか、初めは丁寧にブラッシングをしていたものだが、今や襟足部分をヘアゴムで簡単に纏めるスタイルに落ち着いていた。

「おい」
「…」
「置いていくぞ?お前、土地勘ないだろうが」

佑壱のコシが強く癖が一切ないしなやかな長髪と比べれば、猫毛の小さなテールは可愛らしい子猫の尾の様に見えなくもない。
背中に張りつかれるのは歩き辛いので困るが、そっぽ向いて離れられてはそれよりもまだ困る。こちらの状況など気にしていない前方の二人が、こそこそ話ながら遠ざかってしまうからだ。

「バーカ。榊バカタカ。眼鏡。足長バカ。火傷ばっかしてんなっつーの、バーテンだった癖に。何だよバカ。料理極めてんじゃねーよ、榊の癖に。何だよ医学部行った癖に何で喫茶店の店長やってんだ、バーカ」

置いていくとは言ったものの、一般人を放置していく事は実質不可能だった。
対外実働部の二人が佑壱から預かっていた招待状で同行出来るのは勿論登録された二人だけで、本来なら榊は入場する事が出来なかった筈なのだ。
然し、高野健吾の保護者である省吾が持っていた招待状で榊と斎藤がセキュリティーを抜けた今、高野省吾から離れて行動するのは得策ではなかった。それを説明した所で納得しないだろうと言う事は、背を向けて拗ねている悪友の愚痴の長さが物語っているだろう。

「何で拗ねてるのか判んねぇけど、慰めた方が良いのか?」
「榊って…」
「何だよ」
「デリカシーない奴」
「あ?」
「お前さ、いっぺん此処に来てんだろ?自慢げに電話して来たもんな」

ああ、目敏い。
いや、この場合は賢いと言うべきか。

「そん時も、さっきの警備員の詰め所で来場パス貰った筈だよな?これ」

榊と同じく、斎藤の首には来賓用のパスが掛けられていた。
帝王院学園の象徴でもある、白と金のストライプ柄の紐に繋がれたパスケースには在籍生徒の氏名と、その身内である旨が記載されている。万一のトラブルがあった時に迅速な身元照会が出来るよう、QRコードも入っているものだ。セキュリティーカメラがこれを認識すれば、学園の何処に誰が居るのか即座に判る。

「で、お前は一度外に出た。店の仕込みがあるから」
「…ああ。それが?」
「だったら何でさっき、再入場かどうか聞かれた時、組長だけしか答えなかったんだろうな?」

賢い。
年齢にそぐわず、賢い子供だ。初めから気づいていただろう、聡い子だと。あの子が成長していれば、彼の様になっているのではないかと。思った筈だ。何度も。

「デリカシーなさ過ぎなんだよ、マジで。榊が俺を餓鬼扱いしてんのなんかな、ずっと前から知ってる。大体、夜8時にコンビニでガリガリ君囓ってるだけで『風邪引くぞ』なんて、普通の高校生は言わねぇよ」

そうだ。
思い出した。いや、忘れてなどいない。
いつもいつも、凄まじい程の後悔を抱いて、けれど謝る事も死ぬ事も出来ないまま見守る事しか出来なかった『義弟』が暮らす幸せな家の、隣にある呉服屋の孫息子が夜一人で、アイスキャンディーを咥えていたのだ。
中学生の様だった。つい声を掛けた理由は、あの頃の『義弟』と然程変わらない年頃だったからかも知れない。一番記憶に残っている頃の。

「お前は多分、俺にも赤い髪のオーナーにも隠してる事があるんだ。何でもかんでもいっぺん聞いたら忘れないすんこが、お前だけ『太郎』って呼ぶからな。可笑しいとは思ってた」
「太郎と花子」
「は?」
「『名無し』の代名詞だろう?」
「何?」
「知らない方が良い事がある。お前が言ったんだろう、知らなければ言わずに済むって、な」
「………はぁあ。言ったけど、だからってなぁ…」
「一度湧いた興味はなくならないか」
「そりゃ、さぁ…」

無理もない。
機嫌が直ったのか、そろそろと寄ってきた男が再び背中にくっついてくる。困ったものだ、自分以外の体温など、とうに忘れていたのに。

「なぁ」
「何だよ」
「苦い薬を飲む時に使う、ラップみたいな奴あんじゃん?」
「オブラートか」
「それ。それにさ、こう、ふわっと包んでゼリーで固めてチョコでコーティングした感じでさ、他人事みたいに話してくれてもさ、良いよ」

思わず笑ってしまう。
彼なりの優しさなのか、譲歩されている様で聞き出そうとしているだけではないか。他人の話として聞けば、それはラジオか絵本の読み聞せか、つまり自分達には無関係だと思い込む理由になるだろう。

「ほら、俺ってあんま頭良くねぇしな?」
「確かに」
「おい、謙遜だろうが。そこは否定しとけバカ、本当KY!」
「迂闊に話したら隠し事にならないだろうが」
「俺ら友達じゃん。俺のが先にお前の事知ってたのにさ、薄情なお前は俺を家出息子と勘違いして『親からアイスしか食べさせて貰えないのか』なんて上から目線で来やがって、食後のデザートだろうが。ガリガリ君だけで治まると思うなや、育ち盛りの腹が」
「随分根に持つな、何年前の話だ」

聞きたいけど下手に知って後で悩みたくない、そんな本音が見え隠れする台詞は、やはり年相応の若さを感じた。

「5年前。俺は忘れねぇぞ、派手にバイクで事故ったお前がピンピンしてて、マジでビビったかんな」
「…そうだったな、お前はあの事故を見たんだった」
「そうだよ、救急車呼んでやったの俺だからなっ!怖くなってその場から逃げ出したのは悪かったと思ってるけど、小6だぞ?!無理だろ?!な?!」
「判った判った、襟を引っ張るな。シャツが伸びる」
「榊は段々口が軽くな〜る。アナウンサーみたいに話がしたくな〜る。俺と言う友達が居る癖に、ABSOLUTELYのボスと仲良くしてばっかで俺を蔑ろにした薄情なお前は、話さなければ呪いが掛か〜る」
「ゼロにあれほど喧嘩を吹っ掛けて無事だったのは、後にも先にもお前くらいだろうな武蔵野。ABSOLUTELYにスカウトされて断ったそうだな」
「俺の話は良いんだよ。だって俺、嵯峨崎零人嫌い。俺の前でわざとらしくお前に抱きついたりチューしたりした!もうほんっと、あんな奴がケルベロスの兄貴なんて嘘だもん!」
「だもん言うな」

ぶつぶつと繰り返される呪文じみた台詞に、軽く息を吐いて、前方の背中を見やった。あちらはあちらで何の話をしているのか、ずっと楽しそうだ。

「何だよ、お前なんて本当は俺なんてどうでも良いんだろっ。医学部受けるって言った時だって、気弱な担任が『あ?』っつったもんな。それまでビクビクしてた癖に、『あ?』って!俺なんてどうせ所詮その程度の男さ、千景の前じゃ精一杯背伸びしてる兄ちゃんさ。辛うじて童貞じゃないけど、すんこの方がよっぽど色気あるし、エロ本持ってるし…」

恐らく、そのエロ本は男女ものではない。BLものだ。
流石にそれを説明する気にはならなかった榊は、長くなりそうな自虐ネタに水を差す事にした。どうも武蔵野兄弟は、兄より弟の方が女扱いに長けている様だ。

「判ったから黙れ」
「どうせ薄情な榊はアイツに会ったんだろ。俺と言うものがありながら、赤い髪のオーナーにも言われる癖に。ゼロは気色悪い変態ホモ野郎だから二度と関わるな、って…」
「話を拡大解釈するな、言われてない。オーナーが言ったのは『ゼロに何言われても俺のケー番は言うな、つーか出来るだけ連絡取るな』だ」
「一緒じゃん」
「拡大解釈すれぱな」

カフェに顔を出した優等生ぶった武蔵野千景が、カフェの女性客にホスト顔負けのおねだりを見せたのは、記憶に新しい。けれど幼い頃から弟は何一つ変わっていない天使だと信じている兄馬鹿に、そんな現実を突きつけるのは酷だ。

「俺と嵯峨崎零人、どっちが大事なんだよ!」

同情などすべきではなかったらしい。
周囲から女性の悲鳴じみた声が聞こえてきたが、その前に前方の二人がくるっと見事なターンを決め、驚愕の表情で見つめてくる。高野も高坂も同時に小指を立てると、『出来てんのか?』と言わんばかりの表情だ。
榊は静かに首を振った。眼鏡の下から凄まじく冷えた眼差しを真っ直ぐ向ければ、親父共はそそくさと背を向ける。

『生ホモ』
『んまい』

と言うわざとらしい囁きが聞こえてきたが、斎藤が先程どんな勘違いをしたのか教えてやりたいくらいである。榊は気づいていたが突っ込まなかったので、未だに斎藤青年は中年不倫説を疑っている筈だ。

「…あれ?何で今あの二人、こっち見た?二人の世界を作っていちゃついてたんじゃねぇの…?はっ!もしかして俺の事も狙っ…てねぇか、俺なら俺より榊にするもんな。元ホストなだけに、女性にはお年寄りにも優しいし、頭良い癖にたまに俺よりバカだし、デパ地下に入ると毎回『地下…落ち着く…』とかぼざいてるの気づいてねぇし…」
「大半貶してんじゃねぇかテメェ」
「ほらまた!昔はそんな言葉遣いじゃなかった癖に!お医者さんのボンボンの癖に、悪ぶっちゃって!ゼロの悪影響だ!やっぱ俺が初日で辞めた時にホストから足を洗わせとけば良かった…!ヤクザが店潰しに来たのも、本当はゼロの所為なんだろ?!」
「違う」
「俺には隠さなくて良いから!判ってるから!」
「判ってないだろうが、全然違う。店を潰されたのは、店の経営者が光華会の金を持ち逃げしたからだと説明した通り」
「ゼロを庇ってるんだな…!俺がこんなに嵯峨崎零人死ねって思ってるの判ってて、やきもち焼かせたいんだな?!」
「判ったから、静かにしろ。恥ずかしい」
「実は俺も恥ずかしかったんだけどやめ時が判らんかった。悪い、拗ねるのやめるわ」

無駄に敷地が広い帝王院学園は、あちらこちらに人が溢れている。若い男連れともなると、女性の目が集まるのは無理もないだろう。

「何か…見られてる気が…。榊、やっぱカルマTシャツ脱げって、仲間だと思われて遠巻きにされてるって」
「違うと思うが、ネガティブに何を言っても無駄か」
「判ってんならもっと俺を大事にしろ。店が忙しくても手伝ってやんねぇぞ」
「邪魔ばっかじゃねぇか。勝手に客にサービスしまくったり、釣り銭間違えたり、買い出しに行かせりゃ、蕁麻疹だらけで帰ってくるわ」
「だって…野良猫ちゃんが俺が持ってる魚に寄ってきて、にゃんにゃん鳴くんだもん…!」
「黙れ猫アレルギー患者。鯖を買いに行った筈なのに鯖を持たずに帰ってきて蕁麻疹出されたら、普通はアニサキスを疑うんだ」
「流石の俺も生魚はつまみ食いしねぇよ、ケンゴじゃねぇんだから」
「ケンゴでもするか。お前とファーザーは疑わしいがな」
「俊…強い…胃が…」

眼鏡で垢抜けないイメージの弟とは対照的に、馬鹿だがアパレル系の兄は外見だけは恵まれていた。会話の内容を聞かなければ、年相応のお洒落な青年に見えなくもない。馬鹿だが見た目で得している人間と言う事だ。
流石は遠縁とは言え、神崎隼人の血縁者ではある。然し斎藤の場合、頭が小さく手足が長い体型はイタリア系の血だろう。

「オーナーだけじゃない」
「何が?」
「ゼロにも言えないだろうな」

諦めた様に呟けば、フラワーロードを抜けた。
迷路じみていた視界が開けると、赤煉瓦道がすっと伸びる並木道に出る。白亜の寮方面を揃って眺めている高野と高坂は、それからすぐにヴァルゴ庭園側へ体を向けると、榊の方を微かに振り返った。
スコーピオ方面は、流石にセキュリティーが固い。先に向かわせた対外実働部の三人が見張ってくれているだろう。軽く首を振ると、訳知り顔の高坂が頷いた。高野は良く判らない。口で言うほど馬鹿な男ではない事は、ステルシリー前政権で社長同等の立場にあったネルヴァを友と言える豪胆さから、十二分に窺えるだろう。

「誰にも言えない。言ってはいけない。奇跡と言う布を被せた、それはただの冒涜だ。ユダはユダでも、イスカリオテとタダイは違う」
「難し過ぎて判んねぇ」
「ヤコブの子がタダイ、キリストを死に追いやったユダがイスカリオテだ。彼のキスが、神の子を殺した」
「キス?」
「ユダはどうなったと思う?」

あの男は苦手だ。
今は他人も同然だが、20年前は恐ろしくてならなかった。榊雅孝になる前の、愚かな子供だったあの日は、とても。

「主人を裏切った後、どうなったか」
「幸せに暮らしたんじゃねぇの?裏切ったんだから」
「自殺したんだ」
「はぁ?何それ、バチが当たったとかじゃなくて?」

素直な反応に笑い、口元を押さえた。
そう、人は裏切り者が幸せになる事を許諾しない。だから天罰を与えたがるが、現実にはそう上手い話はないものだ。

「良いか武蔵野、これは俺の話じゃない」
「うんうん。OKOK、カモーン」
「昔、二人きりの兄妹がいた」
「あ?お前は一人っ子だろ」
「…おい、話を聞いてたか?」
「ご、ごめん。そうだった、榊の話じゃなかったんだっけ。今度こそ大丈夫、ごめんね…」

ぽんぽんと背中を叩かれて、どっちが子供扱いしているのかと肩を竦めた。離れて暮らす弟恋しさに、この男は誰にでも子供をあやす様なボディータッチをするのだ。
その所為で、過去に何人かのクラスメートを勘違いさせた事があり、自称彼女数名が修羅場を起こした事があるそうだ。その時の女の恐ろしさがトラウマになり、高校時代に何人かと付き合ってみたが長続きせず、毎回自分から別れ話を持ち掛けては殴られて別れているらしい。詰めが甘い子供だが、優しさが仇になってしまう損な役回りだ。

『お前さんは、可哀想な男だね』

そんな子供を知っている。
小悪魔を演じて、大切な者を守ろうとした子供を。

「兄妹の名前は?」
「仮に、兄を太郎、妹を花子」
「平成版日本昔話誕生。もっとかっちょいい名前にしろよ、ライトとルナとか」
「却下」
「くそ!キラキラネームがバレたか!」

感傷的になってはいけない。善かれ悪かれ昔を懐かしむのは、正しく生きてきた人間だけの権利だ。そうだろう?

「兄妹には顔も知らない兄がいた。会った事もなければ声を聞いた事もない。母親が話してくれるお伽話だけが、兄様の全て」
「会いたかったよな」
「そうだな。兄様は英雄だった。誰もが従い、誰もが崇拝する、その姿は正に生きる神の如く」
「かっちょいい。それは憧れるわ」
「いつか兄様の役に立ちたい。太郎はそう願い、幼い妹を守る事を誓った。兄様の様な英雄になる為に」
「太郎もかっちょいい」
「いいや、そんな良いものじゃない。何年が経ったか、二人の元に初めて互い以外の人間がやってきた。それが太郎と花子の初めての友人になって、太郎は間もなくその友人に想いを寄せる様になった」
「あ。その子、女の子だ」
「ああ。花子にとっては姉が出来た様なもので、二人はすぐに親しくなった。友人にはもう一人、妹の様な存在が居てな。出会った頃はまだ、触ったら壊れるんじゃないかと思うほど小さかった」

いつも、姉の様に慕う女の影に隠れている。
人見知りで恥ずかしがり屋な、淡い赤毛の女の子。

「度々二人が訪ねてくる様になって、何年が経っただろう。太郎の元に、兄様からの使いがやってきた。兄様が呼んでいると言われ、断る理由なんて勿論ない。嬉々として出掛ける事にした」
「やっと兄ちゃんに会えるのか。良かったな」
「初めて会った兄様は、鏡に映る自分に良く似ていた。金髪も、濃い藍色の眼差しも、まるで双子の様に」
「太郎の癖に金髪かよ。日本昔話じゃなくなった、くそぉ」
「兄様は影武者になれと仰った」
「影武者?あ、英雄だから命を狙われたりすんの?」
「そっちじゃない。忙しい自分が自由に動けない代わりに、別の場所に出張しろと言った意味の影武者だ」
「成程、影武者っつーより、ゲームの2Pだな。分身の術みたいな」 

語彙が足りないと、いつか言われた覚えがある。あれから随分時間が経った様な気がするのに、自分はあの頃から殆ど変わっていない様だ。話をオブラートに包んでしまうと、どう話せば良いのか判らなくなってくる。どれが話せるか、どれが話せないか。
少なくとも、優しい子供を二度と傷つけない為に。二度と己の傲慢さで振り回さない様に。後悔をこれ以上、積み重ねない為に。

「そうだな。太郎は勿論快諾したが、その為に、まずは兄様になる為の教育を受ける必要があった。最低限の勉強は母親が教えてくれていたが、太郎が家から出たのはその時が初めてだったんだ。…物凄い世間知らず、と言えば判るか?」
「お使いに行った事もないん?」
「ない。家から出ても、庭先で遊んでるだけだ。他には何処にも行かない。行けない、か」
「何で…って、聞いたら駄目か。駄目だな。うん、俺は聞き役」
「花子と、大好きな人と。簡単には会えなくなる事になった。悩んだ太郎はその事を、大好きな友人にだけ話す事にした。引き留められたら行くのをやめようと、思ったのかも知れない」
「それって引き留められたかったっつー事?」
「鋭いな」
「愛だね〜。その頃、太郎は何歳?」
「二十歳を少し回ったくらい」
「相手の友達は?」
「16・17歳くらいか。花子が11歳になるかならないか、その頃だ」
「あら?兄妹で結構歳が離れてる。そりゃ守りたくなるわな」

けれど友人は引き留めてはくれなかった。まさか兄妹で三角関係になるとは夢にも思わなかったが、告げた想いを受け入れられないと言った女性は、けれど気持ちを否定もしなかった。それどころか快活に、自分はゲイだと秘密を打ち明けてくれた。
後ろ髪を引かれる思いで家を捨て、自分と言う個性を捨て兄に成りきる為に励んだ。

「来る日も来る日も、勉強を重ねる度に自分と兄様は違う人間なのだと思い知らされる」
「そりゃそうだ」
「2年程、過ぎた頃か。久し振りに兄様に呼び出された」

やっと日本語のイントネーションに慣れた。教育係と世話役を兼ねていた男に辛く当たられる事にも慣れて、兄を装う事には未だ慣れてはいなかったが、それなりに取り繕える様にはなった時。

「派遣先と、期限を知らされた」
「うん」
「期限は…無期限」

もう二度と、この国へは戻ってこれないかも知れない。
もう二度と、妹や友人に会えなくなるかも知れない。
そうなったら自分は耐えられるのだろうか。2年会えなかっただけでこんなにも辛いのに、海の向こうの遥か遠い国へ行く事など出来るのだろうか。

「太郎は密かに家へ戻った。年老いた母親は名誉な事だと喜んだが、妹なら引き留めてくれるんじゃないか。そう願って妹を探せば、見知らぬ男と楽しそうに話している姿を見た」
「妹に彼氏登場?!駄目な奴それ〜、心が折れそうな時に見ちゃ駄目な奴〜」
「くっく。ああ、そうかもな。でも太郎は見た。お前の言う通りそこで心が折れて、兄様の元へ帰る事にしたんだ。派遣先に行くにはまだ期間があったから、それまでに心が決まるかも知れないと思ってな」
「決まった?」
「いや、土壇場で逃げ出したくなった」
「若者の定石だよな」
「定石なんて言葉、知ってたのか。賢いじゃないか武蔵野、見直したぞ」
「温厚な俺でも怒るぞ」

ぷりぷり頬を膨らませた男の、膨らんだ皮膚を指で押してみる。ぷすっと空気が抜けて、笑えてきた。

「あ、榊。おっさんズが城に向かって歩いてくぞ。止めなくて良いのか?」
「あれが校舎だ。知らないのか?」
「知ってるよ。すんこの入学案内、見せて貰ったもん」
「嵯峨崎会長はお前がファーザーの友人だって事は、」
「知らない。だけど秀隆さんの顔見知りって事はバレてる。だから監視役になってんだよ、ついでにワラショクの社長さんにも釘刺された。あの人、超恐い」
「………榛原…」
「榊?」
「あ、いや、何でもない」

子供の全てが純粋ではない事を、知っている。痛いほどに。期待しただけ裏切られた時の絶望感も。痛いほどに。

「俊江姉さんの実家、お前の親父さんが働いてんだよな?」
「母親も働いてる。父は外科医で、母は今、非常勤のカウンセラーだ」
「ふーん。夫婦で同じ職場で働いてると、やっぱ母ちゃんの方は旧姓名乗ってたりすんの?俺のババアが親父の仕事手伝ってた時は、斎藤で働いてたんだけど」
「うちは従兄妹で結婚したから、結婚前も結婚後も榊のままだ」
「マジか」
「…父は少々気弱だが真面目な人で、母は穏やかで優しい人だったが、感受性が人より強すぎた。息子の事故で精神的に参ってしまって、余り長い時間は働けなくなってしまったんだ」
「そこを他人事みてぇに言うなよ。母ちゃんの事、大事にしてやれや。うちのクソババアとは大違いだ」

巨大な。
余りも巨大な校舎が見えてくる。
ティアーズキャノン、白と淡いグレーのコントラストが青空に生える、この世の楽園の様な。

これに良く似た、漆黒の建物を知っている。
学園の創設者である帝王院鳳凰が、この校舎のモデルとした城を。

「黒の皇国には」
「ん?」
「中央区に、黒いティアーズキャノンがある」

一瞬目を丸めた斎藤は、口を開きかけて閉じた。流石に中央区の単語で意味を把握したのか、この話には迂闊に返事が出来ないとでも思ったのだろう。賢く、気遣いが上手い男だ。好ましいと思う。

「兄様は初めてこれを目にした時、流石に驚いただろう。セントラルの中枢に控える己の屋敷が、日本にそっくりそのままあるのだから」
「…」
「ルークはどうだっただろう。二歳になる前には渡米していた様だが、あれは満足に外に出られる体ではなかった」

顔色が悪い。
明るく朗らかな心優しい青年が、突如として声色の変わった自分を怪しまない筈がない事は、判りきっている。けれど懸命にも聞かない振りをしてくれる彼は、心清らかな日本人の典型だ。

「そなたが見守ってくれたお陰で、私が絶望へと追いやった秀皇は今まで静かに暮らせたのだろう。…心から礼を言う、斎藤千明」

良い。
誰に告げ口をしようと、どんなに手酷く裏切られようと、後悔だけは二度としないと魂に誓っている。最早死ぬ事すら自分の自由にはならない今、自分を殺せるのは、あの子だけだ。

「エアリアスもサラも、もう居ない。愛しかったエアリアスは守れなかった。…愛らしかったサラは愛してやれなかった。この世を恨み、己の力量も知らず神の座へ手を伸ばしたイスカリオテのユダは、永遠の死を己に課さねばならない」
「さか、き」
「ミラージュがこの城を日本に持ち帰ったんだ。そして帝王院鳳凰がこれを日本に顕現した。その息子、帝王院駿河が今の学園の礎を造り、私に人としての名を与えた…」
「待って榊、もう良い、もう駄目だから…」
「私の初めての、父だった。言葉では語り尽くせない酷い事をした。失った妹の代わりに愛そうと思った義弟は、いつか見た兄の様に聡明で、やはり、私の様な出来損ないとは違い、あの方から愛されるべき子だった」
「榊…!もう良いって!」
「…違う、私は榊雅孝ではない。判っているんだろう、斎藤千明」
「っ」
「私の私としての最期の名は、帝王院帝都だ」

微笑むと言う行為が、苦手だったのはいつだったか。
笑うと言う行為が、こんなに簡単なものだと知ったのはいつだったか。

「そして始まりの名は、アダム」

ああ。
校舎を見上げていた背中が振り返った。早く来いと手招いている高坂の隣、器用に片眉を跳ねて見つめてくる男は、持ち上げた手でわざとらしく耳を押さえている。
些細な音の違いを聞き分ける指揮者の耳が、会話の内容までは判らないとしても「どうした、声が違うぞ?」と告げていた。あの揶揄めいた笑みは、彼のデフォルトだろうか。

「…裏切り者としての名は知らぬ方が良い。我が身を庇う為ではなく、そなたの身を案じての事だ」
「チェンジ」

耐え切れなかったらしいオタクの師匠は、じとっと目を半開きにして呟いた。

「この店のナンバーワン、いつものミヤビちゃん呼んできて」
「ドンペリ入れてくれるなら指名受けてやるよ、武蔵野社長?」
「チェリオでも飲んでろバカ。バカキマサバカ」
「榊雅孝くーーーん」

ポカポカ叩いてくる斎藤の頭上から、新たな指名が入る。上空を見上げて騒いでいる高坂と、首を傾げている高野の背中が揃って振り返った。

「あたしはここよ〜」
「は?!」
「あ、ああーっ!俊江姉さん?!何で?!髪が短くなってんの?!」

狼狽える斎藤と共にポカンと校舎を見上げた榊の視界に、にゅっとそれは現れた。何の前触れもなく、強く押したマヨネーズが飛び出す様に、にゅっと。

「この俺の妻に覆い被さるとはどう言う了見だ…!次第によっては嵯峨崎ごと潰すぞ、間男が!」
「誤解に決まってんでしょうがマジェスティ!」
「ひ、秀隆の兄貴ー!いやー!かっちょいいぃいいい!!!潰せー!嵯峨崎零人、潰せー!」
「んだとコラァ!誰だ俺に喧嘩売ってんのは!」
「俺に決まってんだろうがゼロ!シエから離れろ餓鬼ァ、精神的にも肉体的にも殺すぞ…!」

弾ける遠野秀隆と斎藤千明の怒声に、カフェカルマ店長は思わず目を覆ったのだ。
秀皇はあんな子じゃなかったと言う囁きは、誰にも届かなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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