帝王院高等学校
透明な世界の中に於ける始まりの始まり
真っ暗だった。
光がなければ光を知る事なく、光がなければ影の存在にも気づかないままだったろう。

ドクドクと、脈動が聞こえる。
世界は音の洪水だ。ゴポゴポと水の音が犇めいている。賑やかな代わりに、世界にはまだ色がない。


「通りゃんせ、通りゃんせ」

誰かが撫でる掌の感触。
誰かの歌う声。
幸せそうには思えなかった。絶望の底で、為す術なく祈る様な歌声に聞こえる。

「ここは、どこの、細道じゃ。天神様の、細道じゃ」

悲しい、悲しい、女の声だ。
誰かが笑っている。弱虫と。誰かが囁いている。哀れだと。

「…天神、様。本当に居るなら、迎えに来てくれないかしら」

撫でる。
撫でる。
撫でる。

「5ヶ月経ったのに、生理は来ないまんま。お腹はあの日から、ちっとも膨らんでこない」

まだだ。
もう少し、目覚める為には鍵が足りない。108の業を掻き集めて、命を繋ぐ様に魂をで紡いだ物語が完成した暁に、この身は人になるのだと思う。

「パパに家で待ってて欲しいって言われたのょ。でも仕事を辞める気にはならなかった。それなのに、ママのパパはね、妊娠したって言ったら話も聞かずに出ていけなんて言うの。
 …売り言葉に買い言葉、それなりに誇りにしてた筈の白衣なのに、実際は簡単に脱げるもんでね…」

鳥の如く優雅に、雲の如く自由で。

「後悔なんてしない。苦しんでる患者より秀皇を選んだ。誰に罵られたって、構やしねェ…」

犬の様に賢く、星の脈動に負けぬほど力強く、きっと。もう少しだけ時が進めば、きっと。

「もうすぐパパ、19歳になるの。お仕事も始めて、お仕事が終わったら大学に行って、パパになる為に…」

大丈夫。
孤独な王子様の欲に触れて、少しだけ酔っただけだ。

「医者の癖に想像妊娠なんて、どうしたって信じらんない。でも病院に行く気にはなんないのよ。だって病院で調べた覚えがあるんだもの。妊娠検査薬だって、市販も医療用も大した違いなんかないもの。
 でも変ね、母子手帳が見つかんないのよ。考えれば考えただけ判らなくなるの。記憶力には自信があった筈なのに、判らなくなったの。どうして私、妊娠したんだって思ったのかしら…」

大丈夫。
追い詰められた王子様が譫言の様に繰り返した、『孕め』と言う台詞に支配されただけだ。
貴方の体の中に私の輪郭は存在している。もう少し、もう少し、あの日出会った子供が犯した罪が回り出せば、最後の鍵は解き放たれる。

「かごめ、かごめ。籠の中の、鳥は…」
「シエ」

彼女は引っ越したばかりの狭いアパートの中、ドアが開く気配には気づかなかった。呟く様な歌声を止めて、顔だけ振り返る。

「あら。お帰りなさい、シューちゃん」
「…ベランダで花見でもしてたのか?大分散ったから、流石に葉桜だろう」
「足元にね、お日様に照らされた桜の木の影が出来るの。風で葉っぱが靡くと、花びらが舞ってるみたいにキラキラって。…ほら、綺麗でしょ」
「まだ冷えるから、中に入った方が良い」
「ん。判った」

哀れなお姫様だ。そう囁く声が聞こえる。
弱い人間だから騙される。そう嘲笑う声が聞こえる。
愛しい人を手に入れる為に形振り構わず力を使った男は、日に日に窶れていく妻の肩を抱き寄せた。可哀想に、可哀想に、榛原の力が愛しい人を苦しませてしまった。弱い弱い、自分の所為で。

「今日は迷わなかった?」
「大丈夫、小林さんに送って貰ったんだ」
「あらあら、大学のお友達?」
「会社の先輩」
「あらん。それは駄目ょ、後輩だからってあんまり甘えたら迷惑ょ」
「そうだな。気をつけるよ」
「この辺りはバス停がないから、ドンキーの前の地下鉄乗り場を使った方がイイわょ?日本の地下鉄には乗った事ないけど、世界中探しても日本みたいに時間通り来る電車なんてないんだから」

5歳、初めて見上げた金色の男爵に憧れた、幼い子供は皇子と呼ばれる様になる。
16歳、初めて人を愛した。白衣を纏う年上のお姫様は、あの日憧れた男爵に負けず劣らず聡明で、嘘のない笑みを隠さない人だった。淡い恋心に気づくには暫く懸かったが、滅多に会えないだけに、母の通院日を楽しみにする己を恥じた。

所がどうだろう。
その頃から、義兄が行動を律する様な動きを見せ始めた。日中、監視されている様な気がする。何故だろう。何故だろう。日に日に義兄の雰囲気が、悪くなっていく様な気がする。
そんな時、海外から一人の女がやって来た。名はサラ=フェイン、美しい顔立ちに浮かべる勝ち気な笑みが似合う、栗毛のお姫様だ。

神に兄になって欲しいと望んだ12年後、時計の針が一周する様に年時計が廻ると、17歳の王子様は過ちを犯す事になる。義兄の側から片時も離れない鮮やかな茶髪の女に誘われるまま、手を伸ばしてしまった。
彼女は間もなく子供が出来たと宣った。そんな馬鹿なと思ったが、満足に言い訳をする暇を義兄は許してくれない。初めは狼狽えていた両親も、サラ=フェインが涙ながらに縋りつくと納得し、籍を入れる前になるだろう出産に賛同した。結婚は高等部を卒業してからで良いだろうなどと、笑顔で話し合う大人達に吐き気がする。

「ん。でも地下鉄は使わないかな」
「どうして?」
「節約するんだろう?」
「やーね、通勤費をケチったりしないわょ」
「そう言うなって、俺も頑張るんだ。良い父親になる為に」

十月十日、絶望の底に沈んだ気持ちで過ごした。
その頃には監視が甘くなっており、頻繁に学園を抜け出した王子様は犬だけをお供に、母の通院日以外も白い病院へ通ったのだ。
顔を見るだけで幸せだ。声が聞ければ言う事はない。どんなささいな話でも構わないから、時間が許す限り、色んな話をした。

「お父さんって呼ばせるの?それともパパ?」
「名前で呼ばれるのも良いな。俊江さん、どう?」
「うーん、何か変な感じ。男の人からそう呼ばれたの、シューちゃんが初めてだったのょ」

何度も何度も、それとなくタイミングを窺って。
数少ない休日に合わせて映画館に誘う事に成功した時は、内心、踊る様な気持ちだっただろうか。寂れた商店街の片隅にあると言う総菜屋の、一つ80円のコロッケの味などまともに覚えていない。飾りっけのないTシャツにデニムパンツと言う私服姿を、何度目に焼き付けたか。

「シエ」
「なァに」
「…俺はとても、幸せだ」
「変なパパねィ。私も幸せょ?」

春。
今よりもう少し前、4月に入ってすぐ。子供が産まれた。双子だった様だが、出産に際して医者以外の立ち会いを拒絶したサラ=フェインが、何やら怪しい動きをしている事を突き止めた。
キング=グレアムに初めから不信感を持っていた中央委員会副会長は、中央委員会の職務以外での義弟の登校を認めなくなった頃から、確信に変わっていた様だ。密やかにずっと少しずつ、キングの愛人だろうと目をつけていたサラ=フェインの動向を探っていたらしい。

「何があろうと必ず守るよ。ママも、子供も」
「ん、ありがとパパ」
「絶対にだぞ」
「はい、信じてるわょ」

案の定、日本人の優勢遺伝である黒髪黒目の子供は産まれなかった様だが、双子の片割れは重度のアルビノだと言う。二卵性双生児と見られ、サラ=フェインは何故か、健康体である子供の方を捨てようとしているそうだ。
彼女の真意は定かではないが、誰にも知られずDNA鑑定に踏み出せるチャンスだと小林守義は考えた。

海外マフィアに依頼したらしいサラ=フェインを欺く為に、父親となった王子様は中国へ救いを求めた。形振り構ってはいられない。相手がアジアンマフィアトップの男だろうと、こちらの要求をごり押しするしかなかった。
帝王院財閥の嫡男と言う肩書き以外には何も持たない高校生の話を、然し悪名高い大河白燕は、慈悲深く全て受け入れてくれたのである。

裏社会の支配者は素早く手を回し、サラ=フェインが依頼したマフィアを摩り替えた。そのまま大河が手配した人間らの手に渡った双子の片割れは、日本に置いておけば命が危ういと言う意見で纏まった為、毛髪数本を残して中国へ送られる事となる。
大河社長の元には当時結婚したばかりの妻が居た為、誰にも事情を話せない事から、送られた赤子は大河社長の元ではなく、当時妻が妊娠していた祭楼月と言う男が預かる事になったそうだ。

どう言う経緯で入手したのかは不明だが、サラ=フェインのDNAと赤子のDNA、それらを王子様のDNAと照合した小林守義は「不適合でした」と告げたが、その表情は余り宜しいものではなかったのだ。

『サラと陛下が両親である確率は0%で間違いありません。…然し、単親の場合、サラ=フェインと赤子の遺伝子配列に類似点がない代わりに、陛下のDNA配列とは幾つか合致しました』
『あ、あはは、待って、それ、どう言う事だい?何かの間違えだよ小林先輩、それじゃまるで…』
『産んだ筈のサラは母親ではなく、然し皇子は、恐らくあの子供の父親だろうと思われます』

一人残された双子の半分は、真っ白だった。
何処もかしこも純白で、寝顔はまるで、天使の様だ。

何も考えられない。
誰も何も言えない。言おうとしない。産後の肥立ちが良くないと言う理由で部屋から出てこないサラ=フェインの代わりに、暫く新生児室で過ごさねばならなくなった子供が、漸く連れられてきた。
天使の様な見た目の赤子に王子様の両親は喜び、アルビノと言う持病があろうと分け隔てなく暮らせる為の設備を整え、神威と名付けられた子供を、甲斐甲斐しく世話してくれたものだ。


幸せなのだろう、と、思った。
ハンディキャップこそあれ、賢い赤子は間もなく言葉を覚え、立ち上がった。同世代の子供と比べるまでもなく早い成長に、主治医は何度感嘆の息を吐いたか。

幸せなのだろう、きっと。
この数年、別人の様だった義兄が、ルークと嬉しそうに呼んでくれる。神威とは決して呼ばないが、早く大きくなれと囁き掛ける横顔は、微かに微笑んでいる様に見えた。


それなのにどうして、思い出すのは白衣のあの人ばかり。
中央委員会の職務では足りなかった。義兄に命じられるまま財閥の仕事にも携わる様になったが、それでも、ふとした瞬間に思い出してしまう。

ああ、そう言えば、映画には行けずじまいだった。
賢い犬に封筒を預けて、車の中から彼女の手に渡るのを眺めていたのが最後だ。
自分はあの人に相応しくない。自分はあの人には出会うべきではなかった。こんな子供相手に、それでも対等に話し掛けてくれた彼女は、言ったではないか。

『悩んでる暇なんかねェな。悩んだら手が止まる。だからと言って勘ばっかじゃ無責任だろうが、悩んだ所為で何も出来なずに死なせる命なんざ、あったら駄目だと思うのさァ』
『出来なかった後悔と失敗より、やってからの失敗を選ぶって事?』
『どっちが正しいかなんて決めらんねェ。自己満足だょ、自分にとっての結果論。どっちの後悔がより苦くないか、それだけ』

誕生日がやってきた。
既にはきはきと喋る天使は、明るい内は外に出られないので出来る限り側に居てやった。その間、不幸だった訳じゃない。成長していく幼子を見ているのはきっと楽しかったと思うし、昼間テレビで時代劇を見ているからか父上と呼ばれるのも悪い気分ではなかった。
気紛れに母親面をしてくるサラ=フェインと顔を合わせないよう、その間だけは側から離れたけれど、深夜に仕事を片付けている時、親友二人に挟まれ眠る子供が晒していた寝顔は、大層愛らしかったものだ。

けれど。
いつからか、義兄の雰囲気が再び悪化している事に気づいたのだ。いつも勝ち気な笑みを浮かべていた栗毛のお姫様も、近頃は何かにつけて苛々しているらしい。あちらこちらで喚き散らす声を聞いた。
男子校の敷地内に若い女が居ては事だと、アンダーラインの最下層に部屋を与えていたが、どうも中央委員会執務室に入り浸っては役員らを顎で使っていた様だ。副会長の様に厚顔無恥ならばともかく、会長の子を産んだ異国の女に対して、会計も書記も逆らわなかったのだと思われる。

『秀皇。近頃一ノ瀬君が荒れてる。お前さんの親衛隊も、お前さんが表に姿を現さないから、鬱憤が溜まってて…』
『…私にどうしろと言うんだ』
『っ。お前さんらしくないよ、こんな、全部理事長の言いなりじゃないか…!学園長達は疑ってもいない、息子の一人称が「私」に変わった理由も、息子が授業に出られない理由もっ、』
『何も、疑う事なんかない。義兄さんは素晴らしい方だ』
『秀皇!』
『黙れ。皇のお前が口を出す問題じゃない』

あの時。
どうして素直に友の言葉を受け入れられなかったのか。どうして、いつか憧れ慕った男爵に対する、猜疑心を。振り払うばかりで、受け入れられなかったのか。



「潮時かも知れない」
「潮時?」
「隠れ続ける事に限界を感じましたか?大丈夫ですよ、幾ら恐ろしい男爵と言え、本人自ら連れ戻しに来るとは考えられません。社長のお声がある限り、我々を怪しむ事は不可能です」

遠くない過去を、近頃冷静に思い返せる様になってきた。
あの日、全てを投げ出しても欲しかった人が傍らにいる生活が、自分を人へ近づけてくれているのかもしれない。

「感傷的になってるのかい、会長様?そんな弱気じゃ困るよ、会社はこれからどんどん大きくなるんだから」
「ふふ。そうですよ、社長の仰る通りです。と言っても、我が社の責任者は赤の他人ですがね」
「あはは!それを言ったらおしまいだよ、小林専務!いいじゃん、肩書きなんて何だって」

自分が穏やかになりつつある反面、日に日に弱っていく小さな背中を知っている。その理由さえも、本当は。

「…私は後悔ばかりだ」
「どうしましたか、陛下」
「いや、何でもない。所で、株式に変える手筈は進んでいるか?」
「勿論さ。いつまでも足掛けの雑貨屋じゃいられないからねー。見て見て遠野課長、小林専務。和彰さんがサラリーマン時代に培った人脈の成果、この名刺の数を」
「素晴らしいですねぇ、流石は村井営業部長。昭和生まれの叩き上げ戦士には、あれこれ指示するより、自由にお任せした方が結果を持ってきてくれる様です。最近の若者は指示がなければ動こうとしないだけに、部長の仕事の丁寧さには惚れ惚れしますねぇ。どうしてこれでリストラなんかされたのか」
「管理職が向いてない人だったんだろうねー。現場の方が活きるって、きっと本人も思ってたんじゃない?デスクに張りついてばっかりなんて、僕も勘弁だねー」
「おやおや、それはデスクに張りつくだけの総務課に対する皮肉ですか社長?」

起業して一年が経った。
帝王院秀皇と言う王子様が持っていた特許と株式は、家と共に置いてきてしまったから。個人口座に蓄えていたものを、海外の銀行を幾つか経由して遠野秀隆名義の口座に移し替える為だけのマネーロンダリングも、そろそろ終わる頃だ。

「取り敢えず和彰さんの名義を借りて株式会社としての地位を整えたら、僕らが大学卒業する時期に合わせて拡大していこう。…ま、とっくにスキップしやがった課長には関係ない話だろうけど!」
「駄目ですよ社長、それは内緒ですから。俊江奥様に『実は半年で卒業資格貰っちゃった上に東雲財閥の息子を通して東雲会長のお力を借りる手筈が出来てる』なんて、説明出来ないでしょう?」
「はーいはいはい。…全く、お前さん、本気かい?俊江さんの記憶を消すなんて」
「ああ。賢いシエを疑う訳じゃないがら何一つ事情を話していないからな。帝王院秀皇に関する一切を、忘れて貰いたい」

沈黙は重い。
社員はたったの5人、一人は精力的に取引先を獲得すべく動き回ってくれていて、一人は私用で出掛けている。今月末には解約する手筈の狭いテナントには今、三人だけだ。

「遠野秀隆に塗り替える為とは言え、自分の記憶まで改竄するつもりとはねぇ。…どうなんですか実際の所、社長の催眠は殆ど掛かかっていない様ですが」
「条件づけは済んだ。我が社が株式会社として上場すると同時に、私とシエに魔法が掛かる筈だ」
「条件づけ、ですか」
「直接的な催眠はやっぱり掛けられなくてねー。秀皇の催眠に掛かった僕が、秀皇になりきって秀皇に催眠を掛けると、成功する事が判ったんだ」
「紛らわしいですね。成程、大空坊っちゃんの催眠では耐性があるだけに、陛下に成りきった状態の大空坊っちゃんの催眠には、免疫がないと」
「…正確には少し違うが、まぁ、そう言う事だ。掛かるのは確かめたが、どれほど効果があるかはっきりしていない」
「試したいのは山々だけど、本番前に何度も掛けるとねー…」
「ああ、免疫が出来てしまいますからねぇ」

幸せだ。
例え自分と言う個性が消えてしまっても、自分と言う全てが偽りに塗り替えられたとしても、幸せだ。とても。家に帰れば愛しい人が待っていてくれて、それだけで良い。二度と彼女を悲しませたりしない。

「裏切らない為にも」
「え?」
「秀皇…?」
「…参った。シエの父親が誰だか知っていれば、あんな馬鹿な事をしなかったのに」
「陛下、どう言う意味ですか?」
「僕達に話せない事かい?」
「俊江さんの父親は、遠野龍一郎と言う。覚えてるかオオゾラ、俺達が学園から逃げ出した夜、シエのアパートに駆け込んだ事を」
「勿論だよ。事情を言えない僕らを、何も言わないで泊めてくれたんだもん。あれで思ったんだよね、あの人にならお前さんを任せられる、って」
「あの日の朝方、お前とシエが寝てた時だ。義父さんが尋ねてきたんだ」
「えっ?!知らなかったよ、それ!」
「学園に戻れと言われた」

囁く様に口にしたのは、自分だけの秘密にしておく気持ちが何処かにあったからだ。けれど一人で抱えていた真実を、遠野秀隆になった時に覚えている可能性は0に等しい。

「シエの受精卵は取り除いたと言われて、呆然としたよ」
「…ちょっと待ちなさい、それはどう言う意味ですか?陛下、それでは俊江奥様のお腹の中には…」
「堕胎したって、事…?でも俊江さんはまだ、妊娠してるって…」
「シエは知らないからな」
「そんな馬鹿な事がありますか!俊江奥様の父親と言えば、遠野総合病院の院長でしょう?!だからと言って貴方の子供を勝手に堕胎させるなど、許される事ではありません!」
「落ち着いて先輩!本人が知らない内に堕胎させるなんて、不可能だろ?!」
「オオゾラの声が俺に効く様になった裏技の正体だ」
「「は?!」」
「悪い、今から話す事を俺はお前達の記憶から消すつもりだ。それでも良いなら、聞いてくれるだろうか?」

傲慢だろう。
王子の全てを捨てた今でも自分は、何処までも傲慢な男だ。固唾を飲んで短い沈黙を招いた友人らに、けれどそれ以上話す事などなかった。ただただ、彼らの返答を受け取るまで待つだけで。

「…どうするかい、氷炎の君」
「弱りましたね、白百合の君」
「やめて、それ呼んでたの俺の親衛隊だけだから」
「では時の君。時空猊下、マスタークロノスとしてのご意見をお聞きしても宜しいでしょうか。そろそろ一ノ瀬を迎えに行く時間なので」
「教習所か、いいね。俺も落ち着いたら免許取ろっかな、歯医者の事務で働いてる陽子ちゃんの送り迎えをしてあげるんだ。何かまだニートかフリーターだと思われてるっぽいから、俺」
「ああ、村井営業部長は口が固い方ですからねぇ。流石に帝王院の話まではしていませんが、坊っちゃんが榛原大空である事に初めから気づいてらした方ですし」
「和彰さんは言わないけど、陽子ちゃんとの曖昧な関係にやきもきしてると思うんだ。いきなり家に転がり込んできた不躾な僕を、榛原大空だって知ってて知らんぷりしてくれた上に、住まわせてくれてさ。今じゃ、息子の様に可愛がってくれてる」
「…責任を取ると言う事か?」

尋ねれば、肩を竦めた男の隣で眼鏡を外した専務が頷いた。

「坊っちゃんがリコールした榛原社長と共に、あの時規模縮小せざる得なかった支社で働いていたのですからねぇ。村井部長が本社採用枠に入れずリストラ同然で辞めざる得なくなった直接的な理由は、紛れもなく大空坊っちゃんです。遅かれ早かれでしょうが」
「そうだね、あのまま父さんを辞めさせてなかったらYMDは倒産、2000人以上居た社員は全員路頭に迷ってた。だけど結果論さ」
「ええ、そうでしょうとも。私は坊っちゃんが間違っていたとは思いません」

言いづらい事を躊躇なく口にしてくれる仲間は、無性に腹が立つ事もあるが、有り難い時もあるものだ。苦笑いを浮かべた親友は、けれど自分の行動を肯定するつもりも否定するつもりもない様に思える。

「どっちにしても、村井和彰と言う一人の男性から、俺は職を奪ってしまった。…文通を始めた切っ掛けもね、それなんだ」
「おや?」
「初耳だな」
「最初はねー、時々学園を抜け出して女遊びばっかしまくってる誰かさんにムカついて、女がどれほどのもんだ馬鹿野郎って気持ちでさ。試しに、雑誌で見掛けた都内の女子高生と文通してみたわけ」
「流石は坊っちゃん、理由が不純ですねぇ」
「帝王院の学生だって言ったからかな、初めから経済の話だの小難しい小説の話だの、背伸びしてたもんだよ。つまんないから音信不通にする時期を探ってた頃にさ、友達と喧嘩したって書いてきて…ま、どんな友達だかって話だけど」
「彼氏ですか。良いですねぇ、女子高生は頭の中がすっからかんで」

自分が巻き込んでしまった仲間達は、然し昔から何も変わらない。誰に恥じる事もなく、逃げ隠れしている事を忘れているかの様に。

「だよねー。僕もそう思ったんだけど、何か可哀想になっちゃってさー。表面上は友達って体で書いてるけど、どう見たって年上の彼氏の愚痴なんだもん。理由だって大した事ないし、それまで『私は博学なんですぅ』って無理してる内容だっただけに、やっと本性見せてきたなーって思ったんだ」
「成程、ギャップにやられたと言う奴ですか坊っちゃん。私には全く判りませんが」
「まっさか。人の不幸って端から見れば笑い話だからさー、楽しくて楽しくて」
「…俺が言うのも何だが、お前はもう少し本性を出すな。慎め」

無理をしてそれを演じてくれているのかも知れない。わざとらしく明るい話で盛り上がろうとしているのも、本題に入る前の心のストレッチだろうか。何にせよ、忘れてしまえば思い出しもしない話だ。

「お父さんがリストラされて実はアルバイトしてるって。言い難かっただろうなー、最初は。陽子ちゃん、性格はきついんだけど結構綺麗な字を書くんだ。けど、あの手紙の時だけは走り書きみたいだった。一気に書いて、後悔する前に投函した!って感じでさ、封も雑で、開ける前から剥がれそうだったし」
「で、人の不幸が大好物な社長は意気揚々と慰めの言葉を並べ立てて?」
「絆された女子高生が、本性丸出しで『マジYMD倒産しろ、バルバラ死ね!』って書いてきて?」
「バルバラ…ああ、榛原の事か」
「流石に後悔しましたか社長」
「いんや。僕は間違ってないもんねー。…それに、僕さー、文通する事にした時に偽名名乗ってたし」
「「偽名?」」
「『山田大空』」

悪戯がバレた子供の様に舌を出した男は、自分の恥は言ったぞとばかりにふんぞり返った。

「陽子ちゃんは、僕が榛原社長の息子だってまだ気づいてない。けど和彰さんは知ってる。知ってて、これからどうなるか判らない僕の理想論に賛同してくれて、協力してくれてる。…俺は、あの親子が嫌いじゃないんだ。だから後悔なんてしてないけど、後悔なんてしてないって、時々無性に自分に言い訳したくなる時がある」
「後悔と罪悪感は別だ。それ以前に、嫌いだったら同棲は出来ないだろう」
「ですよねぇ、それもコブつき。いや、父親込み?」
「だよねー。だから秀皇、お前さんは後悔も罪悪感も感じない人生を歩まなきゃいけないよ。僕も、小林専務も、灰皇院を逃げ出した裏切り者って言われようが、後悔なんてしない」
「私は大空坊っちゃんにお仕えしているまでです。皇だの帝王院だのは二の次、後悔などしません」

ああ。
帝王院秀皇と言う男が消え去ろうと、彼らは残り続ける様に。そう祈りながら、然し本心では愛しい家族の幸せを願い、

「…遠野龍一郎は祖父の声を記憶していた」
「え?」
「は?」
「俺すらも古びた写真でしか知らない帝王院鳳凰、灰原最強と言われた榛原晴空よりも力が強かったそうだ。だから俺は院長の声を記憶し、免疫のないオオゾラに完全催眠を掛ける事に成功した」
「待って、何で高が医者がお前さんのお祖父さんを知ってるんだい?」
「確か、鳳凰の宮様は長く海外で暮らされていたのでは?」
「シエの父親は前院長の婿養子に入っている。旧姓は冬月、冬月龍一郎らしい」

彼女の悲しみを取り除こうと言う大義名分の元。

「う、そ…」
「偶然にしたって、そんな事が有り得るなんて…」
「シエには冬月の力が確実に遺伝している。…俺にも少なからず備わっている完全記憶だ。榛原の力がなければ、一度記憶したものを忘れる事が出来ない」

理由などどうでも良い。
けれど彼女から帝王院秀皇と言う男の全てが消え、他の男で塗り替えられる。それが耐えられそうにないだけだ。

「潮時だ。私は既に後悔に沈んで、罪悪感に苛まれている。神威の事を思い出す度に、両親の事を考える度に、未だに居ない子供の事を居ると信じている俊江さんを見る度に、自分が許せなくて堪らない」
「…秀皇」
「義父さんの提示した条件だ。帝王院に関わる一切を清算しろと言われた。…遠野秀隆として、父親になりたいと思う」

胸元のポケットから取り出した戸籍に関する書類を見た二人に、帝王院秀皇は彼として最後に、微笑んだのだ。
(幸せだ)(とても)(だけどさようなら)(新しい幸せの為に)(今度こそ貴方の笑顔だけが存在する世界で)


「Inspire our mind.(新たな人格の誕生を)」

王子様と言う肩書きを、この世から抹消する為に。
(僕は人として幸せになるだろう)

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!