帝王院高等学校
あら!こんな所に悪魔っ子?
「そなたは少し、困った存在だ」

この国は光で満たされている。
初めて訪れた瞬間に感じたそれは、何年経ても変わらない。

この国に住まう黒髪の民は、当たり前にもたらされる太陽の恩赦、その意味を正しく理解しているのだろうか。四つの季節が繰り返される奇跡とその意味を、正しく理解しようとしているだろうか。

「えっと、えっと、みーちゃん?」

極力会わない様に意識していた訳ではないが、それでも敢えて見たいと思わなかった子供が、目の前で首を傾げている。
野良猫でも見つけた様な幼い仕草に、感じたのは懐かしさが甦る様な、懐古的な感情だったかも知れない。けれどそれは、あの時のそれとは掛け離れていた。余りにも。

これが、あの何にも興味を示さなかった駒が珍しく興味を示した、新たな左席委員会会長らしい。
命令しない限り理事会の召集にも応じない、現ノアは刃より鋭く、絶対零度の氷河さえ凍らせる、無慈悲にして無感動な黒の覇者だ。タロットでは山羊を死神と唱うが、あれは自らを羊と呼んでいる。牡羊座のタロットは『皇帝』を示しているそうだ。

初めて目にしたその時から、いつか自分の全てを奪われる事が判った。亡き父に良く似た銀髪の下、毒々しいまでに紅い双眸で真っ直ぐ睨み据えてきたその時から、一つ残らず剥奪されるだろうと。
予感じみたそれが現実になったのは、ルークと呼ばれた子供が9歳になった時だ。奪われる前に与えたのは単に、あの子供の意表を衝いてやろうと思ったからなのかも知れない。
理由など曖昧だ。珍しく顔を痙き攣らせた第一秘書が、思わずと言った体で『正気かね』と呟くほどには、誰もが予想していなかったに違いない。


大人しく戴冠する事を承諾した子供は、表情一つ変えなかった。
大学院までも卒業し、けれど退屈凌ぎでもしたかったのか、稀に教授の真似事をしている事は報告を受けている。それほど暇ならば経営してみるかと尋ねれば、無表情で『仰せのままに』と宣ったのだ。



「秀皇に良く似ていた。余りにも。…賢い子供だ」

黒髪の人間には、それほど覚えがない。
一人は亡き母、それから弟の様な双子、母を亡くし双子の片割れを失って、何十年経った頃だったか。日本から繰り返しアポイントメントがあると偶然聞き、ただの気紛れで応える事にした。

やって来た帝王院駿河と言う男は、稀に見る名君の様だ。
その妻は些か世間知らずの様だったが、強か過ぎる女よりは良き妻として夫を支えるには、充分なのかも知れない。
彼らの一人息子は、聡明にして実直な父親に良く似ていたが、父親とは違って幾らか要領が良かった。裏を返せば、悪戯っ子だったのだ。

「…そして、想像通りナイトに似ている。駿河の父が友と慕った『夜の王』が、遠野夜刀である事は知っている」

好んで日差しを浴びるかの様に、明るい場所、静かな場所を探しては、瞼を閉じる時間が増えた。地下を捨てて日本の大地を再度踏み締めたその時から、飽きもせず。

「遠野夜刀は、夜人の兄」

とても。
とても困った事態だ。
自分の過ちで、ロードが壊してしまった帝王院財閥を二度と誰の手にも触れさせないよう、見守りながら静かに余生を過ごすつもりだったのに。

「夜人の血を継ぐ秀皇の子となれぱ、円卓に亀裂が入るのは必至、か。…そなたは何を考えている、カイルーク」

誰にも邪魔をされない場所を探すのは、とても難しい。
幼い頃からそんな場所を見つけては、飽きもせず昼寝ばかりしていたと言う子供は、何を考えていたのだろう。

神の玉座では駄目なのか。
憎むべき悪魔を殺すだけでは、満足しないのか。
全てを奪われる事は判っていた。あの子が手離さねばならなかった帝王院の名と引き換えに、グレアムの全てを委ねる予感に従った。あの哀れな子羊は、それでもまだ、世界を恨み続けているのだろうか。


賢い子供だと皆が言う。
初めは酔狂が過ぎると言って憚らない者も居たが、愚かしきロードの血を引いていたとしても、ルークは勤勉で、何一つ逆らう事なく、与えられる知識を吸収していった。
気づけば、幼い子供を枢機卿として推挙する事に、反対する者はなかった。

中央情報部の権限を与えれば、瞬く間に社内の恐ろしい数のデータを記憶してしまう。区画保全部の権限を与えれば、瞬く間にアメリカ大陸の地下を開発し、整備を進ませていった。
ルーク=グレアムは神の子だと誰もが謳う。次期ノアに不足なしと誰もが謳う。反して、黒羊は己が必要とされる頃には、逆に興味を失っていた。

5歳、博士号を取得。
6歳、大学に籍を残したまま、気紛れに教授として教壇に立つ。
7歳、中央情報部のデータを全て記憶した。
8歳、区画保全部部長として、当時のセントラルを今のセントラルへと拡大。今や当時の中央区の面影もない。
9歳、神の子と謳われた枢機卿は、正真正銘、神の名を得た。

以降、15歳までは中央区の玉座で経営に励む。
と言う報告の合間に、深夜、日が落ちてから外に出ては、およそ口で説明するのが憚られる様な夜遊びに興じ、元老院が頭を痛めた様だ。
何処の馬の骨とも知らぬ女を孕ませたでは、世間体が悪いと言いたいのだろう。


ならば日本に呼んでみるかと、嘆くアシュレイ執事長に持ち掛けた。元は学園の敷地内で暮らしていたのだから、学生の真似事をさせてみるのも一興だろう。毎日慌ただしい日本の学生には、暇だとほざく余裕はない。
喜び勇んで頷いた執事長に乞われるまま、来日せよと通告した。流石に現ノアがノヴァに従う謂れはないと撥ね付けられる覚悟だったが、想定外に、大人しく了承したのだ。

丁度、高坂日向の警護として叶二葉が来日した頃だと言う事もあったのか、駿河が体調を崩し長期入院する事になってから寂しい暮らしを余儀なくされていた帝王院隆子は、13年振りに戻ってきた子供を孫として迎え、喜んでいる。
対外的には理事長である帝王院帝都の息子として発表しているが、噂とは何処から出るのか、一部では姿を消した帝王院秀皇の隠し子だと言う者も少なくない。

それでも、この三年で随分静かになってきたと思っていた。
18歳になった帝王院神威が、再びその名を捨てるまでたった一年、最後の学生生活が始まったばかりだ。


何故このタイミングで、トラブルの種が現れたのか。
何故このタイミングで、いつか亡くした母の様に快活で、いつか失った義弟の様に聡明で、いつか失った双子の片割れの如く意志の強い眼差しを、知ってしまったのか。

「遠野夜刀の娘婿の名は、遠野龍一郎…」

同じ名前など何処にでも存在する。
あの悪知恵が働き過ぎる一人目の義弟が、簡単にバレる様な真似をする筈がない。だから未だに、冬月龍人は兄を見つけられないままなのだ。
あんなに賢い人間が隠れ続けられる訳はないと高を括って、すぐに見つかると笑っていたのは、何十年前だったろう。

「ノアの玉座に座るのは、一人だけだ。父上が最後まで8代代理を名乗り続けた様に、キング伯父上から継いだ我が玉座は今、カイルークのもの」

哀れな。
余りにも哀れな子供だと、いつからそう思う様になったのか、覚えていない。幼いながら殺意を抱き、不自由を甘んじて受け入れた賢い子供は今、憎み続けた皇帝の座を受け入れて、大人しく学生に擬態している。

どうしてこのままではいけないのか。
秀皇が失った中央委員会会長として、まるで消えた父親の代理を務めるかの如く、生徒の為に職務を果たしている。どうしてこのままではいけないのか。
どうして今、あの哀れな羊の全てを、奪える立場の『ノア』が現れるのか。

「…ナイト、私が与えた銘をそなたが継いでいるのであれば、カイルークはそなたの代理だったと言う事になってしまう。レヴィ=グレアムが兄の座を守り続けた様に、カイルークが守り続けた玉座は、そなたのものだ」

哀れな。
哀れなアリエス、父と同じ銀髪の子供。父と同じ4月生まれの子供。父と同じ、身代わり。
それでは余りにも、哀れではないか。



けれど。
困った事態だと言ったその口で、それを誰に告げるつもりもなかったのは一重に、良い機会だと思ったからだ。

我が名はハーヴェスト=グレアム。
妻はなく、つまりは子もなく、家族と呼べるのは双子の片割れ、哀れにも孫と静かに暮らしていた義弟を呼びつけた自分は、確かに悪魔だろう。

9歳だった。
ルークに譲った爵位、久し振りにノアの名を失って、初めて自由の名の元、日本の土地を踏み締めた。6歳の孫を一人残し、乞われるままやって来てくれた冬月龍人は、仕方ないと呟きながら笑っただろうか。

「再びシリウスの名を名乗って貰えるか」
「…陛下の命令とあらば、家族も名も捨てよう。我らは家族も同然なのだから」
「悪いなシリウス」
「それほど、ルークを可愛がっておるとは知らなんだのう。師君は龍一郎を探す事すらしなかった、血も涙もない男だと思っておったが」
「私もそう思っていたが、歳を取ったと言う事だろう」
「笑えん冗談を言う。…それでは今より、シリウスとしてセントラルへ戻る命、お受け致します」
「そなたに黒の加護があらん事を」

若すぎる皇帝には、幾つもの困難があるだろう。
若すぎる皇帝には、頼れる者など限りなく少ないだろう。
他の誰を犠牲にしても、あの子は幸せにならねばならない。他の誰を犠牲にしても、だ。






「ようこそ遠野俊。私はそなたを、ナイトとして歓迎する」

春の校庭で、桜舞い散る芝生の上、近くから見た黒髪の子供は自由に見えた。何十年も昔に見た幼い帝王院秀皇と同じ様に、酷く楽しげに笑っている。
遠からず、その子供はノアとして祭り上げられるだろう。ルークがその時にどう行動するかは定かではないが、若き皇帝の望むまま進めば良い。

「カイルークがグレアムを重荷に思うのであれば、そなたがカイルークの代理としてノアに染まって貰おう。私の所為で壊れてしまったあの子を笑わせる為に、…悪いがそなたの自由を奪わせて貰う」

誰にも届かない独り言。
亡き母は怒るだろうか。亡き父は呆れるだろうか。俊が夜人と同じ遠野を名乗り、龍一郎に良く似た眼差しで、秀皇に良く似た笑い方をしていると知っても尚、それすら犠牲にしようとしている自分は。

「悪魔がそなたを幸せにする様を大人しく受け入れよ、カイルーク=ノア=グレアム」

本物の悪魔なのかも、知れない。























「ねぇ、私じゃ駄目ですかぁ?」

ああ、まただ。
目を離すとすぐにこれだ。

「ん?何が駄目なんだ?」
「シーザーの彼女になるの…」
「はーいはいはい、カルマ気紛れランチでーす。蜂蜜たっぷりのフレンチトーストはあ、添えてる生クリームとメープルシロップをお好みでどうぞ?」

にこり。
優しげな垂れ目を細めて微笑むイケメンウェイターに、ランチタイムの女性客は目をハートで染める。カウンターで役立たずの烙印を捺され、静かにコーラをアイスコーヒーの如く啜っていた男は、たった今女性のハートをゲットした現役モデルが「尻軽かよ」と呟くのを見たのだ。

「パヤトのお口が悪の呪文を呟いた」
「…あのねえ、ホイホイ抱きつかれてんじゃないっつーの。そんなんだとカルマが笑われるんだからねえ、ボスは自分の立場ってものをもう少し知って欲しいんだけど?」
「む?何か良く判らんが、すまん。手伝える事があるなら俺も…」
「ない。ボスは厨房に入るの禁止、客に話し掛けられても返事しないで大人しく座ってて。判った?」
「はい」

三ヶ月に一度の、カルマメンバーがウェイターとしてカフェを切り盛りするイベントデーで、店内は開店と同時に満席になった。

シンプルな白シャツに黒のロングサロンを巻いた神崎隼人は、カルマに入って初めての参加だ。
元々、自炊が嫌いではなかったらしい隼人は、小学生の頃から包丁を握っており、嵯峨崎佑壱に厨房内に入る事を許されたメンバーの最短記録を塗り替えた。つまみ食いの常習犯である高野健吾は、仕込み段階の料理をつまんで、開店前からゴミ袋に詰められている。

「そろそろ出して欲しいっしょ(°ω°) 真面目に…真面目に働くからさ…(°ω°)」
「女性客が喜んでる間は入ってろってよ。副長命令だぜ?」
「マジかorz」

私はつまみ食いしました、と書かれた貼り紙つきのゴミ袋が、店内入口で客を出迎えていた。細身で軟らかい体躯の健吾だからこそ、膝を抱えたままオブジェと化していられるのだ。
テラスに用意されたバーベキューセットで、黙々とケバブを焼き続けているパフォーマーは、黄色い声を響かせる女性客に囲まれて写真や動画を撮られているが、生来の上がり症故か、全く喋らない。ひたすらケバブを焦がしている。

「そろそろ、誰かユウさんと代わってやれよ…」
「無理だろ。ユウさんのケバブだから次から次に注文が入るんだって」
「代わってやりたいけど代わったら売り上げが下がる、か。…12月の寒空の下、二時間以上ケバブパフォーマンスを続けられる体力は、副総長にしかなかった」
「男らしすぎて何も言えねぇ…!」

ただでさえ次から次に注文が入る厨房は、皿を広げるスペースすら危うい。仕方なく、店内に入りきらず寒空に晒されているテラス客向けのサービスとして外へ飛び出した佑壱は、己が上がり症だった事を忘れていた様だ。
撮影はおやめ下さいと言う切実な願いが、微かに震えている彼の背中から伝わってくる。

単に寒いだけかも知れないが。

「いや、意外と暑かったりしてな」
「燃え盛ってるもんな、バーベキューコンロ」
「炭入れすぎなんじゃねーか?」

とは言え、佑壱と言う最大戦力を失った店内は、最早修羅場だった。料理が出来るメンバーは数える程で、見た目が派手なメンバーは片っ端から客寄せのウェイターに選出されている為、仕込みの食材が減るにつれて、事態は酷さを増していく。

「カナメ、ランチのデザート足りないかも。冷凍庫から代わりになりそうなデザート解凍して」
「単価が同じ様なデザートと言えば…このケーキくらいですか。5cm×3cmで切れば、今日のコーヒーゼリーと大体同じくらいの価格帯です」
「OK。じゃ、先に今ので切り分けとくから。とりあえず5つだけレンチンして」
「待って下さい、解凍モードで1シート50分と書いてあります。この場合は何分チンすれば良いか先に計算しないと…」
「あーもー、適当でよいから!解凍は時間懸かるから、500ワットで掛けて!とりあえず一つ1分で試して、足りなかったら30秒ずつ追加!」

料理も出来るが見た目が恵まれ過ぎている為にウェイターにするしかない隼人は、簡単な盛りつけや火を使わないデザートなどの担当を兼ねており、何だかんだ器用にこなしていた。

「ハヤト、500ワットの温めモードだと、1分30秒が丁度良いみたいです」
「だったら5つで5分、足りなかったらさっきと同じ感じで!あ、並べる時は隣同士ひっつけない様に」
「判りました」

真面目すぎる錦織要を的確に操縦しており、他のメンバーから尊敬の眼差しで見つめられている。

「おい、喰ったかよ。そろそろデザート出しても良いっスか、他の客が待ってるんで」
「きゃ!やだやだ、ユーヤがお願いしてくれるなら追加するから、まだ帰らないっ」
「あー?何でオレがお願いしなきゃなんねーんだよ、面倒臭ぇ。デブになっても構わねーなら、喰いたいもんオレにお願いしろよ。因みにおすすめは、トマトとレタスが入ったヘルシーなベジタブルサンドと、副長が焼いたケバブ入りのスペシャルサンドだぜ?」
「いやーん!ベジタブルサンドとスペシャルサンドお願いしますぅ!」

怠そうに接客している藤倉裕也は、怠そうなわりには追加注文をもぎ取ってくる為、店としては有り難いが厨房は地獄だ。何でツンデレキャラなんだとメンバーからは冷めた目で見つめられているが、ゴミ袋に詰められて写メを撮られている健吾より、働いているだけマシかも知れない。
とは言え、誰もが健吾と同じ目には遭いたくなかった。堂々とサボれるにしても、あれでは目立ちすぎる。

「たまに総長に話し掛ける勇気がある女が居るけど」
「ハヤトさん、カナメさん、ユーヤさんがその都度フォローに入って即終了」
「総長がモテるのは判るけど、うちの幹部って男前が揃いすぎてね?ハヤトさんとユーヤさんなんか、どう見ても中学生じゃねーよな…」
「ユウさんなんか、こないだ二十歳って言われてたぞ」
「あー、あのおばちゃん客からだろ?…総長は25歳って言われてた。とどめに『アンタ、ヤクザでしょ』とかほざいてな」
「怒り狂ったユウさんが塩撒いた事件だろ?」

カフェカルマでは、度々事件が起きるのだ。
ヤクザにしか見えない総長の武勇伝は勿論、背中に立派なタトゥーが入っている副総長がとうとうヤクザにスカウトされただとか、それに怒り狂ってヤクザの家に乗り込んだだの、芸能プロのスカウトに粘られた健吾と裕也が、自分達はあのハヤトの隠し子だと宣って、フライデーが騒いだだの、文春が禿げただの。数えればキリがない。
因みに週刊誌に張り付かれた隼人は激怒し、健吾と裕也の飲み物にバニラエッセンスを1瓶ずつ入れた。泡を吹いた健吾と裕也を横目に鼻で笑った隼人は、佑壱の拳骨を浴びる羽目となる。

食材のご利用は計画的に。

「いや、でも、…ぶっちゃけ、総長は見えるよな…?」
「ああ、本職っぽい人が避けて行くもんな…」
「…ABSOLUTELYの副総帥って、そのヤクザなんだろ?あのぶりっこ野郎がなついてる総長って、やっぱヤクザの息子だったりすんのかな…?」
「学校通ってる気配ねぇから、フリーターかも。でも物凄く頭良いんだろ?ユウさんが言ってたけど、クイズ番組観てた時に、大学レベルの難問を普通に答えてたって」
「俺も総長とお泊まりしたい…っ」
「仕方ねーよ、ユウさんのマンションじゃ俺ら雑魚寝部屋にぶっ込まれて終わりだもん。総長はユウさんの寝室に隔離」
「総長の寝相がなぁ、もう少しアレだったらなぁ…」
「死人が出るよりマシだろ。あの蹴りを浴びて平気なのは、副長だけだ…」

厨房の修羅場を余所に、ウェイター役のメンバーは呟いた。
医学生の本業を軽やかに忘れ、食品衛生管理者の免許をもぎ取ってきた雇われ店長は、とうとう厨房で叫んだのである。

「この忙しい今、腱鞘炎になっちまっただと…?!」
「どんまい、榊の兄貴」
「兄貴、やっぱケンさん来れないって。B級グルメフェスで鹿児島に行ったばっかだって」
「鹿児島か〜。鹿児島って何処だっけ?」

カルマ発足当時、高校にも行かずぶらぶらとフリーターをしていたメンバーの数名も、食品衛生管理者や防火管理者、果ては調理師の免許を取得しカフェの開業に貢献してくれたものだが、今ではそれぞれ自分の道を見つけて、多岐に渡ってスキルを磨いている。
喜ばしい事ではあるが、こんな日は猫の手も借りたいくらいだ。

「ファーザー!」
「どうした太郎、やっぱり俺の出番か?」
「いいえ!ファーザーは厨房に入らないで下さい、余計な仕事が増えます!」
「そろそろ泣いてもイイか?」
「その代わり、既に食い終わってる癖に雑談で粘ってる客と、席待ちの客を追い返して貰えませんか…?」

震えながら手首を押さえた店長は、血走った目で呟いた。いっそギリギリなのだろう、彼の必死さに目頭を押さえたウェイター陣を横目に、カルマ見たさの客足は途切れる気配がない。

「お客様を追い返すのは、感心しないな」
「俺だってそう思いますが、手首が…!この手首が使い物にならない今、他に方法が…!」

カルマの総長に言われたとあらば、否を言う勇気のある客は居ないだろう。ただでさえ、派手なメンバーが多いカルマの中で最も視線を集めているのはシーザーその人だが、話し掛ける勇気のある客は殆どいない。
話し掛けられても四重奏に邪魔をされて、スゴスゴと退散するばかりだ。と言っても、その誰もが四重奏に話し掛けられて喜んでおり、文句を言う者はない。

「それに仕込んでいたランチの材料も底をついたので、どの道、今の客だけで終わらせるしかありません。待たせていた客には申し訳ないと思いますが…」
「ふむ。さっきパヤトとカナタがデザートの話をしていたが、そう言う事か。健吾がコーヒーゼリーをつまみ食いしてしまったから足りないだけだと思ってた」
「お願いしますファーザー、何とか穏便に客を追い返して頂けませんか…!」

然しそれぞれのファン派閥がある中、隼人でも要でも健吾でも裕也でも駄目なのだ。無論、テラスでキャンプファイヤーと化している佑壱も駄目だ。腱鞘炎など気合いで治せと、無理難題を押し付けてくるに決まっている。
誰にも角が立たないのは、全派閥のファンが『貴方は別腹』と口を揃える、シーザーだけだ。加えてホスト顔負けなフェミニストさが売りのシーザーが一言囁けば、客は地に足がつかない気持ちを抱えたまま帰っていくだろう。ふわふわと、シーザーに話し掛けられちゃった、などと鼻歌を歌いながら。

「いや、帰す必要はない」
「は?!」

然し、アイスコーヒーを嗜むマフィアの若き支配者の様な風体で、何杯目かのコーラZEROを飲み干した男は、王冠のクッションを尻に敷いたまま、くるりと椅子を回した。
ボックス席から彼の背中を見つめていた客から、黄色い悲鳴が沸き起こる。

「メニューを変えよう。ランチを、簡単で冬にぴったりなメニューにすれば、俺だって作れる筈だ」
「…は?簡単なメニュー、ですか?」
「材料は何とかなるんだろう?今夜はバータイムは休みだから、冷蔵庫が空になっても困らない」
「確かに、そうですが…。有り合わせの材料で出来るメニューなんて限られてますし、第一オーナーが納得するとは…」
「イチ、おいで」

それまで黙ってケバブを焼いていた男が、肉の塊を隼人に押しつけて飛び込んできた。ケバブも焼けるモデルに黄色い悲鳴が轟くテラスに、女性客の強さを感じるばかりだ。

「お呼びですか総長!ケバブのお代わり要るっスか!」
「太郎が負傷したんだ。ランチの材料も足りなくなった事だし、メニューを変えよう」
「あ?もう仕込み分なくなったのか?随分早いな、榊」
「優秀なウェイター達のお陰様ですよ。すみませんが、他のメニューを仕込むにも、手が…」
「手だと?はん、手首を痛めただけなら気合いで治せ」
「無理です」

想像通りである。
情け容赦ない佑壱は袖を捲り、自分が厨房に入ると宣言した。残り少ない材料で何をするつもりかは謎だが、手の込んだ料理しか作らない佑壱に、今から残りの客を満足させる料理が作れるのか、心配ではある。

「あー、こりゃ、健吾と裕也を買い出しに行かせるしかねぇな…」

冷蔵庫と倉庫を覗いた佑壱は、流石に表情を曇らせた。
明日が定休日なので、今夜はカルマの集会日だ。最近始めたバータイムも今夜は閉店し、育ち盛りのメンバーだけで簡単なパーティーも予定している。
パーティーで使う肉や野菜は残っているが、店で使える様な材料ではなかった。質より量、客から金を取れる様な品質ではない。何よりも素材に煩い佑壱の許容範囲を越えており、それを理解していた榊の想像通り、これを客に提供する気にはならない様だ。

「総長が考えて下さったメニューって何スか?」
「鍋だ」
「鍋?」
「成程」

手首を押さえたまま首を傾げた榊の傍ら、口元に手を当てた佑壱は頷いた。取り急ぎ店で最も大きな鍋に水を張り、様子を窺っていたウェイターに外へと運ばせる。

「寒い中、ずっと待っていてくれたお嬢さんを持て成しもせずに帰す事は、俺には出来ない。今日は三ヶ月に一度の感謝祭なんだから、皆で力を合わせてお客様をお持て成ししよう」

つかつかと倉庫へ入っていった男が、パーティー用の野菜や冷凍庫に保管していた肉の塊を運び出してきた。店内の様子を聞き付け、店の外から不安げな表情で覗き込んでくる客達に、ウェイター陣は揃って肩を竦める。

「総長命令とあらば、この錦織要、両手両足が腱鞘炎になろうとも頑張ります」
「ちょっと待って、鍋はともかく、このケバブどうすんのお?何処まで焼いたらよいか判んないんですけどー、あちっ!」
「仕方ねぇ、健吾と裕也は紙皿と割り箸を買ってこい。店の器だけじゃ足りそうにねぇからな」

凍ったままの肉を出刃包丁で叩き切りながら、赤毛は手早く舎弟らへ指示を出した。客から金が取れない材料ならば、金を取らなければ良いのだ。

「隼人、竜、倭、嵐、お前らは外のコンロに鍋乗せたら、倉庫から乾燥椎茸とありったけのキヌアぶち込め。隼人はそっちで野菜捌いて、火が通り難い奴から鍋に突っ込め」
「はーい、OK♪隼人君の華麗すぎるパフォーマンスが見たい人はあ、テラスに集合ー!」

店の前で待っていた客達が、隼人の呼び声でテラスへと詰め掛けた。所狭しと賑わうテラスは、人口密度があがったのか、単にケバブを焼き続けた為か、寒さを忘れた様だ。

「カルマスペシャルリゾット、無料サービスだ。待てる奴はそっちも喰ってから帰れ」

ランチで腹を満たした筈の店内の客が、揃って『はーい』と声を合わせた。自分が鍋を作るつもりでいたらしい遠野俊だけがぽつりと、カウンターで呟いたのだ。

「イチ、俺は何をすればイイ?」
「隼人が焦がしたケバブを食べて下さい」
「太郎、どうもイチは俺を使えない男だと思っていないか?」
「それについては何とも…」
「ふむ、さっき飲んだコーラが目から出そうだ。…いい加減泣いてもイイですか?」

レンジを凝視しながら、デザートのケーキを量産していた要は、一時間後に『ケーキ5つで6分30秒』と呟いたが、その頃には炊き上がったリゾットで盛り上がるテラスを余所に、店内は無人だったらしい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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