帝王院高等学校
いやん!抱えた時限爆弾はキングサイズ!
(ああ)
(目的は果たされない)
(この物語は形を変えられる運命)
(それに気づいてしまった時に)
(全ては始まりを待たず終わったのだと)







(ああ、この嘆きを誰に理解して貰えるのか)







「残念ですが、育ってませんよ」

エコー画面を指差し、言い難そうに宣う医師の台詞を、何処か他人事の様に聞いている。

「…は?育ってないって、何?」
「跡形もないですね」

雪道の崖を滑り落ちた割りには、軽い打ち身程度で済んだのは奇跡だと言う看護師の台詞も、やはり他人事の様に聞いた。記憶が曖昧だ。

「単独事故だったから仕方ないのかも知れませんがね、この雪の中を歩いて来院するなんて自殺行為ですよ。お子さんは残念でしたが、今回の事故とは無関係だと思います」
「残念って、だから何の話を…」
「一度、大きな病院で診察して貰った方が良いでしょうな。掛かり付けの病院がなければ紹介状を書きますが、希望する病院はあります?」

映画を観ている様だった。
画面越しに他人の生活を盗み見ている様な、臨場感が全くない舞台を眺めているかの様な、一つとして耳に入ってこない。

「この辺りには設備が整った病院が少ないんでね、有名所だとどうしても遠野総合病院になりますか。救急外来だと当日でも診て貰えるんだけど、あ、初診だったら紹介状がなくても受付出来るんだったっけ?」

何処かで聞いた病院の名だと思った様な気がする。笑い話だ。自分の勤務先すら、この時は忘れていたのかも知れない。

「骨折はしてないと思いますが、妊娠してるって言うんじゃなぁ。とにかく、近い内に診て貰って下さいね。外科と産婦人科、市販の検査薬だと結構勘違いもありますから」

無意識に腹を撫でていた。何度も。何度も。掌が痺れるまで、痺れても構わずに、何度も。

「勘違い、って。んな馬鹿な…」

そんな筈はない。だってこんなに膨らんでいるではないかと、腹を撫でながら呟けば、小さな個人医院の年老いた看護師は訳知り顔で頷いた。

「ああ、良くあるんだよ。若い娘さんは」

狭い待ち合い室だ。受付と調剤部が並ぶ小窓を前に、他の患者など 数える程しかいない。常連なのか、腰が曲がった患者と先程まで世間話をしていた癖に。

「期待し過ぎるとね、妊娠してもいないのに想像妊娠するってケースは少なくないんだよ。安定期を過ぎるとそれほど心配なく育つもんだけど、貴方の場合はね…」

気遣わしげを装った、馬鹿にする様な笑みを浮かべた看護師と老女は、若いんだからと宣っている。若いんだから何だと怒鳴り散らさなかったのは、やはり現実味がなかったからだろう。
暫く無視を貫くと興味をなくしたらしく、再び世間話が始まった。耳が遠い患者の為に声を荒らげて話す看護師は、受付に座っている幾らか若い事務員の冷たい眼差しには気づかない。

ああ、税金の話と年金の話はもう良い、お腹一杯だ。
同じ話で盛り上がる女性らに、二人揃って認知症ではないのかと他人事の様に考えた。思考が纏まらない。他の患者など皆無同然なのに、まだ薬は出来ないのだろうか。


「…安定期。およそ16週、大体5ヶ月目の事」

古びたクリニックの壁に掛けられたカレンダーを見上げ、腹を撫でている手とは逆の持て余していた左手を広げた。

「あの子と初めて会ったのは、一昨年の4月。それから、急に見掛けなくなったのが年末頃で、街中で見掛けたのが去年の11月だった…」

今は二月だ。
ああ、再来週はバレンタインではないかと、やはり他人事の様に考えた。男にチョコレートを渡した事など一度もない。毎年毎年、飽きもせずチョコレートを寄越せと怒鳴り込んできた悪友は、めでたく新婚だ。金髪の息子が産まれたと、泣きながら走ってきた時には呆れた覚えがある。

『トシ!悪い、もうお前と結婚してやる事は出来ねぇ!』
『テメェはクソ忙しい第一外科の医局に、ンな訳の判らん事をほざく為だけに乗り込んで来やがったのかィ、おまわり。テメェの脳髄派手にぶちまけんぞ』
『良いから新生児室に来い!俺の天使を見ろ!やべぇのが産まれやがった、あれはもう、天使としか言いようがねぇ…!』
『脳が病気の高坂さん、奥様が竹刀を持ってお越しですょ』
『シェリーの仕事を邪魔するなと言っただろう、ひま!貴様は頭蓋骨をかち割らねば判らんか!』

出産直後に医師の制止を振り払って夫を探しにきた美女は、第一外科を恐怖で染めた挙げ句、ぶち切れた院長に『出ていけ』と追い出された。

「確かに金髪の可愛い赤ちゃんだったわねィ。おまわりに似なきゃイイんだけど…」

今日は鬼を退治する日だ。
そう言えば豆も食べていないし、近頃流行りの恵方巻も食べていない。そもそも、昔からそう言った行事に疎かった。
クリスマスだの誰かの誕生日だの、自分の誕生日だの何だの、365日の何処かに必ずと言って良いほど存在する記念日など、あってない様なものだと思ってきただろうか。バレンタインだと思っても、どんなチョコレートが喜ばれるのかさえ判らない女では、先が見えている。

「節分、ちゃんとやっとけば、良かった。チョコレートなんて、昼飯代わりのチョコバーか板チョコしか買った事ない。女子力が枯渇したママでごめんねィ?あーたが女の子だったから、呆れてるかしらん…」

撫でる。
撫でる。
此処にはもう、何も居ないらしい。小太りの不摂生な医者がそう宣った。勿論、実感などない。だから納得もしていない。これは自分の事ではないのだ。

「あーたが女だったら、女の意地で乗り越えなさいよ。あーたが男だったら、男の癖にホイホイ諦めてんじゃないわよ。私とシューちゃんの子供なんだから、頑張んなさい」

他人事。映画の中の人事。これは自分の事ではない。心の何処かできっと、そう思い込もうとしている。そんな事をしても意味はないと知っている癖に、こんな時は神頼みさえ思い付かない。

「本当にあーた、もう居ないの?」

語りかけようが、撫で続けようが、腹からの返事はなかった。
気が触れた女だとでも思われただろうか、調剤師が呼ぶ声が痙き攣っている気がする。わざわざ話し掛けてきた老いた看護師が、こそこそと遠くで他の看護師に囁いている光景が、視界の端に見えた。

「えっと、遠野さん。貼り薬が出てます。あー…会計はお済みですね、お大事に…」
「どうも」

何かを欲しいと思った事は、実は殆どない。
幼い頃に祖父が大切にしていた十字架のネックレスを欲しがって、随分と彼を困らせた事はあったが、その程度だ。誕生日にプレゼントをねだった事もないし、高校へ通いたければ医者を目指せと吐き捨てた父親に対しても、拒絶する気はなかった。
古い人間は『女だから』だの『女の子はこう』だの、男尊女卑を悪びれなく口にする。学歴なんてなくても女の子だから、などと。

その点に於いて、医療の世界は実に容赦がない。
男だから、女だからなどと言う下らない言い訳は、人の命を左右する世界には不要だからだ。男でも女でも一度白衣を纏えば医者で、それ以外の何でもない。そう言った世界は美しいと思う。近代社会は女が活躍するべきだと、偽善面した政治家のお決まり文句ではないか。

「んな事ほざいてる内は、女を見下してんのよ。女の権利を訴えたがる女なんて、大馬鹿としか言いようがない。『女の権利』って言ってる時点で、テメェ自ら女を差別化してんじゃねェか」

家から出た時は車で、今は徒歩で。
ロードサービスに廃車を依頼したばかりの車には、二度と乗る事はないだろう。

「受精するまで何日も泳いで、泳いで、泳いで、おたまじゃくしが卵の殻を破って、ヤドカリみたいにそこで暮らし始める…」

人間は神秘で溢れている。
肺呼吸を始める前に競泳選手、オリンピアンも真っ青な遠泳を果たした末に、一人暮らしを始めるらしい。一卵性双生児は産まれる前にルームシェアだ。大人びているではないか。

「アンタ、泳ぎすぎて疲れちゃっただけよね。エコーなんてちょっと引っ込んだり重なってる所は映んないし、あんな古いクリニックの設備には疑問しかないし、何かの間違いざます。…大丈夫ょ、お母さんは信じてないからね」

撫でる。
撫でる。
車が通る車道だけ剥き出しのアスファルト、歩道には白い雪があちらこちら残っていた。

「妊娠初期に流産するとね、母体が受精卵を異物だと思って吸収しちゃうんだって。そんな馬鹿な話ないでしょ。幾ら俺…ゴホン、私がおおらかなO型だからって、我が子を食い殺したりするもんですか。足の裏に画鋲が刺さっても気づかない私の子なんだから、きっと元気に決まってる」

出来る限りアスファルトの上を歩き、車が通る時だけ路肩に避ける。

「だってそうじゃない。だって、パパ、あんなに楽しみにしてるのょ…?」

ああ、眼球が熱い。
この寒さで交感神経が麻痺してしまったのだろうか。日本列島が寒波に襲われて、人間にも何らかの異常が現れたのだろうか。

「今更この子まで居なくなったなんて、言える訳ないじゃないの」

今頃、お気に入りの炬燵に潜り込んでいるだろうか。
この数日間、夜遅くまで出掛けていたかと思えば、就職先を見つけてきたと宣った、若き旦那様は。


「大丈夫、よ。大丈夫。絶対、大丈夫」

何が大丈夫なのかは、自分で呟いておきながら判らなかった。
ぼたぼたと頬を滑り落ちた滴が、足元へ足元へ落ちていく。こんな日に外を出歩いている人の姿は皆無で、車が通るのも稀だ。都心部から離れた、山の手の閑散とした冬の昼過ぎ。

「泳ぎ疲れただけなら、ちょっと休んで、また元気に成長しなさい。人より遅れてもイイから、沢山休んで、一人暮らしに飽きたらさ、ひょいっと出てくれば?お母さんはアンタに負けないくらい沢山食べて、沢山寝て、呆れるくらい丈夫な体に産んであげるから」

徒歩で帰りつく頃は、流石に日が沈んでいそうだ。
携帯電話を欲しいと思った事など今の今まで一度としてなかったが、こうも公衆電話を見つけられないとなると、今だけは欲しいかも知れない。そう思った時、携帯で楽しげに誰かと話ながら歩いてくる学生が見えたのだ。
ごしごしと目元を拭って目を逸らせば、恋人と話しているのか、可愛らしく笑う声とすれ違った。小さな声で好きだよと囁いている学生の背中を見つめて、映画のワンシーンを観ている様な感慨に陥る。

「…このお腹がこのまま膨らんだら、携帯電話を契約しよっかな。パパと二人分。その頃には仕事辞めてるかも知れないから、今の内に節約の勉強しとかないと」

物欲はない。
海外でのサバイバルに似た生活で、ある程度の家事は出来る自信がある。若くして父親になる事を覚悟してくれた旦那様の稼ぎが、今の自分の給料の何分の一かは判らないが、決して後悔する事はないと確信しているのだ。

「大丈夫ょ。お母さんはねィ、記憶力だけは自信があんの。教科書読んだだけで、後は大体遊んでたのに受験失敗しなかったんだから」

撫でる。
撫でる。
他人事の様にただただ、腹ばかりを。

「…大丈夫よ。お母さんはねィ、あんなヤブ医者信じてないからね。良く考えたら私も医者ざます、私の触診じゃ、赤ちゃんは無事だと判明しました。だから、…何の問題もないに決まってらァ」

呪いの様に呟き続ける自分の台詞が、人気のない冬の大気へと消えていく。
ふわりと、落ちてきた雪の粒を見上げた。風が強い。冷たさが世界を凍らせる様だ。

「雪だるまになる前にタクシー拾うか。パパには内緒ょ?節約は、明日から死ぬ気で頑張るからねィ」

からからと、風見鶏が回っている軒先。
からからと、アスファルトを転がる空き缶。
からからと、倒れた自転車のタイヤが回っている。



(まるで旋律のないオルゴールの如く)

















「予定を早め、明日帰国する」

傷一つない男は囁く様に宣った。
バトラーに左右を固められたまま、最早自由など世界の何処にもない事を理解する。

「まともな言葉を喋れんか悪魔が。私の帰る国は日本だけ、帰国するのはそなただけだ。早々に失せるが良い、この国はお祖父様のもの。貴様らが土足で踏み込める場ではないと知れ」

周囲の大人達が、僅かに肩を震わせたのが判った。
神に逆らう子供に怒りを煽られたのであれぱ、愚かとしか言えないだろう。その程度で揺らぐ人間など、犬以下だ。

「秀皇の教育の賜物か。幼い身なれど、聡明な面構えは似ていない事もない」
「父上の名前を貴様が口にするな」
「そなたの意思がどうあれ、本国へ連れ帰る決定は覆らん。恨むのであれば、何ら決定権を持たぬ我が身を呪うと良い」

ああ。

「若しくは、私を憎悪するか」

この男を殺せる武器が欲しい。今。
それが『決定権』と言うものであれば、どんな手を使っても手に入れるだけだ。

「秀皇にルークを与えられた子なれば、元老院に不服はあるまい。ネルヴァ、そこの子を明朝、サラ=フェインと共にベルセウスに運べ」
「畏まりました」

初めて出た真っ赤な時計台の外は真っ白だった。
それが雪だと知らなかったから、真っ白な建物が雪に紛れていた事など勿論、知る筈もない。

「駿河と隆子はどうしている?」
「死んだ犬の首輪に『秀隆』と書いてあった為、その名で墓標を用意したのですが、どうも誤解を招いた様で。部下に差し障らない程度で説明をさせております」
「そうか」

最後に見た祖父母が泣きながら抱き合っていた。彼らの眼差しはとうとう一度としてこちらを見る事はなく、最後の最後まで。

「畏れながら陛下、サラ=フェインが子供に会わせろと騒いでおりますが、どう致しますか?」
「それで静かになるのであれば良かろう。ネルヴァ、本国のフェインは何と宣ってきた?」

恐らくは、最初からただの一度として。

「今回の件に関して、我々は無関係だの一言です。あの娘の本当の父親を存じ上げておりますが、通告しておきますか?」
「必要性を感じんな。それについては、そなたに任せる」
「畏まりました」

この畏怖すら感じさせる美しい深紅の塔には、自分の居場所などなかったに違いない。



「どうして…」

見映えばかりを気にしていた『母親』が、酷く乱れた髪の下から血走った目を向けてきた。

「どうしてお前が生きているの…!どうしてあの方は会いに来て下さらないの?!」

と、投げつけられたグラスと言葉が頬を掠めたが、それほど大した事ではない。

「こんなに愛しているのに、どうして…!」

彼女は繰り返し、あの人に会わせろと叫んだ。
彼女の手が届く範囲に置かれていた全てのものが宙を舞い、耳障りな音を発てる。何度も。何度も。男達に取り押さえられようと、安定剤を打たれて眠るまで、繰り返し。

「全く、いつの世も女の金切り声は耳障りでならん。どれ、手当てをしよう」

頬が切れていると誰かが言った。
消毒液の匂い、UVクリームを試してみるかと尋ねる声に、応えるつもりはなかった。選択肢などないも同然だからだ。

「知っておるかのう、師君の名は馬を示すもの。人馬一体と言うが、師君は良き駒になろうよ。陛下も楽しみにしておられる」
「私は悪魔の駒になどならない」
「考え方一つだわ。幾ら幼い身だとして、己が置かれている立場は理解していよう?師君は賢い子であると、帝王院隆子が話しておった」
「お祖母様を気安く呼ぶな、異人種が」
「くっく。およそ日本人とは思えん顔をしておいて、この儂を異人と宣うとはな」

消毒液の匂い。
ベタつくクリームを全身に塗られながら、深い皺が刻まれた手を睨むばかり。言葉通り、選択肢など何処にもない事は知っている。
初めて出た真っ白な世界で、たった山道を下る事さえ出来ず、帝王院の土地から飛び立った人を見つけられもしなかったその時から。学園に戻るなり大人達に拘束されて、見えない鎖に繋がれていたのだと自覚したその時から。

「浅はかにも、己の立場も弁えず持論を宣いたいのであれば、相当の力を得よ。無力な子供には、謳う権利もないわ」
「っ」
「神威だったか?名ばかり仰々しいが、中身が伴っておらんのう」
「貴様如きが私の名を口にするな…!」

殺したいほど憎い悪魔を前に、罵詈雑言ですら投げつける事が出来なかった瞬間から。自分は、愚かしい母親よりも劣る、脆弱な子供でしかないのだと。
痛いほど思い知っているからこそ、力を求める以外の選択肢など何処にもない事は、明らかだ。

「旅立つ前に一つ問おう。そなた、ルークである事を拒絶するか」
「…」
「穢れた大陸と謗るのであれば、そなたが美しいと思うこの島に残る道を与えんでもない。但し、此処以外の別の場所だ」
「…」
「どちらにせよ、そなたが最も大切にしている『名』を捨てねばならぬ。海を渡るにせよ、残るにせよ」

悪魔が空の上で囁いた台詞に対して素直に従った自分は、今日まで唯一の宝だと信じてきた名を捨てねばならないそうだ。
優しかった祖父母の元に残る道はないらしい。彼らが残された孫を煩わしく思ったのか、それとも目障りだから連れていけと望んだのか、定かではない。

「我らグレアムに与えられた統率符は『名』であり『銘』となる。我が名はキング=ノア=グレアム。私が抱くノアの銘がノヴァに変わりしその時は、そなたが黒を与えられるだろう」
「…黒」
「神々の玉座の色だとされている。光に満ちた人の世を白と謳うのであれば、我らは光から遠い灰の世を歩く事を宿命づけられた者」

理由を聞いた所で何も変わらないからだ。惨めに縋りついた所で、あの優しい人々を困らせたくなかったからだ。理由などどうでも良い、単に、今以上に嫌われたくなかった。それだけ。

「空を捨てる覚悟はあるか」
「…元より、太陽に憎まれた躯」
「良かろう。そなたは今より、カイルーク=フェイン=グレアムとなる。十代男爵に相応しい駒となるよう、励むが良い」
「力を得る為だ。そなたに従った覚えはない」

これが。
あの聡明にして気高く凛々しかった父が、あれほど尊敬していた『義兄さん』なのだろうか。
あれほど賢かった人を憎悪で染めて、あれほど気高かった人が逃げねばならないほどに追い詰められて、家も、立場も、力も、培ってきた全てを捨てなければならなくなった原因なのだろうか。

「好きにせよ。そなたの魂胆がどうであれ、興味はない」

穢れた悪魔の表情は人形の様に思えた。
けれど鏡に映る己を初めて見た時に、握った櫛で鏡面を叩き割った理由は一つだけだった。



どうして自分は、あの忌々しい悪魔と同じ顔をしているのか、と。














『ステルシリーアウトプラント・オーバードライブ』

水の音だ。
それから、酷く耳障りな女の金切り声が遠くの方で。

『半径2km圏内に敷かれたジャミングを解除しました。衛星サーバーにより回線を解放しています。コード:マジェスティルーク、応答願います』

ちろちろと、水が足元を流れていた。
芝生に赤煉瓦を敷き詰めた、小さな水路が続いている。あれは水瓶座と魚座の噴水を繋ぐ、小さな運河だ。

『コード:マジェスティルーク、応答願います』
「…マジェスティ。ああ、私の事か」
『お加減はお変わりないでしょうか。12柱の内、10柱の枢機卿より通信要請が入っております』

いつかこの手は、黒に光を差してノヴァへと崩壊した悪魔の玉座で染まった。名に新たなノアを与えられて、ただの馬は黒馬へと変化したのだ。ブラックシープに相応しい、穢れた名ではないか。

「着いたか」
『特別機動部コード:ディアブロ、対外実働部コード:ファーストを除く10の枢機卿に回線を解放します』

白馬には選ばれた王子が乗るらしい。穢れた皇帝には黒馬が似合いだと、己に吐き捨てたのは何年前だったか。

『中央情報部、コード:エルドレッドノーマンでございます。ご機嫌如何でしょうか陛下。ジャミングを仕掛けた端末を特定しましたが、恐らくは元老院によるものかと』
「…年寄り共め、我が眼前でつまらん事を。地下で試したが、道理で回線が開かなかった訳だ」
『既にジャミング妨害システムを展開しております。二度と同じ過ちは犯しませんので、ご安心を』

眩しい。
木陰では覆い切れない隙間から、青い空とそこに輝く灼熱を見た。見事な春晴れだが、遠くの空の色は随分彩度が低い。

『経理監査部コード:セルファレス、現在グランドゲート近辺にて待機中。組織内調査部コード:ジェネラルフライア、応答がありません』

無機質な機械音声だと思った。
会社のシステムも学園のシステムも、同AIと機械音声を利用している為、その機械が何語を話しているかでどちらのものか判断するしかない。

『南米統括部コード:リバース、要請により来日致しました。ご命令を、マジェスティノア』
『欧州情報部コード:ベルフェゴール、応答がありません。対空管制部コード:ヒステリア、応答がありません』

漸く人間の声が聞こえたかと思えば、再び機械音声が聞こえてきた。そのどちらも無機質に感じるのは、そのどちらも機械と何ら変わり映えしないからかも知れない。

『久方振りにお声を頂戴致します陛下。対陸情報部コード:ティグラムノーマンでございます、何なりとお申し付け下さいませ』

皇帝を前に畏怖する人間は、皇帝の怒りを買わないよう努めて身構えるものだ。言葉を選び、自分の評価を上げる事ばかりに着目して、人間らしい感情を破棄しているに違いない。

『総合営業部コード:レムライアン、学園内にてご命令をお待ちしておりました』

忠実な振りをしていても、内心では何を考えているのか。目を見れば大抵は汲み取れる。真っ直ぐ見つめてくる者は野望を、目を逸らす者は畏怖か心苦しい何かを隠していて、真に忠実な者などどれほど存在するか。
初めから信頼などと言うものは皆無だ。誰一人信頼している者など居ない。叶二葉ですら、高坂日向ですら、単純明快な嵯峨崎佑壱までもが悉く、他人なのだから。

『人員管轄部コード:ティムラハルにございます、拝謁賜る場を心よりお待ち申し上げておりました、陛下。お迎えに参りたいと思いますが、どちらにおいででしょうか?』

左席委員会の感情豊かなAI相手ならば、この会話が時間の無駄だと思わずに済んだのだろうか。およそ日常生活に必要とは思えないオタク用語ばかりスラスラ話す、人間の様な機械相手ならば。

『マジェスティ、恥ずかしながら区画保全部コード:サムニコフ馳せ参じてございます!この度は部下の不始末、何とお詫びすれば良いか…!』

漸く、人間らしい声が聞こえてきた。
その頃には聳え立つ校舎が見える、ヴァルゴ並木道に出ている。通りすがる他人が何故か逐一振り返るので、何事かあったのかと辺りを見渡したが、ブルーシートで覆われた校舎の西半分が見えるだけ。
それ以外に、大したトラブルはない様に思える。

「大した変わりもない私の顔を見るより先に、キング=ノヴァ方についた年寄り共の魂胆を無に還せ。悉く、目障りだ」

親子か、兄弟か、仲睦まじい様子でカフェテラスに並ぶ姿を見た。帝王院学園では見慣れない、赤混ざりの茶のブレザーを纏う生徒らも楽しそうに闊歩している。

「っ、あの!」
「その制服、高等部の生徒さんですよね?!」

若い女連れが、鼻息荒く近づいてきた。
背後へ目を向けたが、そこには誰もいない。つまり、彼女らは自分に話し掛けてきたらしい。

「そうだ。私に何か用か」
「あ、あの、名前を教えて下さい!」
「何年生ですかっ?!」
「…高等部3年」

名前。
名前とは一体、どれを差すのか。
遥か下から見上げてくる他人の顔を眺めたまま、いつか失った名と、いつか選ぶ権利がなかった時に押しつけられた名を、頭の中で篩いに掛ける。

「…シリウスの言葉を思い出した」
「「えっ?!」」
「成程、日本人ではない癖に陽の王の姓を名乗るのは、愚かしいか」

疑問符を飛ばす他人を前に、唇を吊り上げた。

「然し国籍のない身元不確かな生徒など、この学園に在籍してはならない。基本的な諸条件に、その記載がある」

哀れなほど真っ赤に染まった他人は言葉を失い、マネキンの如く動きを止めている。笑うと言う行為は想像以上に簡単だ。この程度が何故最近まで出来なかったのか、不思議でならない。

唇を吊り上げただけで頬を染める、単純な女ならば良かった。
まわりくどい喋り方をやめろと、愛想良く笑った方が良いと、何度となく指摘されても治らなかった馬鹿な男だから、見放されたのかも知れない。言われたその時に何故、望まれるまま叶えてやれなかったのだろう。
今ならば簡単に、一つ残らず叶えてやれると思うのに。捨てられた後に再び拾って貰う方法などあるのだろうか。そんな方法はないと、確か二歳で模索する意思すら淘汰した自分に、見つけられるだろうか。

壊れたものを直す事が如何に難しいか、覆い隠されたブルーシートの向こう側に問い掛ければ、恐らく答えが得られるだろう。求める答えではないだろう、が。


「…悪いが、今の私に名乗るべき名はない様だ」

大人しい女らから目を離し、ブルーシートの向こうから絶えず聞こえてくる金切り声へ目を向けた。
何度も。何度も。何度も。あの日の母親の如く、その声は男の名を呼んでいる。何度も何度も何度も繰り返し、飽きもせず。

「ファーストを呼ぶ、あれは誰の声だ?」

かちりかちりと頭の中で常に聞こえる幻聴が、何故か今、時限爆弾の様に思えた。
それならば許された残り時間は一体、どれほどだろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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