帝王院高等学校
忘れがちだけど楽しいイベント中ですにょ
「君は一体…」

部屋の主が眠りに就くのと同時に、どさりと崩れ落ちた男女を認めた男は、目を見開いた。
彼の網膜には今、銀髪の男だけが佇んでいる。彼が何かをした様には見えなかったが、だとすればこの異常な状況を説明する事が出来ない。

「指が」
「えっ」
「勝手に動いている」
「………は?!」

高校生にはとても見えない佇まいに、静かな声音。

「微細な電気信号で人の筋肉は動いている。延いては外部からの低周波供給を得れば、己の意思を介する必要はないと言う結論に達している」
「な、え、はぁ?!」

弾かれた様に動いた遠野直江は、前触れなく眠りに落ちた帝王院隆子の手首を取ると、規則正しい脈を確かめて息を吐いた。
床に崩れ落ちている東雲夫妻も、服越しに呼吸しているのが見て取れる。一先ずは安心だが、訳が判らない。

「これは、君がしたのか?」
「帝王院に受け継がれる術だ」
「術っ?」

素直に問い掛ければ、返ってきた言葉は想像のどれもと異なっている。何の冗談だと視線で尋ねれば、相手は正しく理解してくれた様だ。

「誰もが俊だけに与えられたものだと思っていたらしい。この私ですら」
「君は一体何を…!俊が何だって言うんだ、あの子は俺の甥だ!」
「己の術は己には効かない」
「はぁ?!」
「と、俊は言った」

調子が狂う。
視界の中、顔の半分を仮面で隠した男の手が、己の口元を覆う金属に触れるのを、ただ。目で追いかけるばかり。

「だがそれが真だと、誰が証明する?」
「…証明、って、何の…」
「いつからだ」
「は?」
「いつから、俺は己を騙した」
「何、」
「俊が企てたものではないのであれば、筋書きを描いたのは他でもない、俺だ」

白い。
到底同じ人間とは思えないほど透き通った手が、銀より眩い白銀の仮面を外す光景。


「指が、口が、意識以外の全てが、勝手に動いている」
「…」
「俊の声は俺には効かなかった。だが、その『俺』はどの『俺』だ?」

ああ。
赤い赤い、何かが、





「俺が偽りだと知っていたから、俊は逃げたのか?」







嘲笑っている。














「あれ?」

顔を突き合わせて地面を覗き込む男達の中から、一人が何かに気づいて顔を上げた。
真っ赤に染めた短髪の下、目付きは悪いが大きめな眼差しを丸めた加賀城獅楼は二・三度瞬くと、不思議そうに首を傾げたのだ。

「ね、あそこに女の子がいるよ」
「あ?」
「何言ってんのシロ(´・ω・`)」
「モテない童貞はあ、妄想を見易いって言うもんねえ」
「ああ、確かにあそこ、子供が居ますね」

裕也、健吾、果てには隼人にまで信じて貰えなかった獅楼が頬を膨らませる前に、同じく顔を上げた要が指を差した事で、東條の隣で胡座を掻いていた西指宿も顔を上げる。
人質の如く、す巻きにした男女を笑顔で尋問していた二葉も、頑なに口を閉ざしている二人にそろそろ嫌がらせをしようと腕を振り上げていた所だったが、カルマの台詞に顔を向けるなり、珍しく眉を潜めたのだ。

「おや?」
「うっわ、あの子凄い、両目の色が違くない?」

普段ゲームもしなければ、紅蓮の君親衛隊仲間以外とはメールもしない視力優良児である獅楼が朗らかに声を上げて、健吾と要が同時に立ち上がった。面倒臭げに頭を掻いた裕也も獅楼が指差す先に立っている子供に気づくと、面倒臭さを隠さずゆるりと立ち上がる。

「あは。つーかさあ、何でこんな所に餓鬼が居るわけ?明らかに可笑しくない?」
「うっひょー、超美人!(*´3`) もう何年かしたらとんでもねぇ美女になんな、ありゃ!(*´`*)」
「ケンゴ、オメー後でテニスコート裏な」
「えっ。食堂に行くのが面倒臭くてご飯食べ忘れるユーヤさんが、テニスコートまで歩けるんスか?!」
「カナメさん、ユーヤさんがヤキモチ焼いてる気配」
「ユーヤが餅を焼く?正月でもないのに餅なんて…俺はもみじおろしとポン酢で頂くのが好きです」

獅楼を除いた全カルマが要を痛々しい眼差しで見つめたが、四重奏1の鈍感はその視線の意味に気づかない。辛党故におはぎは苦手ですと切なげな溜息一つ、離れた位置からにこにこと見つめてくる子供を真っ直ぐに見据えたまま、要は腕を組んだ。

「それにしても、何なんですかね、あの子は。何処かで見た様な顔をしてますが…」
「…おいおいカナメ、それってナンパの定石フレーズだべ?(´・ω・`)」
「オメーが手を出してきた女はどれもこれも化粧の厚い奴ばっかだったろうが、とうとう餓鬼にも血迷ったのかよ。躾が足んねーぜハヤト、とっととオメーの粗チンでカナメを黙らせとけや」
「何でしれっと機嫌悪いのか大体判ってきたけどさあ、てんめーに粗チン扱いされる謂われはねえっつーの糞ユーヤ、処女喰い野郎は黙って猿の処女でも喰ってろ、永久に」

藤倉裕也VS神崎隼人。オタクを挟んで遠縁の親戚による低レベルな戦いのゴングが、人知れず鳴り響く。

「あ?え?イースト、おい、あれ何、隼人は藤倉と仲悪かったかっ?」
「…馬鹿、俺にカルマの話を振らないでくれ。白百合の前だと言ったのはお前だろう?」

慌てる西指宿にも聞こえるほどの高らかなゴングが響いた様だ。

「やめい(;´Д⊂)」
「騒がしい」
「「ぐ」」

然し迸る笑顔で互いに胸ぐらを掴み合った二人は、それぞれ健吾と要に尻や脇腹を蹴られて同時に屈み込み、戦いは終了した。物の数秒の戦いである。
尻を押さえて崩れ落ちた隼人と脇腹を押さえて片膝を着いた裕也は双方涙目だが、要と健吾は悪びれていない。基本的にカルマは身内の喧嘩を許さないので、俊や佑壱にチクりが入らないマンツーマンではない場合、誰かが止めなければ即座に連帯責任だ。

「オメーらが喧嘩するほど仲が良いのは判ったから、元気良すぎな行動は控えろぃ。見てるだけで疲れるっしょ(´・ω・`)」
「ABSOLUTELYの前で恥ずかしい真似をするのはやめなさい、全く…ハヤトもハヤトです。一々真に受けて、馬鹿ですか」

因みに時々カルピスを牛乳で割るレベルで甘党な隼人は、サラダに蜂蜜をぶっ掛けて食べている所を裕也に目撃され、壮絶な乱闘を繰り広げた過去がある。
どちらもある意味粘り強い二人の喧嘩だった為、激怒した佑壱に立ち上がれなくなるまで殴られて終わった、カルマワースト5に入る程の乱闘だったと追記しておこう。なのでこの二人は総長である俊直々に、『今度喧嘩したら叱るぞ』と言われており、事実上、最後通牒を突きつけられているのだ。

「ハヤトみてーなお子様ランチなんかと仲良くした覚えはねーぜ、牛乳に練乳入れなきゃ飲めねーミルキー野郎なんかと」
「ちょっとカナメちゃん!今のちゃんと見てた?!隼人君は悪くないもん!ユーヤが先に喧嘩売ってきたもんねえ!」
「オメーら懲りねぇやっちゃな(;´Д⊂) 副長にチクってやっから、揃って熱めのお灸据えて貰っとけや(´艸`)」

カルマの誰もがそれを知っている為、俊の『叱る』を見たくないメンバー一同、隼人と裕也を二人きりにしないと誓っており、この二人が争いそうになる度に誰かが仲裁に入っている。
とは言え、四重奏の二人を仲裁出来るメンバーは限られており、今回は運が良かったと言えるだろうと獅楼は考えた。が、黙って成り行きを見守っていた北緯と言えば、何か違う事を考えていた様だ。きりっと顔を上げ、隼人と裕也を見つめている。

「でもケンゴさん、たまに喧嘩ップルってジャンルがあるの知ってる?総長は副長と高坂に目をつけてる感じだから、ユーヤさんとハヤトさんにもきっと目をつけてると思う」
「は?ホーク、お前実は日本語下手なん?(´°ω°`)」
「それは早計でしょうホーク、ハヤトとユーヤでは想像したくもないです俺は。どっちがどっちだなんて………ハヤトが受けですか?」
「はあ?!ちょ、今の訂正してくんないかなあ、カナメ!隼人君の何処がネコだって?!どう見たってバリタチじゃん、アホー!」
「あ?テメー、やっぱオレのケツ狙ってやがったのかよハヤト。油断も隙もねー粗チンだぜ、フライデーにタレ込んでやるぜ」
「何か良く判んねぇけど、俺から見ればオメーら5人共、受けだべ?(//∀//)」

北緯と要の会話に、凄まじい表情で牙を剥く隼人と裕也を交互に見やった健吾は、ぼりぼりとオレンジの頭を掻くと、愛らしく整った顔を傾けて宣った。
その瞬間、錦織要以下、神崎隼人、藤倉裕也、川南北緯、加賀城獅楼の指名された五名は言葉を失い、頭の中で今の台詞を反芻してから、揃ってぶんぶん頭を振ったのだ。

「てんめーは正真正銘の阿呆か馬鹿猿があ!猿轡ハメてハメ殺されてえのかコラー!!!」
「誰がどう見てもお前の方が受けでしょう!鏡を見なさい鏡を!うちで最も男にモテるのは、ケンゴですよ?!ああ、違う意味でユウさんもモテますが、いや、そうではなく、まさかケンゴが俺を抱くなんて、そんな悍しい事が現実にある筈ないだろうに…」
「ハヤトはマジでいっぺん絞めるとして、カナメの意見に同意だぜ。ケンゴ、オメーほど自分を知らねー馬鹿は居ねーぜ」
「ん、ケンゴさんはお馬鹿受けに決定だね。俺もケンゴさんなら抱けそうな気がするし…」
「んだとゴルァ!(°ω°`) 俺を女扱いしやがるホモは滅ぼすべし!滅するべしっしょゴルァ!(゚∀三゚三∀゚)」
「ちょっと皆、喧嘩はやめて!もう、あの子に笑われてるよっ」

獅楼を除く四人と一触即発ムードの健吾は、獅楼の絶叫で眉間の皺を消す。大人げないカルマが目を向けた先、確かに愛らしい顔立ちの子供がコロコロと笑っている様があった。


「堪忍…」

笑いながら呟いた赤い唇を白い手で押さえた黒髪の子供が、その艶やかな黒の前髪から左右非対称の眼差しを覗かせた。

「あんまり楽しそうやから、出るのが遅うなってもて」

その余りにも愛らしい笑い顔に、大半の男共が毒気を抜かれている。こんな樹海じみた場所にはおよそ不似合いな、育ちの良さそうな子供は、艶やかな赤地に紺や黄色の刺繍が刻まれた女児用の着物を纏っている。
髪にも櫛や簪が刺さっており、まるで美人過ぎる座敷童子の様だと西指宿が呟いた台詞に、何人かが無意識で頷いたのも無理はない。

「…あ?関西弁?(°ω°)」
「大阪っぽくない感じだよねえ、今の」
「やっぱり誰かに似ている様な…」
「目が緑と青かよ。ただのコスプレ狂じゃねーか?」
「ただのレイヤーにしてはレベルが高いんじゃない?総長の親衛隊気取ってる武蔵野が言ってたけど、安っぽい着物は素人にも判るらしい」
「つーか、誰かに似てるっつーなら、うちのマスターに似てるんじゃね?ほら、オッドアイとかよ」

後輩達の台詞を聞くともなしに聞いていた西指宿は、近くの二葉を指差した。くるっと振り返ったカルマ一同に見つめられた二葉はわざとらしいほどにっこり微笑み、ひらひらと手を振っている。
これに真っ先に目を見開いたのは、二葉から目を逸らし、再び着物の子供を見据えた錦織要だったのだ。

「そうだ、昔の洋蘭そっくりなんだ!目の色は違いますし、あちらの方が幼いですが、似てます!」
「マジかよ。んじゃ、白百合の隠し子なん?(`・ω・´)」
「嘘だろ、山田が産んだのかよ」
「サブボスが産む訳ないでしょ阿呆ユーヤ、幾ら変態性悪風紀いんちょーでも、サブボスには勃たないって」
「おや神崎君、お陰様で健やかに勃起しますよ。比較的速やかに」

にっこり。
にこやかな子供に負けない麗しい笑みを浮かべた三年生は、ゆったりと眼鏡を押し上げた。凍りついた西指宿以下、全ての後輩へスマイル0円の大盤振る舞いだ。

「面白い状況ですねぇ、これは。この場で最も長い付き合いである青蘭ですら知らない、6歳未満の私が登場するとは」
「へ?マスター、俺は冗談だったんスけど…?マジ?」
「中々鋭いではありませんかウエスト、ご褒美で3日間私のロイヤルミルクティーを淹れる係に任命してあげます」
「してあげなくて良いです」
「ご覧なさい、皆さん。あの頃の私の左目は、藤倉君に負けず劣らず見事なオリンピアグリーンでしょう?」

己の左目を眼鏡のレンズ越しに右手で覆った二葉は、左手で自分の幼い頃にそっくりである子供を指差した。

「あれはねぇ、愛しい人に捧げたものなんですよ」
「これはねぇ、救い切れなかった惨めな男の証なんですよ」

二葉の台詞に被さる様に、微笑んだ子供が吐き捨てる声。
奇妙な状況が再び暴走している様だと身構えた皆の前で、着物姿の子供が陽炎の如く揺らめいた。

「ああ、想像するだけで震えが止まらない。俺が助けた命、俺が助けられなかった記憶、大切だった夏の全てがあの子の中から消えている事を知った、秋。母親と一緒にスーパーから出てきたあの子は、俺を見ても気づかなかった」

何の話だと。
ゆらゆら揺れている、最早人の形を保っていないそれを眺めながら二葉そっくりな声を聞いた誰もが、恐る恐る二葉を振り返った。一歩も動く事なく、片方の瞳を覆ったまま沈黙している二葉は、薄く笑みを浮かべたままだ。

「秋。秋。憎い秋。愛しいアキ。夏は脱け殻になってしまった。蝉の様に。俺の心の様に。残った残骸はセピア、風化して灰に変わるまで…」

ゆらり。
ゆらり。
人の影を模した陽炎は、顔に包帯を巻いた黒髪の子供から、眼鏡を掛けた黒髪の子供へと形を替え、やがて、無造作に伸びた髪の下、裸眼を笑みで歪めている大人へと変わっていく。

「よ、洋蘭、何なんですかあれは!」
「狼狽えるのはやめなさい、錦織要。…それにしても、あれは13歳くらいでしょうかねぇ」

真っ黒な服を纏うそれは、白い肌を真っ赤に染めていた。
悲鳴を呑み込む様な要の台詞に、肩を竦めた叶二葉はまるで他人事の様に呟いた。

「日本では赤には縁遠い生活をしていますから、今の私の普段着に、黒は少ないんですよねぇ」
「俺が助けた命なのに俺を覚えていない、酷い餓鬼だ。俺が助けたんだから俺がどうしたって良い筈だ」

初めて笑みを消した二葉が真顔ではなく、眉間に深い皺を刻んだ。
憎悪を遥かに越えた殺意を真っ直ぐ、髪形以外は己にそっくりな、



「例えば犯しても殺しても許される。この俺に命令した、あの子を」

愛想笑いには程遠いほの暗い笑みを湛えた、叶二葉に。















他人は等しく全てが敵だと、そんな事を考えていた時がありました。
信じられるのは家族だけだなんて、なんと悲しい考え方だったのか。


恨む事をやめられそうにはありません。
人はどうしてこんなに弱いのでしょう。一人では生きていけない癖に、一人で居る事を望んだ振りをするのです。

目の前で大切な人が死にました。
安らかな表情に思えたのはあの時、その人が私を助けてくれたからでしょうか。それともこの記憶は、捏造したものでしょうか。

恐怖から目を背ける様に。
理解したくない現実から目を逸らす為に。
つまりは弱い己を守る為に。
人は、何と愚かしい生き物でしょう。だから私は、同じ様に人を信じられず生きていた子供を、初めての友達だと思ったのです。

まるで鏡のよう。
辛いのは私だけではないのだと知って、安堵したのかも知れません。己より下を見つけて勝った気にでもなったのでしょうか。いいえ、その時は確かに、強い友情を感じていた筈なのです。誰が何と言おうと、私達はあの時、二人きりの仲間でした。


神よ。
残酷にして尚も美しい世界よ。

それがただの傷の舐め合いだと知るまで、然程時間は懸かりませんでした。








嘘だろう、と。
崩れ落ちた瓦礫から立ち上る灰色の煙を、這いつくばったまま眺めた。

「あぁ…」

腰を抜かしている黒髪の向こう、烟る白とも黒ともつかない煙の発生源は、崩れ落ちた女神像の瓦礫だけ。
言葉にならない声を発している黒髪の小さな背中が震えていた。怪我はないかと尋ねる事も、手を伸ばす事も出来やしない。

「や…いや…」

あそこには今の今まで、その黒髪が佇んでいた筈だ。
色とりどりのお菓子を皿に並べて、楽しく笑っていた場所だ。それなのに今、つい先程まで笑っていた友達が甲高い悲鳴を上げるのを聞いている。

「やだっ!ケンちゃん、ケンちゃん、ケンちゃぁん!!!」
「カナちゃ、」
「健吾!…健吾っ」

誰かの叫び声はこの騒ぎの中、他の何よりも響いた。
大気を貫き、恐怖に支配された誰もを喰らい尽くす様に、鋭く。まるで吠える様に。
呆然と振り返った黒髪と目が合った。ひらひらと落ちていく涙を、あの時何故か直視出来なかった事を覚えている。

「すまない、誰か手を貸してくれないか…!下に息子が居るんだ!」
「いけませんコンマス!離れて下さい!」
「嫌だ、離せ!健吾が、俺の息子が此処に居るんだ!健吾!返事をしろ健吾!父さんだぞ、大丈夫か健吾!」
「レスキューを、早く!」
「手分けして火を消せ!っ、急いで!」

ああ。
またなのか。

「ど、どうしよぉ、ひっく、ケンちゃん、ケンちゃんが…っ」
「カナちゃ…」
「何処ですか青蘭!っ、無事ですか青蘭…!」

指が震えている。惨めに転がったまま、起き上がる事さえ出来ない。起き上がろうとさえ思えない。意識も体も恐怖に支配されていた。あの時とまるで同じではないか。

そうだ。あの時も何も出来なかった。
冷えていく母親の笑顔を呆然と眺めたまま、心臓が止まっても息子を抱き締め続けた人の腕の中で、呆然と。時が止まったかの様に。あの時、何を考えていただろう。


「無事かね、リヒト」

大きな手に抱き起こされて、静かなエメラルドに射抜かれる。
カタカタと小刻みに震えていた指先の震えが止まり、呼吸を止めていた事に気づいた。

「腕は動くか?足は?」

父親に言われるまま腕や足を動かし、その合間に浅ましく何度も息を吸い込む。落ち着いた頃に漸く、心臓がドクドクの脈を始めたのだ。やっと状況を理解したのかも知れない、脳が。

「目立つ怪我はない様だね。行こう、此処はまだ危険だ」
「待っ、待って!オレの所為で、アイツが…っ!」
「アイツ?」
「オレが助けてくれなんて言ったからだ…!」

目の前で。
人が傷つくのを見るのは、二度目だ。例えばドイツ、例えばアメリカ、今回もまた、自分の所為なのだろうか。

「…高野省吾の息子かね。亡くすには余りにも惜しい人材だった」

父親の声が鼓膜を震わせるのと同時に、倒壊した女神像の下から救出された子供を半狂乱で抱き上げている男を見たのだ。

「な、くす…?なくすって、何…?」
「見てはいけないよ、リヒト」

ああ。
赤い。赤い。全てが真っ赤だ。
滴る血液も、七五三じみた子供用燕尾服からはみ出た、人間のものとは思えない何かも、全てが赤い。あれは何だろう。薔薇色だ。

「Oh my god!救急車はまだ?!」
「息はまだあるのに…!」
「っ、あれではもう駄目だ、助かる見込みがない…っ」

どろりとした何かが、血とは違う何かが、真っ白な何かと共に飛び出している。
ああ、騒がしい。女が喚き散らしている。何人もの女がバタリバタリと倒れていく。声こそ上げてはいないものの、男もまた、顔色が悪い。大の大人とは思えない表情だ。

「あれ、何…」
「良いから目を閉じていなさい」
「骨、だ。知ってる、あれ、骨だ。オレの所為で死んだルドルフと、同じ…」
「リヒト」

例えば産まれて間もなくからずっと、屋敷には友達が居た。
一匹の雌犬。母親が一目惚れして、保護犬を貰ってきたらしい。決め手は誕生日が一緒だったからと、言っていた。12月23日生まれのボルゾイ。
物心ついた頃には大きな犬に育っていた。真っ白な毛並みで、何処もかしこも毛が長い。

「ルドルフのあれは君の所為じゃないよ。だから、思い詰めてはいけない」

大好きだった彼女が死んだのは、良かれと思って、おやつのケーキを食べさせた日だ。
母親からいつも言われていた。父親が不在の時に、執事や家政婦が差し出す食べ物は決して食べてはいけないと。どんなに不味くとも、母親が作ったもの以外は、食べてはいけないと。

「だ、だって、オレ、が…」
「お母さんに言われただろう。悪いのは、毒を盛った本人だ。リヒトは悪くない」

けれどその日、父親が不在だった時に、来客があった。
接待していた母親の目を盗み、にこにことおやつを運んできた家政婦長は、苺が一つ乗った真っ白なケーキを持ってきた。

「ケンゴ、助かる…?」
「神に見放されていなければ」

大好きな犬と同じ真っ白なケーキを。
家政婦長には毎回ぐるぐると唸る犬を、家政婦長が嫌っていた事は知っている。けれど父親が名付けた犬を折檻したりはしない。彼らは忠実な、伯爵の下僕だからだ。彼らは単に、ドイツの血を他国の血で濁したくなかっただけだ。

「心配しなくて良い、大丈夫だ」
「…どうして?」
「何の得にもならないのに人を助けるような勇気のある子が、神の思し召しを受けられない筈がないだろう?」

だから恨んではいけないと、母は言った。
毒入りケーキを無邪気に食べさせた息子に、血を吐いて倒れた真っ白な犬を庭先に埋めてやりながら、恨むなと。言った母の目が怒りに震えていた事を知っている。彼女が本気を出せば、屋敷中の人間を皆殺しにするくらい、簡単だった筈だ。それなのに。

「犯人、…絶対見つけて。母ちゃんを殺した奴も」
「無論、既に手は打ってある」
「恨むなって言われたから。母ちゃんに」
「そうだね」
「生きてる内は絶対恨むから」
「私もだよ、リヒト」

恨むなと。
あの子も言うのだろうか。たった数日、ほんの数時間、知り合ってから交わした会話は数えるほどなのに、それでも助けてくれたあの子も。

「「相手が死ねば恨まずに済む」」

父親の大きな手に撫でられる。
何が正解なのかは、いつか判る日が来るのだろうか。いや、こんなに大きな父親ですら、もしかしたらまだ答えを知らないのかも知れない。

「行こう、車を用意してある」
「…父ちゃん」
「何だね」
「肘、擦りむいた。足も痛い」
「ああ、それは重傷だ。病院に行かないと」

サイレンが聞こえる。
焦げ臭い匂いはもうしない。人々のざわめきから遠く離れた芝生の上、父親が指を鳴らすのと同時に姿を現した車の中へ乗り込んで、もう震えていない指へと目を落とした。

「…病院、アイツと同じ所が良い」
「そうか。暫くアメリカで過ごす事になるかも知れないね」
「帰ってもどうせ誰も居ないだろ」
「…そうだね。じゃあ、特別室を手配しよう」
「特別って、何が?怪我が早く治る?」
「いや、単に広くて豪華なだけなのだよ。早く治るかどうかは、医者の仕事だからね」
「うぜー」
「口が悪いよリヒト、益々お母さんに似てきたね」
「嬉しいのかよ」
「無論、子の成長を喜ばない親はいない」

例えばもし、まるで勇者の様な日本人が死んだとしたら。
相手は神だ。どう恨めば良いのか判らない。だから、助かるしか術はないではないか。

「アイツ日本人なんだ。でもドイツ語喋ってた、オレがあんま日本語喋れないからだ、きっと」
「日本人は勤勉な人が多いからね。昔、必死に英語を勉強した人が居たそうだよ。残念ながら、最後まで余り上手にはならなかったそうだけれど」
「マジかよ、だせーな。父ちゃんでも日本語喋れるのに」
「ステルシリーには日本語が喋れない役員は居ないのだよ、リヒト」

悪魔に願ってでも、必ず。












長い長い、余りにも長い手術が終わったそうです。それなのにあの子は未だに目覚めてはいません。
面会謝絶の集中治療室に閉ざされて、何人も近づけない蕀姫の如く、眠り続けている様でした。

ああ。
何度、神に。悪魔に。脅迫にも似た祈りを捧げたでしょう。何度も何度も何度も祈っては目を瞑り、意味もなく行った事もない国の城の名前ばかり唱えては、その数を数えました。

祈りが通じたのか、彼が目覚めたのは一週間後。
それ以前に、奇跡だと何度も呟く白衣を見ました。助かる筈がなかったと言わんばかりに、何度も何度も、奇跡と。



特別室は隣同士。
入院する程の怪我でもない癖に居座る子供を、看護師はともかく病院長は手厚く歓迎してくれました。多額の寄付を渡され、その上居座る子供がステルシリー最高幹部の息子だと知れば、嫌な顔をする筈もない。

英雄が集中治療室から出てからは、真っ先に隣の病室へ飛び込みました。自分の部屋に居るより、眠っている顔を見ている時間の方が長かったと思います。
その部屋の主の両親は予定されていた仕事をキャンセルする事が出来ず、容態が安定した頃に飛び立っていましたから、連絡を入れても駆けつけてくるには暫く時間が懸かる様でした。

英雄として目覚めた彼の網膜に、真っ先に映り込みました。呑気な声音で『腹減った』などと宣うその声は、腹立たしいほどに平和な音で、鼓膜を震わせたのです。






「…何で居んの?」

開口一番、不審者を見る様な目を向けられて、思った事は一つ。

「ムカつく。居たら悪い?」
「うぉ、日本語喋ってる?!」
「勉強した」
「そ、そっか。…で、ここ何処?」
「特別室」
「ちょ、俺の腕に注射が刺さってんじゃねぇか!何これ、あれか、キャトルミューティレーションって奴?!」
「は?キャト…?」
「宇宙人が連れ去る奴だよ、UFOで。知らね?」

今の今まで寝ていた割りに、なんとマイペースな子供だろうと。少しばかり呆れたものだが、ナースコールで駆けつけてきた看護師や医者も、似た様な表情だったろうか。


「な、ユーヤ。…ユーヤってば、シカトすんな」
「…ユーヤって誰?」
「知ってっか。お前の名前、ユーヤとも読めるんだぜ?」

その声はいつも、歌う様に響いた。
まるで自らが楽器の如く快活に、太陽の如く。

←いやん(*)(#)ばかん→
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