帝王院高等学校
特別警報!逃げねばならぬ、何処までも!
「貴方が、真の神か…」

地下に張り巡らされた冥府が跪いたその日、彼は星条旗を掲げる国の地下深くで、五芒星を六芒星へと塗り替えた。

純白の衣装で身を包む【クイーン】は嗤う。
全ては此処からだ。

六芒星を見つめ瞼を閉じた【キング】が、ゆったりと瞳を開いた瞬間。彼が本物の彼へと戻ったその瞬間こそが、永遠にも似た永きに渡り待ち続けた、始まりと終わりの境目。

「おはよう、もういいかい?」
「…ああ」

光一つ存在しない。
何物も混ざらない。
極めて澄み切った純黒の混沌が、開かれた。

「さぁ、お前さんのたった一つの望みを教えておくれ。俺はそれを砕く為にここまで来たんだ」

白の六芒星は廻り続け、まるで太陽が如く燃え続け、自ら宵闇を招き入れたらしい。たった一人、愛しい【業】を受け入れる為だけに。

「神を堕としたその時に、俺は地獄の扉を潜るんだと思う。俺を待ち続けてくれた、あの子の為に」

ハッピーエンドだろう?
囁く声は笑う。嗤う。嘲笑う。世界はクイーンの声で支配された。人々は誰一人も動かない。白のクイーンが全てを閉ざしたからだ。

「お前さんは酷く、人に近くなったね」
「そうか」
「人の真似事は楽しかったかい?」
「ああ」
「幾つもの物語を欲張って欲しがるから、108の業でお前さんは『混沌』した。それは穢れだよ。綺麗にしないといけない」
「…」
「その穢れを虚無へ還そう。ほんとはお前さんだって、帰りたいんだろう?」

大きな鎌が首をもたげている。
純白の死神は慈悲深く微笑んだ。とある国の国籍に示された彼の名は、帝王院太陽。

「指針を失った羅針盤に戻る所などない」
「佑壱と日向を連れ戻せばいい。何事にも生け贄は必要さ。ほら、二人だってお前さんの中に戻った方が幸せかも知れないよ?」

彼は嘯いた。
無機質に。微笑ましく。慈悲深く。無慈悲に。

「ああ、でも交わるのは零時だけ。短針と長針が交わる度に命が生まれる。けれど『盤』が意思を宿した瞬間、彼らは引き裂かれてしまった。可哀想に」
「…」
「二人はお前さんを憎んでるかも知れないね。実に恩着せがましい身勝手だ。お前さんは勝手に自分を窮屈な羅針盤だと感じた。解放こそ慈悲だと勝手に思い込んだ。輪廻から外れた永久の拘束から見放された二つの針は、光と空に変わってしまう。そう、まるで太陽と龍」
「…」
「二人には、この銀河の空こそ窮屈だったのかも知れないね。二人から生まれた108の業は、散り散りバラバラに飛び散ってしまったよ」

反応もなく、返事もない。
けれどそんな事はどうでも良かった。ただただ、人で溢れ返った静寂の世界でクイーンは、それこそ身勝手に喋り続ける。言葉を刃へと研ぎ澄ませて。一方的に。投げつける。容赦なく。雨の様に。

「俺は二人が生んだ、初めての子。神の代理。イザナギ。日本の始まり。日の元の国の父。光満ちた空から生まれた、だから空蝉」
「…」
「お前さんは全てを集めようとした。俺の弟達、針から生まれた108の命を」
「…」
「そうしてその中から、主人公を選定した。けれど俺はその輪廻から外れたんだ。お前さんが関わってしまったからだ。お前さんが望んでしまったからだ。人から覚えた108の欲で、自分こそ主役になるのだと」
「…」
「ねぇ、俊。歪んでるよ。あんなに完璧だったお前さんの物語が、こんなにもぐちゃぐちゃだ。あはは、自業自得だね?」
「…」
「救うなんて、とんだ大義名分じゃないか。お前さんはただただ、勝手に他人の罪を剥奪して、人が背負うべき業を支配して、業に冒されたんだ。虚無と共に生まれた真闇が濁ったのが、全ての始まりさ。そしてそれは、終わりを告げてる」

歌は聞こえない。
宇宙に音は存在しない。
震える空気がないからだ。
音は振動する事なく、衝撃波として、永久に真空を彷徨う。まるで迷子の様に。姿のない漣の様に。永久に。永遠に。果てしなく。終わりを求めて。

「今なら俺にも救えるかも知れない。お前さんを永遠から解放してあげるよ、永遠にね…」
「お前を永遠から解放した様に、か」
「俺を虚無に喰わせた癖に、お前さんはあの子を捕らえたじゃないか。俺には内緒で、あの子を抱っこしただろう?だからお前さんは猫が大好きなんだ。でもね、あの子は俺のものだよ」
「一度として抱いてはいない。触らせてくれなかった」
「だろうね。俺の可愛い黒猫ちゃんは、目が蒼いんだ。お前さんになんか触ったら、真っ黒に染まってしまう」
「…自由」

十とは、自由である。
十字架とは容赦である。
愛にも似た憎悪を柔らかな笑顔と共に、躊躇いなく注いでくる眼差しを前に、空いた玉座の前で永遠に時を刻まない時空の楔は、跪いた。

「星条旗が示した律の様に、俺はあの人の幸福しか望んでいない」

深く。
深く。
尚、深く。



「俺の望みはただ一つ。貴方の『自由』だけだ」

彼は平伏した。
無表情で無人の玉座に頭を下げ、立ち上がったクイーンが笑いながら手に取った大鎌が、降り下ろされようとも。

「天守と民を助けてくれたお礼がまだだったね、だから助けてあげる。俺がお前さんの全てを終わらせてあげる。そして、俺の全てはここから始まるんだ」

自ら闇へと堕ちた白の刃は、真の闇を裂いたのだろうか。
それとも。












そうよ、初めから何も持ってなかったんだもの。
夢を見て、欲しがって、何がいけないの?








「お父さん。どうしてお母さんを毎週連れていくの?」
「…」
「お父さん。どうしてお母さんとお風呂に入っちゃいけないの?」
「…」
「お父さん。どうしてお母さんは、私が引っ掻いても血が出ないの?」
「…覚えておるんだろう、わざわざ聞く必要はあるか?」

殆ど帰ってこない。
週末に、ふらっと姿を見せたかと思えば、一言も喋る事なく母親を連れていこうとする背中に、問い掛ければ。返ってきたのは、そんな言葉だった。

「私が悪いって言いたいの?!」

カッとなって掴んだ白衣を引っ張れば、呆れを滲ませた眼差しが微かに振り返る。

「誰もそんな事は言っとらんだろう。プロトタイプを家庭用に改造した遥には定期的なメンテナンスが必要だ」
「っ。やめて!お母さんをそんな風に言わないで!」
「お前の母は死んだ」
「やめて!」
「お前が産まれた、ほんの半年後に」
「やめてぇえええ!!!」

耳を塞ごうと、既に遅い。
ああ、ああ、覚えている。何も彼も一つ残らず記憶している。まるで呪いの様に。まるで罪の様に。
優しかった母の笑みも、窶れていく肢体に這う何本もの管も、呼吸すら危うかった彼女に絶えず送られていく酸素の音も、薬品の匂いも、何も彼もを一つ残らず、覚えていた。

「うっ、う…っ」
「何が気に喰わんのだ。…近頃、少々我儘が過ぎるぞ、詩織」
「お父さんが可笑しいんだよ!私がお母さんを生き返らせて欲しいって言ったから作ったなんて、どうして平気でそんな事言えるの?!」
「それ以外の事実はあるまい?何が言いたいのか判らんのう。明確に述べよ」
「可笑しい、お父さんは頭が可笑しいよ!」
「それがどうした?」
「っ、お母さんを愛してなかったの?!」

眼球が熱い。
ぼたぼたと、どうして人は、真っ赤な血を容易く透明な涙に変えられるのだろう。どうして母と同じ優しい眼差しで佇む人は、微笑みながら頭を撫でてくるのだろう。

「詩織ちゃん、泣かないの。ほらほら、ママが甘いパンケーキを焼きましょうね?」
「うっ、うっ」
「来い、遥。バージョンアップの準備が整った。お前のAIは廃棄する」
「やめて!お母さんを連れていかないで!」

たった一度だけ。
13歳の時に、一度だけ父親に逆らった。子供じみたおねだりではなく、心の底から絞り出す様に言葉へ変えた望みを、けれど仕事ばかりで家の事には興味もない父親は、容易く。

それこそ血が涙腺を通れば色を失う様に、簡単に。

「バージョンアップは何度もしてきた事だろうに、何が不満だ?今のボディーが気に入ったのか?」
「違っ」
「お前が学校へ通いたいと言うから、外に出した。外に出れば老いない遥は好奇の目で見られる事になる。それが如何に危うい事であるか、お前には理解出来んか?」
「っ」
「やはり、下らんスクールになどやるべきではなかったかのう。まぁよい、親の恥にならん程度であれば好きにしろ」
「わ、私は、お父さんの何なの…?!」
「娘だ」

どう伝えれば良かったのか。
母は一人しかいない。父もそうだ。そして、母は死んだ。人の死の意味すら知らなかった、生後間もなくに。
それから暫くは父と共に生活して、いつだったか。恐らく、他の子供が漸く物心つく頃だ。3つか4つの頃、父親に母親が欲しいと言った。

「他に、どう言えと言う?」

それまでは娘を連れて世界中を飛び回っていた父親が、どんな仕事をしていたのか疑問にも思わなかった。父が行方不明の兄を探しているのだと言う事は知っている。
一時期は、私より兄の方が大事なのかと詰め寄ってやりたいと思った事もあったが、母と全く同じ顔をした母ではない機械が傍に居たから、耐えたのだ。

「お…お母さん、行っちゃやだよ…」
「詩織ちゃん」
「ねぇ、行ったら壊されちゃうんだよ、お母さん!私とお父さん、どっちを選ぶのっ?ねぇ、私でしょ?!私の事、大好きって言ってくれたよね?!お母さん、ねぇ!」
「ええ、大好きよ、ママの大切な詩織ちゃん。でもね、ママのマスターはお父さんよ。もっと詩織ちゃんに必要とされるママになって帰ってくるから、待っててくれるわね?」
「お、かあさ…」

ああ。
判っていた。やはり母は人ではないのだ。母の形をしている、別の何かなのだ。母はもう、何処にも居ない。判っていた事だ。

「もうよいか?」
「…」
「では行くぞ、遥」
「はい、貴方」

そうして出ていった母は、次に戻ってきた時、前より皺が増えて、包丁で切った人差し指の怪我が綺麗に消えていた。
初めて母に料理を習った日の思い出ごと、まるで世界から掃き捨てられたかの様に思えたのだ。

「…お母さん」
「どうしたの、詩織さん」
「私の呼び方、変わったんだね。少し猫背になったし、白髪がある。顔のシミなんて、本物の人間みたい…」
「ふふ。お友達をうちに呼んでも良いわよ。ホームパーティーをしましょうか、七年生になったのだから、お祝いに」
「…うん、そうだね」
「女の子はパジャマパーティーが大好きなんでしょう?沢山お料理を作らなきゃ」

自分だけが。
世界に自分だけが異質なものの様に思えた。腹の中で蠢いている何かは、きっと感情だ。けれどどんな感情なのか、良く判らない。悲しいのか嬉しいのか辛いのか楽しいのか、誰か教えてくれないか。


『詩織ちゃん』
『ママの大切な大切な宝物』
『貴方が産まれてママは幸せよ』
『貴方の笑顔をずっと見ていたいけれど、それはきっと我儘ね…』
『詩織ちゃん』
『私の大切な家族』
『可愛い一人娘』
『もし天国へ旅立ってしまっても、私は貴方の幸せだけを祈っているわ』

あの人は何処に行ったのだろう。
天国とは何処にあるのだろう。知識として知っているのに、それを誰も見た事がない。



「ねぇ、ママ。お小遣いをちょうだい」

自分の家族は母だけだ。
天国へ行ってしまった、あの人だけなのだ。

「良いわよ」
「お父さんから預かってるクレジットカードもちょうだい」
「それは駄目」
「だったら、ママの宝石箱の中身を全部ちょうだい」
「良いわよ」
「お父さんから禁止設定されてない金目のもの、全部集めて」
「判ったわ。ちょっと待っててね」

天国とは光に満ちた国だと言う。
光とは太陽を指す言葉だ。太陽は東の島国から昇るらしい。日本。記憶に残る、僅かな母の遺言の様な言葉で聞いた、母の本当の故郷の事。

「ねぇ、お母さん。ガレージに置いてあるお父さんのファントムウィング、キーは何処にあるの?」

そこへ行けば、何か判るのだろうか。家族が見つかるだろうか。
自分だけの家族が。



いいえ、とんだ言い訳ね。
私は逃げるのよ。大好きだった父さんから、愛されていない事に耐えられなかっただけ。大好きだった母さんが、命令で動く鉄の塊である事を認めたくなかっただけ。

私は逃げたのよ。
誰からも愛されやしない己の業から、目を逸らしたの。







「しおちゃん、此処で合ってるみたいだよ」

余程緊張していたのか、強張った表情で近寄ってきた男は言うなり長く息を吐き、軽く頭を振った。
真っ白な建物の入口は学生で賑わっており、穏やかな遅い朝を彩っている。誰しも何処か浮き足立っており、楽しげで、幸せそうに見えた。妬んでいる訳ではない。

「リブラって何だろうと思ったら、天秤座のマークがついてたよ。しおちゃんの星座だから覚えてたんだ」
「そっか」
「これが今の帝王院学園の寮なんだねー…、あっちこっち広がってて、前よりずっと立派になったんだなぁ」
「岳士君が通ってた頃と、そんなに違うんだ?」
「通ってたって行っても、父の会社が倒産する初等部4年の頃までだから、外観は殆ど知らないんだ。話した事あったかな、初等部はほぼ軟禁状態で育ってく」
「あは、軟禁ってどれだけ…。って言うか、招待状をくれた関口さんは流石に中の見取り図までくれなかったから、私の所為で結構歩いちゃったね。岳士君、疲れてない?」
「平気だよっ。しおちゃんこそ、喉乾いてない?」
「うん、平気。…って言うか、今は何も喉を通りそうにない感じ」

恐らくそれは、今の自分が幸せに近いからそう思えるのだろう。
緊張している己の指先が震えている事に気づいた。悟られない様に強く握り締めたが、そっと伸びてきた男のカサついた手に優しく握り込まれ、宥めるように撫でられた。

「擽ったい」
「あっ、ごめん」
「もう、謝らないでって言ったのに」

すぐに離れていった彼の手の方が、自分よりずっと冷たく冷えて、震えていたのだ。けれど笑ってしまった。
怖くて怖くて本心は今にも逃げ出したい癖に、足は動こうとしないのだから。

「せ、関口さんも呼べば良かったねっ。隼人君がお世話になってるマネージャーさんなんだし、もう一人のお母さんみたいなものだよねっ」
「そうね。あの子、私の事物凄く嫌ってるもん。同い年だから、尚更かもね?」
「えっ?!そ、そんな事ないんじゃない…かなっ?!ほ、ほら、少しくらい誤解があったかも知れないけどっ、」
「いーの、私がした事は取り返しがつかないんだって、隼人に言われた。最近は電話にも出てくんない。因果応報って奴だよ」
「そんな…」

青褪めた男はおろおろと戸惑いを体に滲ませ、言葉を必死で紡ごうとしていたが、ただでさえ愚直なほどに真面目で口下手な彼の口が、言葉を発する事はない。
きっと、傷つけない慰めの言葉を一生懸命考えているのだろう。笑えるほどに、優しい男だ。

「な〜んてね。私は今更謝ったりしないわよ、今日するのは『お願い』だもん」
「し…しおちゃん…」
「あの子を岳士君の子供にしたい。…物凄く嫌がるでしょうねっ。あは、あははっ」

ああ、今の笑いはわざとらしかっただろうか。
心配げに口を閉ざした人を盗み見て、震えが止まった指先を撫でた。

「どうしたの岳士君、今日はいつもよりそわそわしてる。緊張するのは、私の仕事だよ?」
「えっと、あのね、僕…」
「うん」
「ち…父ですって、い、言っちゃった…!」
「えー?もしかして、中の受付の人に?」
「う、うん!神崎隼人の父ですって、言っちゃった…!ば、バレなかったんだ!僕も『神崎』だから!」
「は…」
「僕の免許証を見て、疑われなかったんだよ…っ!天と地ほど似てないのに!」

興奮げに口を開いた男が、余りにも艶やかな笑顔を見せてくる。
つられる様に零れた笑みを口元で塞げば、尚も興奮冷めやらぬ男は近寄ってくる寮のフロントマンを見るなり、転ぶ勢いで走っていった。

「神崎様でらっしゃいますか?」
「は、はひっ!神崎隼人の父、神崎岳士と申します!さんがく地帯の岳に、兵士の士でタケシですっ!」
「ご子息をお預かりしております北棟コンシェルジュの藤堂と申します。早速ですが、ただいまこちらの不手際で校内呼び出しが出来ない状態でして…」

背だって、然程高くない。
いや、芸能界で見慣れた誰もよりずっと低い。ヒールを履けば、女である自分と頭の高さが並ぶ、そんな男の背中を見ていた。

ああ。
まるで王子様の様だ。誰に言っても信じて貰えないだろうし、下手すれば笑われるだろうが、自分にはそう見える。出来ればあの人にはずっと笑っていて欲しい。出来ればあの人が、傷つく事などない様に。


「…本当、自分勝手な女。隼人を西指宿に取られたくなくて捨てた癖に、今頃どの面下げて会うつもりなんだか。ショタコンマネージャーに睨まれるのも、無理ないわ…」

何だか疲れた。
でも悪くない疲労感だ。麻痺しているのかも知れない。

「お母さん、私、まだ間に合うかな。…死んだ時、迷わずお母さんの所に行けるかな」

逃げ道を全て塞いで、此処まで来たのだ。



















「…と、言う訳ょ。我ながら雑な話だと思うから、信じる信じないはご勝手に」

エレベーターと言う密室空間から真っ先に出たのは、開閉ボタンを押した女だ。沈黙している三人の男を一瞥し、冷めた笑顔を弾けさせている。

「早くしなさい、お義父さん待たせてんでしょ?アンタが行かないなら置いてくけど?」
「…何と勝手な女だ。言っておくが、正式な招待ではない。今回の訪問は夜這いの様なものだ」
「中国人の癖に古い言葉知ってんのねィ」
「貴様、我が中華人民共和国を愚弄するか!」
「誉めてんのょ。変な負け犬根性なんか持ってるからヒスが出んの、何でもかんでも日本が悪いって風潮やめてくんない?」

睨み合う二人を前に、呆れた祭美月は溜息一つ、閉まろうとしたエレベータードアへ肩を割り込ませ、つかつかと外へ出た。

「下らない口論は後程ごゆっくりなされば宜しい。吾が先に参ります故、お二方は李の後に」
「王、俺が行く。ルークの所在を確認しておくべきだ」

不穏な空気を纏う黒装束が一歩進み出たが、彼の腕は美月と遠野俊江から同時に掴まれる事になる。

「メイちゃん、あーたはおばさんの後ろに居なさい。そのルークってのは、『銀髪』で『ジェイ君くらいの長身』で『秀皇の息子』な訳でしょ?」
「畏れながら、心当たりでもおありですか?」
「ん〜。病院でコーラ奢ってあげた苦学生が、メラニンレスだったのょ〜」
「は?」
「あれがあの時のお子ちゃまだったら、月日って怖いわねィ」

思わせ振りな台詞を吐く人を前に、眉を潜めた美月は口元を鉄扇で叩いている男を見た。目は合わなかったが、美月の視線には気づいている筈の男は口を開かない。

「ま、ンな事はイイわ。後回しにしましょ。あーた達が言う『ルーク』よりずっと、うちの馬鹿息子の方が面倒臭いもの」
「面倒臭い、ですか。ナイト様は吾を助けて下さった方です。どの様な方であれ、変わりはありません」
「あらん?随分と盲目ねィ、無知な奴ってのは一握りの知識に縋りつくもんょ」
「いえ、吾は吾の見聞きしたものを信じるだけ。新たな知識を得たのであれば、その時々で以降の身の振り方を考えるでしょう。けれど吾は、一度頂いた恩を忘れる事はありません」
「俊がアンタの思ってる様な男じゃなかったら?」
「その上で申し上げております。弟の命を救って頂いた過去が色褪せぬ限り、未来永劫、吾が貴方様のご子息を裏切る事など有り得ません」
「有り得ない、ね。イコール、『絶対』って事?」
「その様に解釈して頂いても一向に」

我ながら些か頑固だっただろうかと思ったが、18歳など彼女から見れば子供だろう。わざとらしい程の笑顔で宣えば、呆れた様な笑みを浮かべてボリボリと頭を掻いた人は、歩き始めた黒装束の背中を一瞥し歩き始めた。美月にはもう興味がないらしい。

「若いわねィ、メイユエ君。…って揶揄うのは、やめとくわ。あんな馬鹿でもおばさんの一人息子なの。ありがとね」
「…いえ、こちらこそ」

素直に礼を言われるとは思わず、虚を突かれた思いで瞬いた美月の歯切れは悪かった。
口論では負ける気がしない美月のライバルと言えば、口では勝てそうにない叶二葉と近寄りたくもない帝王院神威だ。この短い間で、遠野俊江も先の二人と大差ない様に思えていた所だった。

然し、美月の推測に反し、目の前の女はひねくれている訳でも馬鹿にしている訳でもなく、単に誰よりも平等な目線で物事の真理を語っただけだと知る。本能のままに発言している様に見せ掛けて、実は美月が思う以上に冷静な目で周りを見ているのだろう。

そう考えて、彼女の職業を思い出した。我ながら愚かな話だ。
医者とは、人でありながら神の領域に踏み込んだ者の名。定められた寿命から人を掬い上げ、尽き掛けた命を救う事が出来る天網の侵犯者だ。この世に神と言う存在が居たとすれば、医者は神に逆らう犯罪者と言えるのかも知れない。
人は艱難辛苦を『試練』だと言うが、それは時として屁理屈にも成り得よう。

「こちらこそ、青蘭………要を助けて頂いて、感謝の言葉もありません」
「あん?かなめ?」
「是。吾の母親違いの弟は、錦織要と申します」

吊り上がった目を真ん丸に見開いた女を前に美月が首を傾げた瞬間、凄まじい音が響いた。
何事だと弾かれた様に前方へ目を向ければ、黒装束が車椅子の下に轢かれている。

「どうしたんですか、李?!」
「たわけ!李より先に我の心配をせんか、美月!」

車椅子の下に仰向けで倒れている黒装束のまだ下、俯せで倒れている白髪頭が見えた。片目に嵌めているモノクルを押さえたまま、わたわたと暴れているが、彼よりずっと大きい黒装束に踏み潰されていて身動きがとれていない。

「かーっ!馬鹿もん、人様の通り道を塞ぎやがって足長めェイ!何だその忍者村コスチュームは!おい、アラレ!助けてくれたのは感謝してやらん事もないが、この遠野夜刀を『おしめさま抱っこ』するとは何事だァア!」
「え?おしめさま抱っこって何ですか?アーカイブに登録がないんですよねぇ」

ああ、騒がしい。
余りの騒がしさに眉を潜めた美月が怒りのまま口を開くより先に、ドカンと言う音が響いた。
破顔した美月が見たのは、無表情でダストシューターの蓋を蹴り飛ばした女の底冷えする笑みだ。

「…テメェ、此処で何してやがる、ジーサン」
「ヒィ?!と、ととと、俊江かっ?!お前こそこんな所で何をやってる!」
「あァ?息子のガッコのイベントに保護者が来て何か悪ィのか?相変わらず改造車椅子で暴走行為しまくってやがるたァ、草葉の陰でバーサンも泣いてらァ」
「ひ!じ、じっちゃんが悪かった…」
「帝王院学園はァ、秀皇のお義父さんのガッコなんだよォ。お主、そんなガッコの廊下で人一人轢いて『悪かった』で済ますつもりかァ、えェ?遠野夜刀さんよォ…?」

つかつか。
祖父の元まで恐ろしい程の笑みを浮かべて歩み寄った女は、美女の腕にお姫様抱っこされている怯えた祖父を前に、コキッと首の骨を鳴らす。
重そうな車椅子を片腕で持ち上げ、投げつける勢いで祖父の前に置き、目は祖父を睨んだまま、倒れている黒装束へ空いた手を伸ばした。
その手を取って立ち上がった黒装束へ『怪我はない?』と囁いた声は優しかったが、目は一ミリたりとも逸らされる事なく、今にも泡を吹きそうな祖父を見据え続けた。

「さァて、ジジイが何で此処に居るのか吐かすのが先かァ、そこの姉ちゃんがわざとらしく塞いでるドアを蹴破るのが先かァ、悩むわねィ」
「な、悩んどらんだろ、それ…!」
「あ?」
「ひ!じ、じっちゃんが悪かった…!」
「ねね、夜刀おじーちゃん」

にこっ。
遠野俊そっくりな荒みきった目で、然し果てしなく無垢な笑顔を浮かべた孫を見た107歳は、ぶくぶくと泡を吹いた。ピクピク痙攣している所を見るに、いきなり寿命が来たのかも知れない。

「何を隠したのか、俊江ちゃんに見せてくんない?」
「おい、汝は何をしておるのだ」
「黙ってなさい、これは遠野の喧嘩ょ。大河は引っ込んでろィ」
「何、喧嘩とな?」

悪魔も逃げ出す様な笑みを浮かべた女が、彼女の祖父の肩に手を置いた。その瞬間、息子にそっくりな決して高くない鼻を「すん」と動かしたのを、美月だけが見たのだ。

「随分油臭いわねィ、お嬢ちゃん。アンタ、その皮膚の下に流れてる血は燃える様に赤い?
 それとも、…火をつければ燃える、機械油かしら?」

ああ。
成程、帝王院財閥の一人息子が選んだ相手なだけはある。

「ひっ!ヤト殿…っ」
「俺にゃ無理だ、相手が悪過ぎる!ジジイは孫娘に勝てんと決まっているんだ!」
「医者を馬鹿にしたその体ぶっ壊されたくなかったら、お主ら直ちに退きやがれェイ」

まるで獣の様な女だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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