帝王院高等学校
人見知りワンコと溺れるターザン
「私は捨て子だったそうよ」

真白いホスピルの一室、開け放たれたドアからテラスに出た人は、夢見る様に囁く。

「狼が咥えていた見窄らしい娘、狼の首輪にリリアと刻まれていた。彼女を引き取った修道院の神父様は、狼の名を娘に与え、それはそれは大切に娘をお育てになられたわ…」

そして狼の娘は成長し、いずれ神に仕える身になるのだと信じていた。

「けれど、私は里子へ出されてしまった。ブロンドの娘が欲しかった、裕福な夫婦の元へ」

幸せだったのだろうか。
夫婦は大層優しかったが、利益主義者特有の宗教を嫌っていた為、二度と十字架に触れてはならないと言った。けれどそれ以外はとても優しく、何でも買い与えてくれて、望みは何でも叶えてくれたのだ。

「養父はヨーロッパ全土に経営を広げ、軈て年頃になった私は、父の駒になる事が定められた。私は捨て子だった事を隠し、ドイツへと渡ったの。
 …だってそうでしょう?狼の娘なんて誰も信じてくれない。…でもね、あの人だけは信じてくれたのよ。私の為にヴォルフスブルクに新しい屋敷を建てて、産まれてくる子を心待ちにしたわ」

彼女の周りには誰も居ない。

「あの子は何処へ行ったのかしら。私のカミュー、柔らかな赤毛の息子。ずっと会ってない様な気がするの。貴方が居なくなってから、私には誰も居なくなってしまったの。一人ぼっちよ」

テラスの手摺は彼女の背丈よりもずっと高く、まるで監獄の様にも思える。然し彼女は柵の隙間から外を見つめたまま、クッションを重ねたベンチの上で一人、語り続けた。

「ああ、早く。私を迎えに来て、愛しい人…」

空は凪ぎ、風は穏やかに。





「貴方を奪っていった神に私は、もう祈りたくもないの」





















「やっぱり、誰かそこに居るんだねぇ?」

そろそろと、壁を照らす光が動くのが見える。
耳馴染みのない柔らかい声音は女のものだ。場が場なだけに、そんな筈がないと思い込ませようとして失敗し、無意識に抱えている体へ力を込める。

「ねぇ?僕の声、聞こえてる?凄い音がしたけど、生きてる?凄いね、手だけ見えてるよ。もう落ちそう?下どうなってるの?ねぇ?」
「るせぇ…!テメー、何つー所に入り込んでやがる。この騒ぎはテメーの所為か?あ?!ぶっ殺してやるからそこ動くんじゃねぇぞコラァ」
「…騒ぎ?もしかして外、何か起きてるの?」
「しらばくれんじゃねぇ!主要水道を破壊してアンダーキャノンを水浸しにしやがって、お陰で何十人が巻き込まれたと思ってやがる!」
「そんな筈ない!」

それまでの静かな声が、苛立たしげに荒立った。
ガリガリと何かを擦る様な音と、じゃらじゃらと金属の音が聞こえてきたが、声の主が顔を覗かせる事はなかった。

「誰がそんな事したの?っ、はぁ、僕…?だから僕を殺そうとしたの?でも、っ、あの子が彼の邪魔するなんて有り得ない。…はぁ、誰かがプログラムを書き替えた…?」

女のものと思われる息遣い、ガリガリと爪でコンクリートを引っ掻く様な音、その度に嵯峨崎佑壱の頭上にある横穴を照らす光が、あちらこちらに動いている。

「…おい?まさかテメー、動けねぇのか?」
「動ける、けど、届かないだけだよ…!この足枷がなかったら、どうにもでもなるのにっ」
「それ動けるっつーのか?」

仏壇の様な匂いがした。
濡れて生臭いコンクリートと塩素の匂いで気づくのが遅れたが、この匂いは覚えがある。

「…叶?」
「ふふ。当たり…」

そうか、喋り方も匂いも皆無に近い気配も何も彼も、あの男に似ているのだ。それに気づいて、辛うじて掴まっていた左手を離しそうになった佑壱は、全身から血の気が引く音を聞いたのである。

「やばっ、」
「どうしたの?ねぇ?」

人差し指の握力などあってない様なものだ。幾らロッククライマーに負けない力を誇っても、今の佑壱は高坂日向を片腕で抱えていた。
聞こえてきた声に満足に応える余裕もなく、コンクリートを粉砕せんばかりの力を、それこそ奇跡的に引っ掛かっている指に込めてみる。

「く、そ!」
「…ねぇ?大丈夫?指しか見えなくなったよ?ねぇ?」
「っ、Shit! Who do you think I am?!(るせぇ、俺を誰だと思ってやがる!)」

駄目だ。自分が一番良く判っている。
慣れ親しんでいる筈の日本語が出てこない、これは笑える程に限界だった。とは言え、足掻きもせずに諦める事など、どうしても佑壱には出来ない。
自分の事は諦め慣れているのに、高々人間一人を抱えたくらいで、自分はいつもの自分とはまるで別物だ。


こんな状況でそんな事を考えた瞬間、背中が燃える様な熱を帯びた。



『ああ』

誰だ。
(頭の中で)

『私は何も、知らなかった』

これは誰の声だろう。
(初めて聞く音だ)

『空を飛ぶ以外に、何一つ…』

耳鳴りがする。
(気がする)

『泣かないでお日様』
『私はきっと生まれ変わって』
『今度こそ貴方だけを見つめたまま』
『もう何処へも、落ちたりしないと誓うから』
「ねぇ、今の音は何?大丈夫?ねぇ、返事してよ、ねぇ」

女の声が鼓膜を震わせていた様な気がしたのだけれど、コンクリートが粉の様に散る光景を、己の人差し指の先で見たのだ。

『貴方と言う光を失った私の体は灰色に染まり』
『分厚い雲に遮られた暗い大地の片隅で』
『人の手によって真っ二つに裂かれた』
『貴方の流した涙の滴は空を割る』
『私の死を引き換えに、人は太陽を手に入れたのだ』
『貴方の涙ははらはらと』


(ふわりと、)
(体が宙に浮かぶ気配)
(懐かしい様な気がしたのだけれど、)



『ゆっくり、世界を沈めていく。』



(人は空を飛ぶ事など出来ないと)
(知ってい)
(た?)


「おひさ、ま?」

見上げた何処にも、太陽などない。
宙へ放り出された己の左手を見ている。抱き締めた右腕の中には他人の体温。幻聴にしてはしっかりとした、白昼夢にしては短い、今のは何なのかなど、悠長に考えている時間はなかった。

決して離すものか・と。
砕けて散って、重力に従い降ってくるコンクリートの破片から守る様に瞼を閉じて尚、だから、離さなかったのだ。

「悪、い。高坂」

キラキラと、何かが光って見えた。
勘違いかも知れないなどとは思いもしない。無意識だ。落ちる間際に、その蜘蛛の糸の如く細いワイヤーを見た瞬間、迷いなどなかった。
細い細い、一本の線。掴んでも助かりそうな気はしなかったと思う。けれどそれは、後の話だ。

「しくじったら俺も一緒に死んでやるから、…許せよ」

伸ばした手、五本の指で掴んでも感触すら曖昧な細い糸を握り締め、凄まじい重力を全身に浴びながら、腹と肺に収めているありったけの空気を吐き出すが如く、彼は吼えたのだ。



「そ、」


そう、まるで狼の様に。


「総長ぉおおおおお!!!!!」
「あ〜ああ〜〜〜〜〜ァ」
「?!」

ああ。
もう、幻覚でも幻聴でも何でも構わない。

「あ〜〜〜ああ〜〜〜ァ〜〜〜ん」

縋るには余りにも細い糸を掴んだまま、然し鋭利な刃物に五本の指を裂かれる様な痛みに耐えて。嵯峨崎佑壱は、彼本来のダークサファイアをくしゃりと歪めたのだ。

「ん?」
「嘘、だろ?」
「あ。イチ、みっけ」

相変わらず人相の悪いそれは、半裸で落ちてきた。
佑壱の目の前で囁く様に呟いて、空中で佑壱の首輪を恐ろしい握力を以て鷲掴むと、空中にも関わらず、日向を抱えている佑壱をぶん投げたのだ。

「っ、な?!」
「ストライク上等じゃァアアア!!!」

久し振りに聞いた飼い主の怒号。
重力に逆らって吹き飛ばされた佑壱の体は、日向と共に滑る様に横穴の中へ収まった。
全身を打ち付けた痛みに呻く間もなく、目を見開いている鎖で繋がれた女にも構わず、抱えていた日向を放る勢いで手放した男は、無我夢中で穴の外を覗く。


「総、」

どっぼーん!


と言う凄まじい音と共に、水飛沫が上がるのを見た佑壱は声もなく唇を震わせると、およそ一秒たりとも悩まず、漆黒のプールへと飛び込んだのだ。

「そ、総長ーっ!!!大丈夫っスか総長!!!何で俺なんか助けたんスか、アンタ泳げないのに!しっかりして下さい総長、総長ぉおおお!!!」
「ぷはん。もきゅ。うぷっ、ゲフ」

パンツ一枚で華麗に溺れていた男は、彼の犬が暗い中でも鼻だけを頼りに華麗に救出した。
たった数秒沈んだだけで大量に汚水を飲んでしまったらしい阿呆を、青褪めながら大きなコンクリートの瓦礫に乗せた犬は、握り締めた拳でドカンドカンと叩く。

何をと言われれば、辛うじて布切れが巻き付いた、遠野俊の胸元を・だ。

「うぇ、おぇ、うっぷ」
「しっかりして下さい、総長ぉおおお!!!吐いて!ペッして!ンな汚ぇ水は飲んだらいけません!聞いてますか総長、吐きなさい!吐けコラ、吐けっつってんだろコラァ!」
「ぷひょん。ぴーひゃららー」

ピュー!
と、噴水の如く俊が吐き出した水が顔面に直撃した犬は、真顔で濡れた顔を拭った。
最早怒る気力もないのか、単に現実が受け入れられないのか、手早くシャツを脱いだ佑壱は、俊の体に着せてやる。

「想像以上に水飲んでたな…危ない所だったぜ…」
「ぷはん!ぴーひゃららー」
「………まだ出るのかよ、パネェなマジで」

水浸しで酷い有り様だが、カルマの総長が胸に乳バンドを巻いていたなどと言う変な噂が立つよりは、幾らかマシだろう。
くたりと死んだ様に倒れた俊は、凄まじい腹の音を一鳴きさせると、ぱちっと目を開いた。

「ふ、作戦通りだ。イチ、助けに来たぞ」
「や、最終的に俺が助けた感じじゃねぇっスか、今のは」
「馬鹿野郎ァ!小さい事を一々気にするんじゃねェエ!!!」
「はっ!ス、スんません…!」

いやいや、お前は間違っていない。
然し忠実な嵯峨崎佑壱は遠野俊が怒鳴るまま、素直に頭を下げた。

「ん?イチ、そこは立てるのか?」
「あ、はい。思ったよか浅かったみたいで…スんません、この程度と判ってたら、烏滸がましく助けに来たりしなかったんスけど…」
「イイかイチ、60cm以上の水位で俺は死ぬ」
「はは。まさか」
「俺を甘く見るな、死ぬ」
「いや、だから此処、足つくんですって」

俊が華麗に溺れた最下層は想像以上に広かったらしく、後先考えず飛び込んだ佑壱が顔を打ち付けていた事から察するに、182cmの佑壱が立つと胸元までしか水位はない。
176cmの俊が何故溺れたのかは、突っ込むだけ無駄だろう。何せ家の風呂で溺れる事が可能な、プロカナヅチなのだ。キリッと宣ったオタクにオカンは笑い飛ばしたが、本気と書いてマジかも知れない。

「金髪の人はどうした?」
「金髪?ああ、高坂なら上に置いて…ああ?!あのアマ、逃がさねぇぞ!」

俊の言葉で思い出したらしい犬は、スイスイと水の中を歩くと、犬と言うより猿の如くスイスイと壁を登り始めた。オタクがあはんと言う間に横穴まで登り終え、何やらワンワン吠えている。

「イチ、俺を置いていくなんて…死ぬぞ?」

彼シャツ状態のシーザーは真顔で宣い、そろりそろりと水の中へ尻から降りると、クネクネ震えながら水の中を歩き、たった三歩程度の間に二度転んで溺れそうになったが、何とか壁際まで辿り着くと、ぷりっと尻を振り、駆け登る勢いで壁を蹴った。
何故そんな芸当が出来るのに水の中を歩くだけで死にかけたのかは、この際どうでも良い。

「テメー、高坂に変な真似してねぇだろうな?!」
「何もしてないよ。君が吹っ飛んできてくれたお陰で、足枷の鎖が根元から外れたの。有難う」
「テメーの為に吹っ飛んできたんじゃねぇ!ぶっ殺すぞ、」

と、美人相手にガミガミ吠えていたボスワンコは、あっさり登ってきていた俊に気づくなり顔色を失った。燃え尽きた様な表情だ。

「…イチ」
「は、はい…!」
「カルマ憲法その壱」
「じょ、女性とご飯を作ってくれるお母さんには優しく接する事!ブス・テメー・クソババアなんてもってのほか、男たる者、努めて紳士であるべし!」
「良かろう。それを踏まえて、今のお前の行動を鑑みるとどうだ。女性に『ぶっ殺すぞ』、だと?」

ああ。
地獄に仏とばかりに奇跡を信じた数分前とは真逆に、ぶるりと震えた二年帝君は、真っ黒な瞳を眇めてわざとらしいほど微笑んだ男を前に、無意識で背を正す。何を言っても言い訳だ。何を言っても無駄だ。
普段が如何にアレだろうと、だからこの男はカルマ最強の男と謳われているのだ。

「んの、愚か者がァ!月へ祈り己が過ちを悔いるがイイ!」
「ぐふっ」

手加減の回し蹴りで良かったと、蹴り飛ばされ掛けて耐えつつ己の腹の骨が折れる音を感じた男は、乱れた赤毛を掻き上げる。
たった一発殴られただけで顔面を粉砕骨折したヤンキーを知っているカルマの犬であれば、逆らう事などあってはならない。死にたくないのであれば尚更だ。蹴りで良かったと思おう。

「…ナイト?」

ハミチン上等のパンイチキックで吹き飛ばされそうになりながらも、気丈に腹筋で耐えたカルマ副総長は、然し腹を押さえたまま崩れ落ちた。
佑壱より小さい上に、筋肉より贅肉の方が多そうな体つきで何故こうも殺傷能力が高いのか、正に主人公の謎だ。だからこそカルマ総長なのだが、女房役としてはせめてもう少しパンツに拘って欲しかったと思う。
何故にそこまで徹底してレインボー地に、黒のスラッシュストライプが入っているのか。
派手過ぎて一度見たら忘れられないインパクトだ。嵯峨崎佑壱の精神力が、またも鍛えられる。

「我が家のお母さんが大変失礼しました。俺に甲斐性がないが故に、どうも欲求不満な様で…」
「総長、そこは金はなくても愛があるとか言う所スよ。抱いてやったら大概の女は大人しくなるもんス」

ヤンキーが恐れる狂犬を一撃で倒した男と言えば、体に張り付いて着心地が悪いシャツを脱ぎ、ぎゅっと絞ってから、上半身裸の佑壱にそっと掛けてやる。
童貞は、オカンの言う『抱いてやる』が、文字通り肩を抱いてやる事だと思ったのだ。パンツはあれだが、そこはかとなく初々しい男だった。

「そこで顎をクイっとやるんス」
「こうか?」
「やべ、きゅんとした」

身長差とイケメン差は埋められないが、大変残念な脳味噌をお持ちの佑壱には、何の問題もない。
恐らくヒビどころではなく折れていそうな腹の痛みから目を逸らし、しゅばっと日向の上に座った佑壱は、言われるまま顎をクイっと持ち上げてきた俊を見上げ、鼻を押さえる。
色々ありすぎて犬なりに一杯一杯だったらしく、甘えんぼモードに突入した様だ。
ぐりぐりと俊の腹に頭を擦り付けているが、目の前に見えるお派手なパンツは見て見ぬ振りだ。

「俺の可愛いワンコは女の子に優しく出来るワンコだと、俺は信じてるぞ…」
「そ…総長ぉ…!俺、俺、間違ってたっス!ぐすっ」
「女性の前で裸になると、うっかり逮捕されるぞ?お前は刺青が入ってる事だし、筋肉も風邪を引くから服を着なさい、イチ。お前の腹筋は、思春期の繊細なハートより割れ易いからな…」
「割れ易いっつーか割れてんスけど、お心遣い有難うございまス!」

良く考えてみなくとも、俊が絞ったのは元々佑壱のシャツだ。物の数分前に着せたものだ。

「総長、実は俺の事大好きなんじゃねぇんスか?…なんつて」
「ああ、大好きだ」

スラックスを穿いている二年帝君よりも、キリッと紳士な表情で誤魔化そうとしている一年帝君の方が余程大変な姿だが、感極まっている馬鹿犬とパンイチにバスローブの余り布ブラジャーを纏う防御力0な男は、ひしっと抱き合った。
犬のケツの下、難しい顔で寝ている副会長が魘されている。尻に敷かれるとは言うが、多分これは違うと思われる。然しツッコミはない。いつものツッコミ不足だ。

「うっうっ、そーちょーそーちょーそーちょー、パンイチでも総長はやっぱカッケーっス!」
「肋骨は大丈夫かイチ…!痛かったら俺が唾をつけてやるからな…!」
「多目につけて下さい」
「待ってろィ!全力で捻出した唾を地道に溜めるからなァ!」
「な…何か雰囲気違うけど、ナイトだよ、ね?」

最早誰にも止められない暑苦しいイチャつき具合のカルマツートップは、乾いた声に揃って動きを止める。
佑壱に抱き潰されそうな勢いながらもオタクと犬は抱き合ったまま、きょとんと首を傾げた。互いしか見えなかったらしい二匹は、そこで漸く第三者に気づいたのだ。と言うより、思い出したのだ。

「ナイトーではなく、遠野です。所でお嬢さんはどちら様?」
「コイツが今回の騒ぎの犯人っスよ、総長…!」
「はい?何の騒ぎの犯人さん?」
「えっ?だから今回のあれこれっスよ。水道管がパンクしたり、俺らが此処まで落っこちたり…つーか総長、何で此処に居るんスか?山田と一緒だったんじゃないんスか?」
「タイヨーは二葉先生とランデブーで、俺のバスローブを燃やして高笑いしてたぞ?」
「…何があったんスか?」
「ん、特に何もない。健吾が俺の所為で光り物を集めてて、要が真っ赤で、裕也の寝顔が男前で、隼人の足が結局は長かった」
「はい?」

きょとり。
首を傾げた極道顔に、若干劣るものの人相の悪い眉無し犬も首を傾げた。

「えっと、じっちゃんが二人になってて、一人は若かった。フユ様の抹茶ケーキは一口でなくなったけど、タイヨーがチキンをくれて、朝ご飯は6杯食べた」
「はい?えっと…スんません、俺は頭が悪いんで判らなかったんスけど、総長のお祖父さんが増えて、片方が若返ってて、フユ様で抹茶ケーキって事は…叶冬臣っスか?山田が唐揚げを食べ残して、総長、今朝はあんま食べてないじゃないっスか!」

忠実な犬はほぼ完全に把握している。
何で今ので判ったのだろうと首を傾げる女には見向きもせず、主夫は拳を握り締めた。
こんな所で遭難している場合ではなかったのだ。こんな所で高坂日向を抱えている場合ではなかったのだ。抱えるのは米俵、炊飯器の限界に挑戦するべきだったのだ。

「畜生、俺が不甲斐ない所為で…!」
「寝てるじーちゃんが運ばれてきて、起きてるじーちゃんがヨーグルトの人に怒鳴って、二葉先生が空飛ぶバイクでタイヨーが放火して、健吾が光ってて、野上氏の眼鏡が割れてたんだ」
「じーちゃんとじーちゃんって、片方は学園長っスよね?…待てよ、するってぇと、もう片方はなし崩しにシリウスの兄貴って事になるんじゃねぇのか…?」
「俺がトランポリンで、皆がテトリスで、股が弛い俺は死を選んだんだ」
「ああ、あの糞デカいボールか。多分高坂の仕業だと思うんスけど、あれで助かったんですね!流石は総長!俺なんか擦り傷だらけで恥ずかしい限りっス!」
「背中に怪我してたぞ?」
「もう治ったんで平気っスよ。総長こそ、本当はどっか怪我してんじゃねぇっスか?」
「無傷だ」
「くっそカッケーなぁ、おい!一生ついていきまス!」
「だが俺はサセキでお前はミルクセーキ?」
「総長、この俺が中央委員会なんて小さい枠に収まる男だと思ってたんスか?全く、こうなったらルークなんて秒殺っスよ。何せこの嵯峨崎佑壱、左席委員会書記っスから」

その二人を交互に見やった人と言えば、細い足首に巻き付いている手錠じみた鉄の塊を撫でながら、忙しなく瞬いている。どう足掻いても会話が成立している意味が判らない様だ。

「ねぇ、僕のこと忘れてるでしょう?」
「はい?あっ、すみませんでした」
「ンなあからさまに怪しい奴を忘れる訳ねぇだろうが、仏壇女。…お前がジェネラルフライアの本体かよ」

しゅばっと背後に俊を隠した赤毛は、足元の中央委員会副会長が邪魔なのでペッと蹴った。先程まで必死に抱いていた男を、今やゴミを見る目で見下している。

「何が目的だか知らねぇが、オイル臭いアンドロイドでこの俺の鼻を騙そうなんざ、甘いにも程がある」
「騙したのは僕じゃなくて僕だよ。僕は昨日の夜から此処に居たんだ」
「言い訳なんざ、」
「Close your eyes.」

睨み合う二人を余所に、ぼりぼりと臍を掻きながら囁いたパンイチは、ピタッと動きを止めた二人に頷いて、ぱちんと指を鳴らしたのだ。

「ん。二人共、本物の人間だった。スマホじゃない」
「………は!総長、今の何スか?!」
「ナイト、『停止』させる時は先に言ってよ」

睨み合っていた二人から同時に睨まれた童貞は照れた様にぺこりと頭を下げたが、顔がヤクザなので全く可愛くはなかった。

「でも、機械音痴なイチが今スマホの話を…」
「総長、俺は機械音痴な訳じゃねぇっスよ、機械が俺に従わねぇだけで。そんでアンドロイドはアンドロイドでもスマホじゃない方のアンドロイドっス」
「えっ?」
「総長が可愛すぎて俺はもう駄目だ」

然し根っからのオカンはそんな俊の仕草に母性本能を擽られたらしく、『反省してよね!』的な事をほざいたものの、既にお許しモードだ。

「あ?…つーか、停止?何スかそれ、俺が知らねぇ事を何でこの女が知ってんスか総長、ちょっと話し合いましょうか?え?いつの間に余所に女作ってたんですか?俺は山田の件もネチネチ根に持ってんスから、納得行く説明を願いたい。まぁ、納得するかどうかは保証出来ねぇがな…」
「あにょ、そにょ、イチ、笑顔が怖いぞ?」
「ナイトは催眠が使えるんだよ。そうだよねぇ、ナイト?」

近年稀に見る美女に見つめられた童貞は、真顔でクネる。
これにイラッとしたらしい非童貞は再び俊を背後に隠し、ぐるると唸った。唸ったが、相手が異性なので強く出られない。

「催眠…?」
「『五感の完全支配』、クローズで思考が剥奪される。頭が働かないから、聞こえても判らないし、見ていても見えてない。触っても感じない。人の形をした石になるんだ、誰もが」

そんな事が有り得るのかと、計算以外は聡明な嵯峨崎佑壱の眉間に皺が寄る。疑わしげな眼差しで背後の俊を一瞥すれば、オタクは判り易くビクッとした。きょどきょどと目を彷徨わせている所を見るに、どうやら本当の話らしい。

「『精神の完全支配』、オープンでナイトの思い通りに動かされる。喋れと言われたら喋る、黙れと言われたら黙る、指示がない間は思うまま行動してるし、記憶も残ってる。だけど支配されている間は強制的に記憶が混濁して、覚えているのに思い出せないんだ」
「…んだ、そりゃ。それがマジなら、最強じゃねぇか」
「『声』を『音』として聞く人と、支配される事に慣れている人には効果が薄い。確かに最強だけど、掛ける度に弱くなるんだ。効かない訳じゃないみたいだけど…あってるよねぇ、ナイト?」

無言で目を彷徨わせていたオタクは、二人から見つめられてドロドロと溶けた。何故バレているのかと言わんばかりの動揺が、表情からではなく態度から丸判りだ。

「…総長」
「あわわ…あわわわ」

今にも人を殺しそうな表情で余りにも狼狽えているので、佑壱は俊が可哀想になった。母性本能だろうか。

「それでもまだ、君はナイトに無条件で従える?」
「俺らを揉ませて笑ってやがるたぁ、気に喰わねぇ女だぜ」
「イ、イチ、おぇ、息が…」

母性本能のまま、ボタンなど止めていない胸元にオタクを押し付けた男は、あるかないか判らない乳首を吸わせているつもりらしい。然し胸板で窒息しそうなオタクは、浅黒い筋肉の海で溺れている。ふ、と微笑んだオカンの眼差しは『照れんなよ』と言っていた。
照れてはいない、死にそうなだけだ。

「っつー事は、クローズ中に動かす事は出来ねぇんだな?オープン中は命令があるまでは自由に動ける、と」
「そう!君ってクラウンでもセントラルでも目立たないけど、やっぱ賢いんだねぇ、ファースト君」
「ぷは!あふん!ふぐっ、ぷにょん!」
「んだと?馬鹿にしてんのかコラァ」
「記憶出来ないのと、記憶してても思い出せないのは、殆ど同じだよねぇ?僕らはいつの間にか支配されてて、けどそれすら思い出せないだけかも知れないって事だもの」
「むぐむぐ…おぇ、ゲフ」

妖艶な笑みを刻む唇は、赤い。
明るいサファイアの瞳を見つめたダークサファイアは、膝を抱えて無表情で座っている黒髪を横目に、

「だったら効かなくなるまで、何万回でも掛けりゃ良いじゃねぇか」
「…どう言う意味?僕が言ってた事、君はちゃんと聞いてた?完全な支配には拒否権がないんだ。拒絶したいとすら思わない。何をされても、僕らには何にも残らないんだよ?記憶も証拠も何にもない、完全犯罪」
「大体、あっさり支配される方が悪いんだろうが」
「え…」
「俺は総長に支配されまくりたい側の犬だから、覚えてようが忘れてようが、別に構わねぇんだよタコ」

だから何だとばかりに、さらりと吐き捨てたのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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