帝王院高等学校
パズルは一つ間違えると大変にょ
その時、今まで積み重ねてきた陳腐な世界は崩壊したのかも知れない。
その時、泣きたいくらいに己の穢れを知ったのだろうか。今更過去へ戻れる筈が無い非可逆世界を呪って、全てを偽るのだ。
まるで、そうまるで。
捕食者を前にした小動物の様な哀れさを持って逃れようとする小さな体を押し付ければ、か細い体躯は容赦無くこの腕に収まった。
『何を恐れているんだ』
今にも零れそうな涙は庇護欲を刺激するに充分だ。
けれど『近付くな』とあれだけ好戦的に叫んだその唇が、酷く脆弱な声音で『近付かないで』と呟いた時に、だから世界は崩壊したのかも知れない。
(喉の奥がコトリと音を発てる)
(仮面越しに見る世界は芸術的だ)
(怯えた瞳に暗い欲が湧く)
(無尽蔵に)
『俺が怖いのか?』
その透明な雫が零れ落ちる間際、舐め取った舌先が蜂蜜よりも甘いそれを教えてきた。
腹の奥で唸る雄の叫びに身を委ねれば、最早崩壊した世界に未練など存在しない。
(貪り尽くせるものなら今すぐに)
(誰にも邪魔されず密やかに)
(何せ世界に二人きり)
(食らい尽くせるものなら歓んで)
『………何故、泣くんだ。』
普段の冷静さを欠いた唇が応える事など無いと気付いていたから、問い掛けた。
いつもの憎たらしいほど純然とした利発な瞳は怯えたまま、いつもの憎らしいほど快活な表情は青冷めたまま、その小さな頭は愚かにも考えているのだろうか。
自分は穢れているのだ、と。
自分は汚い人間なのだ、などと。愚かにも、哀れにも。
(こんなにも愚かな人間が存在するのか)
(真に汚れたものを知らないから)
(下らない思い違いをしてしまう)
憐れな魂だと思う。
こんなにも過虐心を煽り立てるその双眸は、他の何よりも他の誰よりも無垢なのに。(汚してやりたいほどに)
何よりも大切に密やかに、積み上げてきた世界を容易く壊すほど、強いのに。(跪かせてやりたいほどに)
だから、憎しみに似たそれは増大していく。無尽蔵だ、果ては無い。
まるで燃え盛る地獄の業火の様だ、と。
(心の中で吐き捨てた台詞は)
(何処に消えたのだろう。)
『─────汚れてしまえ。』
その時、世界は崩壊したのだ。
その時、泣きたいくらいに己の穢れを知ったのだ。
だから、全てはこの仮面の下に。
偽りを重ねて、燃え盛る業火にいつか灼き尽くされてしまう刻まで、全て覆い隠そう。
『…狂うほどに』
(触れた唇すら、甘い。)
「ウエスト、白百合のお説教は終わりましたか?」
「会長、HRなんて行かないよね〜?」
「煩ぇ、離れろ」
風紀室を退出すると同時に、抱き付いてきた親衛隊の生徒を振り払い、彼は僅かに眉を寄せる。
「きゃ、」
「ウエスト?」
「…くそが、ケツ振りてぇなら余所当たれ」
苛々と長い足で乗り込んだエレベーター、無造作にポケットから掴み出した指輪を握り締め舌打ち一つ、
「ABSOLUTELYライン・オープン、川南兄に繋げ」
『どーしたの、沈んだ顔しちゃってさ』
エレベーターパネルが消灯した。ロックを掛けたのだ。
これで目的地に辿り着くまでこのエレベーターが開く事はない。
「うっせ」
『アサヒの癖に、まるでユウヒじゃん』
「朝日じゃなくて麻飛だっつーの」
エレベーター中に響くケラケラ笑いに吐き捨て、ギリっと唇を噛む。
エレベーターにはモニタもプロジェクターも無い為、回線の向こう側は判らないが、相棒とも呼べる川南北斗が笑い声を止めただけで凡そその表情が判った。
『思ったより深刻そうだ。性病でも移されたのかって思ったけどね』
「つまんねーゴシップ書いてんじゃねぇよ」
『ガセは書かないよ、創作はしても』
「同じだろーが」
『だから、捏造はしないって。改竄はするけど、たまに』
報道部部長、と言う趣味を活動にした北斗の実情はABSOLUTELYの諜報係だ。
セントラルマスター、つまり叶二葉の手足となり情報収集に奔走する役目で、二葉のデータベースの殆どが北斗から流れたものである。
障らぬ川南に祟り無し、と言うのはABSOLUTELY内では有名だ。
機嫌を損ねたら恥ずかしい初体験から殺した蚊の数まで調べ上げ、新聞として掲示板に公開されてしまう。
曝された殆どの生徒が自主退学するくらいだから堪らない。
『で、何があったの?お兄ちゃんが聞いてあげるから、話してみなよ』
「てめえの弟はカルマだろーが」
『まあまあ、そう噛み付かないの』
「…イーストを警戒しろ、だとよ。」
『白百合が言ったの?』
少しは笑い所ではない事を理解した様だ。
僅かばかり声を潜めた北斗が問い掛けてくるのに、二・三度無言で頷く。向こうにはこちら側の映像が監視カメラ越しに見えているので、口を開くのも面倒な今、便利だと言えば便利だった。
『そっか、ウエストにも指令があったのか。…タダゴトじゃないよねぇ』
「あ?まさか、てめえにもあったのか?」
『あったよ、去年の末くらいだったかな。確か、僕らが自治会役員に任命されて暫く経った頃くらい』
「何で黙ってやがった!」
『何でって、』
聞かなくても判る、命令だからだ。
副総帥に並ぶ叶二葉に命じられれば、ABSOLUTELYである限り否を唱えられる人間など少ない。
『仕方ないでしょ』
「ちっ」
絶対的な存在は総帥だけだ。
二葉も日向も逆らえない、帝王院神威だけが拒絶する権利を持っている。
「…イーストは俺の相棒だぞ、畜生」
『だからこそ、ウエストには言ったんじゃない?確かに、最近のイーストは益々謎めいてる気がする』
寡黙な彼は確かに謎めいていると言えるだろうが、中等部からの付き合いである西指宿にとっては親友でもあるのだ。
ABSOLUTELYに所属したのは西指宿の方が早かったが、今では幹部に名を連ねている。
本来、高等部自治会副会長だった筈の彼はそれを蹴って図書委員長の席に就いたが、特別可笑しい事は無い筈だ。
「何処がだよ。昨日だっていつも通り俺と飯食って、セフレん所行って、」
『それも、可笑しいと言えば可笑しいんだよ』
「あン?」
ロックを掛けた筈のエレベーターが開き、監視カメラへ注いでいた視線を落とす。
「………げ。」
不機嫌そのものの顔で睨み付けてきた男に目を見開き、今の「あン?」が誤解を受けているのではないかと唇を痙き攣らせた。
「…何、人の面見て『げ』だと?」
「サ、サブマジェスティ、今のは、違、誤解と言うか、」
「何をほざいてやがる…」
「いや、あの、」
「セキュリティライン、リブラに直行だ。とっとと寮に向かえ」
西指宿の了解など無視してエレベーターを乗っ取った日向が、苛立たしげに壁へ背を預ける。
「………ブッ潰してぇ。」
何を潰したいのか、などと聞けたら勇者になれるだろう。
その姿、サバンナのライオンの如し。同じ金髪でも本物のブロンドは輝きが違う。
少し前まであんなに可愛かったのが嘘の様な、言えるものなら『詐欺だ』と言わせて貰いたいほどの雄フェロモンに貧血が起きそうだ。
「…」
「…」
賢いのか逃げたのか、北斗はずっと沈黙している。これから寮までのおよそ5分間、このライオンと二人っきりなんて夢でも嫌だ。
「あ、あの、」
緊張MAXの自治会長は今にも心臓が止まりそうな表情だが、意を決して一歩近付いてみた。
「サブマジェスティはどうお考えっスか?」
「…あ?」
「セントラルマスターから、イーストに注意しろって言われました」
ちらりと一瞥をくれただけで、ふんと鼻を鳴らした日向は凄まじい威圧感を放っている。
愛想笑いを浮かべている限り、威圧感に欠ける二葉とはまるで正反対だが、キレた二葉がどれほどのものか未だ知らない西指宿にとって、神威と日向が同列だった。
「今更だ。だからテメェは鈍いんだよ」
「鈍いっつったって…」
「まぁ、近過ぎて見えねぇ事もあるだろうが」
素顔を晒さない統率者は、下の人間には余りに遠いらしい。
少なくとも、神帝の名が無くともABSOLUTELYは日向に従う。ABSOLUTELYの殆どが彼に憧れて、または破れて従っているからだ。
「アイツが一番きな臭ぇ」
「どう言う意味っスか?」
「初めはどっかのチームから来たスパイじゃねぇかと思ったんだが、…敵は外ばかりじゃねぇだろ。」
仄暗い笑みを滲ませる日向がそれ以上口を開く事はない。
文系に支障がある二葉とは違い、全教科過不足無くクリアする秀才の考えなど読める筈も無く、西指宿の唇は沈黙を守った。
然し、次に口を開いた瞬間、獅子の牙が現れる事になる。
最早その威圧感を言葉にする事は出来なかった。
ただただ、大人しくその牙の前に跪く事しか許されないと思わせるほど、それは絶対的な勝者のオーラを放っていたのだ。
「そうだ、サブマジェスティにもご報告があります」
「あ?」
それがまるで引き金の様に。
それがまるで魔法の呪文の様に。
「カイザーと接触しました。」
凄まじい握力で掴まれた喉は不様な音を発てる。呼吸を求めて開いた唇が、ひゅっと惨めな音を漏らした。
「ぐ、」
これ以上無く見開かれた琥珀色の双眸が視界一杯に映り込み、
「What did you say?(今、何っつった?)」
獰猛な牙が、目前に。
←いやん(*)(#)ばかん→
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