帝王院高等学校
曲を聞けば歌詞を思い出すもんです
8月の、湿度も温度も高い日だ。記憶にある微かな町並みを求めて、あの日は何時間走り回ったのか。
暮れなずむ空は緋色のグラデーションに群青を混ぜつつあり、嫌がらせの様だった大音量の蝉の音が、少しだけ和らいだ様な気がした。

それが走り回った疲労によるものか、通り行く人々の誰からも振り向いて貰えない寂寥感によるものなのか、当時の知識では説明しようがない。ただただ、入院したと聞かされたまま別れてしまった人に一目だけ、会いたかっただけだ。

この数日は地獄だった。寧ろ地獄の方がマシなのかも知れない。
顔を合わせる度に『何故生きている』と眼差しを尖らせる父親は、ひたすら恐ろしいだけ。それなのに他人に等しい義兄と義母は気遣ってくれているのが判るから、尚更に悲しい。

死んでいた筈だった。ほんの最近の話。
小学校への入学を控えていた義兄に対する祝いを兼ねて、と言う大義名分で海の向こうの国に引き取られてから初めて、外出した日。半日ほど飛行機で空を飛び、辿り着いた見事なお屋敷はまるで別世界のよう。
エメラルドの瞳を持つ子供が、良く知る意地悪な子供に何処となく似ていて怯えたのも束の間、彼は小さな手を差し出してきた。

初めて出来た友達と、別れの台詞もなく離れてから何日が経っただろう。
あの日、あのほんの短い数日間の締め括りに自分は、死んでいた筈だったのだ。倒壊した女神像の頭が胴体から離れて、何ら容赦なく降り注いでくる小石と共に、自分と言うちっぽけな子供はぺしゃんこに潰されていて。

つまりはあの瞬間、抉れた胸元から肋骨と共に真っ赤な肉の塊を散らしたのは。


「っ。お腹空いた…」

ぎゅっと、抱えた膝を強く。
幾ら背を丸めても消えてなくなれない生き物、助けて貰った礼の一つも言えないままに、近頃何かに怯えている父親の機嫌が悪い事に息を潜めて。優しい義兄の背中に隠れて、理解出来ない異国語をそれでも何とか覚えようとしている。
だけど結局は、9月に控えた祭美月の帝王院学園入試の下見に同行した祭青蘭は今、義兄からはぐれた夕焼けの街で小さく丸まっていた。

日本に来れば帰れると思ったけれど、帰る場所が何処にあるのか。現実は何処へも行けない。子供の足で動き回れたのはほんの僅か、夏場だと言うのに、既に日が傾いている。

『お前か、日本から来た餓鬼っつーのは。楼月には似てねぇな』

目が覚めるほどキランキランの金髪に、緑味が濃いヘーゼルの瞳。
黒髪ではない人間を見たのはあの時が初めてだったが、あの緑よりもまだ鮮やかなエメラルドを見たのも初めてだった。



『中国語、判んないんだ。ごめん』

だから、海を渡り母親の記憶が朧気になって初めて、二度と口にする事はないだろうと思っていた本当の名前を教えた。初めて出来た友達に、日本の施設では決して出来なかった友達に、初めて。

『朱雀から聞いてる。青蘭?』
『…要』
『それ、本当の名前?』
『でも誰にも言ったら駄目なんだ。ユエ様が怒るから…』
『あのグリズリー…祭楼月の事?父ちゃんって呼ばないの?』
『駄目だから』
『何で?』
『…駄目なの』

久し振りに、気色悪い笑みを浮かべた父親に呼ばれた。
丁寧にご挨拶してこいと送り出された先、父親がペコペコと頭を下げている黒服の男達は能面の様に表情を変えず、要だけを部屋の中へ招いてくれた。
甘い花の香りがするお茶をティーカップに注いでくれたエメラルドの瞳を持つ大人は、彼にそっくりなエメラルドの瞳の黒髪の子供を幾らか撫でて出ていってしまう。

残されたのは子供だけ、緊張で固まっていた要に手を差し出してきた子供は、初めだけ耳馴染みのない言葉を喋ったかと思えば、通じない事に気づいたのかすぐに聞き慣れた日本語で話し掛けてきた。
それでも何処かネイティブとは違うイントネーションである事は、耳の良い要が気づかない筈もない。異国の豪邸に招かれて初めて見掛けた子供は、大勢の大人に囲まれて快活な異国語で話していた。要の父である楼月へ挨拶に来た時も、流暢な広東語で話していたのを見た記憶は新しい。

あれが『神の子』だと、誰かが囁いた。
要にとっては恐怖の対象でしかない楼月を前に、笑顔を崩さない子供は立て続けに美月へ挨拶をすると、別れの間際、確かに日本語で呟いたのだ。

『…大河の代理っつーから王蒼龍かと思えば、とんだ雑魚じゃんか。わざわざ挨拶に来てやって損したっしょ』
『そう言う個人的な感想は部屋に戻ってからにしろ。それまではグラツィオーソ、カルマート』
『はぁ?優美に楚々と?このコンマス、本当に指揮者かよ。演者を判ってねぇ、カルマートはどう考えても俺から超絶掛け離れてる。そこはアニマートだべ?』
『ん?だが、お前なら余裕だろ?』

恐らくあれは、要だけに聞こえたくらいの小声だった筈だ。
大人の機嫌を窺って生きて来たからか、昔から耳が良かった。聞きたくない話ほど良く聞こえる自分に絶望した事も、一度や二度ではない。特技かと言われたら、違うと首を振った筈だ。一度聞いた曲は即興で弾けるけれど、それは特技と胸を張れる程のものではなかった。施設で生きていく術の一つでしかなかったからだ。

『当然っしょ。何せ俺だもんな』

天才はあの日、ドイツ語と英語と中国語を巧みに操って大人相手に毅然と挨拶をした直後、流暢な日本語で彼らの悪口を笑いながら呟いていた、あの子供の事だった。

『…ったく、恥ずかしい自信だな。親の顔が見てみたい』
『ディズニーランド連れてけっつったら経費で落とす様なコスい親っしょ』
『酷い親だなぁ、勝手に俺のファイブミニを飲んだうちの息子くらい酷い親だ』
『流石、変人交響楽団のコンマスは根に持つっしょ。チンコ小さい事言うなやマスター』
『お前よか遥かにデカいっつーの。誰に似たんだお前は』
『知らね。じーちゃんからは省吾の真似だけはするなって言われたけど?』
『悪かったな、省吾さんは音楽と体育以外は基本的に1だったんだ。音大に受かってなかったら留年確定だったって、卒業式で担任を号泣させた程の男だよ』
『恥ずかしい事を自信満々に言うなし。どうやってドイツ語覚えたんだよ』
『死ぬ気になれば何でも出来るもんだ。学校の勉強なんてなお前、社会に出てからは何の役にも立たないんだぞ』
『両親が教師なのにそれ言っちゃう?』

人の群れに呑まれて遠ざかっていってもずっと、要はその二人を眺めていた。張り付けた様な笑顔以外に見た目は全く似ていなかった二人が、父子である事は明らかだ。

あんなに仲睦まじい親子が居るのに自分は何故、


『ふん、あれがそこの虫と同じ四歳とは。神と宣う者は随分な気分屋らしいが、如何に音楽の分野で才に恵まれておろうと、金にはならん』

何故、実の母からも父からも、見放されたのか。
考えても答えは出なかった。二歳になる頃に別れた母親の記憶は余りにも微かで、日毎消えていく気がする。このままでは、たった一人優しくしてくれた日本の老婆や、演奏会で拍手を送ったくれた人達の顔さえ思い出せなくなるのではないか・と。

『美月、汝は吾の聡明な宝子よ。首長の気紛れで娶った阿婆擦れが遺した朱雀では、大河の末路は見えておろう。近く汝が朱雀の手綱を握り、正しき道へ導いてやらねばならん』
『吾が朱雀を操り、大河を支配せよと?』
『おお、その様な恐ろしい事をこの父が口にするものか。全く、吾が子ならば末恐ろしいわ。だが良い、吾の全ては軈て汝が継ぐものだ。その時は、如何様にも好きにせよ』
『畏まりました、ユエ』

美月はいつも表情が変わらない。
父親の前でも、要の前でも、余所で暮らしている母親と稀に会った時ですら静かな笑顔だ。だから要は、美月が何を考えているか判らなかった。徐々に覚えているとは言え、未だに日本語が堪能とまではいかない美月と要では、会話すら困窮している。

『カナちゃんって呼んで良い?』
『良いよ。でも、二人きりの時だけ』
『約束する』
『指切り、初めて』
『オレ…僕も名前が二つあるんだ。いっこは裕也で、もいっこは父ちゃんと同じリヒト』
『りひと』
『裕也のが好き』
『ヒロ君。ユエ様が、ヒロ君とお友達になってこいって言ってたの』
『そっか』
『僕達、お友達になれる?』
『なれる』
『やったぁ』

互いに小さな小指を絡めて、冷めたローズティーと色とりどりのお菓子を囲んで。

『ピアノ好きなの?』
『日系のピアニストが居るって父ちゃんから聞いたんだ。カナちゃんの事も、明日からのパーティーで演奏する楽団の事も』
『楽団…』
『オーケストラのクラシックは「迫力が違うのだよ」だって聞いたんだ。母ちゃんの妹は歌手だったらしいけど、見合い話を断る為にアメリカでの仕事を捨てて中国に逃げてから歌ってなかった』
『どうして中国なの?』
『叔母さんな中国系アメリカ人だったんだって。朱雀の母ちゃんの事』
『朱花様?』
『叔母さんは日本が大嫌いだった』

会話は子供らしく、脈絡がない。
初めて会ったばかりとは思えないほどに、あの時、二人の中に時間など流れていなかった。

『どうして?』
『母ちゃんが日本贔屓だから、ヤキモチ焼いたんだ。母ちゃんが父ちゃんと結婚した時、叔母さんは爆弾持って父ちゃんを殺しに来たんだって』
『えっ?!』
『母ちゃんに海老固め決められて、やめたらしい』
『えびがため?』
『プロレス技。母ちゃんは餓鬼の頃からクラヴ・マガとシステマっつー格闘技をやってて、男より強かったんだ。だから空軍に入った母ちゃんが、ヘッドハントされたのもおかしくはないんだ』
『ヘッドハントって?』
『デカい会社から引き抜きされる事。母ちゃんが凄すぎるから、空軍やめてうちに来いよって誘われたんだっけ?』
『それって凄い事?』
『多分』
『ヒロ君のお母さんは?』
『「オレを引き抜きたいなら上呼んで来やがれ」っつったって言ってたけど、何処まで本当か判んない』
『ヒロ君のお母さん、怖い?』
『怖くはねーけど雑』
『ざつ?』
『料理が下手だから、腹減ったら庭に生えてる野菜喰ってた。メイドが持ってくる料理は食べたら駄目だって言われてたから、母ちゃんの飯しか食べらんねー。でも熟れてないトマトより不味い時がある』

どんな時なのか。
母親がいるからといって、誰もが幸せとは限らないらしい。

『洗濯機が動かなくなったっつって殴ってぶっ壊してメイド長から叱られて、自分で作ったカレーが辛すぎるっつって、獅子唐と間違えた青唐辛子の苗に火をつけて執事長から叱られて、…毎日叱られまくってた』
『可哀想』
『本当は今日来る筈だった朱雀が来れなくなったんだ、見張りがついてて上海から出られない』
『だからユエ様が来たんだよ。朱花姐がお亡くなりになったから、大人達は怒ってる』
『本気でキレてるのは、白燕小父さんだけかも』

要が中国へ渡って間もなく、事件が起きたそうだ。
ほんの数ヶ月前の話だが、その事件が起きてから暫く、祭の当主である楼月が家を離れていた為、その隙をついて美月の母親が屋敷へ会いに来てくれた事がある。日本語は全く喋れない女性だったから、彼女が何を言ったのか完全に判った訳ではなかったが、キビを練ったものだと言う薄黄色のお団子をくれたのは忘れない。
中に少しだけ、塩が利いた餡子が入っていた。甘じょっぱい不思議な菓子の味を、恐らく要はいつまでも忘れないだろう。

『母ちゃんが死んでも、大人は誰も泣かなかった。ばーちゃんはジジイに家から出るなって言われて、葬式にも来れなかったんだ』
『おばあちゃん居るの?ジジイっておじいちゃんの事?』
『うん。昨日、此処に来る前に会ってきた。糞ジジイは父ちゃんにビビってるから、どっかに隠れてたみたいだ。自分の娘が二人共死んだのに、馬鹿にしてる…』

他人が皆、幸せそうに見えた。
例えば施設で暮らしていた時、誕生日を祝って貰える皆が羨ましかった。例えば、善意で衣類などを定期的に贈ってきてくれる支援者からの荷物に、わーっと群がっていく子供達が羨ましかった。新しい洋服は一枚も回ってこない。
それぞれが思い思いの服を選んで、古くなった服を廃棄する時になって漸く、廃棄品が回ってくるのだ。けれどそれが嫌だと思った事はない。此処に居られるだけで幸せなんだよ、と。唯一優しかったシスターが、埃臭い屋根裏で言ったからだ。

『カナちゃんはばーちゃん居ない?』
『うん、いない。お母さんはちょっとだけ覚えてるけど、ジュチェのおばあちゃんは、ずっと昔に死んだんだ』
『朱雀の父ちゃんのばーちゃんは、そうだよ。でも朱雀の母ちゃんのばーちゃんは元気。シアトルに居る。糞ジジイの愛人だったんだ』
『お母さんとおんなじだ。お母さんは逃げたんだって言ってた。朴大老の側近と、僕だけ施設に預けたんだって』
『生きてるの?』
『判んない。李が死んだって言ってた。多分、もう会えないって事なんだと思う』
『そっか、オレとおんなじだ』

一人称が変わった様な気がした。けれどその時は一人称の意味も知らなかった。
滲む様な微笑みに微笑み返して、内緒話をする様に顔を寄せる。此処には他に誰も居ないのに。

『おんなじ?』
『うん』

互いに母親は居ない。
父親は居るけれど、裕也の父親は優しそうだった。お花の香りがするお茶を淹れてくれて、お花の香りがするお菓子と、綺麗な色合いのサラダを盛りつけたお皿をテーブルの上に並べて、どれでも食べて良いと言われたけれど、裕也はそのどれもに手をつけない。

『良い匂い』
『母ちゃんが育ててた薔薇なんだ。母ちゃんの妹の名前が薔薇からつけた名前だったから、薔薇が一番好きだったんだって』
『ジュチェの目はローズクォーツなんだよ。意味は判んないけど、だからあんまり外には出られないんだ』
『知ってる。朱雀の目は、結婚する相手しか見せたら駄目なんだ。叔母さんが毎日言ってたから、きっと朱雀は守ると思う』
『ジュチェ意地悪だから嫌い』
『祭だから、試してるんだ。王社長も朴社長も「やらかした」から大河に絶対服従で、李社長には養子しか居ない、黄家は白雀首長が死んだ時にファミリーから抜けたからもう居ない』
『ファン様はもういないの?』
『…アメリカの大学に通ってた息子が居たけど、そっちで結婚してた。白雀首長が死んで黄社長が自殺してからすぐ、事故で死んだんだって。…本当に事故か気になる?』
『う、ん』
『黄社長には本妻の息子が一人、愛人に二人子供がいて、全部男だったんだっけ。本妻の息子は事故で死んだ奴で、愛人の子供はどっちも養子になった』

黄浩然の三人の息子の内、愛人側の家に引き取られたのは一人だけ。
祭虎月に息子はなく、長女と次女が揃って黄の愛人として子供を産んだ為、二人の孫を息子として養子に迎えた。
老祭が間もなく病に倒れてから、義兄弟にして従兄弟同士の立場にあった祭兄弟は凄惨な家督争いを繰り広げ、現在の当主である祭楼月はとうとう伯母と義弟を殺し、祭の当主であるユエの名を手に入れたそうだ。

身内で争った祭を大河に与する四家は嘲笑った様で、黄家の後継として期待されていた祭家は然し、今に至るまで幹部候補のままの形で定着している。
己の邪魔であれば身内にさえ容赦ない楼月に対して、祭虎月が最後に言った「欠けた月」と言う言葉が全てを物語っているだろう。それまで祭な大層穏やかな性格の人間ばかりで、楼月の母親は姉と甥を殺した息子が家を継いで間もなく自殺したと言われていた。何十年も昔の話だ。真偽のほどは当時を知る者以外に知る由もない。

『黄の生き残りが黄朱花』
『朱花様?』
『そう。だから大河の叔父さんは叔母さんを嫁にしたのかも知れないって、母ちゃんが言ってた』
『老大は朱花様を愛してたって、美月が言ってたよ』
『…だから仕返しするつもりなんだろ。今回ステルス関係のパーティーに来なかった事で立場が悪くなる事なんて判ってる筈なのに』
『謝った方が良い?』
『多分、親父が何とかすると思う。陛下は他人に興味がないんだ』
『陛下様は凄く偉いんでしょう?ユエ様は、陛下様に失礼があったら僕を殺すって言ってた』
『祭を力ずくで手に入れて調子に乗ってるんだ。陛下が殺せって言ったら、祭は一時間で全員死ぬよ。楼月も美月も死神も』
『死神?』
『李家は武闘派なんだろ?』
『判んない。美月の部屋からはあんまり出して貰えないから。奥様がお戻りになった時だけ。ユエ様が居る時は絶対に部屋から出たら駄目だって…』
『その内、祭楼月は因果応報を知るっつってた。今の祭はヤバいけど、次世代は立派な当主になるだろうって。父ちゃんが認めるのは珍しいんだぜ』
『良い事?』
『多分』

だったらいつか、あの恐ろしい父親が優しくなる時が来るのかも知れない。
美月の様に言葉は通じずとも、目が覚めると笑顔で撫でてくれる優しい父親に、今だけ耐えていれば、きっと。

『そろそろ帰らないと叱られちゃう』
『今夜はこっちに泊まるって親父が楼月に言っといてくれるから、ご飯食べよっか。今夜は大人だけのパーティーでつまんないから、此処で』
『良いの?』
『オレには優しいけど親父がキレたらやばいんだ。楼月は駄目って言わないよ』
『本当?』
『大丈夫。それより、野菜は食べ飽きてるんだ。カナちゃん、何が食べたい?』
『僕、何でも食べられるよ。好き嫌いしたら施設長から納屋に閉じ込められるから、ピーマンも食べられる様になったの』
『ピーマンは美味しいけど、生で齧るなら胡瓜の方がうまい』
『麻婆豆腐食べた事ある?』
『まんぼー?』
『ご飯の時は烏龍茶の方が美味しいよ』
『どっちも見た事ない。親父が知ってるか聞いてみる、プライベートライン・オープン』

また、耳馴染みのない言葉で喋り始めた裕也の声に続いて、部屋のドアがノックされた。二人でドアを見やれば、空いたドアから困った様な表情で顔を覗かせた白髪の男は、

『裕也、急にマンボウが食べたいと言われても、材料を揃えるまで暫く懸かるんだがね?』
『マンボードーフねーのかよ』
『ああ、麻婆豆腐の事か。サンフランシスコまで来ておいて中華とは…。それで二人共、他に何か食べたいものは?』

顔を合わせた要と裕也は、声を揃えて言った。

『『烏龍茶』』
『それは飲みたいものと言うのだよ。…困ったね、私の日本語が可笑しいのだろうか』

暫くそれを食べていなさいと言われ、青々と盛りつけられたサラダボールを見やる。
取り皿とトングを手にした裕也はトマトだけを豪快に盛りつけ、真っ赤なドレッシングを豪快に振り掛けた。

『それ辛いの?』
『赤いのはハーブだから辛くない。緑のは青唐辛子が入ってるから、父ちゃんしか食べない』

見るもの全てが物珍しい要は、トマトをほぼ全て皿に盛りつけた裕也の隣でカナッペとサラダを盛りつけて、緑色のドレッシングを少しだけ垂らしてみる。

『あれ?美味しいよ?』

流石にその時だけ、裕也は化け物を見る目で見てきた様な気がした。






いつまで待てば、世界は自分に優しくなるのか。
8月の湿度も温度も高い日は、日が傾いてもじわじわと汗ばむ暑さで、道行く人は目的地の事にしか関心がない様だった。それとも身を縮める様に膝を抱えていた要が、誰の視界にも入らないくらい小さかったからだろうか。

会いたい人にはいつも会えない。
父は美月に日本の学校を勧めている。美月はそれに承諾してしまった。それはつまり、その内、美月が居なくなる事を示しているのだと、優しい美月の母親が教えてくれた。
あの子は何を考えているのかしらと、形の良い眉を潜めた義母の台詞に怯えた事を覚えている。

元々頭が良かった美月は日本語がずっと上達したが、楼月が四六時中べったり張りついているので満足に会話する暇もない。代わりに李を要の警護につけてくれてはいるが、李は根っからの美月支持者だ。美月以外には容赦ない為、楼月は李に視界に入るなと言いつけている。李の養父は李家の当主なので強く出られない所為か、楼月の苛立ちは目に見える様だった。

日本への下見を大義名分に漸く楼月の目から離れた美月は、飛行機の中で李とずっと何かを話し合っていた。久し振りに会えた喜びも束の間、祭の家から出ても要には、この世界の何処にも居場所がない様な気がする。

毎晩、真っ赤な夢を見るのだ。
女神像が傾いでくる。世界は阿鼻叫喚の不協和音、鼓膜は確かに震えていた。一瞬の出来事を全て記憶している。網膜はあの時ただ、自分に向かって真っ直ぐ落ちてくる無慈悲な女神の顔を、為す術なく。

見上げていた。
瓦礫に足を取られて起き上がれもせずに、じっと。
(それでもあの時、本当は)
(逃げようと思えば恐らくは)
(なのにどうしてあの瞬間諦めてしまったのか)
(判っている)(気づいていない振りをしているだけだ)(李に庇われていた美月が叫んだ台詞を覚えている癖に)(駄目だと言われた癖に)


「ごめんなさい…」

懺悔は何処で出来る?
神の前か?けれど日本人は仏に祈るそうだ。だけど施設の屋根裏には小さなマリア像があった。カトリックを銘打っていて、然し施設長は神を嫌っていた。シスターはそんな男に諭す事もなく、声を荒らげる事もなく、誰にも平等に穏やか・で。
(それは単に)(意気地がない大人ではないか・なんて)(考えてはいけない)(優しかったのは彼女だけだったのだ)(その記憶すら偽りだったなんて)(考えてはいけない)(考えたくもない)(現実から目を逸らしているだけだ)(自分が死ねば良かったと他でもなく、自分こそが)



蝉が鳴いている。
青々と繁る緑、オレンジ色の空が紺に犯されて夜が近いのが判った。

何処へも行けない。
折角日本へ戻ってきたのに、施設の場所も最期を看取れなかった人のお墓も何処にあるのか知らなかった。
あの日、施設の中庭に出る事も許して貰えなかった狭い世界で、あそこが日本の全てだと思っていたからだ。実際はどの都道府県にあったのかすら知らない。宿泊先のホテルに到着し、美月が目を離したほんの一瞬の隙をついて走り出したから、ホテルに帰るまでの道のりすらも判らなかった。

このまま何処にも帰れなかったら自分は、どうなるのだろう。
蝉の様に自由に飛び回る羽根もない。雲の様に空を泳ぐ事も出来ない。走り回った足が余所行きの革靴の中でじんじん痛んで、立ち上がる事も出来そうになかった。
もうすぐ五歳だろうと自分に言い聞かせてみた。服を着れば見えない所には幾つもの傷がある。美月の留学が決まったその日から、要の前に悪魔が現れたからだ。

「………洋蘭に見つかる前に、帰らなきゃ」

美月は優しい。李は美月の事以外には無関心だ。けれどあの悪魔は違う。他人には無関心な癖に優しさなどない。例えばピアノが弾きたいと言えば、時間の無駄だと鼻で笑われる。
やはり自分は無駄な人間なのだろうか。

「ねー、あの子、泣いてるよー?」

夜が近かった。
子供の声に顔を上げれば、母親に手を引かれている子供が細い車道を挟んだ向こう側でこちらを見ている。

「アンタは知らない子に茶々入れてないで帰るわよ。アイスが溶けちゃうじゃないの」
「お母さんがドライアイス入れて貰わないからじゃん、抹茶が溶けたら困るよー。二個入れてって言ったのにー」
「一個100円もすんのよ!冗談じゃないんだわ」
「けち」
「殴られたい訳?」
「ごめんなさい」

口喧嘩しながらも手を繋いで遠ざかっていく親子を眺めていた。
頭上の外灯がいつの間にか灯っていて、人通りが随分減っている。心細さに拍車が掛かったのは、折角話し掛けて貰えたのに何も言えなかったからだろうか。


「ぅ」
「少し動かないでくれ」

泣きたくないのに耐えきれず泣きそうになった瞬間、がさりと音を発てた頭上から真っ白な何かが落ちてきた。それはあっという間に暗闇の中を走り抜けていき、続いて落ちてきた白い何かは葉っぱを撒き散らしながら、スタリと要の隣に着地した。

「木の上で動かないから降りられなくなったのかと思って登ったのに、俺に驚いて逃げていってしまった。俺はどうしていつも野良猫に逃げられるんだろう、俺には判らない事が多すぎる」

それは艶やかな漆黒の双眸を真っ直ぐ要に向けたまま、一定の旋律で囁く。
錦織要の人生に於いて、これほど穏やかな口調で喋る人間は、二人目だった。

「だ、れ?」
「何だ、迷子だったのか。気づかなくて悪かった」
「っ。ど、どうして判、」
「読み難いと思ったんだ。そうか。明神は初めて見た。それで闇雲に走り回って俺の元に辿り着いたのか。でもまだ、早すぎる」

空は恐らく夜に向かう間際。
星が出るか出ないか、黄昏の最後のその時に、真っ白な服を着たそれは囁いたのだ。

「丁度空手を辞めてきた」
「空手…?」
「来いと言うから師範を蹴り飛ばしたらその場で破門になったんだ。どうも俺は受け身の方が合っているらしい。仕方なく合気道の本を借りて読んで一通り試していたら、いつの間にかこんな時間に…」

蝉の音はその時、聞こえていたか?

「太陽からも桜からも忘れられて寂しいんだ。今夜だけ俺に付き合ってくれ、帰り道を案内する前に意地悪な仔猫から苛められなくなるヒントをあげる」
「…仔猫って、洋蘭を知ってるの?」
「顔を見て声を聞いたら判らないものはない。重要なのは、俺が今とても寂しいと言う事だ」

少しも思い出せない事を何故、自分は。

「迷子になった父親を迎えに行ったっきり帰ってこない薄情な母親が探しにも来てくれない可哀想な俺は、恐らく今、人生初の家出をしている事になるだろう。明日は折角の誕生日なのに野良猫にも振られた」
「は…?」
「狸の癖に猫を装っている相手には、犬を装った狸で勝負だ。お前には意地悪が足りない。仔猫の主の性格を少し分けてあげよう。偽りの月を落とす為の第一歩、お前が鳥になるまでの幕開けだ」
「…」
「難しいか」
「…う、ん」

今の今まで、疑問にすら思わなかったのか。

「ああ、聞こえてる。父親が怖い。理由はどうでも良いから優しくされたい。お礼を言いたい。謝りたい。判った、全部俺に任せておけ。実に脚本通りで俺は嬉しい」
「…何で…」
「おいで要」
「どうして名前、知ってるの?」
「今夜をいつか思い出せたら教えてあげる」



ああ。
世界は記憶すら全てが、闇へと呑み込まれた。





「例えば、俺が起こした大水害の後にでも。」

←いやん(*)(#)ばかん→
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