帝王院高等学校
大事な場面を笑って流したら後悔必至!
甘ったるい告白の言葉なんてものはなかった。
それ所か、人生最初の恋人と言って仲間の前に連れ立った時、目撃した仲間の誰もが「何の冗談だ」と言わんばかりに眉を寄せたのを覚えている。いつもはヘラヘラ笑っている舎弟らですら「何やってんだオメーは」と言わんばかりだった。

「えーっと、そう言う事なんで、皆に紹介しとくっつーか、そんな感じ(^q^*)」

全くその通り、自分でも判っている事だ。
この日、高野健吾は己こそ馬鹿馬鹿しいと思いながらも、コアラの如く腕にしがみついている『人生最初の恋人』をそのままに、怒るでも宥めるでもまして自慢するでもなく、清々しい程の愛想笑いを煌めかせた。

困った時は笑っとけ。
父親としては恐らく最低だが男としては尊敬しない事もない男の台詞が、実は健吾の座右の銘でもある。正しくこの日の為にある言葉だ。

「そうか」

その時その瞬間、唯一にこやかな態度だったのは、その恐ろしい目付きを薄い色合いのサングラスで覆った、その場で最も存在感のある男だったと思われる。
仲間兼舎弟らは十人十色と言う言葉を知らないのか、判で押した様に眉を寄せた。白々しい程に無表情なのは、健吾の腕に日本産のコアラが引っ付いてきた時からただ一人、幼馴染みにして親友にして相棒であり近頃ちょっと困った関係になりつつある、髪も目も視力に優しい男だけだ。

但し、目に優しいのは色合いだけだった。
健吾には、無表情でカウンターに座っている男の横顔が、横顔のままである理由が痛いほど判った。判ったからと言って、早朝から店の前で待っていたと言うコアラに白々しい笑みで張りつかれてしまえば、断る理由がなかったのだ。

つまり、やってしまった事は取り返しがつかない。
殆ど強姦された様なものだったが、アタシ襲われたんですと泣きついて、誰が健吾の味方をしてくれると言うのか。
事情を熟知している筈の錦織要と藤倉裕也は、それぞれ反応は違うが、カウンターの中央に座る男を挟んで険悪な空気を放っていた。

『この馬鹿が』

と言う無言の罵倒が聞こえる。
全くその通り、だから言っただろう。返す言葉もない、と。

「初めまして、ようこそカルマへ」
「な、何、アンタ誰…っ?!」

実に2ヶ月半振りにカフェカルマへやって来たコアラは、唯一見慣れない男に困惑した様だ。疑問は尤もだが、キーの高い女の声が吐き捨てた『アンタ』は少々頂けない言葉だ。
目を吊り上げた要が怒鳴る前にこの場を収めようと、健吾は腕に巻きついていた女の手を振り解く。

「…誰って、見て判んねーの?総長だっつーの(;´艸`)」
「えっ?!こ、この人があのシーザー?!」
「俺の様な地味で根暗で足が短い男でがっかりさせたなら、申し訳ない」
「あ、や、だだだ大丈夫です…っ!」

店中から向けられる呆れた眼差し達を勝ち誇った表情で睨み返していた女は、カルマのトップから追い払われた男を笑ってやると意気込んでいた割りに、二代目を前にしどろもどろと辛うじて名前を言うと、真っ赤な顔で俯いた。

「何か騒がしいっスね、誰か来たんスか?客なら追い返して下さい」

彼女の顔色と同じ、髪も目も赤い男と言えば、カウンターの向こう側で甘ったるい匂いに包まれている。ピピピっと軽快なタイマーが鳴り響くと、オーブンを開ける様な音が立て続いた。

「ああ、違う。健吾が彼女を連れてきたんだ」
「へぇ…っと、総長、生地余りそうなんでロールケーキにしましょうか。中身はチョコクリームで良いっスか?」

どんな時でも、総長以外は重要ではない嵯峨崎佑壱の優先順位は今、目先の焼き上がったスポンジケーキにあるらしい。カタカタと型枠からケーキを取り出す音と同時に響いてきた声音からは、興味の欠片も感じられなかった。

「沢山作るんだったら、冷凍しておけばイイ」
「冷凍庫にストックする前になくなるんじゃねぇっスか?目の前に食いもん置いてたら兄貴、際限なく食っちまうでしょ」
「まさか、俺は8分以上食べないぞ」
「あー、確かに食べるの早いっスよね。でも何で8分なんスか?」
「だって食べ過ぎたらぶーちゃんになる」
「兄貴、そのジョークはあんま笑えねぇっス。…っと、一本巻いてみました。試食は何切れ?」
「丸ごとくれ」
「あー、試食と実食の意味が判ってないパターンっスか。スイーツっつーのは、少しだけ食べるから幸せな気持ちになれるもんなんスよ」
「じゃあ4分だけ」
「一切れだけ」
「お前は鬼か」
「試食って言葉を辞書で調べて下さい」

一人黙々とケーキを焼いていた男と言えば、真紅の長い髪をツインテールで可愛らしく結ったまま、スポンジを休ませている間に休憩だとアイスコーヒー片手に厨房から出てくるなり、シーザーと寸分違わない台詞を吐いたのだ。
佑壱の姿を見るなりビクッと肩を震わせた女は、幾らか表情を強張らせている。

「よう、初めまして。アンタが健吾の女だって?」

果たして、ロールケーキを豪快に舐めながら、ちびちびと頬張っているシーザー以外の全ての男が、カルマ副総長の台詞で崩れ落ちた。ロールケーキ一切れを4分間楽しむつもりらしい主人公以外は、酸欠だ。
総長の座を追われた佑壱を嘲笑ってやると宣った女と言えば、ほんの2ヶ月半前まで恋人だった筈の男に「初めまして」と宣われ、俊に向けたのとは違う意味で顔を真っ赤に染めている。但し佑壱に悪気がないのは、表情で明らかだ。

「副長、初めましてじゃねーっしょ?(*´3`) 4月までコイツと付き合ってたべ?」
「んだと?何で俺がお前の女と付き合ってたんだ、馬鹿か」
「イチの彼女はレイコさんじゃなかったか?」
「っス。ああ、そう言えば麗子がフランス土産置いてったんで食ってて良いっスよ。バームクーヘンだかフィナンシェだか、そこそこ有名な店の詰め合わせだそうっス」
「国際線のキャビンアテンダントだったな」

あちゃーとばかりに頭を掻いた高野健吾の傍ら、顔を真っ赤に染めて小刻みに震えていた女は、豪快な平手打ちを浴びせて別れた佑壱に綺麗さっぱり忘れられている上、新しい彼女の存在を突きつけられるとは思わなかったに違いない。
自称アパレル系OLとCAでは、彼女のプライドに関わるだろう。

「どうした要。震えてるぞ、寒いのか?」
「…何でもありません総長、大丈夫です」

見てみろ、性格がひん曲がっている要は笑うのを堪えているが、佑壱の元恋人に対する気遣いなどではなく、単に俊の隣で下品な笑い声を聞かせたくないだけだ。

「あ、イチ。おいで」
「何スか?」
「ほっぺにクリームがついてる」

然しながら、そんな要の気持ちも、拳を握り締めて怒りを抑えている女の気持ちも知った事ではない男は、ツインテールのボスワンコを手招く。呼ばれた佑壱は俊の隣に座っていた要を足で蹴り飛ばし、空いた椅子に手を掛けた。
が、覗き込んだ俊からガシッと頬を掴まれ、ベロっと右頬を舐められてカキンと凍りつく。

「生クリームだ、うまい」

店内に声にならない悲鳴が轟いたが、誰よりも発狂しそうな表情であるのは勿論、未だに佑壱に未練のある来訪者だったに違いない。
自ら佑壱の小言に耐えかねて逃げていった癖に、別れた後に未練が募った様だ。けれど自分から別れておいてやり直したいとは言えず、拗らせた挙げ句に本人ではなくカルマの誰かを踏み台にして、足掛かりにするつもりだった。

それを知っているのは俊と佑壱を除いたほぼ全員だ。
2ヶ月前に二人が別れた頃、いつも別れ方が宜しくない為にその時も不機嫌だった佑壱は、偶々通り掛かった遠野俊に喧嘩を売り、ご存じの通り派手に負けた。恐らくそれが切っ掛けで、佑壱は彼女から平手打ちを受けて別れた事をすっかりさっぱり忘れてしまったのだと思われる。単に別れた相手に興味がないだけかも知れないが。

何故か気の強い女ばかりが寄ってくる佑壱は、然し面倒味は良いものの元来俺様性質なので、交際している間、恋人の女性は誰もが猫を被っている。俺についてこいと全身から放っている狼気質には、大人しく従える相手でないと長続きしない。
殆どは女以上に家事をこなすオカンを前に耐えられなくなり、自ら去っていく。振られる事には慣れっこなオカンは去る者を追わない代わりに、付き合っている間は浮気はしないと宣っているが、その貞操観念は最近芽生えたものだ。去年までは酷かった癖にとは、流石に誰も言わないとしても。

「ぷふ」
「うん?」
「…何でもありません総長、大丈夫でふ」
「でふ?」

健吾に彼女が出来たのは、この日、カフェに入る直前だった。梅雨時生まれは数日前から続いている悪天候に負けず、裕也と一緒に街へ繰り出したのだ。
腹が減ったと新しいたこ焼き屋を冷やかし、コンビニで買ったばかりのビニール傘を置き忘れてきたが気にせず、裕也のビニール傘に無理矢理入れて貰いつつ商店街の道なりをカフェカルマまで歩けば、店の前に見覚えのある女がいた。今日は健吾の誕生日パーティーを企画した俊の意思に従って、カフェは閉店している。

健吾を見つけるなり恐ろしい笑みを浮かべて『健ちゃん』などと宣った女は、相合い傘中の裕也をチラチラと窺いながら、乾いた笑みを張り付けた健吾の腕に抱きついてきたのだ。

『誕生日おめでと。酷いのよ、カナメが中に入れてくれないの。今日は部外者立ち入り禁止だって。ねぇ、皆に私のこと紹介してくれるわよね?だって、部外者じゃないんだから』

まさかヤったのか、と言わんばかりの裕也の眼差しに対して、健吾は『困った時は何とやら』を貫いた。
お陰様で真冬のロシアの如きエメラルドの瞳に見つめられ、何度凍った事か。今の健吾は、蒸し暑さで嘆く日本人の誰よりも涼しかった。ヤったもんはヤったのだから、例えそれが、歩く雄フェロモンと密かに噂されている佑壱の元カノに襲われた様なものだとしても、ヤったもんはヤったのだ。ああ、タイムマシンがあったら過去の自分を殴りたい。
自称Fカップの誘惑に負けた己を殴りたい。確かに小さくはなかったが、どう見てもあれはDカップそこそこだった。Eにはもう少しの所だ。

「…や、論点はそこじゃねーべ俺。総長、ユウさんの心臓が軽く止まってるっぽいんで、心臓マッサージした方が良いっしょ(*´`*)」
「む。それはいかん、こうか?」

わしっと佑壱の大胸筋を鷲掴んだ俊は、もみもみとボスワンコを公開愛撫している。
堂々と胸を揉みしだかれた男ははっと我に返り、きゃー!っと乙女な悲鳴をあげて飛び避けたが、何故か耳まで真っ赤だった。それ以上赤くなったらヘモグロビンと同化するのではないかと健吾は思ったが、何故佑壱が胸を両手で押さえてもじもじしているのか判っていない俊は、きょとりと首を傾げている。

「な、んなの…」

呆然とした女のか細い声が、健吾の鼓膜を震わせた。可哀想だと思わなくもないが、自業自得だと思ってしまう。未練があるなら直接本人に言うべきなのだ。こんな、馬鹿な真似をするから手遅れになる。

この2ヶ月の間に、まずは要にアプローチをしたが鼻で笑われ、続いて裕也に誘いを掛けたが「中古に興味ねー」と相手にされず、最終的に彼女は健吾に泣きついてきた。
甘ったるい告白の言葉などなく、ストレートに体の関係を迫られた時、とうとう俺かと健吾は思った。佑壱の元カノが復縁したがっていると言うのは、要に粉を掛けた時からカルマでは有名な話だったからだ。
当然ながら俊と出会って間もなく新しい恋人が出来た佑壱に、そんな話を聞かせる者はない。別れた彼女の名前も顔も三日で忘れるカルマ副総長の記憶力は、カルマでは知らない者はなかった。

健吾は念の為、それを指摘したのだ。
然し敵もさる事ながら、流石はカルマ副総長に平手打ちを浴びせた女だけはある。自分は忘れられる女とは違うと言う何の裏付けもない自信に満ち溢れており、最終的には「それが何?」と開き直ったのだ。更には佑壱に対する拗らせた恨み節を延々と語り、その必死さに笑い転げた健吾は、笑い転げている間に押し倒された。

必殺技は「実は私、Fあるの」だ。
女の胸は服の外と内側で結構な差がある事を、高野健吾は13歳の誕生日直前に学んだのである。但し合体直前でブラジャーを外した人の胸が期待値と若干の誤差があった為、健吾の股間は途端に萎れ、本番には至っていない。

だから言ったのだ。
ヤっちまったもんはヤっちまったのだと。大事な時に萎れた事を皆に言い触らされたくなければ協力しろと、健吾は脅迫されたのである。そんな女に一瞬でも興奮してしまった己を恥じる気持ちしかないが、初体験で失敗しました事件なんてものは、誰にも言わず墓場に持っていくべきなのだ。例え仲間らに勘違いされた挙げ句、ゴミを見る様な目で責められようが。

あの神業的前戯テクに中学生が勝てる訳がない。
どうして佑壱はあんな神業テクニックを持つ元カノを、こんなにあっさり忘れられるのか。怖い想像をした健吾は佑壱を見つめたが、犯された町娘の表情で俊の隣に腰掛けたツインテールは、未だに両手で胸を押さえている。その隣、佑壱に蹴られた要は唇を尖らせているが、俊の逆隣に腰掛けた裕也は未だにじっとカウンターを見つめていた。いつもなら寝ているくらい動いていないが、起きているのは横顔でも判る。

「裕也、そわそわしてどうした?トイレを我慢すると体に悪いぞ?」

鈍いのか鋭いのか今一良く判らない俊は、いつも大人しいが輪を掛けて大人しい裕也を見つめて首を傾げた。誰が見てもそわそわしている様には見えなかったが、声を掛けられた裕也はそこで、やっと顔を動かしたのだ。

「…つーか、笑えねーっスよね」
「ん?」
「面厚かましい恥知らずの事を厚顔無恥っつーんだ。…って、ググったら載ってたんス。ほら、此処」
「メールの練習をしてるのかと思ったら検索してたのか。ふむ、グーグル先生を使いこなしてるな」

店の前で待ち伏せされていた時は流石に肝が冷えたが、協力しろと脅されていた健吾は、「ま、いっか」のノリで、言われるままカフェに入れてやった。ささやかな反抗心から、佑壱に新しい彼女がいる事は言っていない。

「例えば、世界から全ての食べ物が消えたとする。そこに一本の木が残っていて、林檎が一つだけ実っていたら、お前はどうする?」
「…は?オレっスか?」
「他の人間はどうするだろう。例えばお前はどう思う?」
「奪い合いになるんじゃねーっスか」
「だろうな、俺もそう思う。分け与えるにしても、林檎一つを全人類に分ける事は不可能だ。可能だとしても、人類の絶滅は目に見えてる」
「誰かが独り占めした所で、それ以外に食べるもんがなけりゃいずれ全滅だろ」
「まァ、そうなるな」

明らかに俊を注視している女は、要や裕也だけに留まらず、他のメンバーからも蔑む目で見られている事に気づいている筈だ。佑壱から忘れられている女を見下している要は笑いを堪えていて、誰よりも楽しそうではある。

「ご安心下さい総長!もしそうなっても、俺の林檎は総長に差し上げますから!」
「ん?でも要、そうするとお前はお腹がペコペコになってしまうぞ?」
「ご安心下さい総長、世界には70億の人間が居るそうです」
「ん?」
「70億を毎日捌いたとして、単純に365日計算で19178082年は食べられます」
「…む?」
「二人分でも9589041年。人間の可食部分が体重の3割程しても…くふ、くふふ、俺達カルマが一生懸かっても食い切れない量の肉が手に入る…」

俊の声を長く聞いてはいけない。
歩く雄フェロモンが佑壱なら、囁く雄フェロモンが俊だからだ。
それ以上に要の恐ろしい声を長く聞いてもいけない。どうもカルマで最も神経質そうな顔立ちをしている美人は、神経質どころか他人を食料として見ている様だ。

「要」
「違います総長、カナタです」
「…カナタ。この世には食べられないパンがあるそうだ」
「フライパン?パンツ?パンデモニウム?それとも、酢豚の中のパインですか?」
「酢豚の中のパインはうまい。そうじゃない、食べられないお肉もあるんだ。犬や猫を食べない様に、」
「中国では犬も猫も食べます。昔同じ様な事を言われた覚えがありますが、その時それを言った人は、愛玩動物は食べてはいけないのだと言いました。他の人間は哺乳類だから駄目だと言いました。だったらどうして鯨を食べるんですか?愛玩動物の枠組みとは何ですか?」
「俺が悪かった」

論破モードの要は面倒臭い。
サングラスを曇らせた俊が困った様に白旗を振るのも無理はなかった。

「どうしても人間を食べたくなったら、俺を食べてイイ。出来るだけ一瞬で仕留めてから皮を剥いでくれ」
「出来ません総長…!俺が総長を一瞬で仕留められる訳がないでしょう?!」

そこか。
見当違いの所で悲痛な面持ちの要は、どさくさに紛れて佑壱のツインテールを片方だけ引っ張ったが、すぐさま拳骨で仕留められた。

「テメー、俺が生きたまま捌いてやろうか?あ?」
「…すみませんでした」
「そうだイチ、お客様にお茶を淹れてあげなさい。一緒に健吾の誕生日を祝って貰おう」
「っス」
「あの!」

ああ。カルマの何とも言えない空気に呑まれてくれれば良かったのに、コアラが我に返ったらしい。

「佑壱に喧嘩で勝ったって本当ですか?!」
「はい?」
「総長ならユウさんを一瞬で仕留められそうですけど、ユウさんの肉は固くて不味そうですよね」
「良く言った、表に出ろ要。固い肉は仕込み段階で叩いて柔らかくする事くらい知らねぇのかテメーは!」

恥の上塗り、テンパった馬鹿達に目先は見えないらしいと健吾は頭を掻いた。佑壱も要も何処で言い争っているのか、論点がズレ過ぎだ。今、注目するべきはそこではない。
恥ずかしいのか怒っているのか判らない表情で、元彼に麦茶を差し出された女はグラスには見向きもせず、傍らに交際30分の健吾が居るにも関わらず、だ。


「私と付き合って下さい!」

晴れやかな程に堂々と、たった2ヶ月で8区で最もモテるチームリーダーとして男女問わず狙われている男に宣った。

判らなくもない。
男は野心を秘めた生き物だが、女もまた強欲な生き物だ。佑壱に対しての嫌がらせを差し引いても、カルマの総長ほど有名な男はまずいない。全てに於いてのステータスがゲージを振り切っているのだから、健吾と比べるまでもなく、俊に心が傾くのは仕方ない話だ。

何せ声がエロい。あの高坂日向が巨大な猫を被っている程には、老若男女問わず俊の前では仔猫化する。要など密かにカラオケ大作戦と銘打って俊の歌声を聞き出す魂胆の様だが、つい最近まで俊がカルマの総長になる事に批判的だった犬達は、未だに気後れがある。

「…あ?テメー、今何つった?」

一瞬沈黙した佑壱はなけなしの眉を寄せ、カルマ幹部の要や裕也が呆れ果てて立ち上がる前に握っていたサングラスをカウンターに放り投げた男と言えば、先程までの優雅な笑みを消した恐ろしい表情で真っ直ぐ女を見据えている。

いつの間にか佑壱が運んできた皿の上のロールケーキは消えていて、親指の腹で唇に残ったクリームを撫で取ると、ペロリと舐め取った男は幾らか息を吐いた。



「それは俺に言ったのか?」

その時、健吾は己が真っ直ぐ立っている事が不思議でならなかったのだ。
カウンターから動けない要や裕也だけならず、要の胸ぐらを掴んだまま動きを止めている佑壱の顔色も悪い。真っ直ぐ意思の強い漆黒の眼差しに射抜かれた女は勿論、マネキンの様だった。
甘ったるいクリームを舐め取ったばかりの男の双眸は然し、甘さの欠片も感じられない。視線があっていない健吾ですら恐ろしいのだから、その漆黒の眼差しに見据えられた女はどんな気持ちなのだろうか。

「…健吾」
「ぅ、はい!」
「お前は今、彼女を恋人だと言ったな。それは嘘だったのか?」
「あ、いや、多分、嘘じゃないと…思います」
「俺がこの世で最も嫌いな行為が三つある。女性蔑視、小動物への暴力、最後に浮気だ」

静かな声だった。
たっぷりの氷が浮かぶ麦茶のグラスを掴んだ男は、興味が失せたとばかりに女から目を離すと、ゆったりとグラスに口をつける。

「幾ら狐が好きだと言って、まさか女狐を連れてくるとは思わなかった。どうせならまた、冷たい躯を抱いてこれば良かったのに」

恐らくそれが、

「煮ても焼いても食えないものは、確かに存在する様だ。彼女にはお帰り願いなさい」

女性には例外なく平等に優しいと囁かれている皇帝がたった一度、無慈悲だった瞬間だった。

「ま、待って、どうしてそんな酷い事言うのよ!」
「酷い?」

とんとんと、舐めたばかりの親指でカウンターテーブルを二度叩く音は甲高い女の声を容易く封じる。強かな雌を黙らせるのは常に、それ以上に強い雄だけだ。

「空を舞う光に見放されて、光を浴びて咲き誇る蒲公英を力ずくで摘み取れば、自己のささやかな自尊心を満たすには充分だったか?」

その男の前で顔を晒してはならない。
その男の前で余分な言葉を吐いてはならない。
けれどそれを知るのはいつも、過ちを犯した後だった。

「下らない妄想を希い浅はかな愉悦で身を滅ぼす、戯曲であれば指揮棒を俺は折るだろう。ようこそカルマへお嬢さん、そしてさようなら」

空のグラスの中で、カタリと氷が音を発てる。
客に与える筈だった茶は既にない。怒りなのか恥辱に震えているのか、真っ赤な顔で唇を噛み締める異性に対して、最後に真っ赤な唇を吊り上げた男は嘲笑った。

「目障りで耳障りで癇に障る。今すぐ消えろと言う事だが、理解して頂けただろうか」

けれど声音は何処までも静かに、まるで囁くが如く。






「記憶に残すのも煩わしいエキストラだ。」













異様に重苦しい雰囲気に満たされた店内で、初めに口を開いたのは誰だったか。
それぞれ誉められた身の上ではないとは言え、誰も中学生と高校生だ。学校へは通わず働いている少年も少なくはなかったが、出会いの切っ掛けはそれこそ誉められたものではない。

いつだったか、振り返った時に己の後ろに付き従っている少年らをまじまじと眺めた嵯峨崎佑壱は、何かを諦めた様に「カルガモかよ」と呟いた。
カルガモ達はカルマと言う名を得て一年、カルガモの親は誰にも従わない一匹狼から犬へ変化して今、怯えるケルベロスは無言でロールケーキを巻き続けている。

「総長、何でケンゴのプレゼントにベルトなんですか?ユウさんの時は首輪…狡いです。俺にも下さい」
「要の誕生日はいつだ?」
「明日です」
「しれっと嘘吐くなって(;´Д⊂) カナメはユーヤの後だろーがよ(;´Д⊂)」

折角のバースデーパーティーがまるでお通夜の様だと、カウンターの定位置の椅子に正座して座っていた健吾は鼻を掻いた。目の前には出来立てのバースデーケーキがあるが、残念ながら食欲はない。

「そうなのか。本当の誕生日はいつなんだ?」
「…2月16日です」
「それじゃ水瓶座だ。俺のじーちゃんの誕生日に近いな」
「総長!来年まで待てません、俺にも縛るものを下さい!」
「うわ…(´`)」
「ドM発言かよ」
「あ、総長。チョコのロールケーキが出来ましたよ」

ボトムのポケットに両手を突っ込んだ姿で足を組んでいる裕也は若干機嫌が直った様だが、要だけは相変わらずこの微妙な空気に気づいていないのか、カウンター越しに佑壱の手元を覗き込んでは、巻き上がったケーキを甲斐甲斐しく皿に乗せて、チラシの裏へ何かを書いている俊の口元に押しつけている。

「新撰組みたいですね、総長」
「もきゅもきゅ…ん?」
「局中法度の様だと思って」

偶々だ。店内にあった三色ボールペンの黒と青がインク切れしていて、赤だけが残っていた。
商店街に昔からの新聞販売店がある。出店すると同時に新聞の勧誘にやって来たアルバイトの少年は、にべもなく却下を出した要の態度が勘に障り、手を出した。然し余りにも相手が悪すぎたと言うしかない。大人しく殴られてくれる様な男ではない事は、誰もが判っている。

「何事にも決まりは必要だと思ったんだ。俺はどうしようもなく愚かな真似をしてしまった。女性に対して声を荒らげる男なんて生きる価値もケーキを食べる権利もない…」
「総長は声を荒らげた事なんてないでしょう?」
「俺を買い被っているなカナタ、俺ほど器の小さい男は珍しい程だぞ。イチ」
「はい、何スか?」
「人様の恋愛に口を出すつもりはないが、お別れする時はもう少し恨まれない様にした方がイイ。健吾が弄ばれた理由の一角は、お前にもあると俺は思う」
「スんませんでした、以後気をつけます…」

結局、無言で出ていった女を誰も追わなかった。
シーザーに消えろと言われて粘れるほど強かではなかったのだろう。二度と現れない事を願うばかりだが、彼女が去った事で皆から叱られた健吾は事の次第を全て話し、それを聞いた俊は凹んでいる健吾の頭を撫でてから、チラシの裏に『カルマの掟』なるものを書き始めたのだ。

「出来た」

真っ赤な文字で刻まれた文字の羅列を、むさ苦しい男の群れは食い入る様に覗き込む。

「総長…これは………読めません」
「草書も読めねぇのかテメーは」
「カナタ、イチ、これは何の捻りもない行書だぞ?」
「「えっ?」」

その日、カルマに憲法が成立した。
食べ物を無闇に残してはいけないと言う一文の所為で、ホールケーキを前に気を失い掛けた健吾は、女に襲われた挙げ句脅されたと結局は自白したお陰か、同情した仲間達に助けられてケーキを完食する。

「俺はカルマに恥じない男になるぞ。カナタとユーヤンにプレゼントを用意する」
「本当ですか?!」
「マジっスか殿」
「俺に二言はない。俺は立派な大黒柱になる」

後にも先にも、俊が差し出された食べ物を辞退したのはあの時だけだった。

「働かざる者、喰うべからずだ」

カルマのオトンは凄まじい眼光でチラシの裏を指差したが、誰も読めなかったと言う。

←いやん(*)(#)ばかん→
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