帝王院高等学校
タラリラ!お前さんは何を釣る人ぞ!
「あ〜」

どちらからともなく声を放った背中は、握っていた釣竿を傍らに下ろすと、清らかなせせらぎにキラキラと青空を反射させている水面を眺めた。きゃっきゃとはしゃいでいる女性陣とは対照的に、寂れた背中を丸めている男は二人。

「平和は良いねー」
「ん。退屈とも言いますなぁ」
「あ、夢がない」
「夢は見るもんじゃない、叶えるもんです」

にやっと笑う片割れの男に、頬を染めたもう一人の男はきゃっと声を上げて片手で額を叩いた。歳の割りに毛髪がしっかりしている片割れに比べれば、生え際が若干危うい気配だったが、どちらも髪の大半が白髪である事は同じだ。

「格好良すぎて心臓が止まるかと思った。危ない所だったよ」
「ははは」
「釣れないなー、カズ君」
「釣れませんなぁ、マサさん」

二人の男はどちらも猫背だったが、片方は良く見ればかなりの男前で、もう片方は年嵩を重ねた事で渋味を増しているものの、極々平凡な顔立ちだ。

「僕に釣られてくれる魚なんて、釣り堀にすら居ない…ってね」
「自虐的ですなぁ」

男前のロマンスグレーは然し、下がり気味の眉毛が大層マイナス要素だった。丸い猫背も傍らの男より酷く、何処か自信なげな表情が気にかかる。マサさんと呼ばれた男は今にも膝を抱えそうな雰囲気を醸し出したが、カズにポンポンと背を叩かれ俯きがちだった顔を上げた。

「はぁ。彼の有名な太公望はこうして知恵を絞ったと聞くけど」
「釣り針のついてない釣竿を幾ら垂らしても、そりゃあ釣れないでしょう。都内で年寄りが安全に過ごせる所は少ないんでね」

まったり呟かれた台詞に、俯いた男はそろそろと顔を上げる。
下がりきった眉毛が哀愁を漂わせていたが、恐らく彼の八の字眉はデフォルトだ。

「釣りは魚を釣る事に意義があるんじゃあない。こうしてのんびり過ごす事に、意味があるんじゃないですかな、マサさんや?」
「ぐすっ。カズくぅん、こんな僕を慰めてくれるお前さんが居なかったら、僕ぁ一万回は死んでいただろう。有難う、有難う…」
「いやいや、何の何の」
「何をやっても上手く行かない僕なんか、借金を返し終わったら早々に死ぬべきだと思っていたけど、こうしてのんびり過ごせる様になるなんて…」
「俺だって、自分が要領悪い事も日和見主義な所がある事も自覚してるが、何やかんやこうして生きてるよ。マサさんは俺より年上なのに、まだ開き直れないんですか?」
「中々どうして、上手く行かないもんさ」
「世知辛い世の中だなぁ」
「世の中は世知辛いんだよー」

週末の釣り堀は人が少ない。
時間がまだ早い事もあるが、GWに合わせて早めに休みを取った家庭は、旅に出ている頃だ。家族サービスで忙しい世のお父さんは、寂れた釣り堀よりも楽しいリゾートで癒されてくるだろう。または、疲れて帰ってくるか。

「あ、でも、良い事が全くなかった訳じゃないでしょう」
「いやいや、偶々初めてやった競馬で超大穴が当たっちゃって、山の様にあった借金をお返し出来ただけで、駄目な人間なんだよ…。こんな僕が70年も生きてこれたのは、一重に美空のお陰様でね…」
「いやぁ、美空さんと結婚しなかったら、そもそもそこまで苦労しなかったんじゃないですか?」

人が良さげな表情で中々シビアな評価を下した男に、酷い猫背の男は一瞬だけ背筋をピンと伸ばす。

「それは違うよ、カズ君。僕は美空と結婚した事を後悔した事なんて一度もない。美空には何度も後悔させたかも知れないけれど、僕ぁ今まで幸せだった」

キリッと宣言する男の眉は、やはり八の字だ。
その優しすぎる性格故に誰よりも苦労した筈の男は、然し今に至るまで一度として心を汚さずに、挫けては立ち上がり続けた。その精神力の強さを尊敬している村井和彰は、榛原優大の釣竿が堀へ落ちそうになるのを慌てて掴むと、からりと笑う。

「マサさんはそうでなくちゃなぁ。これで性格が悪かったらとっくに見捨ててるけど、マサさんがマサさんのままだから俺は、一度も恨まなかったんですよ」
「うう。僕の所為で何度も迷惑を掛けてしまって…。羽柴君の野望を見抜けなくて会社取られちゃうし、僕が目を掛けてたってだけで君まで辞めさせられてしまうし、当時僕の味方をしてくれた皆に迷惑を掛けちゃって…」

お陰様で息子に捨てられてしまった、と。
丸すぎて今にも折り畳まれそうな猫背を益々丸めた榛原は、今にも風化しそうな表情で溜息を零した。

「あの子は世間ずれしてる所があるからなぁ。何と言うか、不器用だ。良い子なのに悪役を買って出たがる所がある」
「僕が頼りない父親だったから、苦労したんだろうね…」
「あれは生来の性格って奴でしょ。うちの娘以外が嫁になってたら、苦労しただろうなぁ。陽子は大空君に負けず劣らず性格がキツいから、ある意味お似合いだ」
「何を言うんだいカズ君、陽子さんは優しい良い子だよ。大空は幸せ者だよ」
「うーん。親の贔屓目で見てもそれはちょっと自信がないんだが、夫婦の事は二人が決める事だからなぁ。どっちかが別れたいと言うなら、そこで終わってしまうもんですよ、夫婦なんてもんは」
「そ、そんな…!どうにかなんないのかい?!ワラショクを成長へ導いた凄腕の君なら…!」
「俺の言う事なんて聞いちゃくれませんよあの子は。カーッとなったら人の話を聞かない所なんか、俺の母親の若い頃にそっくりでゾッとします」

ははは。
台詞とは真逆に、ゾッとすると言った割りには、村井は爽やかな笑顔で笑った。片や何を考えているのか、青褪め切った榛原は今にも死にそうな雰囲気である。これが一昔前まで大企業と歌われた会社の、辞任したとは言え社長だった男とは、到底思えない。

「…ああっ!もし陽子さんに何事かあって大空が寂しい老後を過ごす事になったらどうしよう!その時にはきっと僕も死んでるだろう、大空は一生陽子さんとの思い出を抱いたまま一人寂しい余生を送る羽目に…!」
「社長夫人の後釜を狙ってる女の子は不自由しないんじゃないかなぁ。コブつきだけど二人共寮暮らしだから手が懸からないし。逆に大空君に捨てられた後の陽子が何をしでかすか、気が気じゃないですよ俺は」
「なんて事を言うんだカズ君!お義父さんがご存命だったら『陽子さんと離婚するなんて正気の沙汰ではない』と仰っただろうに!」
「宍戸の?」
「榛原の方。僕ぁ、お義父さんの命令には何故か逆らえなくてね。その頃は『あれが威圧感か、素敵だなー』って憧れたもんだよ」
「あ〜、晴空氏ですかぁ。大空君より凄かったって言う」
「お義父さんとの思い出は余りないけど、凄かったよ」
「友達が全く居なかったそうですなぁ。いや、大阪だか京都だかには居たんだっけ?それで三重県出身の絹恵さんと知り合ったんとか」
「お義父さんは、そりゃあ気が強い娘さんがお好きでね。美空は大人しくて優しい女性だけど、お義母様の絹恵さんはそりゃあもう怖い方で…。僕らが婚約した頃に、惜しくもお義父さんを亡くしてしまってからは、実家に戻った絹恵さんは大志会長に頼る事なく働いてらしたんだ」
「聞いた事があります。マサさんが社長に就任した頃まで、取締役を務めてらしたとか」
「うん。95歳の大往生で亡くなった大志会長は、働かざる者食うべからずが信条の方だったから、絹恵さんは甘やかされて育った訳じゃないんだ」

成程、YMD創始者は噂通り人格者だったらしい。
元YMD社員である二人は何処となく誇らしげに微笑み合い、釣竿を握り締めた。針がついていない、釣糸だけの釣竿を垂らしながら、何をするでもなくぼんやり過ごすのは彼らしか判らない楽しさがある様だ。

「マサさんは、榛原に婿入りする時、悩まなかったんですか?」
「一人息子だった訳じゃないからねー。姉がいて、結婚が早かったから跡取り息子も産んでいたし。山田会長の名前は勿論両親も知る所だったから、反対はされなかった。お義母さんは厳しい方だったけど、結婚に口を出す方ではなくてね」
「そうかぁ」
「僕は当時、総務から秘書課に配属されたばかりで、課長と言ってもお飾りだった。けど、山田会長と絹恵専務に目を掛けて頂いて、婿入りする事を条件に結婚を許して頂いたんだ。美空は30歳で、僕は35歳だったかなー」
「今の大空君と同じ年頃か。当時としては遅かったんじゃ?」
「交際期間が7年程あって、3年目には婚約してたよ。お義父さんが亡くなったり何だかんだで、挙式が遅れてしまって」
「あ、社長修行」
「今となってはそんなもんか。もう少し大志会長の教えを頂きたかったけれど、会長は美空が大空を妊娠した頃に…」
「成程」
「それまで山田の家系は女の子ばかりで、男の子だと良いなって期待されていてね。僕としては娘でも息子でも、何ならどっちも欲しかったんだけど」
「俺は息子が欲しかったなぁ。姉二人と妹二人に挟まれた長男で、女性に虐げられて来たから」

ふ、とニヒルに笑った男は、そろりと背後を振り返り、ガールズトークに花を咲かせている二人組の片方を見た。すぐに気づいた人は、普段の派手な化粧をファンデーションだけに抑えた顔に、花の様な笑みを滲ませて手を振ってくる。

「…だからまぁ、何処から見ても俺の事が大好きな癖に浮気されても、気持ちを疑った事はないんだよなぁ」

その傍らで微笑む人もまた手を振っており、傍らを見れば、ヘラヘラと男前台無しな笑みを大盤振る舞いしている榛原は、釣竿を握ったままブンブン手を振っていた。

「ん?カズ君、今何か言ったかい?」
「いーえ、何も。然し仲良しですなぁ、お二人は。美空さんは相変わらずお若いし」
「夕夏里さんだって還暦前だろう?まだまだ子供を産めそうなくらい若いじゃないか」
「いやぁ、流石にそれは。そっちに関しては、随分前からさっぱりでして」
「えっ。カズ君、そうなの?」
「元々淡白だったと言うか、まぁ…夕夏里と結婚するまで彼女の一人も居なかった様な不甲斐ない男で」

愕然としている榛原を見るに、やはり男前は若い頃からそれなりに経験があるらしいと村井は苦笑いを零す。

「愛だ…!君の愛は、真実なんだね!」
「え、やめて下さい、マサさんは何でもかんでも純粋に受け止め過ぎる。そんな良いもんじゃないですよ」

三十路を過ぎて童貞と言うのは、今では妖精扱いらしい。
男だらけの工業高校から工業学部へ進み、YMDの工場に入って数年は仕事に明け暮れた村井和彰は、本社営業部に配属を命じられて漸く結婚を考えた。それまではぶっちゃけ、仕事が楽しかった事が要因だ。体を動かすのは村井にとって苦ではなかったが、営業の仕事の中で真面目と言う理由だけで出世し、外回りが減った頃から仕事が苦痛になっていった。

「つまんない男なんだ、本当。夕夏里が置いていった離婚届を出し渋ったのも、自分が捨てられたって認めたくなかったからだった。見たくないものに蓋をして逃げてちゃ、何にもならないのに」
「カズ君」

家で愚痴を吐ければ楽だったのだろうが、そこは男の矜持。
妻にも娘にも内緒で目の前の書類を片付ける毎日を何となく過ごしている内に、家庭でも会社でも居場所がなくなってしまった。リストラを突きつけられた時、本心では安堵しただろうか。これで漸く解放される。そんな気持ちが、村井には少なからずあった。

「俺はマサさんを恨んだ事はない。何なら感謝してるくらいだ。あの時、マサさんに対して株主総会で不信任案を叩きつけた中学生が、何故かうちの狭いアパートに居て。何の冗談なのか、陽子が初めて連れてきた彼氏だと言う」
「ご、ごめんね、大空は何と言うか、誰に似たのか恋多き少年時代を過ごしていた様で…」
「大体、実家に頼れば良いのに一人で返済してしまうなんて。奇跡的にお馬さんが当たったから良いものの。何でしたっけ、ブラックタッキーでしたっけ?」
「違う違う、ブラックオタッキーだよー」
「二人共、お茶が入りましたよ」

のんびり釣竿を握った男は、妻が運んできた麦茶入りの紙コップをごくりと煽り、まったり息を吐いた。

「また優大さんと話が弾んでるのね、和彰さん」
「いつも良くして下さって有難うございます。私も夕夏里さんと言うお友達が出来たお陰で、毎日が楽しいのよ。貴方、和彰さんに捨てられない様に頑張って下さいな」
「はーい」
「いやいや、俺がマサさんを捨てる事なんてないですよ。俺の方が飽きられない様に努力してるんです」
「まぁ!私を嫉妬させようたってそうはいかないわよ、和彰さん!優大さんに奪われない様に私も頑張るんだわ!」
「それじゃ私達は女子力を上げる為に、さっき教えて頂いた太極拳ヨガをしていましょうか、夕夏里さん」

男共の寂れっぷりに比べて、女性陣の活力源は何処にあるのか。
貸切状態の釣り堀の隅に並んだ妻達は、スマホで良く判らない怪しげな洋楽を流すと、有名なジャッキーチェンの酔拳を思わせる体操を始めた。
年頃の近い二人は姉妹の様だったが、ビシッと決まった上段蹴りは見ているだけで痛そうだ。

「この為にジーパンを引っ張り出したんだねー。美空はいつもスカートなんだ。たまに町内会のお掃除がある時に穿くのが、あれだよ」
「美空さんは美脚ですなぁ。夕夏里は最近中国に2ヶ月ほど買いつけに行ってて、太ったって嘆いてたんですよ」

ゆったりとした動きは太極拳を思わせたが、時々思い出した様に蹴りやパンチが入る所が、ヨガとは掛け離れている気がしてならない。でもまぁ、楽しそうだ。

「…会社が潰れそうになったのは、まー、副社長に騙された所為なんだけどねー。それでも騙されてる事に気づかなかった僕が、やっぱり悪いんだ。罷免されても仕方ない男なんだよ、僕ぁ」
「んー。一緒にリストラされた俺が言うのも何だけど、羽柴副社長は横柄で野心家な所はあったけど、儲け話と聞くと精力的に動こうとする行動力には理解がある者が多かったんですなぁ。若い頃は金を稼ぐ事に一定の誇りみたいなもんを抱きたがる」
「僕はどうにか社が傾かない様に走り回るばかり。羽柴君が踏み散らかした尻拭いをしておかないと、それまで会長とお義母さんが築き上げてきた信頼がなくなってしまうと思って」
「古きを捨て、新しきを得よ。羽柴副社長は手垢がついた創始者時代からのなぁなぁな取引を刷新する事で、古株の社長方から信頼を得ていた榛原優大社長を辞任に追い込んだ。後は自分の天下だと思ったんでしょうが、ざまーみろだなぁ。辛うじて一部市場に残ってるだけで、売上は全盛期の2割程度らしいですよ」
「僕に出来る事があれば手を貸したい気持ちだよ。名前は変わってしまったけど、YMDは美空のお祖父様が作った会長だ…」

呟かれた台詞に、何処となく山田太陽に似た眼差しの平凡顔を苦笑いで染めた村井は、ボリボリと頭を掻いた。榛原とは違い抜群の毛髪量だが、寝起き状態に近い無造作ヘアは風が吹く度に揺れている。

「マサさんは人が良すぎます。また借金だけ背負わされたらどうするんですか、流石に東雲会長も今回は助けてくれないですよ」
「駿河君が手を回したんだと思うんだ。僕は辞任する前に大空の口座に限度額一杯のお金を送金して、美空と離婚するつもりだった。理由はどうあれ、羽柴君の思惑に負けた僕の所為で会社に借金を負わせてしまったんだもの」
「うん。まぁ、マサさんらしい考え方だ」
「親の債権で子供が泣く事があってはいけない。でも美空は離婚届に判を押してくれなかった。何度頼んでも、土下座だってしたよ。でも別れてくれなかった」
「…判るなぁ、その気持ち」
「大空の親権を手放すしかないと、あの時、追い詰められていた僕は思ったんだ。今になれば馬鹿みたいな話だよ、なんて事を考えたのか。借金の肩代わりを申し出てくれた帝王院会長…駿河君にあの時、僕は酷く喚いた」
「えっ、マサさんが?」
「何だかな…。僕よりちょっとだけ若い駿河君に、ほんの僅かな男としてのプライドがチクチクしたのかなー。息子の世話はお願いしたいけど、お金の借りは作らない!って言っちゃった…」
「うん。それ喚いたって言わないかな?」

寧ろちょっと格好良い感じ、と。村井が笑えば、榛原は目を丸めた。

「そ、そう?!あれは失礼な事をしたって後から悔やんだよ!駿河君は笑ってたけど、幾ら昔から付き合いがあるって言っても、駿河君は僕の実家にとっても、榛原の家にとっても主人で、山田大志会長は帝王院俊秀様の時代から付き合いがあったんだって話だもの」
「マサさんも若いんだから駿河学園長はまだ若かったって事でしょ。部下の裏切りで真っ逆さまに転落しといて、膨大な借金を背負ってる癖に自分だけで返済出来るつもりでいる所に、格好良さを感じたとか?」
「…考えなしって言ってくれて良いよー」
「ははは、判ってるんだ」
「カズ君はたまーに意地悪だ」
「たまーに意地悪なくらいじゃないと、リストラされちゃうからなぁ。ワラショクはちょっとやそっとじゃ揺るがないくらい育ってくれたけど、取締陣はまだまだ若い。大空君は、昔の俺が諦めた夢を持ってる。俺はそれをどうしても応援したかった」

平凡な男の様で、芯が図太い村井は時々男前な台詞を軽率に口にする。
榛原は何度ときめいたか知れない胸を押さえ、ぐぅと唸った。夢やロマンは、昭和生まれを駄目にする禁断ワードだ。

「出来る事なんて、幾らかの電子機器を組み立てる事と営業で培った僅かなコネだけだった。そんな俺を信頼してくれた若者の期待を裏切るなんて、俺にとっては有り得ない話だ。形振り構ってられなくて、頭を下げて取れる仕事なら何回でも土下座する。プライドの低さは一つの武器」
「素敵すぎるよカズ君…!僕は美空と結婚してなかったらカズ君のお婿さんになっていたよ!」
「あ、それは要らないなぁ。おっぱいがついてない人は無理〜」
「カズ君はそんな所まで男らしいんだもんねー」
「淡白な癖に、ってね?」

還暦をとっくに過ぎた男達の下ネタは、嫌らしさが感じられない。

「何だか楽しそうなんだわ」
「やいちゃう?」
「やだ、揶揄わないでよ美空さん」
「殿方はいつまで経っても子供だって、お母様がいつも仰っていたわ。お父様はお母様よりうんと年上だったけれど、いつも叱られていたものよ」
「そうなの?うちの母は父に従順で、逆らうなんて事は有り得なかったわよ」

二人が腹を抱えて笑う声に首を傾げた妻達は、目を見合わせて肩を竦めると、曲を変えて再び暴力的なヨガを再開した。恐らく旦那より妻の方が殺傷能力に富んでいる。
還暦世代とは思えない跳躍で空中蹴りを決めた女性らに、ちらほら集まってきた釣り客から拍手が湧いた。ダイエットがしたいのか鍛えたいのか、全く判らないが見事な蹴りだ。

「…浮気したら夕夏里に殺されるな」
「痛そうだなぁ…。そう言えば美空が珍しく怒ってたんだよ、何年前だったか。大空が…その…陽子さんを裏切る様な真似をしていただろ?」
「あ、浮気の件?でもあれは誰が見たって本気じゃないのが判るから、俺としては無責任に隠し子を作ったりしなければ、男の甲斐性の内だと思ってますよ」
「榛原の当主は、歴代遡っても本妻しか居ないんだ。宍戸の家系は好色家が少なくないんだけど、榛原のご当主は何と言うか、奥さんを一人しか作ってはいけないって言う戒律があったみたいで…」
「『声』が効かなくなるから?」
「知ってるんだ?そうなんだよ、榛原の催眠術は大切な人には効かないらしいんだ。だから、見合いの席で真っ先に言うんだって。『去れ』って」

榛原の台詞に、村井は瞬いた。
見合いの席と言う事は、恋愛結婚ではないと言う事だ。昔は少なくなかっただろうが、帝王院の歴代当主が恋愛結婚だったと言う事を鑑みても、想定外である。

「お義母さんはその席で『お茶も飲んでないのに帰れません、父に叱られます』って言ったそう。人付き合いってものをした事がなかったお義父さんはそりゃあ吃驚したらしくて、お見合いの席ではお義母さんが終始質問攻めしたそうなんだ」
「女の人は話が二転三転するからなぁ」
「太陽と同じくらい、力が強かったそうだ。お義母さんは亡くなる前、大空に言った。苦労するだろうね、こんな力ない方が良かったのにね、って」
「そうか…。その大空君が太陽の方が上だって言うんだから、間違いないんだろうなぁ。夕陽には継がれなかったのに…これが榛原の『呪い』なのか」
「宍戸の実家に頭を下げて、YMDから離れた後に再就職して暫く経った頃、取り立てがきつくて実家所か本家にまで迷惑を掛けそうな時に、東雲の若様が僕に手を差し伸べてくれたのは話したよね?」
「んん。今の会長、幸村さん?」

メディア露出の少ない帝王院駿河に比べて、東雲幸村は度々経済番組で特集を組まれていた。次男が人気俳優と言う事も相まって、世代間問わず有名な男だ。

「子息の村崎君が大空の後輩に当たるんだって事で、本当に良くして貰った。つまらない見栄で駿河君の申し出を断って、だけど毎月数百万の返済は本当に辛くて、僕はあのままじゃどうしようもなかった。返せる筈のない途方もない金額を無利子で肩代わりしてくれて、返済も以前の半分以下で良いなんて、眉唾物の話だと思ったよ」
「宍戸は東雲と親戚関係でしたっけ?」
「いやいや、灰皇院の中でも雲隠は別格だった。高森伯爵家の流れを汲む東雲は、帝王院にこそ劣るとは言え、宍戸とは比べ物にならないお家だよ。帝王院鳳凰様に嫁いだ舞子様の血縁に当たる智子さんが嫁いだ家が宍戸で、宰庄司の分家に当たるんだ」
「宰庄司…?それって確か、没落した華族の?」
「灰皇院では、明神と呼ばれた。俊秀様の妹君が嫁入りした神木家が本筋で、昭和以降、長男以外は全て姓を変えたそうだよ。宰庄司はその一つ。最後の明神当主だった小林刹那の長男が榊と名乗って、長女が小林を継いで、次女が宰庄司に嫁いだ」
「ははぁ、つまりその三家を総じて明神と呼ぶ訳だ」
「そうなるね。宰庄司の当時の家長の種違いの弟が宍戸本家の家長で、仲は良かったらしいよ。宰庄司が没落した切っ掛けは、宍戸の商売がうまくいかなくて、宰庄司がずっとお金の世話をしてくれた所為だって僕は聞いて育ったんだ。だから、お金の所為で身内を潰す様な事があってはいけないって、祖父母からも両親からも言われてきた」
「あ〜。だから一人で背負っちゃったんですね」
「宰庄司の最後のご当主は、宰庄司が没落するのと同時に奥さんの家に婿入りしたそうだ。最後まで宍戸を責めたりしなくて、寧ろ『家がなくなって清々した』と仰ってたそうで」
「奥さんのお家は商売を?」

村井が首を傾げると、榛原は困った様に笑い、キョロキョロと辺りを見渡し他人の視線がない事を確かめた上で村井に顔を寄せ、

「…ヤクザさん」
「えーっ?」
「炭鉱の元締めだったそうで、人を使う仕事ってのは大半がそんな様なものらしいんだよ。高坂って家でね、元は神坂と言って、明治維新前までは灰皇院の一家だったそうだ」
「…まではって事は?」
「俊秀様のお父上、寿公と呼ばれた寿明様の従弟に当たる家だったそうだけど、宰庄司に下った秀之様を当主にしろって冬月家と共に言い続けて。でも本妻のご長男、俊秀様が帝王院を継いだだろう?」
「あー、それで灰皇院に居辛くなったかぁ。前も聞いた事あるけど、冬月と言う家は凄いんでしょ?」
「酷い家だよ。裏切り者だ。僕は幼い頃から聞かされて来たけど、冬月鶻と言う男は欲の塊で、最後の当主だった冬月龍流は人間を切り刻んで喜ぶ、殺人者だったとか…」
「怖すぎる…!ほ、本当に冬月は断絶したんですか?罷り間違って生き残ってたり?」
「あはは、しないよ。欲深い人間にはバチが当たるからねー、冬月は結局身内で殺し合って、自滅したそうだ。人間、慎ましくも真面目に生きないと、仏様から裁かれるんだよねー」

釣れない釣りをしながらする話にしてはオカルト要素が多かったが、平凡な人生をそれなりに平凡に過ごしてきたつもりの村井は、ほっと胸を撫で下ろした。孫馬鹿と笑われても構わないが、太陽にも夕陽にも、平凡な人生を送って欲しい。無論、榛原にしても村井と同じ意見だろう。

「ねぇ、カズ君。いずれ太陽がワラショクを継ぐのかなー」
「どうでしょう。…秀皇会長が帝王院に戻るつもりなら、ご子息の俊さんがワラショクを継ぐのは役不足過ぎる」
「駿河君、腰が抜けてるんじゃないかな。今まで姿を眩ましてた秀皇坊っちゃんがテレビに出たんだもん、僕なら心臓が止まってるよ」
「相変わらず気が小さいなぁ〜」
「ノミの心臓だもん」
「男前なのになぁ〜。そんなんで良く見知らぬ子供の言う事を聞きましたね」
「そうなんだよ。あんな事は久し振りだった、まるでお義父さんに命じられた時の様に、逆らえなかったって言うか…」
「なけなしの千円で人生初めての競馬場、かぁ。俺なら躊躇っちゃうなぁ」

いつの間にかギャラリーに囲まれている妻達は、何曲目か知れないBGMを味方に、最早太極拳でもヨガでもない独自の殺人術を磨いていた。年齢を感じさせない舞踊に、釣り人はやんややんやと盛り上がっている。

「「あ〜」」
「陽子さんから電話来ないなー」
「寧ろ俺らの事なんか忘れてるんじゃないかなぁ」
「太陽と夕陽のお写真くれるかなー」
「くれなかったら大空君に内緒の食事会、またやりましょうや。マサさんが競馬で801億円も当てちゃって、借金返済して美空さんのご実家のメンテナンスに懸かるお金を差っ引いても、まだ数億円残ってるって聞いてから、陽子は俺よりマサさんを実の父親だと思ってますから…。我が娘ながら何でああ育っちまったかなぁ」
「あはは、まー僕達が死んだら遺産は陽子さんの物になる様なもんだから、良いんじゃないかなー。ブラックオタッキー様様だよ。まさかあの一ヶ月の間に全勝して引退しちゃうなんて…」
「有終の美って奴ですかぁ」

依然釣れない竿を仲良く握ったまま、妻達が用意してくれた大福を同時に頬張った二人は、暫くモゴモゴと良く噛んだ。美味しいだけに、喉に詰まったら危険である。

「「あ〜」」
「濃い目の緑茶が欲しい」
「判る。温かい奴ですよね、安い煎茶が美味いんです」
「それにしても、あの子は天使だったのかなー」
「出張中に出会った予言の子?」
「這い上がりたければどちらを選ぶ?って、聞かれてね。藁をも掴む気分だった」
「そうでしょうなぁ。負けたら一ヶ月の昼飯代が消えるだけ。って、一ヶ月の昼飯代が千円って、どんだけ苦労してたんですか」
「手が震えたよ。馬券の買い方が判らなくて人に聞いたら睨まれて、千円が数百万になった時は、多分一回心臓止まったと思うんだ。恐々、ブラックオタッキーが出てないレースでは僕なりに予習した馬情報に基づいて手堅く買ったら、バンバン当たるし」
「ビギナーズラックかぁ」

まったりした二人の釣りはまだ、続く。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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