帝王院高等学校
楽しいお時間はジエンド、ですか?
「師君ら、何をしておるか」

狭い非常階段の果て、螺旋階段が終わりを告げたのは、最上階へと続く最後のセキュリティゲートの前だった。
踊り場の越えて普段は扉が閉まっている筈の場所に、白衣を纏う男が立っている。ピタッと足を止めた少年らはキッと目尻を吊り上げ、唸らんばかりに男を睨んでいるが、然し誰からともなく「おはようございます」と挨拶の合唱だ。

「冬月先生ぁ!おはざーっす!」
「いつも手当てしてくれて、あざーっす!」
「おお、相変わらずエルドラドの皆は元気がよいのう。グレイブ=フォンナートの姿が見えん様だが、どうした?」
「総長は陽子姉さんを迎えに行きました!」
「俺らはボスをお連れしたんス!」
「何?はて、エルドラドのボスはフォンナートではなかったかのう?」

きょとりと首を傾げた冬月龍人は、体格の良い少年らに囲まれて埋もれている男の姿に気づくと、はたりと目を丸める。

「これは、山田の。師君、泣いておるのか?」
「…泣いてません!ぐすっ、ずずっ、僕が泣くもんですか!ずびっ、よ…陽子に無視されたくらいで泣く様な、ひっく、この僕がそんな弱虫野郎に見えるってんですかい?!」

見えるも何も、涙も鼻水も垂らしておるではないか。
然しそれを言っても素直に受け入れる男ではないだろうと、冬月は孫にそっくりな垂れ目に愛想笑いを貼り付けた。

「師君が嫁の尻に敷かれておろうが儂は構わんが、部外者を良くもまぁ、こんなに引き連れて来たわ。秀皇の宮様はとうに上におられるぞ」
「冬月さんこそ、こんな所で何してたんです?僕を待ってた訳じゃないでしょう?」
「うむ。師君ら、ナインと擦れ違わなんだか?ネルヴァと共に出ていってしまったんだが、慌てて追い掛ければ姿がなくてのう」
「理事長も藤倉理事も見掛けてませんよ?あの目立つ二人と、この狭い階段で擦れ違ってたら気づくと思うんですけどねー」
「大殿がメインブレーカーを落としたんだ。現在、全キャノンのエレベーターが停止しておる。こちらの階段でないとすれば、南側から降りていったのかのう?」
「外に高坂さん達がいました。戦力になると思ったんじゃないですか?」

そろそろでしょ?と、泣き腫らした表情で尋ねた山田大空に対して、冬月は唇の端を吊り上げる。

「既に始まっておるわ。真面目が取り柄と言う以外は、喧しい事この上ないアシュレイだけが蚊帳の外だのう。現在、元老院の殆どはキングの従者と言っても差し支えない。対外実働部と特別機動部本体の動きを止めるには、現ゾディアックを騒がせればよい」
「…いよいよ、ノアとの全面対決ですか。もう、僕は何がどうしたらこうなるのか、未だに訳が判りませんよ」

二人の会話に入れないエルドラド一同は大人しく成り行きを見守っていたが、その内の一人が腹を鳴らしたので声もなく慌てていた。やんちゃな割りに無垢な少年の恥ずかしげな表情に大人は笑って、開け放していたゲートを潜る事を提案する。

「え、でも、そこって中央委員会ん所っスよね…?」
「陛下に見つかったらヤバいんで行けないっスよ」
「ぶっちゃけ、白百合が居る所に行きたくねぇ…」
「光王子も居るんだろ…?俺らなんか一捻りで潰されるんじゃ…っ」
「揃いも揃って人相が悪い癖に、何を小さい心配しとる。クラウンの執務室なら、跡形もなくなくなっておったわ」
「え?跡形もなくって、どゆ事?」

目を丸めた大空に対し、冬月は顎を掻きながら首を捻った。

「此度のモードチェンジについては、残念ながらノアの権限が発動しておる。流石に理事会とて把握出来んが、中央キャノンのブースは中央キャノン以外に動けん。推測するに、最下層に下りたか…」
「最下層?」
「ああ。我らステルスの格納庫がある。と言っても、最後に立ち入ったのは十年程前の事だ。以降、使用権限はルーク坊っちゃんに委ねられておる」
「格納庫なんてあったんですか。あ、今そんな話しちゃってもいいんですか?」
「おお、構わんわ。困るのはノアであって儂らではない」

からっと笑い飛ばした冬月は悪い大人の笑みを零すと、真っ直ぐに給湯室方面へと歩き始める。キョロキョロと辺りを見回しているエルドラド一同は、何故か社交ダンス中の大人達を唖然とした表情で眺めていた。

「秀皇、俊江さん、何してんの?」
「シエが花嫁修行をすると言ったんだ」
「お金持ちはパーティーに呼ばれるんざます!ダンスも出来ない馬鹿嫁って言われてシューちゃんに恥を掻かせる訳には行かないんですわょー!…あらん?ごめんねィ、パパ。また踏んじゃったわん」
「シエ、今のは俺の足じゃない。オカマの足だ」
「あら、帝王院秀皇ともあろう男が人種差別なんて、帝王院財閥も先が知れてるわね。学園長の跡継ぎには向いてないんじゃない?」
「こら、意地悪を言うのはやめなさいレイ。良いじゃない、男だの女だのナンセンスよ。ハリウッドでは性別不明な人なんて珍しくないもの。それに、人間かどうかも判らない人も居るわ。国を間違えたと言うより、星を間違えた生物が」

タンっと、華麗なターンを決めたオカンのオカン、嵯峨崎クリスに皆からの拍手が湧く。思わずつられて拍手した大空と冬月は、次の瞬間、くるっとターンを決めようとしたオタクのオカンがオタクのオトンを勢いそのまま、華麗に背負い投げたのを見たのだ。

ぶんっと放り投げられた男は然し、壁に叩きつけられる前に体勢を入れ換えると、壁に足を着いてひょいっと着地を決める。
ほっと胸を撫で下ろした加賀城敏史と帝王院駿河を余所に、お茶を吹き出した大河白燕はビシッと扇子を突きつけたのだ。

「汝は大概にせんか俊江!それで女のつもりか!」
「何よォ、パイパイの癖に」
「誰がパイパイか!全く、汝は我が亡き妻より女子力がないではないか!そんな無様な踊りで社交界に出ようなどと、臍で茶が沸くわ!」
「お臍でお茶は沸きませーん。ちっさ!ちっさい男ざます、名字は大河の癖に。あーたなんか、小川に改名したらァ?」
「な、なんと腹の立つ…!秀皇の宮、こんな女とは即刻別れるべきだ!新しい妻は大河が世話をしてやろう、こんな馬鹿女とは比べるべくもなく素晴らしい淑女を!」
「パパス、アイツあんな事言ってるざます」
「加賀城、取り急ぎ中国を潰せと政府に働き掛けておけ」
「然し大殿、戦争はいけませんぞ…!」

エルドラドは戦いた。
初めて間近で見る学園長は肖像画やホームページで見る写真のその人だったが、血走った目で「良い、戦争だ…」と呟く声音は低い。

「大河は潰す。朱雀はまぁ、子供だから卒業するまで置いてやっても良いが、シエちゃんに対する暴言はこの帝王院駿河に対する暴言も同じ事よ。秀皇の替えは俊が居るが、シエちゃんの替えは居らんのだ」
「あはは、元気ですねー、学園長」
「父上、今さらっと俺を捨てましたか?ま、良いけど」
「あらん?シューちゃんは私が拾っちゃうもの、ドンマイ☆」

きゃぴっと、高等部の制服を見事に着こなした遠野俊江は親指を立てる。
女か男か判断に悩むオタク母を前に、エルドラド一同は目を細めた。細めたが、女か男か鬼か馬鹿か、やはり彼らには判らない。逡巡した後、彼らは廊下の隅に祭美月を見つけた。その傍らにはポテチをヤンキー座りで頬張るオレンジの作業着が見える。

「梅森、あの人って?」
「言いたい事は何となく判るけど〜。性別がどうとかの前に、あの目付きでカルマなら一撃判っちゃうよね〜」

帝王院学園広しと言えど、チャラ過ぎる三人組と言えば疾風三重奏を置いて他にはいない。高等部最高学年に進級した三人の中で最も馬鹿だと囁かれている梅森嵐は、キングサイズのポテチの袋をそっとエルドラドらに差し出す。

「秀隆の兄貴はシーザーのパパさんだろ?」
「兄貴の奥さんはシエさんだよな?」
「で、兄貴と学園長がさっきからあのチビをシエって呼んでる…」
「つー事は、あれがシーザーのママさん?」
「「「んな訳ないよな〜」」」

腹が減っていた少年らは有り難く受け取り、一斉にパリパリ頬張り始めた。
梅森の足元にキングサイズのパッケージが幾つか見えるが、どれも空の様だ。幾ら食べ盛りの18歳とは言え、梅森一人で食べるには量が多すぎる。

「ったく、も〜。オレが言うのもアレだけどさぁ、エルドラドってレジストより阿呆ばっかだよな〜。フォンナートはオレより成績良いけど、おまつから『アホンナート』って呼ばれてんだろ?」
「ちょ、それ言ったら駄目な奴!」
「総長はそれ言われたらめちゃめちゃキレっから!」
「松木の奴、ヘラヘラしてる癖に喧嘩めっちゃ強いんだよなぁ。俺ら何度も闇討ちしたのに、一回も勝てねぇ…」

その場に座った少年らは、給湯室から顔を覗かせた冬月が手招くのに気づき、数名が立ち上がった。中央委員会の執務室がある最上階には、実に様々な飲み物と軽食が常に用意されている。

「オレらの中で一番頭が良いのはダントツでおたけだけど、一番強いのはおまつだべ?おまつは普段無害だけどさ〜、あれでかなり性格ねちっこいんだよね〜。基本的にたけこ以外には容赦ないから、怒らせねぇ方が良いぜ?」
「何だよそれ、早く言えよ!」
「カルマはドイツもコイツも馬鹿みてぇに強いよなぁ。何か独自のトレーニングとかしてんの?」
「アホ、してても俺らに言う訳ねぇじゃん」

電源が落ちている為にドリンクサーバーが使えなかったが、中身のドリンクコンクの箱とミネラルウォーターを抱えてきた少年らに続いて、トレーにコップを並べた冬月がゆったりと歩いてきた。

「別に、トレーニングなんか各自適当だって〜。強いってのは、そんだけ場数踏んでるだけだし。喧嘩売られる確率は、カルマが一番だろ?」
「あぁ、流石にシーザーに喧嘩売る奴は最近は居ねーだろうがなぁ」
「俺らだって、ぶっちゃけると嵯峨崎には勝てるんじゃねぇかって思った事もあるんだ。ほら、兄貴がアレだっただけに、弟の方は弱いんじゃねぇかって話になった事があってよ」
「アレって、コレ?」
「は。アレって、俺?」

梅森が笑いながら指差す先、社交ダンスに興じる大人らの中で、短い金髪の美女と踊っていた男が片眉を跳ねながら己を指差している。悲鳴を飲み込んだエルドラド一同は硬直したが、高坂アリアドネに優雅にお辞儀をして離れた嵯峨崎零人は満面の笑みだ。

「童貞共、ABSOLUTELY元マジェスティに対して、アレとは何だアレとは。片っ端から犯して泣かすぞコラァ」
「きゃー!犯されるぅぅぅ!!!」
「ひっ、何で烈火の君がンな所に居るんだよ!神帝と犬猿の仲で、高等部のエリアには姿を現さないって噂だったのに!」

噂とは光の早さで広まるものだと、零人は口許を押さえて苦笑いを噛み殺した。
事実、零人が帝王院神威を苦手とするのは本当の事で、個人的な理由だけでなく様々な事情から、中央委員会職を神威へ引き継いだ後は、極力接触する事を控えていた感がある。

「変な噂を流してんじゃねぇ。何で俺に餓鬼共の世話をする義務があるんだ、最上階の奴らの面倒だけで手一杯だボケ。本校にあるのは大学院同等の研究室だけだが、理数学部は2割が推薦入学でな」
「あ、知ってる。入学金免除を条件に、学園のスカウトマンが全国でスカウトしてきた天才ばっかなんだよね〜」

元々、零人以上に人前に出る事が少ない神威が授業に参加する事など皆無で、授業免除権限が通用しない試験以外では、何処に居るのかすら判らない様な状態だった。血走った目で高坂日向が探し回らなければ、誰もが神威の居場所を知らない。そんな男との接触は、余程の事がない限り、ないも同然だ。

「本校からの持ち上がり組ならまだしも、スカウトにひょいひょい乗っかって来た奴らは、男女問わず貧しいんだよ。かと言ってバイトする暇があったら研究室に籠って論文、なんて奴はザラだ」
「ほーほー」
「貧乏は辛いもんな。つーか、梅森の貧乏レベルって凄くなかった?」
「まーね。カナメさんから『俺より上がいたか…』って言われたレベルです〜。貧乏でも毎日楽しいんだけど、オレ〜」

始業式典当日、式典前に俊を連れた神威が珍しく素顔を晒しているのを見た時は、正に数年振りの再会と言えただろう。
素顔を見るのは初めてだったが、瞳以外のほぼ全てが白い男など、ルーク=フェインを除いて学園には存在しない。理事長のカーボンコピーと言うべき、あの神憑った美貌を見れば、明らかだ。判らない方が可笑しい。

「で、だ。授業の一貫、と言う名の苦肉の策で、代々貧乏人だった奴らは、研究費の一部を切り詰めて投資を始めた。これが現在に至るまで安定した収益を出し続けてやがる。お陰で、24時間365日…閏年は366日か。此処の最上階エリアには必ず誰かが居やがる」
「え、そうなん?でも大学生の寮は山の下の方だろ?」

とは言え、あの一件がなければ未だに零人は神威が苦手だった筈だ。
然しどうだろう、わざわざ変装してまで一年生の教室に潜り込んできた男は、神と呼ばれる男爵とは思えない醜態を晒し続けた。授業中に縫い物はするわ、名前を呼んでも返事をしないわ、頭に来てついチョーク投げを披露すれば、縫い物をしたままキャッチして投げ返してくる有様。
当然受け止めたが、零人でなければ額に当たっているだろう。

大抵は、教科書の裏に漫画の様なものを重ねて授業中に読書をしている遠野俊が、『カイちゃん、お返事しないと』と見かねて声を掛けてくれた。俊の言う事だけは聞く神威はそこで、至極『興味はないが相手をしてやらん事もない』と言わんばかりに顔を向けてくるのだ。何度心の中で殺したか知れない。

「その通り。だが、数字愛好者っつーのはどっかイカれてんだ。荒稼ぎした所で遊び方も知らねぇ癖に、代々マネーゲーム中毒者が量産されていく。市場変動が軽妙な年は卒論が分厚いっつー話だ。勉強にはなるわ、テメーらで稼いだ金で食っていけるわ、研究費は使い放題だわ、卒業すれば後輩への置き土産になるってんで、稼ぐだけ稼いで殆どの奴らが全然使わねぇ」
「最上階って金持ちなん?」
「稼いでンのに使わねぇなんて、アホなん?」
「そんなもんなんだよ、金なんてな。パソコンをじっと眺めて、負ける前に売る、高い内に売る、上がる前に買う、最も安い内に将来性のある銘柄を買う。実態は金が懸かるゲームだ。中毒状態の馬鹿共は、俺が目を離したらすぐ死ぬだろう。次から次に」
「うわ、それじゃ烈火の君は一瞬も目が離せない感じじゃん」
「自治会長って大変だなぁ」

正味な話、零人も個人投資は昔からやっている。
将来的に家業を継ぐにせよ、個人資産は多ければ多いほど良いと考えたからだ。無論、親からの融資を頑なに拒否している佑壱に対して、少なからず思う所があったのもある。
嶺一が佑壱に買い与えたものと言えば街中のマンションだけで、中等部へ進級するまで毎月小遣いを貰っていた零人とは違い、佑壱は幼少期に稼いだ預金で生活していた。大学で講師紛いの仕事を、ほんの僅かな間とは言え務めていただけに、翻訳の仕事などをこなしていた様だ。

「何だこの烏龍茶!苦っ!」
「馬鹿野郎、コンクをそのまま飲む奴があるか。その箱の中身は濃縮ドリンクなんだよ、何の為に水があるんだ。薄めて飲め」
「ドリンクバーの中身ってこうなってんのかぁ。俺、ペットボトルが並んで入ってんだと思ってた」
「濃縮還元だと、一箱で何杯作れんだ?ドリンクバーって儲かるのかって思ってたんだよな、どうなん?」
「確か、グラス一杯で何円単位ってネットで見た。ドリンクバーの元を取るには、かなり飲まなきゃ駄目なんだ」
「安いドリンクバーの元を取るくらいなら、焼肉の食い放題のが良くね?」
「「「マジそれな」」」

神威が爵位を受け入れた9年前、枢機卿として任命された佑壱は、当然ながらアメリカから年俸が送金されている。数年前に無人島同然だった島を即金で買ったと言う話は聞いたが、その時の資金は佑壱の預金から賄われており、役員報酬の年俸には指一本触れていなかった事は判っている。
我が弟ながら不自由な考え方をする奴だと思わなくもないが、カフェを始めると言ってきた時だけは、手伝ってくれと言ったものだ。流石に食品衛生関連の資格を取得するには、当時の佑壱は若すぎた。起業に当たっても親権者の同意を必要とする為、隠しては始められないからだ。

3年半になるだろうか。当時18歳だった零人は、とある講習を受けた。
総計して十時間に満たない程の講習の末、食品衛生責任者の資格を取得した零人は名前だけ貸している。同時に受けた榊雅孝が医学部生だった事もあり、いずれは管理者まで取得するものと期待して、以降の協力はしていない。

所が、俊が存外堅物だった。
授業免除権限をフル行使して、中等部・高等部の六年間は店を軌道に乗せると宣言していた筈の佑壱は、俊に嫌われたくない余り、誰に言われても出席しなかった授業へ真面目に参加する様になったのだ。

『おい、佑壱。何か悪いもんでも喰ったのか?』
『うぜぇな、無駄に絡んで来るんじゃねぇ。失せろゼロ』
『え、嫌だね。ったく、お前はまた胸がデカくなったんじゃねぇか?キスしろ』
『ぶっ殺すぞコラァ』

佑壱の変わりようが心配になった、と言う建前で、驚異的に育っていく弟の胸囲を揉みに行けば、拳骨のキスを浴びた。幾ら鍛えても細い零人とは違い、何処もかしこもパッツンパッツンな筋肉質は、軽い拳骨で人を殺そうな勢いだ。
この時から、零人は佑壱に吸い付くのを諦めた。命は大事だ。それに我が弟ながらキスがちょっと上手すぎる。兄として喘がされる訳には行かない。

俊がカルマに加入した当時、週末にしか現れなかった事もあり、平日の佑壱は学園で過ごす様になった。
総長に恥を掻かせる訳には行かないと、キリッと宣った佑壱は、主に数学の授業で教師を質問攻めにすると、クラスメートを騒然とさせたのだ。

『先生、ベクトルっつーのは何ヘクトパスカルっスか』
『…ベクトルと言うのは方向性を持ったスカラーの事であって、ヘクトパスカルは気圧の単位です。どちらも中等数学では出てきません。物理の時間に質問して下さいね、紅蓮の君…』
『マスカラー?』
『いえ、スカラー』
『先生、俺は東大理Vに入れるっスか』
『確実に無理です。どうか考え直して下さい、語学部に』
『んだと?!テメー、やんのかコラァ!』

Oh、地獄絵図。
偶々近くの非常階段付近で親衛隊の数名とにゃんにゃんしたいたらしい某中央委員会副会長は、一戦濃いのをやって来ましたと言う気怠げな表情で佑壱のクラスを覗き込むと、


『馬鹿犬が騒ぐな、人様に迷惑だ』

と吐き捨てた。
無論怒り狂った佑壱は何処の国の言葉か知れない異国語で、日向に対して喚き散らした様だが、

『まともに人間の言葉も喋れねぇのかコミュ障、犬は大人しく犬小屋で吠えてろ』
『んだと?!誰に許可を得て湧いて出やがった淫乱が!精子振り撒いてんじゃねぇ、卵巣に帰れ!』
『AB=6、BC=3√3、∠B=30°。単純問題だ、内積は?』
『………は?』

当時、中等部二年Sクラスに於いて、日向がさらっと呟いた問題を答えられたのは、西指宿麻飛と東條清志郎だけだった。然し彼らを差し置いて帝君の座に座っていた嵯峨崎佑壱に限っては、それまでの怒りを忘れて沈黙し、だらだらと冷や汗を掻いたのだ。

『まさか、帝君の癖に暗算も出来ねぇたぁほざかねぇよなぁ、嵯峨崎』

可愛らしい顔立ちに可愛らしくない粗野な笑みを浮かべた日向に対して、もう今にも泣き出しそうな佑壱は頑張った。3が多かった様な気がする。と言う事は3の倍数ではないか、悩んだ挙げ句に佑壱はキリッと表情を引き締めた。

『90ヘクトパスカル』
『テメェは何をほざいてる。誰が天気の話をした、馬鹿か』
『っ、だったらテメーは判んのかよ!』
『マイナス27だ。三平方の定理は中等数学で出るだろうが』
『煩ぇ!その答えがあってるかどうか判んねぇだろうが!』
『まだ言ってんのか馬鹿犬』

呆れた様に息を零した日向は、佑壱を哀れみの目で見つめている教師を横目に、弛んだネクタイを締めながら、

『悪いがな、俺様は数学で満点未満を取った事がねぇ』
『ま、満点未満?未満っつーのはあれだろ、それを含めないって事だから、あれだろ、…どれだろう?』
『端的に、百点しか取った事がねぇんだよ』
『な』

佑壱は感電した。
もしやあの時は心臓が止まっていたのかも知れない。頑なに動かない佑壱は然し、ポロリと一粒の涙を零した。

『え、えええー?!』

叫んだのは西指宿だったが、日向を含めた誰もが目を丸める事態だ。
何があろうと泣いた事のない赤毛が、一粒とは言え泣いた挙げ句、椅子の上で膝を抱えて座ってしまったのである。当時から背が高かった佑壱の長い足は折り畳まれると窮屈そうだったが、いじけている赤毛は誰の目で見ても、ちょっと可哀想だった。

『お…俺は、英語と国語で満点未満を取った事がねぇもん…。………算数は…満点なんか取った事ないけど…』
『算数かよ』
『っ。何か文句が?!』
『…いや、別に』
『先生!高坂は理V受かるんスか?!この俺を差し置いて、東大に行くんスか?!』
『えっ?あ、いや、それは、進学については光王子が決める事ですから…。それに、光王子は高等部への進級が決まっています。大学受験はもっと先の話です』
『う、うっうっ、俺だって…俺だって高等部に進む…!いつか円周率を覚えて、あっと言わせてやる…!』
『『…』』

日向は、図らずも真顔で『悪かった』と謝ってしまう。ガンっと机を叩いた佑壱のシャツのボタンが吹き飛び、日向の額に直撃したからだ。驚異的な成長期による胸板の厚みに、シャツが悲鳴をあげたのだと思われた。

『上半身デブ最高じゃねぇか、マジ俺の弟のπは無限の可能性…』
『…テメェ、何こそこそしてやがるド変態』
『げっ、光姫。デコにボタンの跡がくっきりついてんぞ、ボタンホールの穴の形までくっきり』

一部始終を目撃した零人は思わず携帯カメラにその光景を納めたが、佑壱の体育座りオンザチェアーは未だにお気に入りの一枚だ。チラッと胸板の谷間が見えているエロセクシーなショットだった。日向に無言で股間を蹴られて死にかけた以外は、オールオッケーだ。


その一件から益々数学に憎しみを抱いたらしい佑壱は、百点しか取れない日向に対して百点が取れない自分を比べているのか否か、ベクトルだけは完璧に覚えたらしい。覚えたらしいが、ベクトルが中等部で登場する事は皆無だった。今も覚えているのかは不明だ。

なので、中等部時代に佑壱が店へ姿を現すのは、数学関係の授業がない日に限られた。お陰様で皺寄せは榊に向かい、医学部に通う暇がなくなった榊は、今や荒みきったブラック企業の店長と化している。
バータイムを始めてからは益々顕著で、店の売り上げが生き甲斐と宣う姿は、同年代と思えない貫禄があった。時折、零人は榊を『おっさん』と呼んでいる。

普通は怒る所だが、何故か榊は毎度目頭を押さえるので、もしかしたらマゾなのかも知れないと怪しんでいる所だ。そんなマゾでも零人より喧嘩慣れしているので、一対一でやりあうのは遠慮したい。


「つーか、皆さん何やってんスか?あっち、縛られてる女の子が見えるんスけど〜」

社交ダンスに誘われ、ふらふらと輪の中に入っていくスヌーピーズは、荒んでいる体育座り中の山田大空を横目に、代わる代わる高坂夫人の相手を務めた。それが誰の母親なのか知れば近寄りたくなかったろうに、顔立ちが息子とは似ていないのでエルドラドの誰もが気づいていない。

「ああ、あれは…まぁ、放っておけ」
「りょ。知らなくて良い事には突っ込むって、たけりんリーダーに言われてるから〜」
「オメーらは長生きするぞ、カルマ共。惜しむらく、のび太の身の安全だけは約束出来ねぇがな…」
「は?のび太って、えっと、天の君の事〜?」
「ふは、馬鹿なりに誤魔化そうとした訳だ?お前らの改造作業着は目立つよなぁ、疾風…何だっけ?」
「三重奏!トリオ!チャラ三匹って呼んで良いのは総長だけだから〜」

実習で負ったのか、外の騒ぎで負ったのか、袖を捲った腕やら頬やらに傷をこさえた後輩を横目に、零人は異様に賑わっている大人達を眺めた。幾ら庶民育ちの俊江が提案したからと言って、誰も彼もがわざとらしい程賑わっている。

ただ一人、極道と極道より人相の悪い男だけが、口数が減っていた。

「…ステルスがグレアムの支配下から下りれば、俺も佑壱も自由にはなるだろうが」
「え?何?」
「お前さ、姫のケー番知ってるか?」
「姫って、光王子の事〜?んなんオレが知る訳ないじゃん、ただの同級生なのに〜。あっちはずっとSクラスっスよ?」
「だよなぁ。馬鹿な事を考えちまった、佑壱が姫と一緒に居る訳ねぇのに…」

呟いた零人は窓の外を見やり、空に浮いている肌色を見たのだ。
声もなく目を見開いた零人に続いて背後を振り返ったチャラ男は、ポカンと目を丸めると、


「は…?えっ、何、そ、総長が半裸で浮かんでるぅううう?!」

ほぼ全ての人間が窓辺に張り付いた。
部活棟上空、緑の山並みを辿った先、青空に浮かんでいる人形のそれはゆったりと放り出されて。


誰もの目の前でゆったりと、落ちていったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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