帝王院高等学校
平凡を舐めてはいけません、死にます!
「何、またそれやってんの?」

何回目の再放送だと呆れた様に呟く声へ振り返れば、しょりしょりと大根の皮を剥いていた背中が見えた。

「いつの時代も、一定の需要があんのねィ。時代劇なんて歴史捏造甚だしいフィクション、毎回脚本は違っても結果は同じだっての」
「同じ」
「そ。悪人を斬って終わり」

まな板へ伸ばされた腕が見える。
古びた磨り硝子のはめられた小さな窓の向こうの光が、照明の落とされた仄かに暗い狭い台所を照らしていた。昼前なのに、夕暮れ時の様だ。

「正義は勝つなんて綺麗事、テレビの中だけのお伽噺ざます。本当は誰もが判ってる癖に、だからこそ綺麗事を観たがるのかしらねィ」
「綺麗事、と言うのは、良くないのか」
「良いか悪いかで言ったら、悪くはないんじゃねェか。どっかの馬鹿息子みたいに生後三日で死にたがる様な馬鹿でも、親にとっちゃ可愛い子なのょ。世間的に見れば、まァまァ面倒臭い餓鬼って感じかも知んないけど?」
「そうか」
「まともに生きた経験もない癖に、親より先に死にたがるなんてクソ生意気な餓鬼、精々『終わりの見えた世界』で生きていくがイイわ」
「時代劇みたいに」
「そーゆー事ォ」

テレビの中で、主役に斬られた浪人が漸く倒れた。
腹を斬られた割りには、ミュージカルばりに大袈裟に悶え、今際の際とは思えない長い台詞を語っていたが、正義の殿様はとどめを刺す事なく、最後の台詞を最期まで聞いてやる。

「普遍的と言う事は、平凡だと言う事」
「そーね。繰り返されると退屈だって事でもあるじゃろ。あーた、一回観たら飽きない?」
「時代劇?」
「そ」
「それは、一度読んだ本をどうして手元に置いておくのかと言う質問と、どう違う?」
「一般論じゃねェか、大人になったわねィ。二歳の癖に」
「家の外じゃ言わない」
「下手に天才呼ばわりされて人体実験された挙げ句、体の隅から隅まで解剖されて、死ぬに死にきれず恨みだけこの世に残した地縛霊になりたくなかったら、馬鹿な振りしときなさい」
「俺はまだ、地縛霊を見た事がない」
「あーたみたいな心が汚れた子供には見えないのょ」

全く、母親と言うのは鬼か悪魔だろうか。
子供の心を的確に抉ってくる、その攻撃力たるや筆舌に尽くし難い。

「…クソババア」
「何か言った?」
「父は何故母を選んだのか、俺には理解出来ない。俺には判らない事が多すぎる」
「ま、毛も生えてないお子ちゃまには判んないわね。ふろふき大根みたいなもんよ、手抜きと職人の技は似て非なるもんだ」
「つまり、母が脅迫した訳ではなく、父の気の迷いだったと言う事か」
「テメェ、表に出っか?」

素晴らしい笑みと共に煌めく包丁を突きつけられ、遠野俊はふるりと首を振る。世間は花の金曜だと言うのに、朝から真夏の炎天下に喘ぐ学生や社会人には、何の気休めにもならない。

「母」
「ご飯はまだょ。こないだ買った本に飽きたんなら、大人しくテレビ観てなさい。ご飯食べたら図書館に連れてってあげるから」
「母の催眠は俺には消せないらしい」
「は?」
「父と同じ顔をした人に聞いた。消せない代わりに、条件づけをすれば一時的に解除出来るかも知れない」
「またあーたは、意味の判んない事を」
「忘れている人間にそれを指摘しても理解はしないだろう。その手にないものをあると言われて信じる人間が、果たして何人存在するのか俺には判らない」

コンロの上で、鍋の蓋がカタカタと鳴いた。
間もなく沸騰し、鍋の中の大根は踊り始めるだろう。

「条件づけに際して、俺はまだ剥奪と支配しか使えない。父の催眠が今ほど強くなったのは、声変わりが済んでかららしい。だからきっと、母はまた忘れてしまう。思い出した事すら」
「何が言いたいのょ」
「Open your eyes.」

眉を寄せ、火を弱めた背中に囁いた。
途端、鍋を見つめたままの背中が微かに伸びる。まな板を洗って窓辺に立て掛けた背中はやがて、ゆったりと振り返った。

「…へェ?忘れてた事を思い出した瞬間、凄まじい殺意が涌き出て来やがった。俊、秀皇の野郎に会ったっつったな?」
「会った」
「いつだ」
「毎回、夕方」
「夕方ァ?」
「会いたい人に会えなかった日の空の色を覚えていると言っていた。映画のチケットが無駄になった日、オレンジとバイオレッドのグラデーションの下で、白衣が緋色に染まっていたらしい」
「…あんにゃろう、居たのかあん時。秀隆が一匹だったから、可笑しいとは思ったんだ」
「父の名前は、秀隆じゃないのか」
「秀隆はワンコの名前だよ、黒い毛並みで赤い首輪をつけてた」
「赤い首輪」
「拾った時から若くはなかったらしい。俺が初めて見た時はきっと、推定11・12歳だった」
「そうか」
「賢い犬だったよ。でも、死んだらしい」
「悪魔を殺したと言っていた。俺は想像した。それはまるで、」

ドラマの主人公が悪を滅する様なワンシーンではないかと、呟けば冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した母親は鼻で笑う。

「秀隆は犬だ。犬が飼い主を守ったと言えば綺麗事、逆に、飼い主が命じたと言えば途端に意味が変わる。この世の中に、善も悪もありゃしねェ。価値観一つ、言葉の違い一つ、たったそれだけで白が黒だ」
「どうしたい?」
「どうしろって言われた?」
「何も」
「…ふーん」
「どうせ俺には嘘が通用しないと言っていた。意味は判らなかったが、恐らくそれは真実なんだと思う。俺は視た。父の姿をした男の全てを」
「秀皇の全て?」
「消すつもりはなかったんだ。逃げ出してすぐは何も彼も捨てようとしたけれど、穏やかな数日を過ごして思い直した」
「…」
「『俺には俊江さんと大空がいる。子供も産まれてくる。捨てるんじゃなくて、やり直そう』」
「だったら、何で」

カタカタと、蓋が鳴いている。
じわじわと、蝉が鳴いている。
来週の今日は8月18日だ。その日は有給休暇をもぎ取ると力強く宣言した大黒柱は、この数日の炎天下をお中元のビールだけで乗り切る覚悟を固めたらしい。冷蔵庫のドリンクホルダーには、麦茶のボトルとビールがめんつゆのボトルと共に並んでいた。

「事態が変わった。…母は判っている筈だ」
「…」
「忍び寄る者は総じて夜に。浮かび上がる星や月の如く、音もなく現れる。父の前に現れたのはオリオン、それは取引を持ち掛けた。全てを失う代わりに、一つを得られる権利」
「端的に」
「『帝王院秀皇の子を産ませる訳にはいかない』」
「端的に!」
「『呪われし冬月の血を混ぜる訳にはいかない』」
「テメェ、わざとやってんのか俊!」
「『呪われた龍は地へ落ちた。陽の王の系譜へは二度と戻れない。戻ってはならない。空蝉は鳳凰と共に燃え尽きた。地を這う龍などいない。居るとすれば、それは蛇』」
「蛇…?」
「『糞親父、何で大学入学を反対しやがった』」

目の前で、眇めた眼差しを丸める女を見た。暗さの所為で、顔色までは判らない。

「『糞親父、何でテメェと直江はAB型なのに俺だけO型なんだ。母ちゃんが浮気したなら、何で黙ってやがる』」
「…呆れた馬鹿息子だねィ」
「『直江には口煩く勉強させる癖に、何で俺だけ放任なんだ。女だからか、自分の娘じゃないからか、それとも他に何か理由があるのか。どうして』」
「お前は、」
「『どうして、一度読んだ本を完璧に覚えてる事を教えた時は撫でてくれた癖に、それが出来ない直江ばかり』」
「やっぱ、私の子だわ」

グラスが二つ。

「『邪魔なら邪魔だって言えばイイ。必要とされてないなら必要だって言わせてやるから待ってろ、アンタ以上の医者になってやる。その為なら何でも出来る。何でもやる。他には何も要らない。何も』」
「そんな時もあったかしらねィ」
「忘れた振りをしたいなら、そう言ってくれないと俺には判らない。俺の目に、耳に、明確に写るのは常に、真実だけだ」
「あーた、本当に2歳?」
「とおのしゅん、こんど三歳」
「あざとい」

並々と注がれた麦茶の琥珀色に、窓から差し込む日差しがキラキラと。



「ったく、産まれてくるべきじゃなかったって事かねィ…」

微かに囁かれた台詞を、蝉の鳴き声が掻き消した。
















そう、俺の目に写るのは常に真実だけだった。
だから俺は間もなく見えた現実に絶望したんだ。

ああ。
大切な人に触れる罪深さは、なんと甘美なのか。

ああ。
積み上げた積み木を壊す瞬間の罪悪感は、なんと甘美なのか。



けれど無気力感だけは後から訪れる。逃げる術はない。
俺は踊り続けた。俺は歌い続けた。いつか、最果てで、誰に見せる訳でも聞かせる訳でもなく。


宇宙が誕生した瞬間、世界には時と闇が産まれた。それから間もなく炎と光が産まれた。それらは太陽となり星となり月となり、軈て紺碧の星を作った。
けれど命が産まれた瞬間の奇跡は、誰が見届けていたのだろう。



あれこそは神の導き。
あれこそは虚無から誕生した奇跡。
あれこそは時空の産み出した子供。



ああ。
虚無の奇跡よ、時空の奇跡よ、地球の始まりの民よ。お前もまた歌うだろうか、踊るだろうか、例えばいつかの。






そうまるで、俺の様に。




















その時、あらゆる意味で奇跡は起きた。
帝王院学園で最も目立つ建物、本来は生徒が学ぶ校舎であるが、催事期間中は巨大なオブジェと化しているティアーズキャノン一階部分が、事件現場だ。いや、奇跡が起きた現場である。

巨大過ぎる中央塔を囲む様に、倉庫的な役割の建物も含め五つの建築物が並んでいる。それらは中央塔を頂点に、直径600メートル強の緩やかな丘の下に建っていた。
中央塔一階のエントランスゲートへ続くヴァルゴ庭園最北端の階段は、通常は生徒しか使わないものだ。それも、極めて排他的ではあるが、大半はSクラスバッジを所有する進学科専用とも言えるだろう。活動範囲が中央塔に凝縮されているSクラスの生徒は、基本的に離宮には用がない。
反して、Sクラスと通信教育を用いているFクラスを除くAクラス以下の生徒らは、式典などで講堂を利用する場合以外の通常カリキュラムでは、それぞれ離宮にクラスを振り分けられている。
なので、無駄になだらかで長い階段を上り詰め、中央塔の正面玄関に設えてある改札口を抜けるより、それぞれのクラスがある離宮の玄関から入っていく方が早いからだ。

「で、俺は一応来賓になるんじゃないのか?そりゃ息子が世話になってる理事会のお歴々に対して道案内しろだとか歓待しろだとか、そんな大層な事を言うつもりはありませんよ、ええ、ありませんとも。保護者なんてものは高い入学金と授業料をぼられ続けるだけの立場ですから、ええ」
「ぼられるとは、また、酷い言い様だね」

式典中ともなると、帝王院学園の生徒らが校舎に立ち寄る理由はほぼなかった。
式典中であれ自習に余念がない進学科の生徒であれば例外だろうが、先の理由で中央塔周辺に生徒らの姿はない。
今朝から中央塔の北側、正面玄関からは真裏から雑木林に掛けてのエリアがブルーシートで覆われている以外は、観光代わりに保護者や来賓が幾らか見られたが、それも初日程の賑わいではなかった。

「わざわざ理事長さんまで来て下さったから、やっぱ俺って有名なんかなぁ、そりゃまぁ国民栄誉賞がそろそろ視野に入ってきた所だし、でもまだヌード写真集は出してないけどなぁ、とか思いましたけど。どうも、俺を出迎えてくれた訳ではなさそうだ」
「ああ、成程。連絡もなく気紛れでやって来た癖に、歓迎されていない事に腹を立てているのかね。相変わらず、子供の様な事を言う男なのだよ」

時間的に漸く朝食には遅い程度の時間帯である。
つまりキャノン玄関前の芝生が敷き詰められた校庭で、今現在悪目立ちしている自覚があったのは、極道の癖に疲れた表情の高坂向日葵を於いて他にはいなかった。どうにか逃げ出したい気分の組長は、然し蛇に睨まれた蛙同然で踏み留まり続けている。

「あ、理事長さんが校舎に入っていきますよ、藤倉さん。イメージ通り随分浮世離れしてる方ですね、顔がCG臭いと言うかこの世のものではないと言うか、年齢詐称じゃねぇのか、どう見ても俺より一回りは若く見えるっつーのと言うか」
「君が喋る度に高坂君の顔色が悪くなっていくのだよ、省吾。どうも機嫌が悪い様だ」

高坂より幾らか年上だと言う世界的指揮者は、世界的阿呆の間違いではないだろうか。何故笑いながら、世界の覇者たる元男爵の右腕と謳われた男を睨めるのか。ペラペラと良く回る口もそうだ、無邪気な笑顔で毒性が強すぎる。
胃薬は何処にあるのか。

「そりゃ、悪くもなりますよ。馬鹿息子が高校に上がるなり進学科の選定から漏れて、久し振りにメールして来たと思ったら、『これから学費宜しく』の一言」
「授業料免除はSクラス生徒だけの特典だからね。心配せずとも良いのだよ、私にはメールすら届かなかった。君の息子の方が律儀じゃないか」
「裕也君まで降格とか言う奴になるとは。死んだ親父の話じゃ、やれば出来すぎる子だって聞いてましたよ。まぁ、うちの健吾はやらなくてもそれなり以上に何でも出来ましたけどね、ええ。何せ俺の子は天才ですから」
「君の親馬鹿さはいっそ清々しいのだよ。望む歓待が出来るかどうかは約束出来ないが、お茶を淹れるくらいは私でも出来る。立ち話も何だ、ついてきなさい」

高坂は天を仰いだ。
とうとう、魔王とまで謳われた男に茶を淹れさせる約束を取りつけた男が、高坂を見やりグッと親指を立てたからだ。何もグッではない。何がグッドなのか。バッドだ、全てが。

「おいおい、向日葵ちゃんよ、何だその面はよぃ。俺の茶が飲めねぇっつーのか、おう?」
「省吾、また父親の形見のVシネマビデオを観たのかね?マフィアの様な真似をするものではないよ。そろそろVHSから卒業しろと言っただろうに」
「だってカミューさん家にはビデオデッキしかないじゃないか。ドイツに戻る度に使わせて貰ってて何ですけど、置きっぱなしのカセットだって手入れしないと痛む一方ですよ?」
「ラルフ=フリードの屋敷から押収したものだから、少なくとも30年以上経過しているのだよ。涼女が映っているテープの映像は全てブルーレイに移し終えているから、心配は要らない」

成程、確かに二人は親友と呼べる程には親しいらしい。
それを知ったからと言って、すたすたと芝生を踏んで改札口を通り過ぎていった理事長の後を追う気にも、親しげに会話している高野と藤倉の間に割り込む気にも、日本最大マフィアのボスはなれなかった。

「おっと、何ボーッとしてんだ、向日葵ちゃんよ。そんなんだから拉致られて殺されそうになんだべ?」
「拉致?」
「そ。来た時からキナ臭いと思ってたけど、キナ臭い通り越してこの学園やべぇ気配しかしねぇっしょ」
「ほう」

高坂の在学していた頃とはまるで違う造りの改札口の前、ゲートの向こう側で日差しを避ける様に佇んでいた金髪がダークサファイアを細めて囁く。

「そなたは面白い事を言う男だ」
「理事長こそ、どっから見ても日本人じゃないのに面白い喋り方ですよね」

数歩で改札口を通り過ぎようとしていた二人の背と、外の明るさとは比較して数段暗い所に佇む男を見るともなく見つめていた高坂の背後が、何やら騒がしい。
そう思った高坂が正面玄関から出てきた生徒らに眉を跳ねるより早く、正面玄関とは反対側、それこそ余程の暇人でもなければ使わないだろう階段を上ってきた人間らが、口を開いた。

これこそが、先に述べた『奇跡』の瞬間である。

「アンタらちゃっちゃとするんだわ、ちゃっちゃと…あん?」
「うん?」

奇跡を端的に説明すると、『サドとサドのサバト』だ。
世界的指揮者と太陽系最悪的魔女の、夢も希望もない初対面である。

「あら、良い男だわね」

先に口を開いたのは、我らが帝王院学園左席委員会がそろそろ神と崇めるかも知れない平凡副会長、山田太陽をこの世に産み落とした魔女だった。ワラショクで最も偉く最もドSだと言えるだろう、あの山田大空を小尻で敷いている山田陽子の魔女たる最大の要素は、凶器じみた胸だ。
なまじ体が細いだけに、Fカップの乳が地震を起こしている。生粋のゲイでもなければ、男たるもの易々とは抗えまい。

「それ俺の事?そっちも良い女だ」
「胸を凝視したまんま言われても信用出来ないんだわ、下手くそナンパ師」
「うひゃ、きっつい台詞。きっついのはあっちの締まり具合だけにしとけってな」
「は。自分が粗末なだけでしょ、みっともないんだわ男の責任転嫁」

火花だ。
誰の目にも、ばちばちと飛び散る火花が見えた。爆風に巻き込まれそうだ。
何故初対面でそんなに険悪なムードなのだと、完全に巻き込まれつつある極道は眉を潜めた。

「最近の日本の女は、あの程度でも自分に自信があるんだなぁ。乳の張りなら俺の佳子も負けてないっつーの、なぁ向日葵ちゃん?」
「…お前の嫁の事なんざ俺が知るか、んなもん脂肪の塊だろうが。手に収まる程度で充分だ」

一体何がどう連鎖したらこんな事になるのか、日頃従順な組員と妻に囲まれた大黒柱の中の大黒柱は、低温の笑顔で顎を撫でている高野に目を向ける。
元来ゲイよりの高坂にとって、惹かれる異性は毎度貧乳だった。何せ初恋が日本一の鬼女、目付きと口の悪さで右に出る者はない族潰しだ。高坂がチームを作らなかった最たる理由は、喧嘩で遠野俊江に勝った事がなかったからだった。勝ったら俺の嫁になれと9歳の頃から何度となく挑み続けたが、とうとう俊江が19歳で留学する事になるまで、一度として勝てなかったのである。

最後の勝負の時には、『これで諦めなかったらコンクリ詰めにして粉々に砕くぞ』と吐き捨てられ、俊江なら絶対にヤると怯えた高坂はそこで諦めた。ヤクザでも命は惜しい。

「日本人の男を一言で言うと、神経質で粘着質で執着強い癖に強がって、みみっちい事で変に悩んで身動き取れなくなる典型的な駄目男なんだわ」
「奥様、どうして小林の脇腹を殴りながら仰るんですか?」
「奥様、残念ですが守義さんは神経質に見えるだけで、実は自分に被害が及ばない事には無関心な典型的なA型なので、みみっちい事で悩んでも身動きが取れなくなる事はありません。寧ろ適度なストレスは糧にすると一ノ瀬は思います、A型とはそう言う強さがある。まるで奥様の様に」

いやに存在感のある集団の中央、女王じみた風格を漂わせる小柄な女の張り裂けそうな胸元を認め痙き攣った高坂は、一瞬目を逸らして顔を上げた。

「あ?山田のかみさん?」
「あら?あらあら、そっちのフェロモンむんむんな男前は………誰だっけ?やばいんだわコバ、シーザーに魂抜かれた所為であの程度の男前は名前すら覚えてないんだわ」
「いけません奥様、奥様がいやらしい目で見つめた所為で逃がしてしまった三年Eクラス平田洋二の証言が本当であれば、そのカルマと言う不良達のトップは陛下のご子息です。社長に飽きたからと言って未成年に乗り換えるのはいけません」
「そうですよ奥様、天の君と言えば太陽坊っちゃんのご友人でもあるんです。一ノ瀬は太陽坊っちゃんのしょっぱいお顔は見たくありません、坊っちゃんはやはり笑顔がお似合いでいらっしゃる。我が社のCMソングをお忘れですか?」
「はー。どいつもこいつも私とシーザーの仲を引き裂こうたって、そうは問屋が卸さ、」
「陽子ちゃーん」

山田太陽そっくりな猫の様な瞳を瞬かせた魔女は、たわわな胸を震わせる。誰もがその声の発生源を見上げているが、魔女だけは小指で耳をほじり、ほじった指にフッと息を吹き掛け、頑なに上を見ない。

「陽子ぉおおお!おーい、僕だよ僕、君の旦那様だよ陽子ちゃーん!上だよ上、ほら見上げてごらん、君だけの僕が見えるだろう?!」
「さてと、夕陽は生徒会があるとか何とかで皆の所に行っちゃった事だし、私達は引き続きシーザーを探すんだわ。ついでにコバと常務をあんな目に遭わせたコバ2号をとっちめて、好みだったら犯す」
「ちょ、陽子?!何で無視するんだい陽子ちゃん、山田陽子ちゃん!僕のお嫁さんや!お前さんには血も涙もないのかい、どうして僕を無視するんだい陽子っ!まさか、僕と言うものがありながら浮気するつもりじゃないだろうね?!」
「喧しゃあ!先にあれもこれも手ぇ出して、挙げ句の果てに問い詰めれば『他人とのセックスはサウナみたいなもん』なんてほざいたのは誰なんだって話なんだわ!」

魔女は吠えた。
その余りの勢いに、亡き妻を思い出したらしい男はエメラルドの瞳を丸めて思わず手を叩き、ニヤニヤと笑みを浮かべて顎へ手を当てた愉快主義者は、叫びすぎて肩で息をしている山田陽子を眺める。

「あんな素敵な旦那がいる様には見えなかったよ、人は見掛けによらないって奴か。侮ってごめんな、ヨーコちゃん」
「アンタみたいな外面が良くて中身がない男が一番嫌いなんだわ、誰が何言っても響かない唐変木!」
「あ、傷ついた。名誉毀損だ、弁護士立てよう」
「アンタ知ってるわよ、市民栄誉賞だか紫綬褒章だか貰ってペランペランな愛想笑い張り付けてた指揮者!アンタみたいな女を泣かす男は天罰が与えられるんだわ、覚悟なさいよタカノショーゴ!」
「誰がタカノだと?!知識がペランペランなのはどっちだ馬鹿女、俺は高野省吾だ馬ぁ鹿!」

成程、至上最低レベルの罵り合いもあったものだ。
顔を覆った高坂は己の事の様に頬を赤らめ、笑顔が止まらないドイツ人は笑顔のまま、

「素晴らしい!私は来日以来今日ほど感動した事はないのだよ、まるで在りし日の涼女がチュンチュン囀ずっているかの様だ!ああ、君は山田陽子さんと言ったかね、良ければお茶を飲んでいってくれたまえ」
「は?えっ、私今、素敵なダンディーにナンパされてる?常務、ちょっとコバの頬っぺたつねって」
「自分の頬をつねれば良いでしょうに…あたた、ちょっと薫、君は亭主の頬をちぎるつもりですか?」
「お茶…ええ、お茶ですね、判りました奥様、是非ともご馳走して頂きましょう。一ノ瀬は奥様を命に代えてもお守り致します、必ずや」

極道ですら目を見張るほど、容赦なく敵意を吹き出させたワラショク常務は真っ直ぐに、エントランスに佇む男を睨みつけている。

「おーい?小林専務やー。一ノ瀬常務やー。陽子ちゃんをこっちまで連れて来てくれないなら、僕はもう人として最低な男になっちゃうからねー?いいんだねー?止めないんだねー?あっそ、そんな態度を取っちゃうんだね?」

盛大に無視された山田大空は、校舎の遥か高い位置から数名の少年らと共ににゅにゅっと顔を尽き出したまま、滝の如く涙を迸らせたまま、ゆったりと微笑んだ。

今すぐ陽子を俺の所に連れて来い

この台詞で、がばっと魔女を抱き上げたのは、凄まじい表情で眉を寄せている指揮者だった。

「…は?何で俺、この女を抱いてんの?」
「奥様を返して下さい。釣りたての鮪より暴れる奥様は、この小林が連れていきます」
「奥様は誰のものでもありません、皆で抱えていくべきです。まずこの一ノ瀬が奥様の右足を…奥様の下着が見えたら大変だ、小林専務は左足を」
「ちっ、だったら俺は左腕かよ。…何で他人の女房なんか触らなきゃなんねぇんだ」

雲行きが怪しいにも程がある。
連行されていく宇宙人の如く四人掛かりで抱えられそうになった陽子は、蹴り蹴りっと高野以外の男らを蹴り飛ばした。パンツが見えようと一切躊躇わないのが、今時の魔女だ。

「アンタら、気安く触んないでくれる?特にそっちの男前、アンタ確かアリーの旦那だわね?ヤクザの癖に酒飲めなくて、コーヒー牛乳にガムシロップ入れて飲んでる事をネットで拡散されたくなけりゃ、近寄るんじゃないんだわ。妊娠しそう…うっぷ」
「するか!」

光の早さでつわりが訪れた陽子に対し、ドン引きした高坂は速やかに離れた。ワラショク社長の命令からいち早く抜け出せたのは、恐らく全身を鳥肌が駆け抜けたからだろう。
それに引き換え、ちらちらとこちらを窺ってきながらも、先行く理事長らの背を睨み付けている専務と常務夫婦は、険悪な雰囲気を漂わせていた。

「きな臭いの通り越して、戦争でも始まりそうな気配だな…。何なんだよ、居心地悪ぃ」
「はー。…大空を一発殴るまで我慢するんだわ。んな事より、おケイからアンタの悪行を散々聞いてんだからね、こっちは」
「おケイ?」

そろぞろと改札口を抜けていく男らの背を横目に、ちょこんと抱かれた魔女は眉をキリッと吊り上げる。崩れ掛けた化粧のまま、壮絶な笑みを浮かべているが、真っ赤な口紅を引いた唇が余りにも印象的だ。

「…羽田佳子。岐阜出身、女子校育ちのお嬢様、血液型はO型、世間知らずで負けず嫌い、今年の6月で41歳。知らないなんて抜かすんじゃないんだわ」
「抜かすかよ。…つーか、何でお前うちの佳子を知ってんだ」
「は。笑わせんじゃないっつーの、寧ろ何で知ろうとしなかったのか甚だ謎なんだわ」
「はぁ?」
「私の糞みたいな母親の名前、羽田ゆかりっての。おケイは私の母方の従姉なんだわ」

日本が世界に誇る指揮者は、珍しく真顔で硬直した。
高野は自身がSである事を自覚していたが、成程、第一印象が宜しくなかった理由は恐らく、同族嫌悪だろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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