帝王院高等学校
オーケストラに指揮者がいなけりゃ大事件
真っ暗だ。
叶二葉が運転しているバイクを見送ると、世界は再び闇に包まれた。

「私の脳を移植したのはシンだが、我が妻の脳を移植したのはオリオンだ」

傍らに居る筈のきらびやかなブロンドも、プラチナブロンドも、全ては光一つ許さない闇に溶ける。

「とんでもねぇ事を聞かせやがる。バラして良いのかよ、そりゃ」
「お前は空蝉なのだろう?」
「うつせみ…灰皇院の別名だったか?」
「カイオーインと言うのは初耳だが、家名を持たぬ草の者は等しく全てが蝉と呼ばれていると、雲隠陽炎は言った」
「雲隠陽炎…夢の中で出てきた奴が、確かそんな名前だった様な気がするが、ンな馬鹿な事があんのか…?」
「真なる神は何も語らないそうだ」

だから私は神にはなれなかったのだと、男の声が笑っている。

「指揮者とは音もなくタクトを振り、作者とは姿なく物語を紡ぐ。彼らは総じて他人を操り、決して主役ではない」
「…」
「難しいか?」
「別に、言ってる意味は判ってるつもりだ」
「脈絡がないと思うか」
「何つーか、回りくどい」
「成程。聞き慣れた賛辞だ、妻から何度となく叱られた」
「その妻っつーのは、クイーン=ナイト=メアかよ」
「今になれば言える事だが、私の人生は彼に出会う為にあったのだろう。善きも悪きも全てが、あの日、日本で妻と出会う為にあった」

情熱的な台詞ではないか。
嵯峨崎佑壱は微かに口笛を吹いたが、そんな状況ではない事は、傍らで沈黙したままの男の気配が物語っている。

「お前はルークの従弟に当たると言ったが、私の孫はお前の何に当たる?」
「それだ。アンタさっきから、総長の事を孫っつってるみてぇだな?遠野俊はオリオンの孫だ。アンタが余所の双子を養子扱いしていた事は知ってるが、だとすれば総長は孫じゃなく曾孫だろ?」
「そうか。お前は知らないのか」
「あ?」
「我が子、ハーヴェストは外から弟を迎えたそうだ。血こそ繋がってはいないが、私の義理の息子になる」

佑壱はそこで漸く、理解したのだ。
判った判ったと手を叩きたい気分だったが、何とか堪える。

「帝王院秀皇」
「そんな名だったな」
「キングがナイトの統率符を譲った。学園長の息子だろ」
「私の息子でもある」
「…キングから爵位を継承したのは帝王院秀皇じゃねぇ」
「十番目の子イクスは、私と同じくキングの銘を得られなかった。ルークの名は、ナイトが名づけたのだろう」
「そのナイトっつーのは、帝王院秀皇だな?」
「だと聞いている。と言っても、全ては私の再生に失敗した時の為のバックアップとして、オリオンが作った私を模した人工知能に蓄積されたデータだ」

白衣を着ていた。
機械の癖に、一見しただけでは人間にしか見えない男は、水の中から出てきた時に真っ白な白衣を纏っていたのを見た。少なくとも、彼が彼として起動する前の別人格が、白衣を必要とする立場にあるのは間違いない。尋ねた所で答えて貰えるのかどうか、佑壱にはまだ判らない。

「アンタの体の中に入ってるAIチップの中身?」
「そうだ。私の中には基本人格として遠野夜刀、予備として私の人格をベースとして構築したレヴィ、万一の保険として陽の王の人格が登録されていた。動く墓守と言った所だ」
「墓守…」
「オリオンは己の真の神に会った。帝王院俊秀。私はとうとう会えなかったが、彼は世界広しと言えど、唯一神の領域へ触れた我がグレアムに近い人間だったと言われている」
「何だと?」

言葉の意味を尋ねたつもりだったが、返事はなかった。やはり事は簡単ではないらしい。
二葉が『レヴィ』だと気づいたのは流石だと言うより他ないが、それは二葉が特別機動部の全権を持つ立場にあるからだ。部署の配下にあるステルシリー技術班の活動報告は、二葉の元へと届いている。

「技術班の仕業じゃねぇのは判ってるが、叶をボコボコにしてぇ気分だぜ」
「セカンドの事は良く知っている。俊がメールを送ってくれたからな」
「あ?」
「『二葉先生の尊さ星三つ』『二葉先生のお洒落眼鏡度星三つ』」

笑っているのが、空気の震動で判った。
神威とは違う意味で扱い難そうな男だと歯噛みしたい気分だが、神威より友好的なのは間違いない。今はその顔を見ようにも明かりがないので見られないが、綺麗な笑い顔なのだろう。見惚れる程に、呆れる程に。

「我が孫ながら愚かな子だが、あれほど心清らかな子もいない。いや、私の孫は皆、良い子の様だ」
「テメ、馬鹿にしてんのか!」
「いいや?エアフィールド、広い心であれと言う願いが込められている様だ」
「知った様な事をほざくんじゃねぇ。…単に親父がパイロット上がりだっただけだ、ババアは学がない」

変な気分だ。
日本で暮らしている内に忘れていた様な昔の名を、今になって誉められるとは思わなかった。佑壱と言う名前を好きだった訳ではない。ただ、出会ったばかりの頃に俊から誉められて、悪くないと思える様になっただけ。
一番のイチか、と。大した誉め言葉ではなかった。それでも、思いもよらない所からの誉め言葉は、身構えていなかっただけにストンと心に収まるものだ。

イチと呼ばれる度に、お前は俺の一番だと言われている様に思えた。誇らしかったし、擽ったい気持ちにもなったと思う。
だから手紙一枚で俊が居なくなった日から始業式典までの数ヶ月は、生きた心地がしなかった。親をなくした子供の気分だ。無意識に名前を呼んでしまう。そこには誰も居ないのに、何度も。何度も。

馬鹿の一つ覚えの如く、総長・と。
呼ぶ度に返事がない事を知って、髪を掻き毟った。それこそ繰り返し、何度も。

「ヨーロピアンの名で続いてきた我が家には、新しい響きの良い名だ」
「褒めてんのかよ」
「後継者を除く、我が家の弟妹は長兄の名から頭文字を頂いてきた。我が兄の名はリヒト=ユイット。二番目の兄はリヒャルト、姉なリファエラ。兄の名は、父であられたキング=ノア、ナハトから名づけられたと聞いている」

声が聞こえてこなければ、一人ぼっちだと錯覚しそうだ。と、嵯峨崎佑壱は、肌寒さに震える二の腕を密かにさすり、耳を澄ませた。体臭を感じない人間などいない。
香水やコロン、柔軟剤などで誤魔化す人間は幾らでも存在するが、無臭なのは無機物だけだ。隣の高坂日向も今は濡れているからか匂いが感じられないが、いつもは親衛隊の誰かの匂いがこびりついている。そうでない時は、執務室に置かれている花の匂いが染み着いているか、二葉が纏う白檀の香りか。どちらにせよ、佑壱はその匂いが好きではなかった。まだ煙草の匂いをさせている方がマシだと思うほどには。

「ナハトっつーのは『夜』の事だろ。グレアムはフランスが起源らしいな」
「そうだ。お前は私の娘の子だと言うが、生憎、生前に娘が産まれた覚えがない。名は何と言う?」
「クリスティーナ。…イブ01、キリストの女体が成長した場合は、そう名乗るって事になってたらしい」
「ならばアダムも」
「居たらしいが、会った事はねぇ。つーか、俺がまだ大陸に居た頃は、伯父上に会うのにもアポイントを取って、何枚もの書類にサインをさせられた。生きてる男爵に会う時ですらそれなのに、生きてる事を知られちゃいけねぇシンフォニア兄妹に易々会えると思うのか?」
「確かにその通りだ。それにしても、私の会社はいつからそんなに面倒なシステムへと変わったのか」
「面倒?」
「兄上は気軽に市民とお会いになられた。父上もそうだと聞いている。惜しくも、私が産まれて間もなく亡くなった両親と義母の記憶は少ないが、会話をするのに面倒な手続きなど必要なかったのは覚えている」

本当にこれは、自分の祖父なのだろうか。
佑壱が知るアンドロイドは、人間の言葉に対して応える事はあっても、己の身の上を語る事などない。例えばモデルとなったオリジナルの記憶をアーカイブに登録していたとしても、尋ねれば教えてくれるだろうが、懐かしむ様に語る事などあろう筈がなかった。知能が発達しているのだろうかと考えたが、答えはない。

「それにしても、獅子十字軍の子孫に出会うとは、縁が深い」
「高坂の事かよ?」
「三番目の妻がヴィーゼンバーグの二番目の娘だった」
「…マチルダ」

山田太陽を真っ先に外へと連れ出した二葉が浮遊していって、暫く沈黙していた日向が漸く口を開いた。居るのは判っていたが、何となくビクッと肩を跳ねた佑壱は、自分のすぐ隣へ目を向ける。とは言え、何も見えはしない。

「懐かしい名を聞いた。プライドの高い女だったか。余程アメリカへ送られた事が嫌だったのだろう。初夜の時は形式的に触れはしたが、残念ながら妊娠する事はなかった。それまでの二度の離婚で夫婦生活に嫌気が差していた私と、爵位で劣るグレアムに服従する事を善しとしなかった彼女との間で、体外受精の話が纏まるのは早かった様に思う」
「体外受精?」
「三度目に漸く、ナインの受精卵の子宮定着に成功した。出産を経て、成長が軌道に乗った事を社員の皆が祝福したが、マチルダだけは違ったらしい。ナインを産めば自由になれると思っていた様だが、無事出産を果たした後も、ステルスが彼女を手放す事はなかった」
「あ?何で?」
「上手く行くとは限らねぇからだろう。俺様だって同じ立場ならそうする、今まで…つまり8人も失敗してきて、9人目が産まれただけで喜ぶのは、幾ら何でも早計だ。テメェみてぇな単純馬鹿には判らねぇだろうがな、嵯峨崎」

日向の台詞は、成程尤もだ。
だが然し、そこまで馬鹿にする必要があるのだろうか。何となく頬を膨らませた佑壱は、然しいつもの様に怒鳴りはしなかった。頭の中で、蜂蜜の如く甘ったるい笑みを浮かべた愛らしい日向が色濃く焼きついていたからだ。

「その通り、技術班はナインの経過報告を取りまとめると同時に、一人では心許ないと言い出した。元老院に異論がないとなれば、閣議決定は目に見えている」
「マチルダが新しい子供を産なきゃならねぇって事かよ」
「そうなるな。然し、彼女は頑なに拒絶した。妊娠によって体格が変わってしまった事も、出産による激痛も、彼女のプライドを悉く刺激する要因だったのだと思う」
「当然、素直に産みゃしねぇ」
「寝室に閉じ籠り、出てこなくなってしまった。技術班は元老院に掛け合ったが、元老院の方がメアには相応しくないと言い出した。事実上、彼女をイギリスへ帰すより他ないと言う事だ」
「で、帰した?でも確か、アンタの三番目の離婚は伯父上が三歳の頃だった筈だ。三年も我慢したって事は、二度目の妊娠を試してからじゃねぇのかよ?」

佑壱が知っているグレアムの史実は、昔から知っていた訳ではない。
9歳で爵位を継いだ従兄が、何を考えたのか、対外実働部部長に佑壱を指名してからの話だ。当然ながら話を蹴るつもりだった佑壱は、元老院に二葉の対抗馬となれと日毎説得され、最終的に学生の間は嶺一が佑壱の代理を努めると言う事で、一応は解決したと言う事になる。
キング時代の最後の対外実働部部長が嶺一だった事もあるが、ルーク=フェインの名にノアを刻んだ男爵自ら、クリスティーナを解放すると言い出した事が決め手だった。
元老院としても、隠しておかねばならなかったグレアムの負の遺産を手放すのは反対だった様だが、男爵が直接発言してしまえばどうする事も出来ない。会長の発言は社の総意でなければならないと言う、取り決めがあるからだ。

神威が円卓の総意なく発言してした事は様々な賛否両論を産んだが、最終的に『絶対律』である、唯一神の威光のまま遂行する事になる。クリスティーナを手放し、クライストを解任してしまえば、ステルシリーが二人を今後も監視し続ける事は、事実上不可能になった。
嵯峨崎財閥の拠点である日本は、ステルシリーにとっては聖地だ。クリスティーナが日本へ逃げてしまえば、それ以上手が出せない。

キングはノヴァとなってすぐに、日本へと旅立った。
それから十年弱、一度としてアメリカの地へは戻っていない。

「当時、社の成長に重きを置いていた私が、長期に渡り国を離れる事が多かっただけだ。各国では戦争の火種となった争いが勃発していた頃であり、優秀な人材を無駄に死なせる訳にはいかないと奮起した私は、国内外に留まらず宇宙にも目を向けていた」
「マジかよ」
「戦闘機が作れるのであれば、ロケットなど容易い。戦争の混乱に乗じて衛星の試作機を打ち上げ、実用段階に運んだ事もある。戦後ロケットブームが起きたのは、我が社が提唱したからだ」
「マジか!」
「信じるも信じないもお前次第と言う事だ。エアフィールド」
「く…っ!高坂高坂、本当かよ?」
「俺様が知るか」
「ベルハーツはエアフィールドが嫌いなのか?」

素っ気ない日向の横顔が、佑壱に見えた。太陽と二葉を下ろしたバイクが、ふよふよと自動操縦で戻ってきたのだ。
けれど祖父を名乗る男の一言で目を丸めた佑壱は、ぷくっと頬を膨らませようとして破顔する。思いもしなかった事を言われたとばかりに、ポカンと琥珀色の瞳を丸めている日向と目があったからだ。

「知り合って間もない孫を評価出来るほど理解してはいないが、エアフィールドはミラージュより愛らしい性分である事は、間違いない」
「だからミラージュっつーのは誰だっつってんだろうが。誰が蜃気楼だ、俺は立派に実物だコラァ」
「…どうだ、愛らしかろう?」

的外れな所で突っ込む佑壱を横目に、ダークサファイアの眼差しを細めた銀髪の美丈夫は笑う。神威そっくりな面構えで微笑まれる度にグッと息を詰めてしまうオカンは、半裸の体を日向の後ろへ滑り込ませた。
一方、瞬きを忘れている日向は沈黙を守ったまま、ふらりと俊の元まで歩くと、抱えた俊を無人のバイクの荷台に乗せる。

「…嵯峨崎」
「何」
「お前、コイツの操縦は?」
「ファントムウィングなら出来るが、それが?」
「残念だが、俺様は出来ん。普通のバイクとシャドウウィングには乗った経験があるが、先に俊を運んでくれ」
「逆にシャドウウィングの運転が出来る意味が判らん。あっちのが難しいだろうが、どう考えても」
「それなら私が運ぼう」

しれっと挙手した銀髪の台詞に、日向は眉を潜め、佑壱は瞬いた。自分の瞳と全く同じ色合いなのに、佑壱の目尻が切れ上がった眼差しとは印象が異なる優しげな双眸は、笑むと殊更甘い。

「お前達は後から上がってきなさい。血は限りなく薄いとは言え、親類同士が啀み合うものではない」
「おい?!」
「テメェ、勝手な事を…!」
「子供は素直に大人の言う事を聞くものだ。上がってくるまでに仲良くなっていなかったら、おじさんは許さないぞ」

何とも奇妙な台詞を笑顔で宣った神威そっくりな男は、しゅばっとバイクに股がり、目にも止まらない早さで旋回していった。

「ちょ、危な…っ」
「テメェの暴走運転は、祖父譲りか」

佑壱と日向が止める間もなく恐ろしいスピードで消えた漆黒のバイクは、ドカドカと何処かにぶつかる音を残し、光と共に遠ざかる。
俊の命が心配だが、心配するだけ無駄だろうか。



奴が死ぬのはいつも、大抵ホモ絡みだけだ。
























真っ暗だ。
闇が延々と続いている。
不思議と恐怖はない。右も左も、天も地もない漆黒をひたすら走り続けた。

「俺は緋の元に産まれた命だけど、今は反転して、死から産まれた負の遺産」

パズルだ。
広大で壮大で膨大な数のピースを、ひたすらはめていた。時間は幾らでもある。いや、或いはもしかしたら、時間と言う概念すら此処にはないのかもしれない。
精神世界とは一種の夢の様なものだと、山田太陽は走りながら考えた。夢の中でも走れば息が上がるのは、海馬に蓄積された瞬間記憶が体に定着しているからだろう。

「はぁ。イチ先輩と高坂先輩は命を産み出す緋だったけど、反転してるって事は、死を招く緋になったってコト?ふ、はぁ、ふふ、あはは!ちっとも判んないや、はぁ、二葉先輩は俺の対だから、命から産まれた影だった。でも、今はきっと、死から産まれた光になってるってコト…」

走る。
本当に真っ直ぐ走っているのだろか。
良く考えたら判る筈だった。どうして灰皇院でもない錦織要や川南北緯、加賀城獅楼まで呑み込まれていたのか。答えを紐解く理由は、この辺りにある筈だ。

「やっぱ判んない。俺だけじゃ判りっこないやい、降格圏内舐めんな。こんな時だけ頼りになる神崎か、そうだ、錦織君だったら冷静に考えてくれそうだもん。他にも誰か来てる筈だし、出来れば高野がいないかなー。藤倉君は良く判んないもんなー」

走る。
走る。
言わば本能だ。目的はあるけれど確証はない、そんな訳の判らない状況でただただ走り続ける。人間は誰もがそんなものだ。生きながらに、あってない様な産まれた意味を探しながら死んでいく。遠い遠い祖先も、遠い遠い子孫も、自分も。

「目に見えるものが欲しい。俺が作ったステータスゲージとか、良かったよねー。神崎はサバイバー、錦織君は富豪だし、笑っちゃったなー。あんな風に、プレイヤーを導いてくれるヒントがないと、ゲームは進まないよ」

目的地は親友の源。消え去った遠野俊が封じられている、この世ではない何処か。
走れ、探せ、例え肺が潰れても。走れ、走れ、命がある限り逆らい続けろ。明けない夜はないのだと、人間の誰かが言ったではないか。何年、何十年、何億光年も繰り返し夜と朝はやって来たのだ。だから人間は目覚める事を知っていて、眠りに落ちる。

「俊」

答えはいつも、彼だけが知っていたのではないか。
何も教えてくれないと言ったが、もしかしたらずっと、何かを教えようとしていたのではないか。

『タイヨー』
『タイヨーちゃん』
『ご主人公様ァ!』

思い出せ。
ああ、走りながら思い出せる記憶など限られている。それでも、思い出せ。忘れた記憶を掻き集めろ。それ以外に縋れるものは何もない。


『訳あり主人公は、大体不良チームの幹部なんですょ』

太陽は体と共に頭を働かせたが、永遠とも思える静寂に精神が呑み込まれそうになった瞬間、とん・と。
左側の胸元を、何かに優しく叩かれたのだ。

「え」
「何処へ征く」

囁く声が、上から聞こえる。
太陽の頭よりずっと上、懐かしい感じがするのは恐らく、二葉と同じくらいの高さから声が落ちてきたからだ。先程出逢った帝王院雲雀は、太陽よりずっと小柄な人だったから、尚更。

「これから先は魂の還る場所だ」

静かな。余りにも静かな声音だった。

「…俊?」
「違う」

墨で塗り潰した様な永遠の黒の中に、それは確かに存在している。
声は聞き慣れた男のものだ。違和感があるとすれば、落ち着きが全くない親友の声音とは違って、明らかに大人の男の落ち着きを感じさせる様な気がする事だけ。

「空は絶望し雨を降らせ、竜は堕落し蛇へと姿を変えた」
「へ?あ、えっと、うん。緋が反転して、負になった」
「人は絶望の水害に呑まれて尚、希望を捨ててはいない」
「ノア」
「今、何だ?」

唐突な謎なぞに太陽は首を傾げる。俊の声に似ているのに、確かに俊ではないらしい。謎なぞも疑問だが、疑問だらけだ。

「ノア…ノワール、黒は今、…白くなってるってコト?」
「BK灰皇院」
「違う、それは神帝が偽ってたんだ」
「ブラックナイト」
「は?」
「Black knight Kaiouin.この名は、帝王院秀皇が飼っていた犬の名前。赤い首輪に刻まれた名は、『秀隆』」
「ワン!」
「わっ」

犬が鳴いた。
居るとは思わず跳び跳ねた太陽は辺りを見回したが、黒一色の世界には光などない。つまりは色も形も、存在を現す全てが存在出来ないと言う事だ。

「お前は在りし日、絶望を覚えた。灰色の世界はお前の魂を汚し、闇を招いただろう。陽の王でありながら国を捨て、お前は一匹の猫を抱いて倫理を踏み外した」
「二葉先輩が死んだから」
「二度目だ」
「うん」
「お前の執着を俺は無へと還した。それがどう言う意味か、判るか」
「どう言う意味かって?」
「お前は執着しない。お前の言う『愛』など、何処にも存在しない」
「そんな事ない!」

ふさふさした何かが、膝の辺りを擽っている。
売り言葉に買い言葉宜しく、俊にそっくりな、けれど明らかに俊が言いそうにない台詞を宣う男へと怒鳴り返せば、笑う気配がした。気の所為かも知れないけれど。

「だったら、賭けるか」
「賭け?」
「懐かしいだろう。俺はあの日、お前に提案した」
「あの日…」
「お前が『王子様』になれるのであれば、お前が望むハッピーエンドを。条件を満たせない場合は、定められたままのハッピーエンドを。俺は全てに関与し、全てを傍観している。俺には全てが同じだったからだ。何故ならば俺は、主人公でもエキストラでもない」
「お前さん、は」
「作者を振り回すのはいつも、『主人公』だけ。お前は遠野俊が願った様な主人公には、とうとうなれなかったんだ灰皇院太陽」
「お前さん、誰なんだい」
「遠野俊は言った。チミは誰だと。お前は答えた。山田太陽であると。その日から、俺の糸を離れた人形はお前を主人公にしようと考えた。俺の様に作者になったつもりだったのか、否か」
「っ。俊を馬鹿にするなら、許さないよ!」

ああ。
泣けてきた。

「俊は俺を主人公にして、俺を幸せにしようとしてくれたってことだろ!俺が俊の期待に応えられなかったからこうなってるって!判った、自業自得だって言いたいんだな!」

何も知らなかったから、知っていたならもっと、もっと俊の言っていた全ての台詞をもっと必死に、大切に聞いたのに。
巫山戯けている様にしか思えなかった、あの儚いほど短い日々の全てが自分の為にあったなら、何度でも謝るからもう一度、今度は何倍も大切に噛み締めて、日々を過ごそうと思えるのに。

「悔いは過ぎ去りし日に覚えるものだ。だから人は『後悔』と言う」
「俺が主人公じゃないのは、知ってる。でも俊は主人公だったんだろ?!主人公は、」
「遠野舜」
「え?」
「松原瑪瑙」
「えっ?!」
「森崎善弥」
「は?!」
「俺の糸を幾ら解こうと、如何に抗おうと、輪廻が変わる事はない。俺は全ての物語の結末を知っている。初めから、全てを」

知らない人間の名前が出てきた。
最初の一人以外は、聞いた事もない。何が言いたいのか、何を知らせたいのか、太陽には判らなかった。少しも。ああそれでも、見えない男の声は親友のものに良く似ている。

「定められた輪廻は変わらない。けれど一時的に輪廻を止める事が出来る。歯車だ。噛み合った歯車を止めるには、他の歯車が接触するしかない」
「歯車」
「輪廻には輪廻を。主役には主役を。それ以外の例外は、存在しない」

こんな時でさえ本気で怒れない程に、馬鹿みたいに優しかった男にそっくりなのだ。

「作者を困らせるのはいつも、主人公だけだ。作者は主人公の我儘に振り回されるばかり、ねだられるまま筆を走らせてしまう。けれど結末は変わらない。物語とは常に、結末から産まれるものだ」
「…今の人達は、主人公だってこと?」
「俺の掛けた魔法を消せるのは、彼らだけ」

太陽は、足元を見た。
手を伸ばすと、さらりとした毛並みが触れる。すりすりと擦り寄ってくる犬の温かさに、また、泣けてきた。涙腺が崩壊している。興奮したからだろうか。
自分が嘲笑われるなら幾らでも耐えられる。けれど、やっと出来た友達を馬鹿にされるのは耐えられなかった。理由などない。幾ら困った親友だろうと、どんな人間だろうと、彼は太陽が認めた親友だったのだ。

「俊は、お前さんの魔法を解こうとしてるのか…。やっと判った、遅すぎるくらいだけど」
「物語には常に主役は一人しか存在しない。けれど物語が変われば、それまでの主役はエキストラと化すだろう。この物語の主人公は、お前の言う通り『遠野俊』だった」
「だった、って」
「最早、結末は見えている。お前もイチも俺に願ってしまった。主人公でもないのに、俺と取引をした。あの日。世界と共に蝉が大雨に叩きつけられた、夏の黄昏に」
「やっぱりお前さん、は…」
「俺はシン」
「シン?」
「帝王院神」
「みかどいん、しん」

闇の中、深紅の文字が現れた。
真っ赤なスペルはさらさらと文字を描く。まるで、レッドスクリプト。

「シーザーは、お前さんなのかい」
「違うな。俺は産み落ちる前に舞台から降りている」
「何で?」
「産まれてきてはいけないと、受精卵の状態で取り出された。そうして幾つかの時を越え、保存していた受精卵は母の腹へと戻される。その時、既に帝王院神は死んだ」
「え?」
「誕生を祝福されない弟より、祝福された『他人』の方が、あの人が喜ぶと思ったからだ」
「あの人…?」
「俺は彼を守る騎士として、ポーンを産み出した。ポーンにキャスリングは許されない。与えられた権限は一度きり、プロモーションでどの駒を選ぶかは、そのポーン次第だと言う事だ」

それが俊の事であるのであれば、一介の『兵士』でしかなかった俊は、何を選んだのか。

「だったら俊は、」
「ポーンはもう居ない。プロモーションは果たされた」
「俊は何になったの?」
「カルマだ。彼らの願いを叶えた『俺』は、最早ポーンに非ず」
「それってシーザーの事…って、まさか?」
「変化は一度きりだ。俺の定めたシナリオを歪め、空蝉の輪廻で踊ったポーンは、己を『皇帝』だと錯覚した。チェス盤の上に、王は二つ以上存在出来ない」
「だったら俊は、失敗したってコトじゃないか!それなら俊は、どうなってしまったんだい?!」
「変化したポーンは二度と戻らない。壊れた楽器は戻らない。足掻くのであれば時を戻すより他ないと、それは愚かな考えだ」

ああ。
声が、遠ざかる。膝に擦り寄っていた犬の気配もない。

太陽は無意識で手を伸ばしたが、その手が何かを掴む事はなかった。



「俺は狂った物語の結末を静観するだけ。何故ならば俺は、虚無へと還った魂だ」

ただただ太陽の手は宙を掻く。
張り裂けんばかりに叫んだつもりだった声も、真空に等しい無の果てでは、少しも響かなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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