帝王院高等学校
お日様にお膝と来れば永遠のネンネです
隠し事は誰にでもある筈だ。
例えば今は頑なに実直であろうと努力していても、過去に犯した過ちをひた隠しにしているのなら、その素直さは罪滅ぼしの現れなのかも知れない。

自分を許せないのは他でもない自分なのだ。
いつだって、抱いた苛立ちの原因が他人ではなく自分にあるならば、平穏がやって来る事はない。荒んでいく精神の根本から塗り替える事など不可能だ。



死ねば許されるなど、どうしてそんな甘い考えを拭い去れない?



「っ、待てと言ってるだろうが…!」

逃げる背中を追う内に、視界を埋め尽くす緑の色が僅かながら変化している事には、気づいていた。足が縺れそうになるほど走っているのに、追い掛けている背中との距離は全く縮まらない。

まるで誘導されているかの様に思えた。
まるで遊ばれているかの様に思えた。
その度に苛立ちは蓄積されていくのだ。つまりは、自分の所為で。他の誰の所為でもないなら、八つ当たりなど出来る筈もない。

火が消えた焚き火の後の消し炭が見えるのと同時に、そこにあった筈のものがなくなっている事にも、気づくまでに時間は懸からなかったのだ。

「此処はさっきの休憩地じゃねぇか。…縛りつけておいた片腕の男と、大蛙が居ねぇ」
「…人を」
「あ?」

隼人が組んだ小枝の薪は、とうに燃え尽きて灰に変わっている。
追い掛けてきた小さな背中はそこで立ち止まったまま、再び走り出す気配はなかった。震える小さな呟きだけが、振り向きもしない子供の姿の自分から、密やかに。

「いつも誰かを犠牲にして生きてる奴と、片腕の奴と、ぬめぬめして気持ち悪いカエルと、どれがマシだろ…」
「…」
「誰もいない所に行きたいだけなのに。誰かの迷惑にならないように、生きたいだけなのに」

振り向くな・と。
此処まで追い掛けてきた癖に、錦織要は強く願った。


「僕は生きているだけで、誰かを不幸にしてしまう」

見たくなかったからだ。
忘れた筈の過去を振り返りたくなかったからだ。
ただ、自分以外の誰かに知られたくなかった。自分が抱き続けている弱さとも言える本音を、自分こそ認めていない己の弱さを。

「…どうして追っ掛けてきたの?僕が邪魔だから?」
「消えてしまえば良い。消滅しろ、今すぐに」
「自分にすら否定されたら僕は、誰に受け入れて貰えるの…」
「俺はお前を認めない。俺を認める人間なんか存在しない、判りきった事をわざわざ宣うな、穢らわしい」

カルマの誰かに知られた時は生きてはいけないとすら思っていて、だから。

「生きてて良いって、お父さんは言ってくれたよ…」
「総長は優しいからだ。俺が隠してきた罪を知れば、許しては貰えない」
「お母さんを死なせてしまったから…?」
「…俺の所為じゃない。あの女は自業自得だ」
「ケンちゃんなんか死んじゃえって思ったから…?」
「っ」
「僕がたった一つ褒めて貰えたピアノが、笑ってた。ケンちゃんに弾いて貰って嬉しいって、音が喜んでた」
「黙れ…!」

見つめてくるのだ。幼い自分が、容赦なく。
生気のない淀んだ黒い瞳が真っ直ぐ、見つめてくる。罪を裁く様に。誰にも見せなかった腹の内の罪深さを明らかにする為に。

「羨ましくて、妬ましくて、ケンちゃんなんか居なくなってしまえば良いって思ったりしたから…」
「黙れと言っているのがっ、」
「その程度で人が死ぬ訳あっか、バーカw(・3・)」

背後から聞こえてした忍び笑いに、要は息を呑んだ。
振り向く勇気はない。体が勝手に震えている理由は、見られたくない相手に見られてしまったからだ。

「死ねって思っただけで死ぬんだったら、隼人君は今まで70億人くらい死ねって思ってきたけどお?」
「げっ。ハヤトさん、それって人類滅亡してるよね?!」
「シロップなんざ、毎日烈火の君をぶっ殺してんぜ?挨拶代わりに死ねっつってんだろ、オメー」

ああ。
聞かれたくなかった人間ばかりが、背中の後ろに揃っている。好奇心の塊を装った気遣い屋の健吾だけならまだしも、全員で追い掛けてきたのかと。唇を噛み締めた要の視界で、微笑むそれを見たのだ。

「僕は、生きてても良いの?」
「よいに決まってるでしょ、もお。そんなかわゆい顔で当たり前な事聞いちゃって、何なのあのスーパーエンジェルは!…俺を駄目にする天使かよ」
「ハヤトが段々隠さなくなってんじゃねーか、ロリコン趣味をよ」
「おれの知ってるハヤトさんはこんな変態じゃなかった…」
「おい、ハヤトさんよ(´艸`) そんなにあっちのカナメばっか贔屓すっと、こっちのカナメが可哀想だろうがよ」

ぽん、と。
要の頭に乗った手の感触。わしわしと髪を撫で回されて、肩口にポスっと健吾の顎が乗るのが判る。

「天才とは、時として妬まれる訳じゃん?いやー、熱烈っしょ?死ねって思うくらい妬まれてた俺、才能の塊じゃね?(//∀//)」
「はいはい、自画自賛死ねばよい。猿の癖に芸術語ってんじゃないっつーの、才能の塊ってのはこの隼人君みたいな人の事なのよねえ。美と智を兼ね備えた人類の奇跡ってゆーか」
「ハヤトさん、それって何か白百合みたい」
「ぷ。言われてやがる、ダッセ」

キラキラと、光を撒き散らしながら消えようとしている幼い自分を見ていた。
背後には賑やかな気配。右肩に健吾が乗っていて、背中を獅楼に叩かれて、左側には欠伸を噛み殺し切れず涙を浮かべているエメラルドの瞳があって、

「ねえ、寂しいんなら膝枕したげよっか。最近さあ、膝枕ブームが到来してんのー。あれよいよ、ちっとも気持ち良くないんだけど、何かよい感じ」

さくさくと、隼人が土を踏む音がした。

「ばーちゃんの膝枕は固くてさあ、じーちゃんの膝枕の方が好きだったんだあ。…あは、でもこれ内緒にしてくんない?」
「どうして?」
「最近さあ、じーちゃんがアンチエイジングに大成功してる事が判ったんだよねえ。孫としては若々しいじーちゃんなんか受け入れたくない感じなわけ。心のバリアがビンビン張り巡らされてるんだよねえ、残念ながら」
「嬉しくないって事?」
「んー、それとはちょっと違うかなあ。嬉しいって認めるのはねえ、釈然としないってゆーか。…ねえ、まだ死にたい?」
「ううん。青い服を着てたお兄ちゃんが、死んじゃ駄目だって言ってたよ。僕、青が一番好き」
「あは。そうだよねえ、隼人君ならそう言うに決まってる。何処に行ったって弱い奴は楽しくないんだよ、この世もあの世も」
「どうしたら強くなれる」

要の目の前で、隼人が肩越しに振り返った。
最後の台詞は消えゆく子供ではなく、要の口から零れた台詞だったからだ。

「どれほど努力しても、俺は洋蘭を越えられなかった。美月は年々楼月を越えていくのに俺は何も変わらない。祭からもグレアムからも、どうしたって逃げられなかった…!」

いつか哀れだと思った男が、灰色の眼差しに揶揄めいた笑みを浮かべている。
いつか疎ましいと思った男が、けれど一度として弱々しさを見せた事のない眼差しで、真っ直ぐ見つめてくる。

「っ、ユウさんを裏切りたくなかったのに、初めから裏切っていた事を隠す以外に、何が出来たと言うんですか!他人事だと思って気休めを言うのはやめろ!」

けれど逃げる事など出来ない。
四方全てを囲まれて、隼人の後ろで小さな自分が微笑みながら消える間際を、呆然と眺めながら。

「…あのさあ。その程度でガタガタ言う様な小さい男だったら、ママって呼ばれて真顔で返事したりするかなあ?」
「ぅ…あ?」
「『アンタ女みたいだねえ』って言っただけでモデルに往復ビンタくれた、どっかの器の小さい男とはさあ、違うって事?そろそろ自分だけ被害者思考はやめた方がよいよ、カナメちゃん」

一切の容赦ない台詞を浴びた。

「人間は弱肉強食の頂点に君臨する、全生命体の敵ですからねえ。隼人君だって昨日食べたエビフライの海老から、超絶恨まれてると思うしい。屁ともないから明日もエビフライパーティー開催しちゃうけどー」
「あ、そのパターンだと、俺は確実に世界中の牛から狙われてるっしょ(ノД`)」
「おれは豚から恨まれてるっぽい…う…何かやだそれ、もうソーキ蕎麦食べらんない…」
「マジかよ。こないだ腐らせたアボカドが化けて出たら、今度は新鮮な内に皮剥いて丸齧りにしてやるぜ」

世界は何処までも容赦ない。
無慈悲な馬鹿に囲まれて、涙も出ないとは笑わせるではないか。




























「…此処は夜と朝の境」
「うぉっは!は、はひゃ?!ちょ?!」
「光なき星が産み出される瞬間のクロノスタシス」

すすす、と。
太股に他人の手が這う感触に、山田太陽は飛び上がったつもりだった。

「刹那が永遠に続いている矛盾の世界。全ての真理にして神の領域。人には辿り着けない、生死の果て…」
「ふ、ふーちゃんふーちゃん、おわっ、ネイちゃんっ!ひぃ!どうしよう俺、何か変なトコ触られてるよー!」
「それは、黒に蝕まれていく黄昏の最期の瞬間にも似ているのよ」

抱き締めているのは叶二葉、の、筈だった。
けれど太陽は何故か、死に物狂いで抱きついているそれの手触りが、違う様な気がしたのだ。

「…無駄よ。脆く弱いものの順に、この無慈悲な世界へと産み出されていく。それこそが世の摂理。神の定めた、救いのない五線譜なのだわ」
「ちょ、お前さんは何なんだい…!」
「判っている癖に尋ねるのね。流石は『狸』の榛原…く、くっくっ」

視界は0どころかマイナスだ。
闇を黒で染め抜いたかの様な、完全な純黒の世界に色はない。退屈だった灰色の世界も、騒がしかった艶やかな世界も、全ては過去の話。

「こ、これ、二葉先輩じゃ、ない…?!」
「そうよ。此処には私達しかいないわ」
「な、んで」
「『体』に呼ばれたからかしら。そうね、此処へ辿り着いたと言う事は、そう言う事なのよ…」
「???」
「安心して。命ある限り魂は消えない。魂ある限り業は消えない。貴方が触っているそれは、つまりは業なのよ」

闇の中から聞こえてくるその声に、太陽は唇を噛み締めた。
当初は気持ちの悪い声音だと思ったものだが、二葉の気配が消えて一人になってしまった途端に、冷水を浴びた様な心境になったからだろうか。恐怖の余り幾分冷静になったお陰で、聞こえてくる女の声に敵意がない事を理解した。

寧ろ何故か、友好的にも思えてくる。

「良く判らないけど、二葉先輩は目が覚めたってコト?」
「…ふふ、きっとそう、あの人は前世の宿命から解放されたのかも知れない。私達の宿命は『醜悪』だった。いつか、私達が死ぬ瞬間まで…」

さわさわと太股の付け根をひたすら撫でられる感覚に、鳥肌が止まらない。敵意がないのは判るが、壮絶なセクハラではないか。痴漢被害を受けた女性の気分だ。

「うん。太股触られながらじゃ、全然判んないなー」
「はぁ…。私はいつも感じていたわ、殿方のこの部分は芸術なのよ………はぁはぁ。そう、お股の間についている物は…ばっちいけれど…」
「お姉さんの話をちゃんと聞いたら、俺も元に戻れるって事でいいんですか?」
「どうかしら。それより、榛原が十口に頭を下げられるの?空蝉の誰よりも他人を見下していた、あの榛原が」
「そんなに酷いんですか、うちの父親方の家は」
「物心ついた頃からまともに人と会話も出来ないのよ。お父様は可哀想だと仰った…。榛原が側に置くのは十口だけだったけれど、私の所為で縁が途絶えてしまったのかも知れない…ふ…ふふふ…」

何故そこで笑うのかと突っ込みたい気分だが、太陽は言葉を飲み込む。
骨盤の下、太股の付け根と言う危うい場所を揉んでくるか細い手が、小刻みに震えていたからだ。

「その辺りの事情は全く知らないけど、叶が京都に残ったのは帝王院の屋敷を守る為って事になってますよー。帝王院の家系図とか色々なものが、京都に置き去りになってるって、学園長がお風呂の中で言ってましたし」
「駿河さんね。会ってみたかったわ、白雀は会ったそうよ。死んでから教えて貰うなんて、不思議な経験」
「あはは、そうですね。所で、俺は頭でも何でも下げられるよ。叶だろうと、何なら赤の他人にだって。何せ俺は、叶二葉って人に全面降伏してるんだ。惚れたが負けってね」
「…貴方もやはり、芙蓉さんとは違うのね、榛原」
「山田だよ。榛原からは、身勝手で臆病で嘘吐きな男が、自分から捨てて逃げたんだ」

ピタリと、太股を撫でていた手が動きを止めたのが判る。
見えないからこそ酷く敏感な神経を研ぎ澄ませて、抱き締めていた誰かから手を離した。

「少し違うのかしら。そう、私達は思い違いをしていたのよ。二葉さんが消えたその瞬間、私は知ってしまったの。貴方が無に囚われたまま、何も教えて貰えなかったと言う事を…」
「え?それってどう言う、」
「貴方はやはり『負』の道へ進むのだわ。光は闇へ、闇は光へと、全てが反転しているこの世界で今、貴方の目指すべきは闇の底だけ」

目を閉じているのか開けているのか自分でも判らない漆黒の世界で、指先に全神経を委ねて輪郭を辿れば、ああ、綺麗な顔立ちをしている人間である事が判る。

「貴方に、その人が見えるのね?」
「や、目では見えないけど、こうやって触れば流石に判ります。これって、もしかすると、叶芙蓉さんですか?」
「ええ、そうよ。私の大事な、旦那様の記憶の欠片。もうすぐその形も消えてしまうわ」
「消える…そうか。俺が山田太陽として揃ってしまえば、定着してしまうから」
「そうよ。前世が今を塗り潰そうとしているの」
「けど罪を犯して囚われていた俺には、他の皆みたいに前世なんか、」
「いいえ、あったのよ。貴方は108の罪を購い、あの日、産み落ちた。火の元の国の母だった私は、陽の王の娘として。陽の王でありながら罪を犯した貴方は、贖罪の為に、名もなき民として」
「名もなき民って、叶の事?」
「そうよ。文字通り、十字架を背負わされた。十口として」

見えないのだろうか。本当に。

「全てが反転したって事は」
「ええ。きっと、貴方の想像通り」
「知ろうとして知った全てが、間違ってる?」
「真実は容易く塗り替えられてしまうものよ。嘘が混ざってしまった物語はもう、ノンフィクションではないの」

例えばいつか、味気ない灰色の世界で生きていた自分が、一度、本当の意味で灰色の世界に迷い込んだ事がある。つい最近までの話だ。
確かあれは、赤い赤い、他人の体液を見た時に。

「俺は弱い人間だったよ。叶の人達みたいに賢くもないし、二葉先輩が怪我したのを見ただけで、世界から色が消えてしまったんだ。俺の所為で、俺が助けてくれなんて言ったから」
「貴方は身勝手で臆病で嘘吐きだった。いつもそう、自分からは行動出来ない」
「うん」
「失ってから気づく」
「…駄目な男だね、それは」
「そして、それを誰より後悔してもいたわ。誰よりも優しい癖に、誰よりも非情である事を迫られる立場だから」
「それが俺の背負った『業』なんだろ?」
「…そうよ。私には見えていたわ。父上に巻きついていた白蛇は、今は何処にもいない」

ぼんやりと。
小柄な女性の輪郭が見えた。仄かに、ほんのささやかに。この黒の世界で唯一、それだけが。

「目を凝らせば、見えない事もないんだ。そんな事にも気づかなかった」
「星のない夜は人を惑わせるわ。六芒星の加護が消えようとしている。真の闇が近いからよ」
「皆既日食?」
「世界から太陽が消えてしまう。…太陽さん、私は貴方が心配だった」
「どう言う意味だい?それは君が、二葉先輩の前世だから?」
「いいえ。貴方が受けるべきだった最後の審判を、身代わりに受けようとしている人がいるからよ」
「何だって?」

考えろ。
二葉が抜け出したこの深淵の世界から抜け出す為には、全てを受け入れなければならない。二葉にはあって、自分にはなかったものだ。

「俺は…どうしたらいいんだろうね」
「審判を受けるべきよ」
「俺を守ってくれてる誰かを探せって事?」
「私は神に『醜悪』を献上したわ。そうして今、叶二葉として生まれ変わった。輪廻を歪めたの。けれど今の私は、私と何も変わらなかった。自分が嫌いで、背負った業から逃げ出したい癖に足掻こうともしないで、ただただ、時が満ちるのを待ってばかりだったわ」
「それの何が悪いんだい。自分を貫くのは勇気の証でも何でもない、単に誰かを犠牲にするだけじゃないか。人間は無自覚で我儘な生き物だからねー、生きている間に何人を傷つけてるかなんて、知ろうともしない」
「本当の貴方はそうなのね。芙蓉さんもそうだった、賢かったから駄目なのよ」
「は?俺は賢くなんて、ないよ?」
「そう。貴方は聡明さを奪われたのよ。貴方は贖罪するべき輪廻で、私の所為で新たな罪を背負ってしまった」
「駆け落ちだったね。俺はお前さんを連れて、中国へ逃げた?」
「違うわ。貴方を空蝉から奪ったのは、私」

ぱちり。
朧気な女の輪郭が、指を鳴らした。
漆黒の世界に夥しい数の蝋燭が姿を現した。一つ一つ、順番に灯されていく赤い炎が世界を照らすと、漸く、黒い鳥居が見えたのだ。

「何、それ」
「壊れてしまったの。星の源、宇宙の始まり。現世へと続く鳥居の、此処は頂点よ」
「俊が居ると思ったのに…」
「居ないわ。そんな人は何処にも」
「俺の身代わりって、まさか…!」
「芙蓉さんには友達がいたわ。月と星。まるで双子の様だった二人は、歪んだ輪廻で新たな生を手に入れた。けれど今、貴方の友達ではないのね」
「どう言う事?それは俊じゃない、別の誰かって事だろ?」

ゆらゆらと、夥しい数の炎が揺れている。風もないのに。
これほどの蝋燭が灯っているにも関わらず、熱は全く感じない。寧ろ肌寒い程だ。炎に照らされた女が見える。唇が笑っていた。声もなく。
けれどその眼差しは見えない。いや、もしかしたら見たくないのかも知れない。

「…歪んでいるのよ。前世の輪廻なんて、初めから正常に廻ってはいなかったの。そして、神は気づいてしまった。輪廻の歯車は、自分達の分だけ廻っている事を」
「神…それが俊?」
「神を失ってしまった世界に、希望などない。私達は己の輪廻を作らねばならない。二葉さんはそうしたから、出られたの」
「…輪廻を作ったから、出られた…?」
「貴方達は考え違いをしている。神は決して人にはなれない。神は決して贔屓をしない。神には感情がないからよ。虚無は永久に、無のまま」
「判らない。俺はどうしたら、山田太陽になれるんだ…」
「覚悟が足りないからよ。貴方はきっと、二葉さんを捨てられるわ」
「…は?」
「最後の審判を受けなさい。業に平伏した貴方は、輪廻を繰り返すでしょう。失ってから気づくのよ。今回もまた、きっと、貴方は泣いてしまうのね…」

優しい優しい、母の様な声音だった。

「私のお父様には白い影がいつも寄り添っていたの。きっとあれこそ、この世界の源たる光の業だった」
「…神そのものが、分かれていた?」
「初めは二つに。光と闇。それはきっと、一と全」
「二つの意思が分かれた…」
「永遠と有限に」
「…時の概念が星を産み出し、宇宙に時間を産んでしまった」
「そうよ。その瞬間、神以外の全てに『命』が宿ったの。そして命は『魂』を手に入れ、いずれ訪れる終焉と言う『業』を背負ってしまった」
「時間がなかったら、死なずに済んだのに?」
「…違うわ。時間がなかったら、産まれる事も出来なかったのよ」
「時限は罪悪感を覚えてしまったのかい。自分が産み出した輪廻を…終わらせようとしている?」
「そこでやっと皆が真の意味で幸せになると信じているのよ。産み出した者、母親に課せられた業は『子の死』」
「矛盾してる。…ああ、だから『反転した世界』なのか」
「理解したのね。でもまだ貴方は知ったばかり。神々のチェスはまだ、終わらないわ」
「俺達は全員騙されてた。善は善ではなく、悪は悪ではない。つまり真実は…」

ふっと。
炎が消えた。けれど闇の中に、肌の白い女が佇んでいるのが見える。彼女だけが色を宿していた。黒と白、世界の色は、それが全て。

「神は『永遠』と『有限』の源、虚無。虚無に意思などないのだわ。だって、無からは何も生まれない」
「けど俺達はこうして生きてる。いや、生きていた」
「私には意思などなかったわ。本能のままに生きて、死んだ。私の名は帝王院雲雀。全てを捨てて愛を選択した罪深い女。私は己の欲を虚無へ差し出した」
「俺はきっと、同じ罪を犯したんだね」
「だから本能を封じられたの。私と同じ過ちを犯してしまったのは仕方ない事なのよ、輪廻は誰にも変えられない。神以外には」
「俊は『有限』だろ?俊は俺達を殺すつもりなのかな」
「そうしてまた、悲しむのだわ。優しすぎるクロノスは、何億光年も世界を眺め続けて疲弊してしまった。命が背負った業に絶望してしまった。輪廻を反転させ、過ぎた時を元へと戻そうとしている。私は気づいていたわ。あの日、神木に話し掛けているお父様を見た日から」
「…神木?」
「地獄から女が語り掛けるのよ。『お前の娘は私のものだ』と、幾度となく」

微笑んだ女がひたひたと、暗い鳥居の境を歩く。
そうして一人の男の前で手を伸ばし、彼女より白い肌を撫でるのを見た。

「叶芙蓉。夏の終わりに白い花を咲かせるでしょう。蓮は仏の花」
「…」
「今はまだ、芽吹いたばかりの若葉でしょう?」
「二葉先輩の前世は、貴方だと思ったのに」
「だから言ったでしょう、貴方は自分を知らないのよ」
「駆け落ちしたのは、俺の所為かい」
「いいえ。私の背負った罪よ。今の貴方には関係のないこと」
「この試練は、前世の自分を葬るまで終わらないのかい?」
「騙されているのよ。試練を乗り越えれば解放されるなんて、誰が言ったの?」
「………え?」
「貴方が知っている遠野俊と言う殿方は今、どうなっているのかしら」
「どうって、記憶喪失になって…」
「それはどう言う事かしら」
「だから、俊だけ記憶が過去に」

言ってから、山田太陽は目を見開いたのだ。
もうすぐ、パズルのピースがはまる様な気がする。もうすぐ、ほんの少し切っ掛けがあれば、すぐにでも。

「時限の時を戻せるのは神だけ。試練が終わるには時を進めなければならない。でも、そうね、遠野俊の時は巻き戻ってしまった。だとすれば私達に課せられた試練は、巻き戻り続けるだけ」
「ちょいと、待って、まだ待って、どう言う事だい、だとしたら俺達は今、何でこんな所に居るんだ…?」
「邪魔なのよきっと。現実世界で何かが起きているの。貴方達を、この黒の深淵に追いやらなければならない何かが…」
「何か…それは何なんだろうねー、とか、言ってみたり…?」
「ふふ。いつだって甘えるのが下手、業かしら?」

一縷の望みを込めて呟けば、笑う唇を見た。
先程まで意味もなく怖かったそれが、女性の柔らかな笑みに思えてくると、途端に気恥ずかしさを覚えてしまう。女性とのコミュニケーション力が0に等しい太陽には、余りにも眩しい微笑みだ。
例えそれが、美人とは言えない顔立ちの女だとしても。

「壊れ易いガラスの十代には、直視出来ないですー」
「貴方の芙蓉さんは消えてしまったわね。無事に戻れたのかしら」
「………判った、俺は他の皆の所に戻るよ。俺だけじゃ判らない事が多すぎる」
「ふふ。それが良いわ、顔を見るだけでスルメで眼球を突き刺したくなる様な男だったけれど、それでも私の話し相手になってくれる人だった」
「誰だい?お前さんの友達なら、俺の友達だよね」
「鳥と鯉は相性が悪いと言われたものよ。冬月龍流と言う、垂れ目で不潔で顔以外に良い所のないウンコの様な男だったけれど、知っているかしら」
「あ、あはは、多分大丈夫、今は『隼』だから。鳥と太陽は相性ばっちりだよ。うん、パヤティーは意地悪だけど悪い奴じゃない」
「そう。だったら私は芙蓉さんと共に此処から見守っているわね、行ってらっしゃい、いつか私だった貴方」

しゅばっと唐草模様の風呂敷を取り出した女が、何故かほっかむりの様に風呂敷を頭に巻いている。大昔の泥棒の様だと思ったが、その幾何学的な模様に太陽は少しざわついた。

「一つ助言をしてあげる。良い男は、女から触られても奇声はあげないのよ」
「あはは、はい、それは何か、さーせん」
「もし失敗してしまって何処へも戻れなくなったら、私が膝枕で慰めてあげても良いわよ。そうなった時は…ふ…ふふふ…永遠に離れられなくなるわね、榛原ァ…」
「心して行ってきます。そして出来れば戻ってきません命懸けでクリアします見ていて下さい俺はやってやりますとも、枕が変わったら眠らない男なんで…!それにしても、やっぱ俺って、前世からお洒落だったんだねー」

そわそわと落ち着きない様子で駆け出した太陽の視界は、鮮やかな黒一色だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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