帝王院高等学校
自覚する前の始まりと終わりとその果て
『…満月のテメェは気違いだけど、今はてんで話になんねえ』
『だぁってー、カナメちゃんと隼人君には愛情なんてないでしょー?つーかさあ、隼人君には愛情なんて理解出来ないしぃ』
『エッチの相性が良ければー、見た目も性格も関係ないと思わないー?』

唐突に思い出した台詞に眉を寄せ、木々の隙間を獣の如く淀みなく逃げていく子供らを追いながら、錦織要は傍らの男を見た。

「ひい、ひい、も、駄目、走るの、やだあ!」
「ハヤト」
「うわん、なーにっ?」
「そう言えばテメェ、この俺に『てんで話になんねぇ』っつったのを覚えてるか」
「はあ?!あー、あー、えっと、始業式典の時?!えっ、何でそんな事、今この状況で思い出したの?!」
「走りながら脇腹抱えてる奴に見下されるとは、この俺も落ちたもんだ」

ぽてりと転んだ子供の黒髪を見据え、走る速度を早めた要は、木の上から聞こえてきたバイオリンの音に耳を塞いだ。

「出てこい健吾!何度も同じ手が通用すると思うな、糞餓鬼!」
「うっひゃー、あのおっさん恐ぇっしょ!女みてーな顔してる癖に、変な頭!」

高野健吾そっくりな子供は、木の幹と枝を器用に足場代わりにしている。あっかんべーっと要に向かって舌を出している合間に、藤倉裕也そっくりな子供が、転んだ子供を起こして逃げていった。余りにも見事な連携だ。

「うっわ、猿がマジで猿過ぎい…」
「凄く、ムカつく」
「カ、カナメちゃん、ドードー。ちょっと息吸ってさあ、落ち着こ?相手は子供だしさあ、ねえ?」
「へぇ、その子供相手にコンドームがどうだのほざいてた癖に」
「何処から聞いてたのさ!居たなら隠れてないで出てきたら良かったじゃん、馬鹿あ!人でなしい!」
「あ?」
「ごめんなさい、何でもないです」

頬に要の足の裏の感触を認め、神崎隼人は速やかに土下座した。
ほんの最近まで、これほど長時間に渡って要と一緒に居た事などなかったので、そろそろ調教されている様な気がしてならない。半月前までは軽い気持ちでちょっかいを掛けていた筈の要は今、帝王院学園で最もモテる俺様王子に匹敵する程の俺様加減だった。横暴さに於いては叶二葉に並ぶだろう。

一言で言えば、超怖い。

「ハヤトは消したが、消すのが正解なのかどうなのか、判らないままは変わらない。シロは居たが、ホークはどうした?」
「消えちゃったあ。何切っ掛けかは、良く判んない」
「起きた、っつー事か」
「へ?」
「現実世界の俺らは寝てるそうだ。総長曰く、長くこの世界に取り残されるのは不味いらしい」
「あ、それそれ!ボスって何処に居るの?!ちゃんと本人?!」

要の脛を鷲掴み、ぐっと身を乗り出してきた隼人に触れられていない方の足で蹴りを放ち、要は頷いた。強かに腹を蹴られた隼人は悶えながら崩れ落ちたが、何とか悲鳴は飲み込んだ。
余りの痛さに転がりたい気分だが、がさりと草を飛び越えてきたオレンジが見えたから、尚更だ。

「うっひゃ!ユーヤ追っ掛けてたらハヤトが死んでるっしょ!(((;´ω`;))) まさか俺にやられた?( ´Д`)σ)Д`*)」
「猿なんかにやられっか!これはカナメちゃんの愛の痛みなのっ!」
「痛い愛って、それで良いのかオメーは(´`)」
「つーか、昔から猿だったとかマジうざいんですけどー。とっとと捕まえて来いっつーの」

健吾の身体能力は隼人も渋々認めている。
認めているが、4・5歳の健吾が捕まえられないのは認めたくない。若さなのか単に隼人の体力がしょぼ過ぎるのか。息一つ乱していない要でも手を持て余している所を見るに、チビ三匹を捕まえるのは容易ではなかった。

「超絶鈍そうなカナメ2号を捕まえようとすると、何処かからか猿2号とユーヤ2号が出てきて邪魔されんのよねえ…!猿マジ抹殺!」
「俺の所為みたく言うなし。普通にオメーの力不足だべ?(´`)」
「ケンゴ、ユーヤはどうした」
「その辺で死んでるっしょ(´`)」
「…生きてるぜ。勝手に殺すな」

遅れてやって来た裕也は片手で腹を押さえながら、片手で暴れる子供を抱えてやって来た。目を丸めた健吾が駆け寄れば、翠の瞳に睨まれる。

「おま、自分を捕まえてきた訳?(´`)」
「オメーに蹴られて死にかけてる所に、カナメとコイツが来たんだ。二人共捕まえるつもりだったのに、オメーに蹴られた腹がやば過ぎて無理だったぜ」
「あは。つーか、そもそも何で蹴られたのお?」
「森に二人きりで盛り上がっただけだぜ。森だけに」

真顔で宣った裕也に、隼人は痙き攣った。要に至っては哀れなものを見る目だ。

「ユーヤ、親父ギャグ寒すぎなんだけど?猿相手に盛り上がれる強さ、マジ尊敬の眼差し発動」
「尊敬すんなっつーの(´`) ったく、どいつもこいつも人のケツ狙いやがって糞が。ガン掘りしてぇのはこっちっしょ(´・ω・`)」

ドイツ語で喚き散らしている子供を抱えたまま瞬いた裕也を余所に、唇を尖らせている健吾を凝視した隼人と要は暫く動きを止めた。

「うへ、ビビってんじゃねぇか!ユーヤは何事も雑過ぎるっつってっしょ?(;´Д⊂)」

今にも泣き出しそうな裕也2号を覗き込んだ健吾は、ドイツ語で何事か話し掛けると、大人しくなった子供を裕也の腕から抱き上げる。

「えっと、ユーヤ、多分だけどねえ、パカッと股開いたら丸く収まるみたいだよお?」
「…糞程どうでも良い話を聞かせるな、ぶっ殺すぞカス共」
「馬鹿抜かせ。オレが股開いても誰も勃起しねーだろーが、オレはケンゴに秒速で勃起するぜ。勃起した方が突っ込むのはお決まりだろーがよ」
「ある意味尊敬しか感じないよねえ」
「糞程どうでも良い…」

保父さんと化したオレンジを横目に、金髪と青髪は息を吐いた。






















「つーか」

するすると林檎を剥いている女の動画を横目に、同じ事をしようとして既に3個の林檎を虐待しているエメラルドの瞳へ話し掛ける。ベッドの上で点滴を装備した病人は、両手で腕枕をした。

「何で誕生日に病院でお前の面なんか見てなきゃなんねーんだろ、神に愛されたこの俺が」
「カビに愛された?腐ったのかよ?」
「まー…ある意味腐りそうではある。つーか、YouTube見て剥けないんなら、一生無理っしょ」

大人は誰も、ちゃんと休んでリハビリを頑張ればすぐに退院出来ると口を揃えた。まるで打ち合わせた様に。
けれどもう何週間経ったのか、北半球はそろそろ夏に入りつつある。

「これMeTube」
「パチもんじゃねーか!」

しゅばっと起き上がった病人は、誰よりも大きな声でベッドテーブルの上のタブレットを覗き込んだ。メールの着信マークが数を増やしていたが、それには構わず動画の再生を終了させて、無惨な有様の林檎の残骸を口へ放り込む。

「肉だ肉、俺の体は肉を求めているんだよヒロスケ」
「ヒロスケじゃない、裕也」
「あんま変わんねーっしょ。それともあっちで呼んでやろっか、リスト」
「リヒト」
「リストの音楽は、ちょっとお綺麗過ぎんだよな。何つーか、育ちと頭が良さそうな感じ。女がキャーキャー言ってたモテ男だったらしいし」
「ふーん。どうでも良いけどリヒト」
「うーわ、明らかに興味なさそ」

実ごと皮を削り落とされた貧相な林檎を、あたふたと皿に乗せる手を見ていた。顔は表情が死滅している様に思えるが、ポーカーフェイスを気取っているだけの様だ。

「薬指とさぁ、小指な。リハビリすれば元通り動くかもっつってな、医者が」
「…は?」
「リハビリ頑張ったって、ピアノはアレだ、多分無理」
「…」
「何でオメーが気にしてんの?あーあー、勿体ねーな、丸齧りするっつってんのに」

それでも挫けず、四個目の林檎を虐殺しようとしていた裕也が林檎を落とすのを見て、健吾は頭を掻いた。
音楽家にとって、手や肺は命よりも大事なものだ。けれどそれが少々傷ついたからと言って、日常生活には支障はない。誰よりも落ち込むべき立場の健吾自身が既に納得している事を、目の前の自称『インフルエンザ患者』は、未だに気にしているらしい。

「俺な、ハイドンが好きなんだ。ヨーゼフな。何つーか、音で酔いそうな感じっつーの?味がコロコロ変わる、蒸留酒みてぇな」
「…上流?」
「あー、今のは多分違うな。これだから日本語は難しんだよ」
「オレもリハビリする」
「何でだよ」
「する」
「あー、はいはい、勝手にすれば…」

特別室の巡回は、大抵昼過ぎだけだ。
呼べば駆けつけてくれる看護師の詰め所は目の前で、一般病棟側の廊下とは向かい側にある。ドアを開けておけば人の声が聞こえてくるが、ドアを開けておこうと今は、恐らく院長以外にはやって来ないだろう。

「こっから見えるあの超でかい家、伯爵が住んでんだってよ」
「今は誰も住んでない」
「さっき患者がでかい声で話してんの聞いたんだよ。滅茶苦茶デケー犬が居て、薔薇の香りがするんだと」
「薔薇はあるけど、犬はいない」

特別室を本当の意味で特別使用している何処かの貴族の息子が、林檎を大量虐殺しているからだ。そうでもなくとも、その何処かの貴族は人見知りなのか人嫌いなのか単にプライドが高いのか、医者とも看護師とも話をする事はなかった。
腫れ物に触れる扱いをする大人達に、そんな大人達を空気の様に扱う子供。そんな人間関係に挟まれたとあらば、治る病も重篤化しそうだ。

「ポメ?」
「ぽめ?」
「ポメラニアン。な訳ねーか、小さいもんな、ポメ」
「ボルゾイ」
「ふーん」

口数が少ないなんてものではない。
これでもまだマシになった方なのだ。問い掛ければ答えてはくれる。一応は。

「お前の親父さん、最近来ねぇのな」
「仕事」
「何処で働いてんの?」
「多分、ニューヨーク」
「多分てな。雑過ぎんだろ、自分の親父の事ぞぇ?」
「どうでも良い」
「何なの、最近の子は家族の大切さが判らん的なスペック所持が基本なん?」
「母ちゃんが死んだ時、帰ってこなかった奴なんか、どうでも良い」

ああ、少々喋りすぎた。
そんなつもりはなかったのだと言っても後の祭、今更何を言っても無駄だ。逆の立場なら、恐らく放っておけと思う。例えば、痛ましい表情で見舞いに来てくれた楽団の仲間達の、可哀想だの元気出せだの、薄っぺらい台詞を健吾は求めていなかった。良いから仕事してこいと、明るく吐き捨てる事が精々だったからだ。

「オメーさ」
「おめーじゃない、裕也」

一人になりたかった。
例えばヒステリックな声で叫び散らす母親の日本語を、熱を持った手術痕に魘されながら、夢現に聞いた時。いつもは饒舌な父親が、一言も喋らない光景を、熱に魘された瞳で辛うじて盗み見た時に。

どうしてあのまま死んでしまえなかったのかと、一度でも考えたなら、もう二度と。心から何かを楽しめる事などないのではないかとすら、思ったのだ。

「オメーはオメーで充分だっつーの。そろそろ美味しい林檎が食いたいんだけどな、俺としては」
「うまくないのか」
「いや、うめーけど。あれだあれ、比喩」
「何それ」
「知りたい事には食いつくよな、本当。比喩っつーのは、例えって事だよ。美味いけど美味く見えないっつー事」
「…」
「あ、怒った」
「怒ってない」

食事を許されて、何日経ったのか。胃は毎日元気になる。ぐるぐると物足りなさを訴えているが、脱走してコーラを飲んだ時は流石に死にかけたので、何処までがセーフなのか難しい所だ。我が体ながら中々我儘で、切ると言うよりは削ると言った方が適切であろう林檎の残骸に、「俺が求めてるのはこれじゃない」と怒りを訴えた。

「日本は今頃雨降ってんな」
「何で判る?天気予報?」
「梅雨だから」
「通夜?」
「天然発動かよ。オメー、その目の色がなかったら完全に日本人顔してんのに、何で親父さんより日本語下手なんだよ」
「その内、覚える」
「間違いたくねーって思うから、変に口数が減るんだよ。ドイツ語使えば良いだろ?」
「やだ」
「っんと、頑固過ぎっしょ」

ああ。
退屈な時間が退屈とは思えないのは、何故だろう。そう言えば来月末、祖父母が見舞に来ると言っていたが、二人共定年退職した身とは言え、どちらも教師だった。年寄りの手慰みと言っていたが、今でも祖父は近所の公民館で毎週末、塾を開いている。小学生の基本的な勉強を教えているそうだ。
彼らの元にはまだ小さい子供が居るから、夏休みにでも入らねば海外旅行へ旅立つのも難しい。

「じーちゃん家にさぁ、俺より二個上の奴が居るんだよ」
「誰」
「誰って、言っても判んねーって。何か、親父の隠し子の子供?みたいな」
「?」
「親父の孫っつー事。だから俺の甥になんのかね」
「おいって何」
「兄弟の子供って事。んな事よりオメー、今日何日だっけ?」
「6月26日」
「だよなぁ。そりゃ、親父からメール来てても無理ねーわな」
「?」

殆ど芯しか残っていない林檎を差し出された健吾は、笑顔で皿の上に廃棄されている皮を掴んだ。裕也が一生懸命に剥いた林檎よりずっと、実がたっぷりついた皮の方が美味そうだ。

「それは食うな」
「何で?」
「農薬がついてるかも知んねー」
「あーね、だから分厚く剥いてくれた訳」
「ん」
「次から差し入れはバナナにしてくれる?バナナは裏切らねーから」

ぎゅるぎゅると余りにも元気な腹を、健吾は撫でた。健吾は怪我人で、病人は目の前の裕也だけだが、同じ入院食を文句一つ言わず食べている。然し間食をしている様子は、見た事がない。

「なぁ」
「何」
「ばーちゃんが、庭で胡瓜とトマト育ててんだよ。田舎なんだけど、畑より漁船の方が多いとこで、砂丘がやばい」
「やばい?」
「マジで遭難しそうになる」
「マジかよ」
「お、砂丘に興味あんの?」
「…」

流石に、何日も側に居れば見えてくるものがある。
子供らしくなく大人びた表情の裕也は、母親を目の前で失ったトラウマからか、毎日夜中に飛び起きる。隣の部屋だ。毎晩悲鳴が聞こえてくれば可笑しいと思わない方が可笑しい。

「城はねーけど、城跡があった気ぃすんな。確か空港に行く途中に看板見た様な。松山だか久松山だか、知ってる?」
「知ってても、意味ない。どうせ行けない」

何日もそれが続くので、健吾は点滴をつけたままベッドから降りた。その頃はまだ歩くのもやっとだったが、初めて覗いた隣の部屋は健吾の部屋とは違って、窓を全面塞がれていたのだ。重苦しい、鉄板で。

「ヒロスケの親父さん、優しいじゃんか。ちょっと過保護っぽいけどよ」
「別に」
「出た沢尻!」
「は?」
「知らねーのかよ、日本人の女優」
「知らねー」
「あ、俺の真似した。良いのかよ、貴族がそんな言葉使って」
「オレは貴族じゃない」
「伯爵だろ?領主のエテルバルド、教科書にも載ってるってよ。超有名じゃん」
「有名だったのは祖父ちゃんまでだ。祖父ちゃんは母ちゃんが嫁いだ頃に死んだって、母ちゃんが」
「そっか。俺のじーちゃんとばーちゃん、すっげー優しいんだよ。でもじーちゃんは、何か親父には怖い。すっげー怒ってるし、いつも」

幼心に、泣きながら飛び起きる子供を哀れだと思った。毎晩、魘されている背を撫でてやる習慣がいつの間にか出来ていて、朝寝坊の常習犯だと思われているらしい。

「つーか、俺いっぺん死んだらしいけど、すこぶる元気な訳じゃん?」
「腹鳴ってるからな」
「婦長が神の奇跡だって言ってた」
「聞こえた」
「神様なんざ、居ると思う?」
「…知らね」
「居ねーよ、んなもん。居て堪るかっしょ」
「?」

リハビリを始められる頃には、祖父母が日本の病院へ移れと行ってくれて、とんとん拍子に纏まっていく。多忙な父親の代わりにやって来た母親とは、最後まで目が合わなかった。一度も。あれほど口煩かった女が、まるで別人の様に。

母は祖父母に頭を下げた。静かに。
呆れ顔の祖父は最後まで眉を潜めていたが、病院で説教では余りにも礼儀知らずだ。耐えた小言は、自分の息子に言うだろう。



「なー、ヒロスケ。俺は、ピアノが弾けなくなってラッキーだと思ってるんだよ、知ってた?」
「何で?」
「さーな、自分で考えろや。何でもかんでも教えて貰えると思ったら、間違いだっつーの」

日本に帰ると言った日。
緑の瞳を眇めた子供は、いつも以上に口数が少なかった。それから退院日までの数日は、部屋に籠って出てこない。放っておけば出てくるだろうと楽観視していた健吾は、とうとう退院日に耐えきれず隣の部屋をノックしたが、返事はなかった。
蹴り開けた隣の特別室は無人で、看護師が昨日退院したと言った声を、他人事の様に聞いた覚えがある。

ほんの数日で帰っていった祖父母の元に一人で行くのは勇気が要ったが、口に出す事は勿論ない。一度も目が合わない母親の傍よりはずっと、彼女の為になると思い込ませた。祖父母が嫌いな訳ではないのだ。寧ろ年に数度会いに行けるだけの彼らが大好きだった。
こればかりは、説明しようがない。気持ちの問題なのだ。

「おい、健吾」
「んだよ親父、税関に引っ掛かる様なもん隠してねーよ?」
「や、これは引っ掛かる所の話じゃないぞ。お前のトランクに人間が入ってる」
「はぁ?何言ってんの親父、ボケたか?」
「俺はまだ40代だっつーの、見ろこれ。マネキンじゃなかったら何なんだ?」

退院日、約束通りやって来た父親と共に日本行きの飛行機に乗り込む直前。
マネキン並みの無表情でトランクに詰められていた顔を認め、高野健吾はピタリと動きを止めた。
これでは確かに、物々しい空港の職員が詰め寄ってくるのも無理はない。

「…オメー、何やってんの?」
「リハビリ行く」
「あちゃー、確かに言ってたけどよ、人の荷物に勝手に混ざってんじゃねーっつーの。良いか、飛行機はパスポートがないと乗れないんだよ」
「…」
「睨んでも駄目っしょ、ヒロスケ」
「まぁまぁ、来ちゃったもんは仕方ないだろう、健吾。えっと、確か君は病院を手配して下さった藤倉さんの息子さんだったよな?連絡先は聞いてるから、君のお父さんに連絡してくるな」

どうも父親は馬鹿なのかも知れない。
怖い顔をした大人に囲まれていながら、呑気なドイツ語で携帯電話に向かってベラベラと話している。日本にお招きしますとは、どう言う事だ。

「…はぁ。オメー、パスポート持ってんの?あ、持ってるわな、アメリカに居たもんな」
「朱雀に」
「あ?」
「会いに行く為に作ったけど、会わせて貰えなかった」
「朱雀って誰?」
「…自分で考えろや。何でもかんでも教えて貰えると思うな」
「おま、うっぜ!」
「は?うっぜ?」
「うざいの最上級だっつーの、バーカ!」

健吾の飛び蹴りが決まるのと、大勢の大人を引き連れた裕也の父親がやって来るのはほぼ同時だった。
空港職員が青ざめている表情になど構ってはいられない。吹き飛ばされた裕也が目を丸め、軈てムッとした様に顔を歪めると、俊敏な動きで飛び蹴りのお返しをくれたからだ。

「テメ、俺はそこまで強く蹴ってねーべ?」
「蹴ったから蹴った」
「ムッカー!怪我人を蹴るとかオメーはサイコパスかよ!」
「オレはサロンパスじゃない」
「はぁ?!オメーがサロンパスだったら早速蹴られた太股に貼ってやんよ!くっそ、砂丘連れてってやんねーぞ!」
「砂丘、ググった。何もねー砂漠なんか、行きたくねー」
「むっきゃー!」
「コラ、健吾!自称怪我人が襲い掛かるんじゃない!」

空港で取っ組み合いの喧嘩を何分繰り広げたのか、呆れ果てた父親から尻を叩かれて悶えれば、動きを止めていた灰色の髪の男が弾かれた様に笑った。
これにはその息子も目を丸め、訝しげな表情だ。

「く、くっくっ、リヒトが人を蹴る所など、初めて見たのだよ…く…くっく…」
「ほれ見ろヒロスケ、伯爵が呆れてっしょ。お行儀良くしろ」
「お前が言うな健吾、もっぺんお前の尻を割るぞ」
「ちょ、人前でケツ叩くのやめろし!恥ずかしいだろーが、DV指揮者!」
「裕也を頼んでも宜しいかね、高野さん」

賑やかな高野側に比べて、藤倉氏は笑いを堪えていても品がある。
大違いだと呟けば、笑顔の父親から足を踏まれた。痛いなんてものじゃない、奴は本気で5歳の息子を踏んでいる。大人げない男だ。

「お任せ下さい、こっちはいつまででも大丈夫ですよ。貴方には返しきれない恩がある」
「…恩を売った覚えはないがね、助かるよ。そう長く、国を離れられない立場でね」
「お察しします」

大人同士の話は呆気なく纏まった。
睨み合ってはそっぽ向くのを繰り返した健吾と裕也を横目に、物々しい表情だった職員らが、何故かペコペコと頭を下げながら案内してくれたのはファーストクラスの座席で、それまでビジネスクラスの経験しかなかった健吾は、深い溜息を零したのだ。

「はぁ、甲斐性も大違いっしょ」
「何かほざいたか健吾、ん?」
「何でもないですコンマス、お仕事ご苦労様です」
「今年はお前の誕生日を祝ってやれなかったからな、向こうでご馳走を用意してくれてるらしいぞ」
「ばーちゃんが?マジで?」
「おー、じーちゃんが釣竿担いで鯛釣ってくるっつってたが、誤って海に落ちてないかな」
「オメーが叱られたくねーだけだべ?」
「おいおい、気安く図星をつくと虐待するぞ?」
「それが父親の台詞か!」
「そうとも、これがお前の父親の台詞だとも。喜べ健吾、今しれっとおならしたな?裕也君が吐きそうになってるぞ、俺にそっくりな臭さだ」
「うっわ、すかしたのにバレた!死ぬなヒロスケ、生きろ!」

祖父母はエメラルドの瞳を持つ子供に大層喜んだ。
二人共教師だったからか、大人しく言う事を良く聞く子供を手放しで可愛がり、ほんの数日後にはうちの子にすると声を揃えたものだ。

裕也のそれは、猫被りではないらしい。単に口下手なので、何に対しても素直に頷いたり、素直に尋ねたりするだけだ。
血が滾ると、裕也に日本語を教え始めた祖母は元国語の教師だった為、一ヶ月も経つと四字熟語までマスターさせる事に成功し、祖父は裕也を抱き上げて天才だと叫んだ。最早これでは、どちらか孫だか判らない。優秀過ぎた健吾より、不出来な裕也の方が可愛かったのかも知れない。

「よーし、裕也が婆さんのドリルを終わらせた記念に、遊園地に連れてってやろう。子供はあれだろう、UFJ?好きだろ?」
「お爺さん、それを好きなのは大人ですよ。子供は銀行には行きませんからね」
「じーちゃん、ユニバはフロリダにもあっから、他の所が良いっしょ。ディズニーも行った事あっから、演奏会で」
「オレ、城が良い」

きっぱり、初めて自分の意見を宣った裕也に、祖父は痺れながら崩れ落ちた。どうも日本史の教員免許を持つ男のハートを、来日一ヶ月で盗んだ様だ。再び感電した祖父は涙で老眼鏡を沈め、涙で日本地図を取り出すと、涙で各地の城の名所を呪文の如く唱え始める。
今更「はぁ?城?だっせー、やだよ」とはとても言えない状況である事は、人見知りな上に口数の少ない年上の甥を枕代わりに寝転がっていた健吾には、痛いほど判っていた。

「敬吾、オメー城なんか行きたくねーべ?」
「う…あ………ぇ?」
「あー、言いたい事があったら紙に書けって言ったろ?つーか、さっきから何やってんの?」

子供用の小さなミニチュアピアノの黒鍵だけをひたすら叩いている甥は、広げていた古びたバイエルをぐいぐいと押しつけてくる。父親が昔使っていたものである事は、表紙に名前が書かれていたので判った。

「何、練習してんの?ピアニストになりてーとか?」
「ん!ん!」

ふるふると頭を振っている所を見ると、ピアニストを目指している訳ではないらしい。先天的に滑舌が悪いと言う障害があるのは聞いているが、自分の思っている事を中々他人に伝えられないと言うのは、ストレスになりそうだ。健吾なら耐えられない。

「は?俺に弾けって言ってる?」
「ん!」
「やだよ、何でピアノなんか…」
「弾いてやれや。減るもんじゃねーだろ」

城談義が終わったのか、みっちりスケジュールを書いた紙を何処か目を輝かせて見つめているエメラルド瞳が、他人事の様に呟いた。健吾がピアノを弾きたくないと思っている事を、裕也は知っている筈なのに。

「オメー、最近生意気だべヒロニャリ」
「誰がヒロニャリだ、オレは裕也だっつったろ」
「やだやだ、日本語喋ってるオメーなんてオメーじゃねー」
「オレは最初から日本語喋ってたぜ」
「は。喋ってたかもな、嘘っぱちの日本語」
「うぜー。白鷺城連れてかねーぞ」
「あ?しらはぎ?何処それ」
「さーな。地図れ」
「ググれアレンジしてんじゃねーっしょ!可愛くねーな!地図なんかなくてもナビがあんだよ、ナビが!」
「はっ、機械に頼ってちゃ、魚は釣れねーな。男なら腕で語れや、腕で」

何とも格好良い意味不明な台詞を吐き捨てた裕也に、聞き耳を立てていたらしい祖父がまた泣いた。颯爽と釣竿を担いだ祖父に無言で指をクイっとされた裕也は、やはり無言でコクっと頷くと、そのまま海へと繰り出していく。

「ばーちゃん、ユーヤとじーちゃん、出来てんの?」
「そうだねぇ、出来てるのかも知れないね。どっちがウェディングドレス着るのかね?」
「うーん。ユーヤじゃん?目、緑だし」
「お人形さんみたいな顔立ちだものね。お爺さんはお前達が来てくれてから、毎日楽しそうだよ」
「ロクな娯楽がねーもん、田舎過ぎて。」
「健全なデートだ、何釣ってきてくれるんだろうねぇ」
「若芽じゃね?」
「育ち盛りの若者には、健康食だねぇ」

日本は平和だ。
聞こえてくるのは海猫の鳴き声と潮騒ばかり。此処には他の音楽など存在しない。

「二人が帰ってきたよ。お爺さんは空き缶を釣って、裕也は鯖缶を釣ったそうだ」
「うひゃひゃ!海で加工した魚釣ったのかよ、マジか!」
「こないだトラックが海に落ちて騒ぎになってたから、あれだろうね」

ただただ毎日笑っていた。
全てから逃げる様に、考える事を放棄したままで。

←いやん(*)(#)ばかん→
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