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 皆が寝静まるまで待っていたら、いつの間にか日付が変わる時間帯になっていた。暗闇に紛れ、ひっそりと離れの廊下を歩いて彼の部屋まで行く。
 出来るだけ静かに襖を開けたつもりだったのだけれど、起こしてしまったようだった。
「あ……や、こ?」
 呻きにも似たひどく掠れている声。もう滑らかで耳に優しい彼の声を聞くことはないのだと実感して……毎回、胸が締め付けられる。
 私は襖を後ろ手に閉め、そっと唇の前に指を立てた。最後の最後に少し顔を見るだけで十分。そう思ってここに来たのに、話までして行こうなんて欲張りも良い所。

「起こしてしまいすみません――寝ていて下さい」
 布団の横に座り、起き上がろうとした夫を片手で制した。暗闇のなか目を凝らして表情を伺うと、彼は仕方なさそうに微笑んで私の手を取った。そのまま、すらすらと手の平の上に文字を綴っていく。
『たまには起きないと』
 軽口のやり取りもこれで終わりだ。
「誠さまの場合は寝ていた方が良いんですっ」
 泣いてしまいそうだった。今日がざあざあ振りの豪雨で、そして今が夜で良かったと思う。声が震えるのに気付かれなくて済むから。じんわりと浮かんでくる涙を拭っていつも通りに返せば、彼は重そうに腕を持ち上げた。
 示されたのは、文机の上にある小包だった。持って来いということだろうか。

 膝立ちで部屋の端へにじり寄り、小包を手に取る。片手に余るほどの大きさで、パンパンに膨らんでいる割には軽い。試しに軽く振ってみても音はせず、何が入っているのか検討もつかなかった。暫く考えてみたけれど、降参。
「何ですか?」 
 やけに楽しそうな彼は小さく手招いて、再び私の手に指を滑らせる。
 医師に声を出すのを禁止されてから数日、指先一本で触れられるくすぐったさにも慣れていた。角度の関係上、やや首を傾けて文字を読んでいく。た、ん、じ、少し小さめの『よ』。書き終えないうちに何なのか、分かった。

 誕生日の贈り物。

 そう呟くと、微笑みながら頷いて言葉を書き足す。
『開けてみて』
 紐を解いてすぐに目に入ってきたのは、藍色の質素な紬。それを退けると束になった紙が一組。いや違う、これは紙じゃない。紙幣だ。武内宿禰が描かれた銀券。
 私もそれなりのお嬢様育ちだが、ここまでの金額を見たことはなかった。このくらいあれば一年くらい楽に暮らしていける額だった。嬉しい、よりもどうしてという気持ちが先に立った。
「頂けません、こんなに多く」
『どうしてもと言うなら。僕と心中するか、それを受け取るかの二択にしてあげても構わないよ?』
 カッと、炎が燃え上がる音がする。
「冗談でも仰らないで!」
 叫んですぐに口を塞ぎ、後悔した。理由は今が深夜であること。この和室に防音性があるとは言えないこと。この期に及んでもまだ、彼が笑っていることの三つ。ふとした瞬間に顔をゆがめ、苦しそうにしている様子は変わらないのに。

「ごめんなさい」
 手の平の上で紡がれていく言葉を、ただ目で追った。
『時々さ、ふっと綾子を連れて逝きたいなあ、って思うことがあるんだ。黄泉の国へ行く覚悟は出来ている。でも、矢張り一人は怖いから』
「……ぁ」
 私、馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。いくら平気そうにしていたって、辛くないわけがない。私の前では軽口を叩き『普通』に振舞っても、心の奥底で揺れる不安がなくなるなんてこと、ありえない。
 感情を吐露するのを抑えていた彼に、鈍感な私は言われるまで気付かなかっただけ。休みなく書かれていく文字を読み取りながら、泣くな、と自分に言い聞かせる。泣くべきなのは私ではない。
『綾子には四年も付き合って貰ったのに、それじゃああんまりだろう? だからさ、僕が本当に君を殺したくなる前に逃げてよ。そのお金を当面の生活費に充てて』

 どんな私にも優しく接してくれる、彼の方なのだから。
「……誠、さま」
『良い子だから、ね』
 何か願うことがあるならば、それを私に叶えさせて下さい。贈り物は決まったと言っていたけれど、もし機会があるのならそう言おうと思っていた。贈り物じゃないよと言われたら「何でも良いんでしょう」と返して、渋る彼を強引に説得して。
 ねえ、誠さま。それがあなたの願いですか。

「……分かりました」
 目に灯った明るいひかりを真上から覗き込んで、出来る限りにこやかに笑う。
「ナイフを貸して頂けますか?」
 さてナイフはこの部屋にあっただろうか。
 今のように、彼が悪い気を起こした時を考えて、女中が取り上げてしまったかもしれない。母屋まで取りに行くかとまで考えに沈んでいると、立ち上がれなくなっていることに気が付いた。
 強い力で手首を握り締められている。意思のこもった眼差しと真正面から向き合い、そっと、一本ずつ指を外していく。
「ずるいですよ。どちらか選べと仰ったの、誠さまでしょう?」
 そうだ、引出しの中に入ってるんだった。果実を剥く為に持ってきていたんだっけ。

「そ……ういう、意味じゃ」
「だぁめですっ」
 無理やり手首の拘束を外し、また捉えられる前にぱっと立ち上がって身を引く。
 文机の近くにある引出しまで歩を進めると、思った通り小さなナイフが入っていた。これでは力不足だろうけれど、妥協するしかないか。
 その場で首元に切っ先を当て――くるり、向きを翻させた。
「あや、こ?」
 不思議そうな声音を無視して何度も同じ動作を繰り返し、仕上げとばかりに頭を左右に振って髪を梳く。
 長かった黒髪は肩の上ほどの長さになり、畳の上には残骸が大量に落ちている。この分だと服にも付着していそうだった。
 最後に刃先を左の手の平へ向け、優しく、柔らかいものを切るようにナイフを滑らせる。

 ぷつ、と肉が引き裂かれる音。

 みるみるうちに血が溢れてきたが、想像していたより痛くない。寧ろ、痒いという感覚に近かった。
 手の平を彼に見せた。行燈に照らされた紅のそれは手首をなぞり、腕を伝って肘へと落ちていく。畳の上に落ちた一滴が、雨に似ていると他人事のように思いながら、ゆっくりと口を開いた。


紅の雨TOP

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あきゅろす。
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