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 もう梅雨に入ったのかと思うほど、強い雨が降っている。ばしゃばしゃとひっきりなしに雨音が鳴って、縁側から見た日本庭園は白い霧に包まれているようだった。外に出られないから憂鬱ということもなく、気がかりは池が氾濫しないかどうか。
 ああそれと、やけに蒸して暑いのがうっとうしい。その程度だ。

 母屋から離れへ向かう道の途中で、医師とすれ違った。
「どこに行っていたのです?」
 番傘に隠れた表情は分からないけれど、声からは微かに怒りが滲み出ていて。
 こんな時にお前までいなくなるな――。口には出さずとも、そう思っているのが手に取るように分かる。うな垂れ、しおらしく反省する振りをしながら、長い白衣の裾が濡れていくのを見ていた。
「……それで、言い訳は?」
「誠さまの妹夫婦と、弟君の所にご機嫌伺いに行っておりました。十八と十五、でしたっけ。お二人とも若いのに、よくこの家のことを考えているんです」
 今年十五になった弟君は書斎で勉強に明け暮れ、聡明な義妹は己の夫と共に甘味を食べていた。手紙を持ってくる女中を「邪魔をする気?」と言って追い払い、少しでも仕事に戻ろうとすれば可愛らしく甘えて阻止して。妹の夫がいない所で、二人話をすれば出来て当然とばかりに語る。色んな意味で見事な手腕だった。
 嬉々として話していると、医師は深くため息をつく。

「けれども、貴女も若い」
「今から少しだけ、年相応に戻りますわ。誠さまの様子は如何でしょうか?」
「……良いとは言えません」
 ああ、やっぱり。
「嘘をつかないでいて下さること、嬉しく思います」
 医師の強い勧めで彼の私室が母屋から離れへ変わったのも、ここ数日ずっと、医師が屋敷に泊り込んでいるのも。私の長い外出にいい気がしないのも多分、その時が近いからなのだ。もう、下手に大丈夫だと言われる方が辛い。
 お礼を言って頭を下げると、番傘がゆっくりと近付いて私のそれと重なる。何を、の部分は雨音で掻き消されて聞こえなかった。
「――本当にやるつもりか、と稔が訊いていましたよ。そう貴女に伝えてくれと」
 目を見開く。そろそろ指摘されるとは思っていたけれど、あまりに早い。この分なら梅雨入りまで持ちそうだと思っていたのに。
「稔にまで伝わっているんですか?」
「あいつは自分で気付いただけです。書斎に行ったり、今日のように人と会ったり手紙を書いたり。何も考えるなという方がおかしい」 

 う、と詰まった。時間がないことの焦りからか、最近は積極的に動きすぎていた気がする。昨日は大々的に私室の掃除をして、必要な物以外あらかた捨ててしまったし……勘付かれても仕方がない。
「誠さまは知りませんよ、ね」
 せめてそれだけは避けたかった。知られたら職権乱用でも色仕掛けでも、とにかく全力を持って引き止められそうだ。そうしたら絶対、決意が鈍る。説得されてしまう。
 篠崎医師は微笑ましそうにくすりと笑いながらも、紡がれる言葉に容赦はなかった。

「いずれ犬並みの嗅覚で嗅ぎ当ててしまうでしょう」
 その瞬間、覚悟が決まった。
「今日、実行することにします。稔にはそのつもりだと伝えておいて下さい」

 来た道を引き返そうと後ろを振り向く。考えが変わらないうちに、やり残していたことを全部終わらせてしまおう。書きかけの手紙もすぐに出さなきゃ。歩き始めようとした私を、医師は笑みの含んだ声で呼び止めた。
「今までの倍、辛い思いをするぞ? 泣き虫のお前が出来るとは到底思えん、だそうで」
 本当に真似が上手なんだから。本当に稔に言われているようだと錯覚しそうになる。
「止めないわ。目がうさぎになっても構わないもの」
 きっぱり言い切ると、医師は柔らかく両目を細めて。
「強くなりましたね」
 そう、言った。


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あきゅろす。
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