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「これで『綾子』は死にました。誠さまの妻だった女性はどこにもいません。ですので、このお金は受け取りませんからね」
彼の不安と悲しみを知り、一緒に死んでも良いかもしれないと頭の隅で思った。けれど、私にはまだしなくちゃいけないことがある。生きている人間にしか出来ないことだ。
奥歯を噛み締めて泣くのを我慢する。布団の横で足から崩れ落ちるように座ると、彼はおもむろに私の髪へと手を伸ばした。
以前は少しの動作で触れられる距離にあったのに、今、彼の手は届かない。
『綺麗な髪だったのに』
右手に綴られる文字に、小さく息を吐いた。
「切っちゃったものは仕方ないじゃないですか。……大丈夫です、誠さまを置いてこの家から逃げたりしません。自殺なんかしません」
自信満々に言いつつ、あれ、と気付いた。この言葉、前にどこかで聞いたような気がする。
ちりちりと熱を持ち始めた手を見つめ、眉をひそめて考えると彼は笑って私の手を取った。
『この前と逆だね』
そうだった。
雨が降っているにも関わらず、熱を出した彼が私を迎えに来た時。育花雨が降っていた日のことだ。
篠崎医師を見送ってから彼の私室に戻り、病人の自覚が全くない彼にお小言を言って――後ろから抱き締められて、同じようなことを言われたんだった。
心なしか頬が熱を持ち始めている。赤く染まったそれを見られるのが恥ずかしく、私はふいと顔を背けた。
「そうですね。夫婦ですもの、似てきたっておかしくないと思います」
『この後はどういう会話をしたんだっけ?』
早口になったのにも彼はあえて何も言ってこない。あえてというのは口元が微妙に引き攣っているからで、どう見ても笑うのを堪えている様子。
最後を感じさせないいつものようなやり取りに、ふっと肩の力が抜けた。
「誠さまはどうしてそう笑っていられるのですか、という話をしました」
膝の上に落ちた染みへ、あたたかな指先が触れる。
『じゃあ、綾子はどうしていつも泣いているの』
「それはですね、誠さま」
閉ざされた襖の先は何も見えず、記憶にある風景と重ね合わせるしかない。深緑の草木は雨に濡れ、つつじは咲き乱れて池に幾つもの花を落とす。紅白の錦鯉が二匹、ゆったりと泳いで――箱庭としか思えなかったその全部が、今は愛おしい。
私の中の雨は、とうに止んでいた。
「誠さま?」
「まぁことさまー」
「……寝てしまわれたんですね」
「申し訳御座いません。最後まで傍にいるという約束は、やっぱり果たせそうにありません」
「少しの間、この家から離れなくてはいけないのです。色んな所に行って、古い考えを持ってらっしゃる方を説得しなければいけませんの」
「ねえ、誠さま」
「一つだけ、お願いを言っても宜しいでしょうか」
「貴方が愛したこの家を、私に守らせて下さい。私、この家で過ごして幸せだったんです。辛いことも苦しいこともありましたけれど、それを遥か上回るくらいに……とてもとても」
「聞こえてらっしゃいますか?」
「さようなら、誠さま」
「――お慕い、しております」
翌日、綾子は姿を消していた。
誠の私室に残る血痕、誠の「僕が殺して池に沈めたんだ」との自白により殺害説が有力であったが、綾子の遺体は二週間経っても見つからなかった。事件はあやふやのうちに処理され、結局は行方不明と判断される。
梅雨明けの頃、誠も妻の後を追うようにして亡くなった。
同時期、誠の妹は夫が一族の金を横領していると告発し、次期当主の座は弱冠十五歳の弟に転がり込む。
――仁科家では、誠の弟が当主を継ぐまで五年の空白の期間が存在する。
その間、当主代理を務めた少年がいたと伝えられているが、彼に関する情報は一切残されなかった。
「八代前の当主夫人が屋敷から逃げ出そうとしたんだけれど、狂気に囚われた当主が彼女を殺したんだ」
連綿と伝えられていくジンクス。
今はもう、その真実を知る者は誰もいない。
END
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