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企画モノ
蝶の住処
 気分が悪い。
 少しでもリラックスするために真昼から小一時間風呂にこもる破目になった。出てきても気持ちにけじめがつかず、無意味に結婚指輪を外してみたり、ベッドで横になったりして無為に時間を過ごしてしまった。
 夕食だけは自分の矜持を守るべくどうにか用意した。普段より味が落ちているかもしれない、気がそぞろのまま作っていたから。

 原因は分かっている。
 目に入るところに携帯を忘れた夫が悪い。慧、いやあの馬鹿には奴で十分だ。奴が携帯を忘れさえしなければ、私が何回も鳴り続ける携帯を気になってとうとう見てしまうこともなかった。画面に表示された女性の名前が頭にちらついて離れない、そんなこともなかったはずだ。
 見たら何故かぱったりと着信が止まったのもムカついて仕方ない。どうしてもう一度だけ我慢出来なかったのだろう。

 対処法も分かっている。
 奴が早く帰ってくれば良い。それなのに今日に限って遅いとはどういうことだ。奴のくせに。いつもは仕事を終わらせるなり無駄に早く帰ってくるくせに。
 帰宅が午後八時を過ぎたら先に食べていて良い――結婚以来使うことのなかった約束を行使してしまったではないか。

 一人きりのリビングで聞く時計の音がどうにも気になって、何もかも遮断したくなった。
 帰ってきた奴には無様な姿を見せたと思う。よりにもよって、ソファの上でタオルケットを頭から被っているなんて。
 玄関のドアが開き、リビングに続くドアが開く。「小夜?」と困惑気味に名前を呼ばれたところで顔を出す決心がついた。恐る恐るタオルケットを捲ると、奴はソファの肘かけ部分に座っていた。

「ただいま帰りました」
「……おかえりなさい」

 思いのほか優しい目つきで見られていた。
 奴にしては珍しい慈愛に満ちた表情に帰ってきたら散々浴びせる予定だった文句を忘れ、思わず見蕩れる。元々黙って何もしないでいてくれればこの上なく美しい人だ。
 奴は私の額に筋張った手を当てて首を傾げた。熱でもあると思ったのだろうか。

「どうしたんです? 浮かない顔ですね」

 ため息をついた後、もぞもぞとタオルケットから手を出してテーブルの端に置いた携帯を指差した。奴の携帯は機種こそ私と同じであれ、ストラップ類等の飾り気が全くない。

「携帯忘れて行ったでしょう? これ」

 醜い感情を出さぬよう短く告げて、夕食をよそってこようと立ち上がりかけ――。

「ああ、気付きませんでした。仕事用のものを使っていますから――何か、連絡でも?」

 案の定というか、流石に人の心に敏感というか。携帯を流し見て、迷いなく私の進路を塞いだ。
 具体的に言えば両腕を伸ばして腰をさらい、半強制的に奴の膝に私を乗せたのだ。私が慌てて身じろぎし、足をソファに投げ出すことでバランスを取れている。

「ちょっと、ソファが壊れる!」
「嫌なら大人しくして下さい。それに言わないとずっとこの状態ですが」

 伊達に婚約暦が長かっただけはあって、顔と顔の距離が近いことには慣れた。体の自由を奪われて囁かれるのにも慣れた。しかし、だからと言ってこの呪縛から完全に逃れられる訳ではない。瞼を閉じて反論するので精一杯だ。

「たいしたことじゃないわよ。女の人から着信きてたから、一応」

 薄っすらと目を開ける。
 人を狂わせる類の危うさと艶やかさを滲み出し、奴はくつりと喉の奥で笑っていた。この笑い方はいつも私を圧倒的な弱者であり、敗者の位置に立たせる。

「おや、嫉妬ですか?」
「……そうだけど」

 奴の笑みの種類が明らかに違っていく。僅かな驚きと、人肌に温まったお湯が広がって、あろうことか温かみが私にまで侵食してくるような。そこまで考えてハッとした。とんでもないことを言ってしまった。
 奴がどう思おうが、ますます力を入れて抱きしめてこようが私には関係ない。心中を渦巻く黒い靄の存在を知られただけで、穴を掘って体ごと埋まってしまいたくなる。
 転落防止に掴んでいた奴の肩を、必死になって押し返した。

「って、違う! 嘘だから! やきもちなんか焼いてないわよ!」
「嬉しいですよ? 素直に認めてしまえば良いのに」
「うるさい」

 身をよじって足をタオルケットの落ちた床につけたら、何故だか座る奴を中途半端に立つ私の方から襲っているような構図になった。心外だ。
 眉をひそめると、奴は仕方なさそうに私を離して立ち上がった。そう、ちょうど大人が聞き分けのない子供を苦笑して許すのに似ている。どこに行くのかと思えば、私を置いてキッチンに向かって行った。

「では、エイプリルフールですから。嘘だということにして差し上げましょう」

 スーツの背中が小刻みに震えていた。

「だから、嘘なの!」
「はいはい、嘘なんですね」




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あきゅろす。
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