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伽【8】
 つい最近まで、仁科家に関わっていつつも自分だけ他人事の世界で暮らしていたことを怒られるだろうか。
 今更だ、諦めろとたしなめられるだろうか。

 そんなものよりも夏夜は何より――ひどい言葉をぶつけておきながら傲慢だが――一成が悲しむのがいっとう怖かった。
 悲しませるくらいならいっそ怒って思う存分詰ってもらった方が良い。

「……不憫な奴」

 しかし、哀れむような声音の呟きだけで。夏夜は耳から手を少し浮かせた。

「え?」
「気付かなかった方が幸せだったのか、これで良かったのかよく分からないな。せめて俺達の母親みたいなら苦労しなかっただろうけど、お前は中途半端」

 問いかけに対する説明ではなく、夏夜に伝えることを望まぬ独り言としてはやけにはっきりと耳に響いた。

 一成はすとんと座り込んだ夏夜が何て答えるべきか迷っている間に長椅子の、ちょうど座る時に空けていた一人分の隙間に指で線を引いていた。
 真ん中に長い一本、左端と右端にくるりと丸を一つずつ。

「ママはパパの婚約者だったから、小さい頃からずっとお屋敷で暮らしてたって聞いた。ゆりさんはすごく自由な人だよね」

 世間知らずだ怖いもの知らずだと陰で言われようが、前に制度を時代錯誤だと言い切っていた一成の母は強くて、どこに行ったって生きていける人だと思う。
 対して母は父のために育ったと言っても過言ではない。

 立場も性格も正反対に見えるが、二人にある共通点。
 夏夜が自然と眉根を寄せるのを見、一成は小さく笑って境界線を手で覆った。

「ま、とりあえずは気付いておめでとう。紫苑に行きたくない理由についても分かったよ」

「本当!?」
「だがそれはあくまでも『紫苑に行きたくない理由』。それだけでは誰も納得しない」
「そっか……」

 つかの間の希望は紙風船がぎゅっと握られたように、急速に音を立ててしぼんでいった。
 ……いや、一成が味方してくれなくても構わない、大人達のような敵にさえならなければこれ以上わがままは言わない。

 せめてもの思いですがるように見つめた。
 すると、まるでゲームの相手をする口ぶりで「良いよ」と言ってくる。

 何のことだか分からない夏夜に追い討ちをかけるように、けれど肩のところまで切った髪を梳く手つきだけは優しく。

「もしお前が、紫苑の高等部が内部進学の募集を打ち切る前までに、どうしても行きたい学校を見つけてその理由を俺が納得できるまで説明したら。そうしたら皆を説得してやる。文句は全部俺が引き受けるし、誰に言われたって絶対に守ってやるよ」

 次期当主の一成を味方につけることが出来たら、別の高校に行く道は今よりも開かれるだろう。
 夏夜はすっと目を閉じた。

「あのね、夏夜にはそんな風に言ってもらえる理由がないよ」

 チャンスをつかまえなさい、そのためなら命だってあげるよ――と劇中で母が息子に歌いかけるミュージカルがある。

 聞いた時は感動してちょっと羨ましいと思ったのは本当だ。
 自分の母はそんなこと言ってくれないだろう。

 ただそれは親子の絶対的な繋がりによるものであって、夏夜が受け取って良い提案じゃない。
 今、素直に甘えることを許されるのは雪下日生のみ。 

「どうしてそこまでしちゃうの。夏夜のことなんか放っておけば良いのに。本気で放置したら仕方ないなぁって、一成くん以外の人が動いてくれるよ?」
「それは無理だな」

 何が無理なの?
 夏夜を放っておくことが、それとも一成くん以外の人が動くことが?

 前者ならそうとう酷いよ、と尋ね返したかったのに、膨らみすぎた思いは形を成さなくて。
 時間だけが無為に流れ、カッとなった頭は中々すぐには冷えてくれない。

 だから多分、売り言葉に買い言葉のような気持ちで安易に口にした。
 自分が傷つくことまで考えていなかった。

「可愛い従妹を放っておけない?」 

 肯定されなければいけなくて、でも心のどこかで否定されたかったのに頷かれる。
 申し訳なさそうでも当然のことを言うようにでもなく、作られた能面のような無表情だった。


「ああ。お前がどう思っても、俺にとっては長年面倒見てきた妹分だし」


 妹分だし。
 訊きたくないリピート。

 壊れたレコードみたいに頭の中では何度も同じフレーズが繰り返されて、
「……分かってたよ、そんなこと」
誰に言うまでもなく呟いた。

 だってわざわざ言わなくとも態度の端々にそれは表れていたから、夏夜は決定的に打ちのめされるまで気付いていない振りを続ければ良かったのだ。
 しかし自分から引き金を引いてしまった。茶番はもう終わりだ。

 一成がいない方向に長椅子の隙間を歩いて通路へ出る。
 埃が光に透けてきらきらと舞い上がるのがひどく不似合いだった。

「帰る。一成くんと話すとどんどん話が逸れてくんだもん」

 後ろを見ないで入り口まで歩いていくと、一成がついてくる気配がした。今から帰り道の気が重い。

「帰るのは構わないが、さっきの話は考えておけよ。――それと、自分を生きたいなら自分のルーツを知れ。避けるだけじゃなく、前みたいに屋敷にも顔を出して戦え」

 一成が言っていることは正論だと思う。
 逃げていても何も状況が変わらないのなら、いっそ正々堂々と戦うべきだと思う。けれど。

 重厚な木の扉に手をかけて止め、くるりと身を翻させた。一成は思ったよりも近くにいた。
 おそらく一メートルも離れていない。

「夏夜は一成くんが好きだよ。男の人として好きなの。それを踏まえて、一成くんはお屋敷に来いっていうの?」

 燻る恋がきちんと消火されてもいないのに、それでも一成の傍に行かなくてはいけないのかと。
 そう訊いたつもりだった。

 意を決して見つめると、一成もまた譲らない強い意思を持った目でいて。

「来たら歓迎するよ。……お前が俺の従妹でいる限り」

 話し合いも各自の希望も平行線で、どちらかが近付くこともないまま一定の距離を保っている。
 一成は本気で譲ってくれないのだと感じた時、先に折れるのはいつも夏夜の方だった。

 理由は十八歳になった今思えば簡単、そういう風に育てられたから。



 数日後、夏休みに入ってまず夏夜がしたことは荷物をまとめることだった。
 準備を終わらせ、大きめのボストンバッグを玄関に置いた夏夜はリビングへ行き母に話しかける。

 年齢を感じさせない美しいひとは、今日も優雅にソファに座って読書をしていた。
 この家では娯楽としてのテレビは夏夜しか見ない。

「ねえ、ママ」

 仁科家について知ってること、『中』で育てられたママが思うことを全部教えて。
 そう言うと、母はとうとう来たかと言うように重くため息をついて、ゆっくりとした静かな声音で話し出した。

 お屋敷に着いてからはほぼ同じことを一成の母にも尋ね、それから仁科家の歴史が綴られた書物があるという蔵に向かった――。


 結論を先に言うならば、その日を境に夏夜は別の学校に行きたいという意思表示を全くしなくなった。

 それどころか中三になって行われた三者面談でも紫苑学園高等部への内部進学を希望し、周りは一時の気の迷いだったのだろうと判断を下した。
 夏夜が再び仁科の屋敷に通うようになり、一成とも仲良く振舞うようになったので単に反抗期が終わっただけなのではと評する者もいた。


 この時、蔵で何があったのかは本人である夏夜が語りたがらないため、やむなく空欄にする他ない。


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あきゅろす。
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