初恋
円を描くように配置された本棚を幾つも通り過ぎると、書斎の中央にどんとマホガニーの机と椅子が鎮座している。
年季が入った机には一切の傷が見受けられず、代わりに黒い染みがぽつぽつ散っていた。
隅には邪魔にならぬよう紐綴じの本がまとめて置かれ、筆を持つ少年は一番上のものを時おり捲っていた。
参考にでもしているのか、眉を寄せては少し書いて、を繰り返す。進度は芳しくない。
椅子に座る少年の名を三坂冬哉(みさか とうや)という。
色白の細面には薄い唇、スッと通った鼻筋、切れ長の一重瞼などが並びどれも冬哉を神経質そうに見せている。
痩せた体型と目の下にあるくっきり浮かんだ隈が拍車をかけ、ダメージジーンズと長袖のシャツという今時の組み合わせであるにも関わらず、冬哉の幼馴染みに言わせれば『明治時代の売れない小説家』を連想させる始末であった。
しかし、冬哉は小説を書いているのでも、はたまた自ら書斎に引きこもっているわけでもない。
依頼人を待っているのだ。
暫くすると本に守られた聖域に、ギィ、と扉が開く音が響いた。
墨を足そうとしていた冬哉はぴたりと手を止め、背筋を伸ばして『彼女』を待つ。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
直線にすればそれ程でもない距離を時間をかけて進み、ようやく黒髪の美しい少女が姿を現した。
手には二冊の文庫本を持っており、どうやらここの本棚から抜き出したようだ。
「久しぶり、冬哉くん」
「本当にその通りだよ夏夜、君がわざわざ来るなんて珍しいことだ。……何かあったんだね」
「相変わらずだねえ」
幼馴染みの気安さで臆せず近付き、ころころ笑う夏夜(かや)の年は冬哉より三つも上。
幼稚園からのエスカレーターで大学部に上がれるはずだったのだが、自らの意思で大学を選び受験し、春からは隣県の大学に通うと前に会った時告げられた。
ブレザーの制服を着、鞄を持っているところを見ると学校帰りのようだ。
全く、年上と話している気がしない。
冬哉は小さく息を吐き、椅子から立ち上がると叩き込まれた紳士根性で来客用のスツールを持って来て勧めた。
夏夜が座ったのを確認してから「第一」と口を開く。
「新年の茶会で会ってから一ヶ月も経ってない。そうそう人間が変わるか」
「もー、そーゆー意味じゃないんだってば。……今日は私の為に時間空けてくれてありがと、すっごく感謝してるよ」
明るい口調からガラリと変わる態度。
冬哉はフンと鼻を鳴らし、夏夜のために墨を取って磨り始めた。予想されるだけの紙と墨は既に用意してある。
準備万端だ。
「僕だって忙しいんだ。君の半生を今から書き綴らなきゃいけないんだから、早く話して」
「大袈裟だよ」
「本当のことだ」
剣呑に眇めた目が夏夜を見抜く。
何も言えない依頼人から言葉を引き出すことをせず、冬哉はゆっくりと筆を硯の海に浸していった。
「それが三坂の仕事だと知って来ているんだろう、仁科夏夜。君の声を記録に留め後世に伝えるのは僕だけの特権だ」
日本を代表する大金持ち、六条の分家は多かれ少なかれ、古来より何らかの役割を持っている。
冬哉が生まれた三坂、夏夜のいる仁科などがそれに当たる。
三坂の役割は、本家・分家に関わらず全ての出来事を記録し管理すること。
個人的に依頼を受け、過去をまとめ一冊の手記にするのも仕事の一つである。
夏夜が押し黙っていたのも短い間のことだった。
不安げに揺れていた瞳はすぐに落ち着きを取り戻し、ぎこちなく唇を歪めて笑う。
「――インプリンティングって知ってる? 夏夜の思いは全部、それだったと思うことにしたの」
自分の恋は刷り込みによるものなのだ、と夏夜は続けた。
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