早苗、助けて 結局、昨夜は聞くことも何か言うことも出来なくて。 早苗と会うからって嘘をついて、私は彼と同時に家を出た。 まだ太陽が昇っていないからかも知れないけれど、どんよりとした重たげな空。 今からでも泣き出しそうなほどに曇っていて、そういえばこの三日間は雨が降る、なんてニュースで言っていたことを思い出す。 玄関の前で向かい合った。昨日はゆっくり眠れたのかな、疲れは取れたのかな。 彼の表情はどこかリラックスしているように見えて、随分と柔らかい。良かった、と混じりけなしに思う。 こんなことしたら、また疲れを増やしちゃうのかな。それは申し訳ないと思う、でも無理だよ。 ちょっと休みたくなっただけだから。少ししたら、また戻って来て耐えることにするから。 私が持っている小さなキャリーバッグの中に、着替えが詰められていることなんて彼は知らない。 「いってらっしゃい」 「行ってくる。――楽しんでおいで、最近疲れているみたいだから。早苗さんに宜しく」 言い当てられて、一瞬だけぎくっとした。 自分の方がよっぽど疲れてるくせに、こんな所まで気が回る。 どれだけ忙しくしていても気遣いを忘れないで、誰にでも優しい人。……その優しさが自分だけのものなんじゃないかと、誤解させてしまう人。 「大丈夫だよ。うん、伝えておくね……それじゃあ」 このままでいれば嘘を見抜かれてしまう。 大好きなはずの彼と、それ以上視線を合わせていたくないと思ったのは初めてだった。 昨日、部屋に戻ってからすぐに早苗に宛ててメールを打った。落ち着く為の時間が欲しくて、でも家にいたら色々なことを考えちゃいそうで。実家もダメ、どうしたのって根掘り葉掘り聞かれちゃうだろうから。 ホテルに泊まってお金使っちゃうのは気が引けるし、だったらもう、早苗の住むマンションしかなくて。 『さなえたすけて』 句読点もなければタイトルもない、変換もされていないメール。早苗からの返事はびっくりするほど早くて、それから五分後くらいに携帯が鳴った。タイトルは『何があったのか知らないけど』。 『とにかくおいで。今日はもう遅いから明日にでも』 メールを見てから即決して、すぐに返事を打ってくれたんだろうな。何があったのか聞かないでいてくれたのも早苗らしくて、友情って良いなと思った。毛布に包まれているみたいで、こんなにも温かい。 早苗の住むマンションは駅から五分くらい歩いた所にある。下にはコンビニと薬局があるしデパートも近い。その代わり家賃がね、と早苗が言っていたっけ。 エントランスを通り過ぎ、エレベーターに乗って八階へ向かう。結婚前には何度も来ていたから迷うこともなく、早苗の部屋のチャイムを押して。 早苗は少ししてからドアを開けてくれた。上からパーカーを羽織ってはいるけれど、まだパジャマ姿。昨日のメールでいつ来ても良いとは言われてた。でも……流石に早すぎかな。 「早速来たんだ。入って」 「うん、失礼します」 「ここに来ていること、六条さんは知ってるの?」 導かれるままに中へ入り、靴を脱ぐ。六条の苗字に反応して、反射的に顔を上げると早苗の厳しいまなざしとぶつかった。 考えていることを全部、見透かされたみたい。彼と一緒にいるのが辛くなってしまったこと。少しの間でも良い、六条のお家から逃げたいと思っていること。新年会の手紙の件といい、妙に早苗は勘が鋭いから嘘をついてもすぐに分かってしまう。 「……ま、あ」 変わらずまっすぐに私を見つめる早苗から微妙に視線を逸らして、曖昧でどっちつかずの返事。早苗は仕方なさそうにふうっと息を吐き、軽く私の頭を小突いた。 「嘘つかないの。メールしな、じゃないと置いてあげないから」 友人として対等というより、私にとっては世話好きのお姉さん的存在なんだと思う。高校時代から続く立場に甘えてばかり、なんて考えながら携帯を開く。旭くんと、メイドの友美さんあたりならちゃんと気付くかな。彼は忙しいから、メールなんて見ないかもしれない。多分、気付かないだろうな。 『暫く留守にします、早苗の家にいます。心配しないで下さいね』 暫くってどのくらいの期間になるのかな。 半日? 三日? 一週間? 心配しないでって言ってるけれど、一週間もいなくなったら流石に心配する? そうしたら、彼も心配してくれるのかな。 ……そうやって考えてること自体、妻失格だよね。 ゆっくり本文を打ってから、宛先の所で迷う。グループ『家族』の中の、六条旭と遼。どっちにしようか散々迷って――指が下のカーソルを押す。送ったのは、彼にだった。 「大丈夫。三日間くらいいても平気?」 携帯をバッグに戻して顔を上げると、なぜかハッとしたように目を見張っていて。数秒だけ、沈黙が生まれる。すぐに早苗が笑って、リビングに向かい歩き始めたから気にならなくなったんだけど。 「――ええ、もちろん」 早苗に見えないように、こっそりと携帯の電源を切ったのは秘密。 目次 [*前へ][次へ#] |