待ち合わせまで一時間
数秒だけ、短く携帯が鳴った。
遼くん自ら設定してくれた専用着信音。題名も、どこで使うのかも何て言ってるのかも分からない洋楽。
友達用のは色々面白がって変えてみたりした。でも、遼くんのだけは「絶対に変えないで」と言われたので、ほったらかしにしてるそれ。
お茶をしていた高校時代の友人、早苗に断りを入れて席を立つ。某有名コーヒーチェーン店の外に出てから、改めて電話をし直す。ワンコール、ツーコール。
遼くんが出たのはスリーコール目だった。
「晴乃?」
「遼くん。どうしたの」
『ごめん。お友達には本当に申し訳ないんだけど、待ち合わせ、あと三十分早く出来ないかな』
遼くんは涼やかな声で答えた。いつもより大分ゆっくりと、電話越しにカタカタとキーボードを打つ音が聞こえてくる。多分、肩と頭で挟んで、携帯を固定しているんだろうな。
よく耳を澄ませば、時々大きくなっているのが分かる。遼くんはエンターキーを押す時だけ、強めにキーを叩く癖があるんだ。
有給で、住み込みのメイドさん達と運転手さん(しかも遼くん専属の!)を一人残らず、皆休ませる日。
今日はまさしく月に一度のそれで、私は遼くんと外食に行く予定だった。まったくもー、私が作ると言ってるのに。
私の料理を食べたくないのかは知らないけど(っていうかそんなこと思いたくないけど)、この日は毎回、外食をしに行っている。
思わず時計を確認した。今は午後五時、二分前。当初約束した待ち合わせの時間は六時半。とすると、待ち合わせの時間は六時となる。
この場所から急いで移動してギリギリ着くか着かないか、ってとこかな。
「いいけど、どうして?」
らしくない。どんなに仕事が早く終わっても、まだやらなくていい仕事に手を出す人だ。要するに仕事人間。
幼馴染であった頃も、夏休みの宿題は毎年七月中に終わっていた気がする。
『仕事が早く片付きそうなんだ。レストランの予約はこっちで手配するし、間に合うように行くから』
私はぱちぱちと瞬きをして、携帯を耳につけたまま空を仰いだ。あ、綺麗な夕焼け。紅色の光に照らされて、景色が染まっているようにも見える。
視線を空から戻していくと、楽しげに手を繋いでいる親子の姿が目に入ってきた。
子供は小学校入学前の、六歳と……それよりちょっと下くらいかな、女の子の姉妹。お母さんは子供達に両手を塞がれてて、困りながらも嬉しそうだ。少し後ろを、ビニール袋を持ったお父さんがついて歩いてる。
幸せそうな、親子の光景。
「……うん。分かった」
『宜しく。じゃあね、愛してる』
さらりと、まるでそれが当然のような。毎回「愛してる」と言っているかのような自然さだった。
電話越しだから彼の様子も伺えないけど、声から判断するに照れている様子ではない。
そして、ずっと一定のスピードで聞こえていた、打鍵の音がぴたりと止まる。
かあっと顔が熱くなっていく。
幸せだと思った。この声で愛を囁いてもらえる日が来るなんて、結婚した日以来全く思ってなかったし期待してもいない。
でも、嘘でもいいから一度だけでも言って欲しかったのは、確か。
顔がにやけていく。
周りの人が怪訝そうに見てるけど、嬉しさを止めることなんか出来やしない。夢じゃないかな。強めに手の甲を抓ってみたけど、大丈夫、ちゃんと痛かった。
「もう一回、言って?」
声はかすかに震えた。あーあ、泣くはずじゃなかったのに。少しでも気を抜けば出てきそうな涙をこらえて、唇をきつく噛み締める。
『好きだよ、晴乃。……どうしたの、今日は甘えたがり』
「ううん、何でもない。食事、楽しみにしてるね」
じゃあ、と言葉を交し合って電話を切る。
私は通話終了と表示された画面をぼんやりと見やって、携帯を閉じた。
■
彼女から再び電話が来たのは、それから五分ほど後のことだった。
今度は携帯ではなく、僕が現在いる執務室に直接繋がる方ではあったけれど。僕はノートパソコンを打つ手を止めた。
「晴乃?」
無意識に名前が口から飛び出た、同じ台詞。矢張り血は争えないのだろう。
電話の向こうにいる彼女は面白そうに笑っている。姿は見えない。でもおそらく、肩を大きく揺らして。
「今度は遼くんだね。本物の」
僕は黙ってスピーカー機能をONにし、受話器を机の上に置いた。これでこの部屋にいる全員が彼女の声を聞き、話すことが出来る。
「あーあ、バレちゃったんだ。さっすが晴乃」
仕事に勤しんでいた僕に手伝おうか、とも言わず客人応対用のソファにふんぞり返り、一人呑気にコーヒーを飲んでいた男が立ち上がる。
細身のダメージジーンズ、黒い、長袖のフード付きデザインパーカー。前が大きく開いたデザインになっていて、ゴールドのネックレスをつけている。少なくとも会社に来るファッションではない。
声は僕とほぼ同じだ。
「……こっちは旭くんかな。久しぶりだよね、結婚式以来?」
彼女は少し迷ったようだけれど弟の名を口にする。旭は電話の前まで近付き、けらけらと明るい笑みを零していた。全く、人騒がせな。
「まーな。かなり頑張ったつもりなんだけど、どこで分かったわけ?」
「そりゃあ分かるよ。変なとこ、四つもあったし」
そう。先ほどの電話に出たのは僕ではない。実の弟、六条旭。
もう一つ言えば「仕事が早く終わりそう」なんていうのも真っ赤な嘘。おかげで僕は、彼女と旭の会話を聞きながらも猛スピードで仕事を片付けなければならなくなった。
旭の「終わんなかったら、俺が遼のフリしてデートに行ってあげるよ。大丈夫、カンペキに振舞うからさ」という、半ば脅迫めいた言葉のせいで。
その後すぐに彼女から電話が来たので、旭から携帯を奪い返すことすら出来なかった。
「えー、かなりいい線いってたと思うんだけど?」
「微妙に違うけど、うん。声は似てる。でもね、遼くんは今日お茶してた友達……早苗の名前、ちゃんと知ってるんだよ。待ち合わせの場所は『家』だし」
友人の名前を知っている僕なら、「お友達」ではなく「早苗さん」と。
待ち合わせの場所を知っている僕なら、「間に合うように行く」ではなく「帰ってくる」と言うだろう、と電話越しの彼女は得意げに告げる。
それにね、と声がひそめられた。
「……あ、これスピーカー機能OFFにしてくれないかな。旭くんにだけ伝えたいの」
僕は小さくため息をつき、スピーカーのボタンを押した。旭が受話器を手に取り、僕から離れていく。
当然、もう彼女の声は聞こえなくなった。旭はふんふんと頷いて聞き、僕を挑発するようににやりと笑みを浮かべる。
僕は眉を顰め、再びノートパソコンに向き合った。これだと三十分で終わるかどうかも微妙だ。
集中できない。
先程までのペースに戻れない。
段々と機嫌が悪くなっていくのが、自分でも分かった。
■
『それでね、話の続きなんだけど』
「うん」
『遼くんは今まで一度も、私に愛してるって言ったことない』
「うわー、最悪じゃん。致命的なミスだな」
『そう。でもね、嬉しかったんだよ。だって旭くん、彼の声とほぼ同じなんだもの』
「健気だな。……じゃ、望むなら何度でも言ってあげるよ。遼と同じ声なんだろ?」
『ううん、遠慮しておく。本人じゃないと意味ないしね』
「そんな奴のどこがいいんだか」
『仕方ないよ。――あ、そろそろ切るよ? 電車乗るから』
「了解。バイバイ、好きだよ?」
『そんなとこまで真似しなくていいってば。……じゃあね』
電話が切れる。
「別に、本心なんだけどなー。ま、いっか」
END
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