DOLLシリーズ
境界線(ANNEX)
規則正しいリズムを刻むアナログ時計の秒針が、妙に耳につくようになったのはいつからだろう。
気がつけば、リビングのソファーで居眠っていた。
「4時かよ…」
壁時計の針が示す時刻に、そろそろ買い物に行かなきゃいけないなと頭の片隅でぼんやりと思っているが、身体が言うことを聞きそうにない。
否、聞かないのは恐らく自分の心だ。
システムエラーが見当たらないのに動きたくないなんて、それくらいしかない。
頭だけ起こすと、バルコニー側の窓から柔らかい暖かな陽射が控え目に差し込んでいるのが見えた。
ガラスの向こうで雑草を揺らす風も、少し暖かくなっただろう。
「アベ君、春の匂いがする」
レンがよくそう言っていたのを思い出す。
春なんて匂いはないのに、レンは毎年そう言う。
そして、その言葉はレンの誕生日が近いことを示す。
コイツがまた一つ大人になっていくんだなと思うと、嬉しいような寂しいような表現し難い感情を覚える。
ルリや他のミハシ一族には感じなかった気持ちだ。
恐らく、レンは今まで成長を見てきたどの子供よりも心配の種を多く持っていて、いつも目が離せなかったせいだろう。
好奇心旺盛のくせに弱虫で怖がりで、よく笑うけれどよく泣くし、人見知りする上に頑固なレン。
特に気掛かりだったのは、レンの目が常にオレを探していること。
何かに熱中している間はいいけれど、事あればすぐにオレの姿を追う。
茶色のくせっ毛をフワフワ揺らしながら大きな目を更に大きくしてオレを探し、見つけると真っ直ぐに駆け寄ってオレの脚にしがみつく。
嬉しい時も悲しい時も、いつもそうだった。
親代わりだから仕方のないことかもしれないが、他の子供達が友人と過ごす時間が増えていく歳になっても、レンはオレから離れようとしなかった。
「アベ君と、いっしょがいい」
それが、レンの口癖だった。
カノウ家の息子と友達になっても、スクールに通いだしてもそれは変わらなかった。
いつも選ぼうとするのはオレの傍。
こちらから突き放したり、宥めたりしなければいけなかった。
でも、本当は分かっている。
そんなレンの存在に、オレは心地よさすら感じていたことを。
思い出に耽っていると頭上からコール音が鳴り響いて、柄にもなく飛び上がる。
機械が機械に驚かされるなんて、洒落にならない。
「はい、ミハシ―」
『毎度ありがとうございます、シマザキ・リサーチ・コーポレーションでございます』
「…ざけんなよ、シマザキ」
驚かされた相手が相手だっただけに、神経を逆撫でされた気分になる。
『まぁ、そんな怒りなさんなって。
どうせ暇だったんだろ?』
相手は気にするどころか、笑いをかみ殺しながら飄々とした物言いを保ち続けた。
「夕飯の準備があんだよ」
『メシは奢ってやるからさ、今から出て来いよ』
「…いつ、こっちに来た?」
『つい今し方。
場所はエアポートのレストランで』
「ケチな奢りだな」
『あまり時間がなくてね。
そういう訳で、よろしく』
一方的な電話は、最後まで一方的なまま終わってしまった。
気が重いが、夕飯の準備をしなくて済むのは有難い。
そして何より、自分の最優先任務なのだから、オレには選択の余地がないのだ。
明かりをつけていない部屋は気持ちまで深い場所へ導くのか、何をするにも億劫になる。
しかし、今更リビングに明かりを点ける意味もなく、オレは上着と財布だけを手にし、そのまま身体を引きずるように家を出た。
外は、予想よりも少しだけ空気が冷たかった。
寝ぼけた頭を醒ますのに調度良いくらいかもしれない。
そんな温度に反比例するように、夕陽は色を濃くするほどにぬくもりを増すような気がした。
少し眩しいくらいの太陽の残光に、レンの柔らかい茶色のくせっ毛を重ねてしまう。
目を閉じればいつでも蘇るレンの感触や色を思い、妙に感傷的になっていることに気がついて意味もなく頭を振った。
しかし、ステーションに向かうまでの道のりもレンとの思い出が多すぎて、しばらくは年寄りのように昔のことばかり思い出していた。
「うわ〜、やつれてんな」
予想していたとはいえ、久しぶりに対面した相手に投げかけたシマザキの言葉は、相も変わらず人の感情を全く意に介さないものでうんざりした。
着ている物も相変わらずで、サラリーマンを装った地味なスーツがこれもまた相変わらず似合わない。
けれど、ブランドには拘っているのだとは本人の弁だ。
「あんたは太ったんじゃねェの」
悔しいが、今の自分にはそれくらいしか応酬できない。
どうしても気力が追いつかない。
四方がガラス張りにされた眺めの良いレストランの最奥で席を陣取っていたシマザキの向かいに腰を下ろし、一番高いものを頼んでやろうとメニューにくまなく目を通す。
「今日はミハシの坊やに泣きつかれなかったのかい?」
「アイツはカレッジ、今年から寮住まいしてんだよ」
「そういやスキップしてんだよな。
たいしたもんだ、さすがはナカザワ博士の血筋だな」
「血じゃねェよ、アイツの努力の賜だ」
性格とか癖とかは似ることはあるのかもしれないが、才能は本人が伸ばさなければ意味がない。
レンは何もせずして今に至った訳ではない。
アイツがどれだけ必死に勉強していたかは、オレが一番よく知っている。
「そう目くじら立てるなよ。
じゃ、今日は時間を気にしなくて済むな」
「時間が無いって言ったのはそっちのくせに」
オレはトリュフのクリームソースパスタとシーザーサラダをオーダーして、メニューをようやく手放した。
「なるほど、坊やに構ってもらえなくてその様か」
「ようやく、親離れしたんだろうよ」
「寂しいんだろ。
お前、ずっとあの坊やにご執心だったもんな」
「いつにもましてお喋りだな、その口は」
睨み付けたつもりだが、上手く誤魔化せなかったことは自覚していた。
多分、今のオレは苦い顔をしている。
「―料理が来る前に、仕事を済ませようか」
シマザキは、けれどそれ以上の追及はせずに本題へと入る。
「オレはもう、あんたに会うことはないかと思ったよ。
さすがに70年も経っちまったら情報は愚か、当の犯人だって死んじまっててもおかしくないからな」
実際、前回顔を合わせてから既に3年近く経過している。
オレが正直な感想を漏らすと、シマザキは微かに苦笑した。
「まったくだ。
オレももうのんびりやってていいと思っていたのにさ。
ちょっと、厄介な話を聞いてしまってね」
シマザキの目が鋭い光を宿す。
奴が本気で話を始める合図だ。
「ハルナの設計書を見たってヤツがいるんだ」
オレがその名前に反応してしまうのは、アベタカヤの執念か、ドールの機能が為せる業か。
シマザキは胸ポケットから出したシガレットを咥える。
しかし、この男は決まってしばらくは火を点けない。
思考を巡らせる時の癖らしい。
「アベタカヤに渡したドールのか?」
「そこまでは分からんな。
実は、この間偶然ムサシノで研修生やってたっていうじいさんに会ってさ。
あ、今はホームレスだけど」
「…あんた、どこほっつき歩いてんだよ」
「それはおいといて」
シマザキはさらりと逃げる。
「数ヶ月前、知らない男にかなり古いドールの設計書を見せられたってんだ。
『今のドール設計との差を教えて欲しい』とかなんとか言って」
不可解な質問だと思った。
専門家なら自分で情報収集した方が早いし、門外漢なら聞いても意味がない。
まして、浮浪者になったかつての科学者に聞いたところで最新の技術が知れるとは考え難い。
「なんだよ、それ?」
「オレもお前と同意見だね。
全くナンセンスな問いだよ。
で、その時に見た設計書に書いてあったってのが―」
「ハルナのサイン、か」
「結局、そのじいさんは分からんの一言で片付けてしまったから、その男との会話はそれで終わったらしいけどな」
そこまで話して、シマザキはシガレットに火を点けた。
揺めく紫煙を眺めながら、シマザキの報告を反芻する。
「しかも若い男だったらしいから、ハルナ本人ではない」
「なのに、そんな古い設計書を所持する理由は―」
「ただの物好きか、はたまた事件の鍵を握る者か」
「その浮浪者に声をかけたのは偶然とは考え難いな」
「けれど、現役で働いていたのは数十年前までらしいからそんな前のことに詳しいヤツなんて」
「ただの通りすがりのドールオタクでは片付けられない、か」
「どうだ。
今まで得た情報の中で、最も完成図に近いピースだと思わないか」
百聞は一見に如かず。
信じるかどうかは、オレ自身が決めたい。
「前回、あんたが言った『アベタカヤを探している男』と同一人物の可能性もあるかもな。
で、そのじいさんはどこに?」
「『ヴィオラ』、最北の地だな。
でも、死んだよ」
「は?」
「ウォッカに殺されたんだ。
酒好きでその為にだけ金を使ってたんだから、自業自得だけど」
「……なんか話の信憑性が思い切り下がった」
急に肩の力が抜けて、疲労感さえ憶える。
オレは気分を変える為に、グラスのミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
「そんな事言うなよ。
オレが仕事でバカ話吹っかけるかよ」
「その根拠は?
だいたい、ムサシノの研修生って話だって証拠がねぇだろ」
「実は、そいつ持ってたんだよ」
勿体ぶるシマザキの口調に苛立ちを覚えながらも、先を促す。
「何を?」
「ムサシノ・カンパニー未使用のドールコード・プレート。
そして、プレートは彼の死と共に行方不明」
酔狂な話だろと、ヤツは肩を竦めて苦笑した。
今度は南端に向かうというシマザキは夕食を流し込むように平らげた後、清算を済まして急いで席を立った。
「次の時はもう少しマシな店を選んでやるよ」
「次があれば、な」
今度こそ、本当に次はないかもしれない。
長さは違えど、互いに残された時間の方が少ないのだ。
けれど、哀愁だとか惜別だとかは全く感じない。
どのドールにも、役割を終える日は来るのだ。
「なぁ」
シマザキは行きかけてオレを振り返る。
「ミハシの坊や、手離すなよ」
「は?」
「博士が望んだ『自由に生きる』ドールになれよ。
その為に、時には我を通すことだって必要なんだぜ」
それじゃお疲れ、と片手を上げて、シマザキは店を後にした。
「分かった風な口ききやがって…」
シマザキの言葉は、今のオレには重荷でしかない。
オレはまだ、博士の意思を理解しきれていないのだろうか。
時折、レンの将来を、オレの近い現実を思う。
今まで何度と主人の最期を看取ったが、今度は間違いなく所有者の死に立ち会うことはない。
レンの未来に自分は存在しない。
一人で生きる術を手にしているのだから、オレが居なくてもレンはちゃんと生きていける。
きっと、両親に劣らぬ立派な科学者になるだろう。
けれど。
本当は知っている。
今、レンは自覚した感情の正体に気づき、一人でもがいているのを。
その感情を昇華させるために、研究に没頭しているのも。
それでいい。
それはいずれレンの幸福になるなのだと、自分に言い聞かせる。
レンには最良の未来への道だと、機能として備わった理性でフライングした想いは封じ込める。
次の機会があればどこで奢らせようか。
少し塩辛い冷めたパスタを持て余しながら、闇の中へと飛び立つ旅客機を訳もなく眺めていた。
アベ君のタイムリミットが迫っていることは、オレにも分かっていた。
けれど、100年という時間はオレには大き過ぎて。
どこかで遠い未来のような気もしていた。
だから、オレは身勝手にも自分の決めたやり方を頑なに守ろうとして。
君の苦しみにも悲しみにも、目を向けられる余裕はなくて。
アベ君、オレはいつになったら大人になれるのだろう。
君を守れるような、君を幸せにしてあげられるような、そんな大人になりたいと、ずっと願っているのに今でも同じスタートラインで立ち尽くしているような気がしてならないんだ。
080202 up
(110924 revised)
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