中編 4 ───トオルが帰ってこない。 仕事を終えて直ぐに帰宅した康之を待っていたのは、暗く静かに冷えた部屋だった。 透司が同棲するようになって室内は使いやすいように模様替えされ、以前使っていたシングルベッドはリサイクルショップに出され、代わりにソファが設置された。 独り暮らしに契約したために居間と寝室は同じで、寝床は折り畳めるマットレスになった。テーブルを退かせば余裕で二人が転がれるので、特に不自由はない。 部屋を引っ越す事は考えなかった。家賃の安さもあるが、なにより康之と透司が出会った場所であり、それから長く一緒に暮らしていた部屋に愛着が湧いていたのは確かだったからだ。 時刻は8時を過ぎていた。 作った夕飯は一人ぶんを残して冷蔵庫にしまわれ、テレビも点けず着替えも疎かなままソファに凭れて気が付けば二時間。 仕事終わりに確認した携帯端末の通知から、メッセージアプリを開くと楓から不穏な画像がぽつりと届いていただけだった。 なんの言葉もなく、ただ一枚、どこかの店に居るのか明るい場所で、しかし膝を抱えて泣きそうな顔の恋人の画像。 メッセージを送っても電話を掛けても不在通知に既読すらつかない。一緒にいるであろう晃にも連絡をしたが結果は同じだった。 二人が一緒ならなんの問題も心配もない。そう、普段なら。しかし今は状況がとてもよろしくない。探しに行こうにも行き違ったら困る。 そうしてアパート前と自室を行き来しながらくたびれた康之は、ただ唯一、楓を怒らせたかもしれないという考えが浮かんで張り付いていた。 たった一枚、されど一枚。その画像から、いい加減にしろ、という楓の意志がある気がしたのである。 この場合責められるべきは自分であると思っていた。だって毎日恋人からの「誘い」があったのは事実で、それを取って付けた理由で散々かわして来たのだ。 透司くん、泣いちゃうよ。 先月の相談で言われたことが思い出される。 トオルを泣かせる。泣かせてしまったかもしれない、自分以外の前で、自分の下らない意地のせいで。 基本的に透司は泣かない。映画に感動したからとかはよくある。 それでも、康之を理由に泣いたりしたのは、入院中と退院してからの二回だけだった。それも嬉し泣きだったし、辛さや悲しさで泣くという事は無かったし、康之もそうならない努力をした。 今まで交際してきた相手に散々淡白と言われてきた自覚がある。寂しい思いをさせないようにしてきたつもりだった。 まさか自分の頑固な理性が原因でこんなことになるなんて───。 「……っ」 夜の外は日中よりもかなり冷え込んでいるが、康之は上着も持たずに再び玄関へと足を進め、開けた。 「───うわっ」 「!?」 冷たい風が吹き込んだが、そんな事はどうでも良かった。 目の前には、大きな犬のぬいぐるみを抱えた透司が目を見開いて立っていた。吐き出した息が白く、風に流されていく。 「……あ、康之さん、あの、遅くなってごめ」 体を窄めながら上目に見上げてくるのが透司だと理解した瞬間、康之は無言で腕をつかんで家に引っ張り込んだ。 マフラーとコートをそのままに、康之はぬいぐるみを圧迫して透司を抱き寄せた。 「や、康之さん…っ?」 「………悪い、限界だ」 「へ…、え?」 慌てる透司をよそに、あっさりとその体を肩に抱き上げた康之は靴を脱がせて部屋まで戻り、敷いておいたマットレスに透司をゆっくり倒した。 天井の電気の眩しさに顔を背けて目を閉じた透司だったが、影が掛かって恐る恐る頭を正面に戻すと、眉を寄せた不機嫌そうな顔の康之に少しだけ身体が強ばった。 「……お、こってる…よね、連絡、できなくて、その、」 「透司」 「っ、」 普段より低い掠れた声で、普段とは違う呼び方に小さく跳ねる。 「不安にさせて、ごめん」 「……え、」 「欲のままに手を出して、優しく痛くないように出来るか、自信が無かった」 「……あ、っ」 外気で冷えたとはいえ、頬に触れた康之の手は、驚くほど熱かった。 今まで見たことがない康之の様子に緊張と喜びが混ざり、溢れ出てくる言い表せない感情の波が透司の中で生まれ、ぬいぐるみを横に手放したその手を伸ばすと康之はそれを流れるようにすくい取る。 「我慢すんのはやめだ」 「…っうん、」 透司はその直後、この半年にしてきた幾度ものキスはあまりにも可愛いものだったのだと知った。 そしてその後は、康之の「淡白さ」などまるで嘘ではないかという疑惑を抱いたのだった。 [*←][→#] [戻る] |